2005/08/23

(江戸時代後期、むらの記録⑤)江戸時代の百姓は商売上手?―むらの豊かな生活ぶり―

・百姓という言葉の意味 現在では百姓といえば農家のことをさしています。これはあたり前のことです。
 しかし「百姓」という言葉の本来の意味は、「あまた(「百」)の姓をもった人びと」であって、「一般人民」以上の意味はない筈です。したがって百姓の中には、〝農家〟ばかりでなく〝商家〟なども交じっていていい、ということになります。
 この考え方を敷延してみましょう。江戸時代の村の空間には百姓身分のひとが住んでいます。この百姓の中には、社会的実態にそくしていえば、〝武士〟であるひともいれば、〝農家〟であるひともいれば、〝商家〟であるひともいます。村長である名主(庄屋などともいいます)さんの家々には、中世に遡れば武士の系譜をもつ家々も少なくなく、なかには堀をめぐらした城館のような邸宅に住んでいる家もあります。それでも身分は百姓です。新撰組の土方歳三の生家もそのような家のひとつで、遡れば後北条家の武士であり、土方家代々は武士のような邸宅に住み、武士のような名乗りをなのっています。
 そのほか耕している石高がわずかしかなくても、おおきなお金を動かして商売をしている家もあります。このような家は〝農家〟というより〝商家〟というべきですが、それでも身分は百姓です。

・農間渡世の多彩さ それでは江戸時代後期、村にすむ百姓にはどのくらいの〝商家〟が交じっていたのでしょうか。
 百姓で商売をやっていることを「農間渡世」といいます。「農間渡世」とは農業の間で商売をやっているという意味ですが、しかし事実上、商売が主で農業が従であることも多いようです。天保14年(1843)に武蔵国入間郡赤尾村が領主川越藩に提出した農間渡世書上のデータが残っています。以下にそれをみてみましょう。

・天保14年(1843)武蔵国入間郡赤尾村農間渡世表 人名・石高(単位、石)・品物(原文ママ)・品数

善次郎 06.080 線香 抹香 草履 草鞋 菓子 多葉粉 紙類 青物 手拭 砂糖 下駄 足駄 傘類 竹縄 瀬戸物 枡酒 醤油 くつこ 塩 水油 元結 油 柄子類 鰹節 ほくち 羅越沙 扇子類 切昆布 染草類 付木 とうしみ 墨 筆 蝋燭 縫針 針金 足袋 盆用物 (38品)
長造 06.380 豆腐 線香 抹香 草履 菓子 多葉粉 青物 手拭 砂糖 紙 下駄 足駄 笠類 竹縄 枡酒 醤油 くつこ 柄子類 元結 油 ほくち 羅越沙 鰹節 切昆布 付木 染草類 とうしみ 墨 筆 蝋燭 扇子類 足袋 盆用物 (34品)
文造 09.230 枡酒 塩 醤油 菓子 多葉粉 ぞうり 草鞋 元結 油 紙 蝋燭 線香 抹香 砂糖 付け木 売薬類 葬式道具 釘 素麺 墨 筆 (21品)
弥曽吉 05.740 小麦粉取替 紙類 多葉粉 菓子 蝋燭 ぞうり 草鞋 元結 油 付木 線香 ほくち (12品)
磯吉 14.800 飴 菓子 砂糖 するめ こんにゃく 青物 とくさ 羅越沙 蝋燭 線香 付木 紙類 (12品) (出商い)
林八 02.410 するめ こんちゃく 飴 菓子 餅 団子 冷麦 酒 青物類 (9品)(出商い)
民造後家 02.220 枡酒 紙 多葉粉 蝋燭 草履 草鞋 菓子 (7品)
清助 02.720 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
庄吉 00.880 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
藤吉 10.120 濁酒 紙 多葉粉 白米 (4品)
徳右衛門 10.820 釘 多葉粉 針金 豆腐 (4品)
忠次郎 00.550 酒 飯 麺類 (3品) (出商い)
浅吉 00.050 団子 飴 くわし (3品) (出商い)
甚右衛門 48.600 油〆 塩 水油 (3品)
留吉 01.150 菓子 青物類 (2品) (出商い)
喜四郎 01.170 紙屑 古鉄 (2品)
藤左衛門 03.270 塩 水油 (2品)
鷲造 00.970 青物 (1品) (出商い)
久八 09.770 枡酒 (1品)
茂七 05.960 油揚げ (1品)
三之丞 00.550 油揚げ (1品)
浅次 01.410 油揚げ (1品)
庄兵衛 05.870 多葉粉 (1品)
与兵衛 13.480 小麦取替 (1品)
戸右衛門 19.380 小麦取替 (1品)
仙太郎 17.720 木綿 (1品)
豊吉 20.420 馬 (1品)
新六 00.920 金魚 (1品)
勝次郎 13.390 染物類 (1品)
寿五郎 03.540 小間物 (1品)
やす 02.460 小間物 (1品)
縫吉 00.550 小間物 (1品)
金右衛門 17.080 枡酒 (1品)
ゆふ 00.970 髪結
なを 00.420 髪結
総計36軒
※出商いという注記のある家は村のそとへ出稼する家。

