2005/10/10

(ドキュメント)博徒「小川の幸蔵」の生涯①―小川のどろぼう宿―

―小川のどろぼう宿
 といえば、帝都東京近郊の多摩の土地で知らぬものはなかった。道中の旅人を泊まらせては金品を奪い、時には殺してしまうことさえもあるという。

・菅原道明自伝 東北福島県の水力発電事業に尽力し福島市議にも撰ばれた菅原道明は、二十代の半ば、そのどろぼう宿に泊まった経験をもっている。それが菅原道明の回顧録『古稀来』に載っている。
 菅原は安政二年に肥前国南高来郡湯江村池田名の富家にうまれ、明治九年長崎師範学校を卒えると、西南戦争の余燼冷めやらぬ明治一二年の夏に上京し横浜に入った。それから彼は、すぐに其処で神奈川県西多摩郡青梅町青梅小学校訓導兼校長赴任の辞令をうけとった。せわしないことに、何と赴任日はその翌々日であった。
 菅原は辞令をうけとるや、その翌朝から人力車で京橋を発して新宿まで出て、また別の車で青梅に入ろうとした。車夫から「今日中には青梅には行き着きませんが」といわれたが、「いけるところまでいってくれ、青梅になるべく近くまでやってくれればよいから」と車夫を急かした。
 帝都市外は道がひろくて平坦で、車は勢いよく泥を飛ばして飛び出した。しかし角筈の十二社を過ぎたころから段々と上り坂になって、車の進みは捗らなくなった。三字(時)半頃になり車夫は汗を拭きながら、あがる息を堪えつつ「御泊まりには少しはやいでしょうが、この先には上等の宿屋がありませんから、むしろここにお泊まりになって、翌朝早立ちなさるのがご都合でしょう」とすすめた。菅原は「そうか、それならそれでもよい」と素直に頷き、車をおりることにした。
 其処は多摩の小川という在所で、旧幕時代は武蔵国多摩郡小川村といい、青梅街道沿いの人通り激しい殷賑の土地で、明暦年間に街道の便のために設けられた宿場村であった。

・多摩郡小川の旅館 車のとまった傍に一軒の瀟洒な屋敷ふうの旅館があった。車夫がすすんで交渉にでると番頭がすぐに「御泊まりなさい」と案内にきた。菅原は車賃と幾ばくかの礼金を包んで車夫にわたすと旅館の門をくぐった。
 しかし案内されたのは六畳のむさい座敷だった。菅原は「ほかに涼しい部屋はないのか」と訊くと、番頭は「ありますが、皆ふさがっております」と頭を下げながら申し訳なさそうに答えたので、「しからばこれでよい」とこたえて座敷に荷物をおろすことにした。すぐに「風呂ができた」という案内があって、手拭いさげて邸内を逍遙してみると、外見よりもひろくて庭園泉水などもあり、この田舎には珍しいなかなかの旅館であることがわかった。また通り過ぎた女中に「ここは何という在所か」と訊ねると、女中は「小川村中宿ともうします、丁度東京と青梅の中間で多摩郡にあたります」などと手慣れた感じの丁寧な返事がかえってきたので、だいぶ客慣れしているようにも感じられた。
 蜩がなく頃にまた先ほどの番頭がやってきて、「相宿を願いたいのですが」といってきた。
「随分繁昌しているな」
「へえ、恐れ入ります」
「どんな客だ」
「中年の蚕紙商の方で御座います」
 菅原はすこし考えてから「よかろう」とこたえた。番頭のつれてきた男は実直そうな男で、「失礼します」と慇懃に頭を下げて入ってきた。
 それから暫くして番頭がまた「再び失礼いたしますが、いま一人をお願いいたします」という。それで今度も「どんな客か」と問うたが、「ご婦人の方で御座います」という。菅原はすぐに「婦人は困る」といったが、番頭は「既に七十位のお婆さんで御座いますから、お困りになるようなご婦人ではございません」といってわらった。
「知り合いか」
「いいえ、知り合いでは御座いませんが、大丈夫でしょう」
 菅原は相宿の蚕紙商の男を振り返ると、彼は「支障ないでしょう」と頷いた。これだけ繁昌している宿なのだから仕方あるまい。それで老婆とも相宿をすることになった。入ってきたのをみると、なるほど番頭のいうとおり、腰のまがったよろよろとした老婆であった。
 商人の男とは二、三あたり障りのない世間話を交わした。彼は武州埼玉の者でこの多摩一帯を商談に歩いているのだという。この頃多摩あたりの景気がよいということであった。しかしいっぽうの老婆は気味の悪いほどの無口で、これといった印象はなかった。夕食後暫くして三人は一室内に寝についた。

