2005/05/17

(お金)九六銭のこと

 ふるぼけた三重県の母の実家の蔵には、江戸時代以来のいろんなものが詰まっています。イエの歴史のタイム・マシンというべきでしょうか。気味が悪いけども遠いおじいさんのデス・マスクもあります。
 なかに江戸時代のお金もありました。天保期に発行された小判(「保字金」といいます)のほかは、豆銀・安政二朱銀など、残っている貨幣はほとんど銀貨です。
 俗に「東の金遣い・西の銀遣い」というように、東日本では金貨を使用し、西日本では銀貨を使用します。ただし「東日本で全く銀貨を使わない、西日本で全く金貨を使わない」という意味ではありません。地域によってだいたいの使用傾向がみえる、というほどの意味とご理解ください。
 そのてん、三重県域はどちらかというと西日本寄りですから、銀貨が多いのかもしれない。

 もちろん銭は、日本全国、何処でもよく使われます。この蔵の中からも、紙縒(こより)とじの銭の固まりが出てきました。これを「さし」といいます。数えてみると百文銭が1枚(100文)と一文銭が48枚(48文)。この「さし」で150文の勘定です。
 え? 2文足りないって? いいご指摘ですね。でもこれでよいのです。むかしのひとは「96文=100文」と計算していたのですから。100文から4文を欠きます。だから48文でも額面は「50文」と考えます。
 この「96文=100文」計算を九六銭(くろくせん)とよびます。もしも一文銭96枚を「さし」で束ねて100文の額面で支払ったとしても、文句はこない。これは当時の慣習なのです。

 なぜ100文から4文を欠く慣習があったのか、その理由は定かではありません。「2や3の倍数で割り切れるから」という説があります。もしもそれが本当だとしたら、お金の多寡よりも計算のしやすさを優先するということですから、何ともまあ、のんびりとした話ではありませんか。
 もちろん、年貢の銭を支払うときは厳密で、「100文=100文」計算です。これを「丁銭」とよびます。年貢の世界ではのんびりは許されず、4文の欠如も許されません。

 北原進さん『百万都市江戸の生活』(角川選書215、1991)にこんなはなしがあります。

数年前に、へび屋がシマヘビなどを箱に仕入れるとき、百匹入とあっても内容は九十六匹であったと教えていただいたことがある。これなどは明らかに九六銭勘定が行われていた名残りである。

 この場合もやはり「4匹足らないじゃないか!」という文句はこないのです。

 しかし現在は九六銭勘定の慣習は消えてしまいました。知っているひとは稀でしょう。わたしの親戚たちは、わたしが何故小判よりも銭の固まりに喜ぶのか、理由を知りません。わたしを不思議そうにみてみるだけでした。
 この、母の実家からでてきた150文の「さし」、わたしの授業のよい教材として使われています。紙縒を切らないようにそっと持ち歩いています。

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2005/02/21

(落語)江戸時代の言葉、わかる?―「恐惶謹言」と「仍(依)て如件」―

 テレビの芸能人の離婚会見では、「価値観の相違で」といっているのをよく目にします。ほんとうは夫婦で唾をとばしあって罵りあったり、鍋や皿を投げあったりして喧嘩したに違いないのだけれど、「価値観の相違」というムツカシイ言葉がいきなり出てきて、なんだか煙に巻かれたような気分にさせられてしまう。しかし、芸能人というイメージが売りの職業ですから、世間体に疵がつかないように、当人同士「ここで手打ちにしましょう」ということなのでしょう。

 夫婦にもいろいろあります。
 たとえば古典落語の「たらちね」。身分違いで結婚した夫婦があって、「京都のお屋敷者」で由緒ある武家に生まれたのが奥さん、しがない長屋暮らしの「八つあん」が旦那さん、という設定です。奥さんが難しい言葉をつかって旦那さんを困らせます。両者のミスマッチが笑いを誘います。
 ここでは、育ちのよい奥さんがムツカシイ言葉ばかり使います。ここでは「価値観の相違」ではなく「言葉の相違」が問題になります。でも、この夫婦、不思議なことに何だかうまくいきそうな雰囲気です。