 赤尾村の総軒数は約150軒ですから、この総計36軒という数字は総軒数に対して約24%という数字です。これは領主に報告された分のみなので、あるいはもっと多く存在した可能性もあります。石高でみると10石以下の階層が多く1石未満の階層もみられます。全体としては5石以下の零細農が多い(零細農といっても「貧乏」という意味ではありません)。石高と取り扱い品目との比例関係は特にみられません。
 取り扱い品目でみてみましょう。一番多いのは善次郎 (石高6.080)で38品目を数えます。また取り扱い品目の種類は家によって偏りがあって、たとえば林八(石高 02.410)は飲食品目ばかりだから飲食業者でしょうし、忠次郎(石高00.550)も酒・飯・麺類でこれも同じく飲食業者です。また喜四郎(石高01.170)は紙屑・古鉄だからリサイクル業者でしょう。出商いの家も多いことが注目されます。おそらくほかの村々・城下町などに動いて利益を得ていたのでしょう。
 以上の史料でみえる品目(髪結も1品と数えた)は全てで 186品目です。品種の数の多い順に並べてみると(カッコの中は品目数)、

多葉粉(10)・紙類(9)・菓子(8)・草履(7)・草鞋(6)・青物(6)・枡酒(6)・蝋燭(6)・線香(5)・付木(5)・砂糖(5)・塩(4)・元結(4)・油(4)・団子(4)・ほくち(3)・羅越沙(3)・水油(3)・醤油(3)・油揚(3)・飴(3)・小麦粉取替(3)・餅(3)・墨(3)・筆(3)・小間物(3)・抹香(3)・酒(2)・髪結(2)・こんにゃく(2)・するめ(2)・くつこ(2)・下駄(2)・足駄(2)・傘類(2)・竹縄(2)・針金(2)・足袋(2)・盆用物(2)・豆腐(2)・扇子類(2)・切昆布(2)・染草類(2)・手拭(2)・釘(2)・とうしみ(2)・柄子類(2)・鰹節(2)・素麺(1)・くわし(1)・飯(1)・染物類(1)・白米(1)・木綿(1)・濁酒(1)・油〆(1)・とくさ(1)・古鉄(1)・紙屑(1)・葬式道具(1)・売薬類(1)・縫針(1)・冷麦(1)・馬(1)・麺類(1)・金魚(1)・瀬戸物(1)

 となります。比較的品目数の多いものは日常生活での必要不可欠な道具(草履・草鞋・蝋燭・紙類など)や安価な馴染み深い嗜好品(多葉粉・菓子など)です。
 むらの豊かな生活ぶりがここからうかがえます。

・民造後家のお酒の仕入値、3年間で52両・銭136貫! では一体彼らの商業はどのくらいの規模だったのでしょうか。すべてのひとについてのデータはありませんが、すこしだけそれをうかがい知ることのできる史料があります。
 赤尾村は酒商売人の仕入金高も領主川越藩に報告しています(弘化2年「御用向書付留帳」、林家文書191)。天保12年(1841)・天保13年(1842)・天保14年(1843)3年間にわたる酒の仕入金に関するものでした。その中の民造後家(持高2石2斗2升)は、3年間の酒仕入金として、金52両と銭 136貫も消費しています(銭7000文(7貫文)=金1両)。彼女は石高からみれば2石余りと随分零細であるにも関わらず、その反面商業経営は小さいものではありませんでした。彼女は升酒のほかに6品目を扱っていますから、家全体としての総仕入値はもっと多かったに違いありません。
 どうでしょう。みなさんのむらのイメージは変わりましたか?