・盗難事件 夜明け頃老婆がおきて雨戸をくる音に目を醒ました。すると宵に枕下に置いた友禅縮緬の包みの様子が妙である。包みに入れていた筈の紙入と時計が、何故か包みより離れて出ているのである。咄嗟に「はっ」と思って飛び起き、便所に入って確かめると、やはり在中の紙幣がなかった。
(やられた)
 と思ったが、たれにもいわないことにした。何事もなかったふりをして便所から出て座敷に戻ると、商人の男もせわしなく身辺の何かを調べている様子だった。しかしふたりは黙って夜具を片づけだした。いっぽう老婆は先に顔を洗いそそくさと勝手元で朝飯を済ませ、「先を急ぎますから」と暇乞いをして座敷を出た。
 老婆の出たあとで、商人の男は菅原の傍にそっと寄ってきて、早口で「実はわたしは昨夜金を盗まれたのです、あなたは?」と耳打ちした。菅原も「同じです、金だけ、書類はそのままでした」と小声で短くこたえた。
「如何程でしょう」
「小遣いですが、拾五、六円ほど」
「それは大変だ、わたしは三、四円だけでしたが」と商人の男は震えた声をあげ、「さっきの老婆ですよ、ひとりで朝食して急いで出ていったから、疑えば疑われもする、すぐに番頭を呼びましょう」といって、手をたたいて番頭を呼んだ。
 やってきた番頭にふたりは一件を打ち明けた。すると番頭も驚いて「それではあの老婆が怪しい」といい後を追いかけた。そのあいだ菅原と商人の男が庭をみてまわると、板塀に九尺梯子がひとつかけてあるのをみつけた。
「これで逃げたのでしょうか」
 と商人の男は梯子を見あげて訝しげにいったが、菅原もあの老婆に登れるのだろうかと疑問に思った。しかしこの梯子は如何にも不自然ではあった。そうこうしているうちに番頭が帰ってきて、
「老婆を調べましたが六十銭よりほかはありませんでした、さすれば盗賊はほかにあるのでしょう、田無の警察までは遠いので老婆は放してやりました」
 と報告してきた。老婆が内から手引きをして盗賊があの梯子で逃げたものだろうか、しかしさりとて番頭の言も信じられるものではない、ここでいろいろ思案したところで今更どうなるわけでもあるまい。それで菅原は「すぐに警察に届けねばならぬが、警官がここにやってくるまで待っている暇はない、わたしが出発のうえで届けるなら届けてくれ」と番頭にいい、自分の身上を明かして「もし用事があればあとから書面で頼む」と申し入れるだけにした。
 埼玉の商人とは思わぬ災難を慰めあって、旅館でわかれた。

・郡長砂川源五右衛門の話―どろぼう宿の実態― 夕刻になってやっと青梅に到着し、志村屋という宿に旅装を解いた。
 そしてすぐに郡役所に郡長砂川源五右衛門を訪れて着任の挨拶をした。すると郡長の砂川はにこやかに出迎えてくれ、「お疲れ様でした、早速に某亭で歓迎会をひらきましょう」といってくれた。菅原にとっては小川でひと災難あったあとなので、その志がとりわけ有り難く思われた。
 某亭にいくと郡吏・青梅町長・学区取締など、およそ十人近くが揃っていた。郡長砂川は旧幕時代には名物里正(名主)であったらしく、なかなか老巧のひとで、弁舌においては敵するものはなく座中で一目置かれていた。
 酒が闌(たけなわ)となって座中は頤(おとがい)を解いて賑やかになった。菅原道明の回顧録『古稀来』にはこの座中での菅原と郡長の会話が記されている。