「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へえ、あっしをよんだんでござんすかい? あらたまってなんでござんす? なにか気にいらないことでもできだんで?」
「いったん偕老同穴のちぎりをむすぶからは、百歳(ももとせ)、千歳(ちとせ)を経るといえども、かならず変ずることなかれ」
「へー、どうもむずかしいことになっちまったなあ。あっしゃあ、職人のことでござんすから、そういう他人行儀のことでなくて、ざっくばらんにもうすこしわかるようにいっておもらい申してえもので……まあ、とにかくもおやすみなさい」
興津要編『古典落語』上(講談社文庫、1972)

 奥さんのいう「百歳(ももとせ)、千歳(ちとせ)を経るといえども、かならず変ずることなかれ」というような言葉使いは文語体であって、話し言葉にはふつうは使わないでしょう。あくまで落語の〝ねた〟です。
 またこんなやりとりもあります。

「もはや日も東天に出現ましまさば、御衣(ぎょい)になって、うがい手洗(ちょうず)に身をきよめ、神前仏前にみあかしをささげられ、看経(かんきん)ののち、ごはんめしあがって、しかるべく存じたてまつる、恐惶謹言(きょうこうきんげん)」
「おい、おどかしちゃいけないよ。めしを食うのが恐惶謹言なら、酒を飲むのは、よってくだんのごとしか」
前掲同書より

 この会話が最後で「たらちね」は終わります。ここは落語で一番大事な〝おち〟の部分ですが、いまのひとには、いまひとつわかりにくいでしょう。
 「恐惶謹言」(きょうこうきんげん)は手紙の書留文言で、「仍(依)て如件」(よってくだんのごとし)は証文の書留文言です。これを知っているひとはここで笑います。しかし知らないひとは笑えない。いまではすっかり使われなくなりましたから、落語として成立しえなくなったようです。これに関して興津要さんの文章から。

   たらちね
別名を「たらちめ」ともいい、江戸時代のおわりごろに、大坂落語「延陽伯」(えんようはく)を江戸に移入したもの。無骨な職人と優雅な嫁との夫婦の対照的なおかしさをえがいた滑稽噺で、笑いが多いところから若い落語家がよく口演する。ただし、「恐惶謹言(きょうこうきんげん)、依てくだんのごとし」などという文章が、書類や手紙などにもちいられなくなった現在は、この噺のおちがわかりにくくなってしまった。
前掲同書、興津要さんの解説より

 ただ、わたしの授業(史料講読)ではこの話をよく学生さんにご紹介しました。落語の〝ねた〟に使われるくらい、「恐惶謹言」「仍(依)て如件」は、むかしはよく使われる言葉だったのですよ、というふうに。なかなかいいアイデアでしょう?

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2005/02/06

(お菓子)串団子はなぜ4玉か?

 串団子はなぜ4玉か?
 これはいろいろな本に紹介される話です。……『ふるくは一串5玉あって5文の価で売られていた。しかし明和期に四文銭が発行されて以来、一串4玉になって価も4文になった』……。わたしは長らくこの話の史料出典を知りませんでした。本当の話なのかどうか? と疑いの目をもって考えてきました。
 しかし、前回の「かっちん」さんのご教示によって、学術雑誌『日本歴史』572号(1996.1)に、鈴木晋一さん(日本風俗史学会会員)「団子の玉がなぜ4玉になったのか」というエッセイがあることを知りました。そこに史料出典が明らかにされています。勉強になりました。
 鈴木さんによると、庶民の生活にも精通していた平戸藩主松浦静山(1760―1841)の『甲子夜話』続編巻四十一の中に、その事情を記した箇所があるのだそうです。

世に串ざしの団子、一串に五団を貫くこと尋常にして、一団一銭に換ふ。然るに此頃は一串四団を貫くことに成りたりと。その故は、明和の頃四当銭行はれしより、群雑の間は四当銭を以て欺ひて一串に換ふ。售(う)る者知らず、後にこれを悔ゆ。因てこれが為に一串四団にして、邪沽の患を免る。是よりして世上一般に及ぶと。
『甲子夜話』続編巻四十一

(高尾補注)つまりこういうことです。『世の中の串刺しの団子は一串5玉がふつうで1玉1銭である。しかしこの頃は一串4玉になったという。その理由はというと、……明和の頃、四文銭が流通したことにより、ひとごみの中で、四文銭で騙して一串5文を支払ったようにみせかけた。売る者(団子屋)はこれに気がつかず、あとでこれに気がついて悔しがった。このため一串4玉にして(つまり一串4文にして)わるい客の作戦を防いだ。……これが世上一般に及んだということである。』