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2005/06/06

(江戸時代後期、むらの記録④)江戸への羨望

 あるサイトに「巨人の清原和博(きよはらかずひろ)選手が入場するときに何故『とんぼ』(長渕剛)が流れるのでしょうか?」という質問がありました。その返答として、

そのことについて、本人がテレビで言っているのをみました。「死にたいくらい憧れた花の都大東京」という歌詞がトンボの中にありますが、この「花の都大東京」を「巨人軍」とダブらせているそうです。

という旨の文章があり、「なるほど」と感じ入りました。

 武蔵国幡羅郡中奈良村(現、埼玉県熊谷市)名主野中家文書では、名主の隠居野中休意の作った天保8年(1837)「凶年知世補苦連」という文章があります。これは当時の関東村落を風刺したうたです。

田舎の奢りは、山でも里でも、湯屋が建やら、髪結所や、菓子や茶・烟草江戸より取寄、日雇取迄銀の煙管に、股引・脚絆も御鷹野仕裁の江戸向よいのと、三枚雪駄を常に履やら

 とあります。これによって江戸の商品はむらではちょっとしたブランドとして受け入れられたことがわかります。それを休意は皮肉をもって「田舎の奢り」と表現し、後の文章では「それだから天保飢饉の災禍に陥ったのだ」と指摘しています。
 また、彼は「俗語仮名交百姓要用教喩書」という書物の中でも、田舎とは異なる江戸の気風に対して戸惑いの気持ちを吐露しています。

なかんずく江戸者をうらやむ人多し、さりながら江戸の事を知らぬ故なり、おかしななはなしなれども、江戸町抔にては不如意なるものは女房・娘を人の囲者に出し、又は酒の酌抔となづけ銭次第・金次第にて自由に成るとかや、其いやしき事恥しき事どもなり、在郷もの・田舎ものと百姓の事をいやしみいへども、田舎などの人々は、女房・娘をたとえ小判を山に積むとも、人の慰みものなどには何ほど貧乏するとも左様の事は決てなし、

 むらに江戸者をうらやむ傾向があることに対し、休意は江戸を拝金主義の蔓延る土地と指摘して、むらのひとに注意を促しています。「江戸のひとは不如意になると、すぐ女房・娘を囲者に出してしまうが、田舎の人は小判を山に積まれてもそんなことはしない」といい、江戸への羨望は幻想であると主張します。
 江戸時代後期はむらから都市へとひとが流れ出ることの多かった時期です。それを阻止しようとしたむらの名主の立場からの発言です。それにしても清原選手にとっての「江戸」はどうだったのでしょうか?

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2005/06/02

(江戸時代後期、むらの記録③)時の移ろい―文化から天保へ―

 江戸時代後期、時の移ろいは激しさを増します。関東村落ではどのように記録されているのでしょうか。

 武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)では、主に19世紀から百姓の銭遣いが流行って、農業経営より商売経営に力を入れる家が増えました。そのあまり「農作業をやる奴は馬鹿だ」とまで口走る百姓が出てきます。
 むらには「虫送り」という行事があります。「田に虫がつかないように」という祈願を含めて、たいまつを灯して賑やかにかねを叩きながら、みんなで行列を組んで練り歩きます。
 さきに述べた百姓の銭遣いは、この「虫送り」の行事に大きな影響を与えます。

 名主林信海日記、天保13年(1843)7月4日条(林家文書1357)に、「虫送り」の行事についての記述があります。

例年のごとく、たいまつ・鉦(かね)など持ち出し鳴し歩行(ある)く、己(おのれ)子供連れて、高尾山祠脇に出て見るところ、たいまつようやく二十八出る、鉦(かね)などは我家より出候ほかは聞かず、これと云うも農業一統精入らず候ゆえなり、己(おのれ)幼年の頃は、耕作中に万燈のごとく多分出て、鉦・太鼓所々て打鳴し候事を思出し、歎息し帰宅す、