……酒闌にして、私は昨夜盗難に逢った事を話した。始終を聞いてゐた郡長殿は「夫れは先づ命に別状がなくてよかつた、君が金を多く持たなかった賜だ」といふ。妙なことを云ふと思うたから「夫れは何故か」と問うたら、其の説明に曰く「小川の彼の宿は附近切つての博徒の親分某(有名な博徒 私も名は聞いて居る)の妾の内職場である。金持の旅人と見れば直に数名の子分で締めて仕舞ふ。構へも立派だし庭園も広く、女も垢抜けのしたのが三、五人は居る。旅人は良い宿に着いたと喜び、美女の晩酌で酔ひつぶれて前後も知らぬ間に彼の世に旅立たせる訳はない。二三年前から毎年絹商人又は種紙(蚕紙)配布後代金集めに廻る者など大分やられる。今年も三千円を持つた絹商人が宿り合はせて殺された。知つて居る者は宿らぬが不案内の旅人は宿つて難に遇ふ」云々。
「そんな所をなぜ其筋では手を附けぬか」と反問すると「手を着ければ何百の子分を持つてる親分だから、どんな大騒動が起るかも知れぬ、それで其筋でも知つて知らぬ振りして居ると見える」と云はれた。私は思うた、昔は将軍の御膝元、今は大政府の脚下と云ふべき地(新宿より四五里)で、昔の安達が原の様な恐ろしい事が今でも行はれるのかと大いに脅えた。郡長殿は笑つて居る計りだつた「信州の長脇差、関東の無宿者と云ふが、今では、甲武の博徒で其筋でも困つて居る様だ」と又太白 (高尾註、「大きな盃」) を挙げられる。私は恐ろしい旅の空であるわいと思うた。

 このあとに菅原は旅館志村屋に帰って寝についたが、郡長の小川のどろぼう宿の話が脳裏に焼き付いて残り、隣の話し声に「私を襲ふのでは無いか」(同書)と気が気でなく、なかなか熟睡できなかった。そのことをあとで郡長砂川にいうと、彼は「小川の事で脅して置いたから其心配は尤である。然し志村の事は下女と料理番との媾引 (高尾註、あいびき) である、とんだ事で校長先生を驚かしたものだ」(同書)と大きなくちをあけてわらった。

・博徒「小川の幸蔵」とは 偶々菅原道明というひとの自伝の筆にとめられた、この「小川のどろぼう宿」に関わる「博徒の親分某」こそ、旧幕時代から明治はじめにかけて多摩一帯に縄張りをはった博徒「小川の幸蔵」そのひとである。本名を小山幸蔵といい、旧幕時代には子分五十人をひきつれて暴れまわった名物博徒である。
 それにしても、商人を取り込んで殺してしまう、悪夢のような〝蟻地獄〟旅館はいったい何故街道沿いに堂々と構えていられるのであろうか。そこで、博徒「小川の幸蔵」は地域社会や支配権力にとって、どのような存在なのだろうかという疑問がわく。たとえば、郡長砂川源五右衛門の語る宿の残虐性、宿の公然とした犯罪のやり方、警察や郡長の諦めにも似た博徒との距離のとりかたなどは、現在ではちょっと想像し難いことばかりである。これらはどう理解したらよいのだろうか。
 それには博徒「小川の幸蔵」そのひと自身の履歴を知らねばならない。しかし、それを語り尽くすには、多摩地域の社会状況の根の部分にまで掘り進めなければならないし、時間軸のうえでも、旧幕時代、おそらく天保の頃までは遡らなければならないだろう。
 これから、博徒「小川の幸蔵」の栄光と屈折と挫折の人生を、武州多摩地域の歴史と地域性の中において、なぞってみたいと思うのである。

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