これに対して鈴木さんはこういいます。

 この四文銭が流通するようになっていくのだが、静山はそれを団子屋の自衛手段によるものだとしている。つまり客が混雑しているとき、一串五文の団子を客にこまかされて四文銭一枚で売ってしまって損をするからだというのだが、それはおかしい。……五文銭があれば団子屋はこまかされたかもしれないが、江戸時代を通じて五文銭があったためしはない。……一文銭を〝一(ひ)い、二(ふ)う、三(み)い〟と並べていけば落語の「時蕎麦」のように、一文ぐらいごまかせたかもしれない。しかし、一串買って四文銭ではごまかしようがなかったはずだ。下情にも明るかった静山としては、これは珍しいミスだった。

 しかしわたしは鈴木さんとは違った解釈をしました。静山の「ミス」ではないと考えます。
 素人考えをします。史料をみますと、文末が「と」で結ばれています(2箇所、「成りたりと」「及ぶと」)。この「と」が伝聞の意であるとすると、この箇所全体は、静山自身の考えではなく、静山が誰かから聞いた話になります。したがって、静山の「ミス」ではなく、静山が、実際に世上に流布していた話を、書き写したに過ぎない、ということになります。
 「群雑の間は四当銭を以て欺ひて一串に換ふ」といいますが、どうやって四文銭で5文支払ったように見せかけるのでしょう? そのトリックを想像してみます。
 四文銭流通以後の団子代5文の支払い方法は、①一文銭5枚で支払う方法(1+1+1+1+1=5)と、②四文銭1枚・一文銭1枚の都合2枚(4+1=5)で支払う方法とがあります。もちろん、後者②で支払う方が楽です。「群雑の間」、つまりひとごみの中なら、なおさら後者②で支払ったでしょう。
 次に、②の理解にたち、四文銭・一文銭2枚を重ねて支払う場合を想像してみましょう。四文銭は一文銭よりサイズが大きめですから、四文銭の方を上にした場合、一文銭はスッポリと四文銭の陰に隠れてしまう。だから、もし悪い客が「あいよ、五文だ!」と言いながら四文銭1枚を手渡したとすると、受け取った団子屋はてっきりその下に一文銭が隠れていると勘違いしてしまう(注1)。「群雑の間」ですから、銭を差し出した手が、熊さんの手なのか八っつあんの手なのか判然としない。団子屋が「くそっ、だましやがったナ」と悔しがってもあとの祭り。
 それで団子屋は「それならいっそのこと、玉をひとつ減らして四玉の串団子にして、それを四文の価で売ってしまえ」と考えたのではないでしょうか。どうでしょう?

 以上の話とは違いますが、そういえば、現代の消費税導入のとき、ジュースを110円とするか100円とするか、問題となりましたね。結局客の便利のため、ワン・コイン100円で支払うことが決められました。しかしいまは110円・120円・150円が多くなりました。

(注1)四文銭に較べて一文銭はとても薄くて小さいのです。

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2005/02/03

(金銭)小銭を数える―落語「時そば」から―

 みなさんはどうかは知りませんが、わたしは小銭があまり好きではありません。たとえば、コンビニエンス・ストアで100円のガムを買う場合にしても、後ろにほかのお客さんがいなければ、10円を10枚用意して支払うようにしています。小銭をジャラジャラ持ち歩くと財布が重たくなり、煩わしさを感じるからです。また、小銭で支払ってくれた方が、ストアの方でも都合がいいのではないでしょうか。

 小銭といえば、みなさんは「時そば」という落語をご存じでしょうか。あまりにも有名な落語なので(おそらく落語の中で一番有名な落語です)、聞いたことがあるという方も多いのではないかと思います。
 そば屋である客が支払いをだますという落語です。そば屋は「二八そば」(にはち・そば)で、「にはち・じゅうろく」(2×8=16)で、一杯16文という直段です。ご存じない方のために、「時そば」におけるそば屋と客の問答を、以下に引用しましょう。

「いくらだい?」
「十六いただきます」
「小銭だから、まちげえるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定してわたすから……」
「では、これへいただきます」
「いいかい、それ……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何どきだい?」
「へえ、九刻(ここのつ)で」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六だ。あばよ」
「時そば」興津要編『古典落語』(講談社文庫)

 客は16文を支払うのに1文銭16枚で支払います。その途中で客が「何どきだい?」と時刻を聞き「九刻(ここのつ)」とそば屋が答えたところで、「とお、十一、十二……」と数えているので、9文めを支払っておらず、1文ごまかしているのです。