 信海は子どもをつれて林家屋敷脇の「高尾山祠」で虫送りを見物した。すると虫送りのたいまつの灯火が28箇が出てきただけ。鉦(かね)の音は林家の家人が打ち鳴らす以外にない。彼の脳裏にある「幼年の頃」の虫送りの風景では、「万燈」のようなたいまつと、所々にて聞こえる「鉦・太鼓」の音であった。それを「思出し歎息し帰宅」する。
 信海はこの変化の原因として「農業一統精入らず候ゆえ」、つまり「むらが農作業に精を出さなくなったから」と考えました。
 信海の「幼年の頃」というのは、彼の生年が文化元年(1804)ですから、文化年間前半期のことでしょう。したがって、虫送りにみるむらの変化は、19世紀初頭~1840年頃の間、約30年の間でおこったといえます。

 また、旗本の稲垣家にも、関東村落の概況を説明した報告書が残されています。天保13年(1842)付の文書。関東村落を旅するときの弁当についての話題です。

已前ハ小麦餅を弁当に持参し候ところ、文化度米価下落の頃より小麦餅相止め、一同握り飯と相成り、今ハ握飯も大方相止め、多くは行掛りの酒食、終には遊興沙汰に流れ、往古は勿論三十年程已前までは酒食商いたって稀に候ゆえ往来必ず弁当に候処、近年は貧地・孤村にも酒屋の二三軒ずつはこれあり……

 以前は弁当として小麦餅を持参していた。しかし文化年間(19世紀初頭)の米価下落の頃から、小麦餅はやめになり、米の握り飯となった。いまでは握り飯も持ち歩かない。なぜならむらに酒食商があるからである。この酒食店は30年以前(文化7年(1810)年頃)までは稀であった。しかし、「近年」つまり天保13年(1842)頃には、貧村・孤村にさえ酒食店が2~3軒はあるようになった。
 やはりここにも19世紀初頭~19世紀中頃という区切れ目が出てきます。

 幕府財政悪化による度重なる貨幣改鋳は、民間の貨幣経済を活性化させました。この頃でいえば文政・天保の改鋳の影響が大きかったようです。

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2005/05/14

(江戸時代後期、むらの記録②)村の商人

・村の商人の出現  ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder, 1867-1957)『大草原の小さな家』(Little House on the Prairie)は、19世紀後半のアメリカのむらを舞台にした自伝家族小説です。NHKでドラマがテレビ放映されましたから、ご存じの方も多いことと思います。
 ローラは1867年生まれで、日本でいえば徳川慶喜による大政奉還があった年です。したがって小説に描かれる時代はちょうど日本の明治初年と思えばよいでしょう。NHKの映像などをみる限り、日本の村とそう違いはないようにみえます。
 そこに雑貨商を営むオルソン(Oleson)一家という家族が出てきます。紳士的なご主人以外、とても意地悪な家族として描かれています。とくにオルソン夫人は見事なくらいに臍が曲がっていて、利にさとく、そろばん勘定で生きているようにみえます。
 なぜこの一家が意地悪に描かれているのかというと、社会学のかたによれば「村社会における『雑貨商』への偏見が働いているのではないか」というそうです。「商売なんてやってるやつにろくなヤツはいない」という見方がむら社会にはあって、それがオルソン一家の描かれ方に影響を与えている、というのです。
 なかなかするどい見方です。

・村の風景のちがい わたしもずいぶん村をうろうろしました。そのなかで印象的なことは、ちょっと環境が違っているだけで、ずいぶん村の雰囲気が違うということです。
 たとえばA村・B村という隣り合った村があります。A村は街道が貫いて道沿いに家が櫛比しています。どちらかというと町風です。B村はその街道からちょっとはずれています。どちらかというと農村風です。
 このA村とB村の両方でお話を伺っていると面白い。B村のかたは声をひそめて「A村は集団暴力的なんだ、人気(じんき)が荒いネ」という。一方A村のかたは「B村はのんびりしてるでしょ」とわらう。隣村同士なのに道が通っているかいないかでこんなにも雰囲気が異なる。B村のA村に対する目はまさにオルソン一家への偏見「商売人に気をつけろ」です。
 いまでもマイナス・イメージで「商売人」という言葉をつかうことがあります。しかしサラリーマンだって広義の「商売人」で、お役人や純然たる農家以外はほとんど「商売人」である筈ですが。

・農業で頑張っている奴は「馬鹿」? それに関して近世後期の村名主(武蔵国入間郡赤尾村名主)林半三郎信海はこんなことをいっています。以下は信海による領主川越藩への意見書の一部です。