 そば一杯16文、ふつうはどうやって支払うのでしょう。そばに限らず、銭の直段には4文・8文・12文・16文・32文等と、一見半端な数が多いのです。
 江戸時代の銭は、一文銭だけでなく、明和年間から四文銭という銭貨があり、たいへんに流通しました。裏に波模様がついているため「波銭」とも呼ばれています。串団子の玉が4つなのは四文銭の影響といわれています(注1)。4文・8文・12文・16文・32文と4の倍数のものは四文銭で支払えばよい。
 さきの落語「時そば」のそば16文の支払いも四文銭4枚で支払えばよいのです(4×4=16)。なのに何故わざわざ客は一文銭で支払うのか。
 もちろん一文銭で支払っても全く問題ありません。わたしのように小銭の嫌いな人間が、江戸時代にもいなかったとも限りません。しかし多少は奇妙です。「奇妙だなあ、何故一文銭で支払ってんだろう?」と思っていたら、何と支払いをごまかすためにしていた、というのが笑いのつぼです。ここを理解して落語「時そば」をまた聞き直せば、ちょっと違ったおかしみが出てくるかもしれません。

(注1)よくいわれている話なのですが史料出典を知りません。ご存じの方はご教示ください。ところで串団子が4玉だとすると「団子3兄弟」というのは何なのでしょう。3玉の串団子もなくはありませんが……。しかし今のご時世、4人兄弟の家族はあまりいませんから、4玉では唄にはなりませんね。

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2005/01/04

(酉年)闘鶏と博徒―よみがえる幕末博徒の生活―

 今年は酉年だから鳥に因んだ話題をひとつ。正月早々物騒ですが、幕末の博徒のはなしです。

 幕末の頃、武蔵国多摩郡小川村(現・東京都小平市小川)という土地に、近隣に名の轟く博徒がいました。本名を小山幸蔵といい渡世名(博徒としての名前)を「小川の幸蔵」といいます。手前味噌で恐縮ですが、彼の伝記は拙稿「博徒『小川の幸蔵』とその時代―史実の『小川の幸蔵』からみる幕末博徒―」(北原進編『近世における地域支配と文化』大河書房)に纏まっています。
 子分50人を擁する親分で、何百人という武州一揆の攻撃をくいとめた豪傑でした。ほかにも強請り・喧嘩等々、ずいぶんと大暴れした形跡があり、いまでも彼に関する口碑が土地に残っています。小川の小川寺には、明治時代に建てられた彼の顕彰碑が建っています。わたしは、前述の論文を書くため、彼に関する史料を随分追っかけました。

 その幸蔵を調べていて、おもしろい史料に出会いました。紙幅の関係で前述の論文には漏れてしまった史料です。勿体ないのでここに記します。
 それは伊藤小作『郷土夜話』その一(私家版、1961)「竹松おこうさんの想い出話」です。この冊子は小平市中央図書館で見出したものですが、私家版であまり知られていないものですから、ここで紹介する価値はあるでしょう。「竹松おこう」とは幸蔵の養子秀吉の嫁のことです。おこうに関しては、わたしのフィールド調査で、彼女の名前の刻まれた墓を見出すことができましたから、その実在を確かめることができます。彼女による幸蔵についての証言をみてみましょう。以下に引用します。

(竹松おこうの証言)「……私の主人の父からきいた話ですが、そうですネ、幸蔵は未年ですから生きていれば百才以上でしよう。名主の弥市郎さんに使われて草刈り等をしたりしました。草刈りをしても自分はろくに刈らないで、人にやらせる。当時こんな謎がありましたよ、幸蔵はそれでも蔵持ちだつたが『幸蔵親分の蔵とかけて何と解く』『さむらいの腰のものと解く』『心は』『心はさわればきれる』というわけで、幸蔵の蔵の壁土は落ち竹の骨があらわになつて縄がでている。それにさわると縄がきれる………というのだそうです。幸蔵の家は小川四番の通りにあつた。遊び人というか、侠客というか、ばくちが好きで、闘鶏、闘犬までさかんにやつたらしい。」「すい瓜畑にむしろを十何枚もしいて、そこでばくちをやるのです。着物をきていたので胸元のふところからシヤモが首を出している。そんな男が方々から集つて、夢中になつて鶏にけんかをさせるのです。夜つゆにぬれてからだがひえるから、ばくち打は長生きしないといつたものです」「ばくちが大流行で困つたものでしたが、別に何もたのしみのない時代のことで、仕方がなかつたのでしよう」(中略)竹松おこうさんの義父秀吉さんが幸蔵に所望されてその娘さん(もらい子らしい)にめあわされ養子となつて聟入りした。此の人は謹厳でばくちは一切やらなかつたが、身を粉にして働いた。雪の中を使い走りをしたため膝おうにかかり、着物のすそがあたつても痛んだ、とうとうびつこになつてしまつて、実家に帰つて来た。」