村々諸商人……追々新規に商い始め候ものも出来候、この商人共義、村々奢侈に長し衰微の基に候事、右に申し候は物ごと自由にて、御城下同様につき、買わずとも済み候ものまでも買い、銭遣い日々募り行き申し候……

 もちろんこの「村で商売を行う者が多くなるとむらが衰微する」という考え方は一面的な見方でしかありません。半三郎は大地主ですが「村々諸商人」がうとましく思えてしょうがない。みんなが商売をやるおかげで、農業を「馬鹿」にして、自分の家の雇い人が集まりにくくなってしまったからです。

……村々ニ田畑も少々ならては作らず荷商いなどいたし、農業出精いたし候ものをかえって「馬鹿者」など申し、年中ふらふらと暮し居候もの多く候ゆえ、田畑共作り余り、高持の御百姓はよんどころなく高金を出し、奉公人召抱候て手作仕り候ところ、近年は奉公人義殊の外払底につき、召仕候にも勘弁のいたわり自然と過候ゆえか、わがままのみいたし候えば、主人より機嫌をとり年中苦労心配仕り……

 ―田畑も少々では作らず、荷商いなどをして、農業を出精(がんばっている)している者を「馬鹿者」と呼ばわりする者がいる。
 日本の江戸時代版『大草原の小さな家』は充分なりたちえると思います。時代状況が似通っています。

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2005/05/11

(江戸時代後期、むらの記録①)庶民の日記のおもしろさ

・日記研究のおもしろさ ドナルド・キーン(Donald Keene コロンビア大学名誉教授)さんはすぐれた日本文学研究者で、主に日記研究で著名です。彼と日本とのつながりはアジア・太平洋戦争のときでした。コロンビア大学在学中に戦争が勃発、海軍の日本語学校に入って情報関係の軍務につきます。
 日本が「鬼畜米英」を叫んでいるとき、アメリカは戦争相手である日本人を冷静に研究しようと努めました。なぜなら、戦争遂行のために必要であることは勿論、戦争に勝った後の占領支配のため、日本人の心理を知ることは重要だったからです。キーンさんはそのための仕事に従事しました。
 当時の日本人は特殊な国家体制・異常な戦法によって「国家に盲目的に追従する非人間的な国民」だと思われてきました。しかし、そうではないことがわかったのは、捕虜にたいする尋問のときの情報と、死んだ日本兵が書き残した日記でした。特にその文章にあったのは戦争への嫌悪感や故郷や家族に対する想いでした。キーンさんはこの日記の魅力にひきつけられたといいます。
 日記を書く動機は様々ですが、特に個人的な想いを書きつけるための日記には、世間体や国家権力のプレッシャーでは押さつけることのできない、にんげん本来の正直な心情が表現されています。特に建前・本音を分けたがる日本人にとって、日記は格好の鬱憤晴らしの場、本音吐露の場になっていたと考えられます。そういえば現在のブログ流行もそういう観点から考察されると面白いかもしれません。

・日記を書かせる動機 わたしは日記史料の研究が好きで、長い間打ち込んできました。わたし個人はというと、日記を書き続けた経験がありません(このブログは日記ではありません)。ただ「書こう」と志を立てたことは幾度となくあります。しかしいつもむなしく「三日坊主」で終わってしまいます。
 やはり、日記を書き続けるには、<動機>という、自分の内側から沸々とわきあがってくる、処理しようもないような大きなエネルギーが必要なようです。「まめなひと」はエネルギーがなくても書けてしまうのですが、ふつうはエネルギーがないと書けません。わたしに日記が書けなかったのは、そのエネルギーがなかったせいかもしれません。しかし今後、たとえば地震などの天変災厄や個人的な大きな不幸に直面したとき、わたしはどうなるでしょう? わたしの心の何処かが変化して、ながく日記を書き続けるかもしれません。
 したがって、史料としての日記を読むとき、動機をつよく意識する必要があります。〝覗き見趣味〟的な興味がないわけではありませんが、そうやって行間まで読み込めば、まるで隣に歴史上の人物が座っているかのような気分になります。