 何と生々しい内容であることか! 短文ではありますが、他史料にみられない幸蔵の日常生活がいきいきと描かれています。特に「幸蔵の蔵とかけて」という謎掛けはおもしろい。わたしも読んでいて思わずドキドキ……。幕末博徒の生活とはこんなふうだったのですね。地方(ぢかた)史料のくずし字ばかり睨んでるだけじゃダメなのです。

 なお、幸蔵が好きだった闘鶏については、他史料でも確認できます。たとえば、小川村近隣の多摩郡蔵敷村の史料「御取締向留」(神奈川県立公文書館CH本)慶応2年(1866)2月25日関東取締出役廻状に、

近頃鶏為蹴合候会日を相定、所々より寄集勝負ニ寄、多分之金銭取引いたし候儀を能事ニ相心得、是迄度々触達置候儀を相背、横行ニ賭事いたし候由相聞以之外、

 とあります。したがって、幕末の関東村落において、闘鶏はかなり流行していたのではないか、と推測できます。先日、埼玉県所沢市の林という在所における聞き取りで、「むかしは闘鶏博奕をよくやっていて、闘鶏を飼ってる家も何軒かあったよ」という古老の証言を得ました。

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2004/12/31

(行事)続・歴史の中の御用納

 前回のエントリーでは、江戸町奉行所与力佐久間長敬(おさひろ)の証言によって、町奉行所の御用納が12月25日であったことを確認しました。いまは12月28日ですが、3日違うわけですね。

 しかしそれにしても、町奉行所では何故12月25日を御用納としたのでしょうか? そのはっきりとした答えは出すことができませんが、民間にあった年忘れという慣習に着目していいかもしれません。それは12月25日を区切りとし、同日から親戚知音を集めて接待するというものでした。そのことは「風俗画報」12号の記事にあります。

二十八日は各官省一年の政務を畢へ官人は各所の料理店会席等に会して忘年会を開く、又民間にてもこれを行ふ(高尾注、明治6年<1873>以降御用納は12月28日、民間もそれに倣ったことがわかる)、昔は別歳(としわすれ)とて二十五日頃より以後親戚知音を会して饗応することありき、
「風俗画報」12号(明治23年<1890>1月10日、東陽堂発行)

 「昔」つまり江戸時代の話として、別歳(としわすれ)という慣例があったとし、「二十五日より以後…饗応する」とあるから、前述における町奉行所の役人たちによる「御用納の大祝」と、かたちがよく似ています(『江戸町奉行事蹟問答』)。したがって、この年忘れと御用納との関連性は見逃せません。

 さて、次に近代の御用納の事例を追ってみましょう。明治2年(1869)12月の東京府の文書を繙くと、古い御用納の記述をみつけることができます。

当暮御用納并来春御用始日限之儀、未御治定不相成旨御挨拶之趣も有之候処、当府丈(だけ)は御治定不相成候(虫喰「ては」)目安裏可差支可申候間、
一、十二月廿五日 御用納
(中略)
一、正月十二日 御用始
右之通御取決取置、(後略)
  巳(明治2年)十二月
(「御用留」605―B7―3、東京都公文書館所蔵)

 これをみると、①御用納・御用始の期日については、太政官から正式に「治定」(決定)していない旨の返答があった、しかし訴訟取り扱い事務(目安裏)(注1)に差し支えが出るため、とりあえず東京府だけの規定を決めたい、②御用納を12月25日、御用始を正月12日に決めた、としています。この文書のあと「旧幕之節 御用納 十二月廿五日」というメモがあることから、このときの御用納12月25日決定には、旧幕時代つまり江戸時代の慣例を踏襲するという意味があったことがうかがえます。これが近代で一番古い御用納の記述のひとつです。
 そのあと明治6年(1873)、太政官は12月28日を御用納とする規定をし、それ以降現在に至るまで、12月28日を御用納としています。