・「日常生活の天才」が織りなす歴史ドラマ わたしが本格的に村落史研究をはじめたのは、武蔵国入間郡赤尾村名主、林半三郎信海(はやし・はんざぶろう・のぶみ)日記との出会いからです(埼玉県立文書館蔵)。彼の日記を一見して「これは分析してみたい」と思いました。
 一見してわたしが興味をもったのは、書いてある内容ではありません。その日記の途方もない量でした。
 横帳にびっしりと埋め尽くされた3ミリ程度(!)の蟻の行列。目をこすってよくみれば、全て信海の手によるくずし字です。「人間はこれだけマメになり得るのか」と仰天しました。「日常生活の天才」といっていいでしょう。毎日つけたその日記群は途方もない量で、主に、

 ①家にいるときの日記、
 ②外出したときの日記、
 ③地域社会(村)の主な出来事を記した日記、
 ④金銭出納のありさまを記した日記、

 の4種類があるのです。これには参りました。
 この日記を書き記す主な理由は、

役に立つかどうかはわからぬが、とにかく子孫の参考のために書き残す。

 というものでした。
 信海はもともとが几帳面な人物です。しかし、彼が直面した当時の激動のむら社会に対する驚愕こそが、この長い日記を書かせたといえるでしょう。むしろ、信海という人物への興味が、わたしを近世後期の村社会の世界へと誘ったのです。
 この日記についてはこれから何度か述べることになると思います。

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2005/04/13

(戒名の意味)忘れ得ぬ史料―わたしの発掘した義民―

 時としてひととの邂逅が劇的であるのと同じように、史料との邂逅も劇的なことがあります。
 いままで様々な史料をみてきましたが、どうしても忘れられない史料があります。それは、卒業論文のときに取り組んだ、川越藩領・武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)の日記史料です。
 この村では、天保2年(1831)から天保6年(1835)もの間、名主(なぬし、村長)の座をめぐって、長い内輪もめがありました。
 結局、天保6年、ある百姓Aが川越藩の代官と賄賂で癒着、惣百姓の意志を飛び越えて、代官の特別任命によって名主の座を獲得しました(水戸黄門のドラマに出てきそうな話ですが)。
 そのため村中が大騒ぎをし、反対派が「名主は村の総意で選ぶべきだ」と郡奉行所へ押しかけ、Aの名主就任の取り消しを求めました。しかし奉行所では「お上の決めたことに異論を唱えるとは」と激怒、この申し出を却下するばかりか、百姓数人を牢に押し込めてしまいます。
 のちに代官の汚職が露見し、百姓たちは出牢を許されますが、そのうちの権蔵という百姓が牢生活の疲れで落命します。

この権蔵に関わる興味深い史料があります。赤尾村村人の日記、天保6年9月14日条に彼の葬式の記述があります。

同十四日、(略)今日権蔵葬式ニ付拾人は直ニ帰村有之、夕方葬式済ム、戒名金剛斎虚空生執清士と云、此戒名之文字可考思

 筆者は、権蔵の戒名「金剛斎虚空生執清士」(コンゴウサイ・コクウショウシュウ・セイシ)の文字には「意味がある」と記しています。しかし一体どういう意味なのか、わたしには長らく見当もつきませんでした。「コンゴウサイ」で仏教辞典で引いてみても、当該する事項は一切見あたりません。
 そこで、いろんな仏教辞典を頭から片っ端に引いてみることにしました。といってもこれはたいへんな作業です。……汗をかきかき調べたところ、やっと中村元『佛教語大辞典』(東京書籍、1983)に、参考になる事項をみつけました。

虚空生執金剛 (略) 金剛が植物の成長をさまたげないように、どんな人びとのために尽くしても無所得である、そのような菩提心を有する菩薩の意 (略)」

 おそらくこれが権蔵の戒名の由来でしょう。「虚空生執」と「金剛」がひっくりかえっていたので、「コンゴウサイ」で引いてもわからなかったのです。
 これによって、領主から死後も罪人とされた筈の権蔵が、村では密かに慈悲の菩薩として祭り上げられていたことがわかりました。村のために死んだ権蔵への想いを、密かに戒名にこめたのです。まさに権蔵が「生き返り」ました。震えるほどに感動的な出来事でした。
 これはわたしの発見した義民です。権蔵の墓はみつかっていません。

※拙稿「村役人の選出と村の自治―武蔵国入間郡赤尾村の事例―」『立正史学』96号(2004)より。

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