(注1)めやすうらがき(目安裏書)江戸時代、公事出入(くじでいり)につき、訴訟人(原告)の提出した目安(訴状)に、受訴奉行が加える裏書のこと。(『日本国語大辞典』)。明治時代の東京府が、この目安裏の処理のために、太政官に先駆けて御用納の期日を決めたという事実はたいへん興味深いものがある。

(付記)さて今年も暮れようとしています。当ブログははじめて約3ヶ月ですが、お陰様ではやアクセス数も3600を越しております。本年当ブログをご愛顧頂いたみなさま方に、この場にてあつくお礼を申し上げます。来る酉年はみなさまにとって幸多き年となりますように。

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2004/12/28

(行事)歴史の中の御用納

 きょう12月28日は御用納の日です。この日にすべての仕事が終わるとほっとしますね。そこでここでは、歴史の中の御用納について、わたしが調べたところを述べてみます。
 御用納を辞典でひくと以下のように出てきます。

○ごようおさめ[御用納]諸官庁で、十二月二十八日、その年の執務をやめること。『広辞苑』 
○ごようおさめ[御用納]諸官庁において、一二月二八日に、その年の年内の事務を終わりにすること。『日本国語大辞典』

 この御用納という言葉は江戸時代にもあります。というよりも江戸時代の言葉を引き継いで、現代も使われているのかもしれません。
 御用納の「御用」とは公用のことをさし、「納」とは物事に区切りをつけることをさすと思われます。公用に区切りをつけてその事務を一端終わりにする、の意でしょうか。前近代では一般的にどのように使われたのか、上記のように辞典にも用例がないため、よくわかりません。おそらく「御用」というのですから役所用語だったのでしょう。
 その証拠に、江戸の町奉行所の関係史料には御用納の語がみえます。江戸の町奉行所の与力を長くつとめた佐久間長敬(おさひろ)の回顧記録、佐久間長敬・南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』(人物往来社、昭和42年)を繙くと、同じく町奉行所の役人であった、彼の祖父の時代のことが描かれています。そこに御用納の記述があります。

天保改革は老中水野越前守(忠邦)、町奉行北は鍋島内匠頭(直孝)、南は鳥居甲斐守(忠耀)の頃にて、其以前を流弊中と唱て、上ば将軍文恭院殿(家斉)存命中泰平の余徳にて、下々小役人に至るまで無事平安にて、余の祖父の如きも三十年間吟味方を勤め、毎日昼の十二時に役所に出て午後三時には掃宅せしと云。公用も少く気随気侭にて日を送りし由。昔語りの耳に残りしは、毎日酒宴と遊興のことのみなり。毎年十二月廿五日御用納めとなり、正月十七日公用まで昼夜の酒宴にて、十二月廿五日は御用納の大祝と唱、同役・下役交際の面々何人と云限りも来客にて、夫より引続き歳忘れと唱、大晦日まで飲み明し候由。(同書、111頁・112頁)

 ここでは、天保改革以前の将軍家斉のころの話として、①「御用納」が12月25日であったこと、②その日は「御用納の大祝」と唱えたこと、③その日から大晦日まで、町奉行所の与力たちが同僚・下役たち交えて呑みあかしたこと、などがわかります。
 また、おなじく佐久間の回顧録が、東京都公文書館に所蔵されています(『佐久間氏雑稿』江戸市政録二[CH182]「奉行所年中行事」)。

十二月二十五日御用納、此日与力・同心の係、黜陟及賞与あり、同心は奉行の命により年番与力これを申渡す、この日より諸役之休ミ、当番は例の通、(※黜陟(ちゅっちょく) 功績のある者を昇格し、功績の無い者を降格すること。「黜」は、下げ退けること。「陟」は、上り進めること。書経・舜典)

 これにもやはり、先と同じように、12月25日が御用納であったことが記され、制度的には、人事の昇降・賞与を行う日であったとされています(注1)
 以上このふたつの記事によって、①江戸町奉行所内で現在と同じ御用納という語が使われていたこと、②江戸町奉行所の御用納は12月25日で、人事処理があったり、(天保改革以前には)「大祝」と称する役人たちの宴会があったことがわかります。宴会をおこなう風景は、いまと同じなのですね。
 この続きは大晦日にて。

(注1)実は町名主斎藤月岑のご褒美を頂く日も12月25日なのです(斎藤月岑日記による)。もしかしたら「賞与」は奉行所の役人だけではなかったのかもしれません。

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