2013/12/15

(雑感)わたしは「生きているか」?

 ある自治体の正規公務員が給料の一部分を一律に減らされるらしい。その正規公務員のうちのある方は「こんなんじゃ、生活できないよ」とボヤキを仰っていた。わたしはその言葉を聞いたとき、一生の間びんぼう生活だろうわたしは、この場合どのような位置づけになるのだろうか、と思った。-わたしからみて-多額の給料をもらう正規公務員氏の観点からすれば、わたしの「生活」なんぞ生活の名に値せず、わたしはとっくの昔に死んでいる、ということになってしまう。

 ところが、その「生活できない」筈のわたしは、まぎれもなく、いまを生きている。生きていない筈の人間が、生きているのだから、わたしはきっと妖怪か何かにちがいない。これは一体どういうことか。戸惑いにも似た気持ちをもった。

 もっともこの「生活できない」という言い回しは、文字通りにとってはいけない言葉のひとつで、「《ある生活レベルからみて》生活できない」という意味である。わたしのように「本さえ読んでいれば幸せで、海外旅行をする気にもなれない」という価値観から出てくる「生活」などは、世間でいうところの生活の範疇には入らないのだろう。新聞(2013年3月17日朝日新聞朝刊)を読んでいると「投資活況 バブルの芽」という大見出しが目に飛び込んできた。記事には、ひとりのおばあさんのコメントとして「『これからインフレになる。自己防衛のためにも株を買わなくちゃ』(71歳女性)」という言葉が載っている。

 それでは、株を買うこともできないわたしは、おばあさんのいう「自己防衛」すらできない人間、ということになってしまう。この71歳のおばあさんは、この世に株を買うことのできない人間がいるなんて、とても信じられないかもしれない。思わず「いやいや、わたし、生きていますよ」と、思わず、新聞に向かって語りかけそうになってしまった。(2013年3月執筆)

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2005/09/02

(世相)「クールビズは子どもの教育に有害です」?

・意気盛んな広告 先日の新聞の朝刊をひらいてみたら、大見出し格くらいの大文字でこんな文章が派手におどっていた。そこにはこうある。

 クールビズは子どもの教育に有害です。

 選挙がちかいから政見広告なのかと思ったが、公示前であるからそうではない。この文字に続いて「全寮制の××は、日本の歴史と伝統を踏まえ、「形・姿を正した」教育を行います」とある。はたして××中学校の新聞広告であった。
 それにしても、……上は内閣総理大臣から下はわたしのような小役人まで、世の中はクールビズ一色である。そんな世を〝転覆〟せんと「有害です」とあっけなく断言しきるその意気たるや、頼朝の蛭ヶ小島の旗にも似ていて壮たるものがある。その意気のまえには最早説の当否なぞ小事であって、ここはひとまず拍手をおくるのが礼儀ではなかろうか。だからこの説の是非については触れないことにする。別に中学校の固有名詞はどうでもいいからいちおう伏せ字にしておく。この校は東京大学に進学するほどの優秀な人材を輩出していて、まことにけっこうな学校なのである。

・不思議な説明不足 しかしこの××中学校のために惜しむらくは、新聞片側紙面の全部を派手に使って多額の広告費を散財したわりには、クールビズが何故有害なのか、前述の「日本の歴史と伝統」云々という説明以外はまったく理由が示されていないことである。
 周知のように日本におけるネクタイ文化の歴史はあさく、それ自体が「日本の歴史と伝統」を有しているわけではない。ネクタイの紐というカタチは措くとして、「形・姿を正し」て礼節を弁えるということが「日本の歴史と伝統」であるという主張なのだろう。そうであるにしても、クールビズは「部屋の温度を下げるかわりにノー・ネクタイにしましょう」という趣旨のものである。その効果のほどは疑問だが、環境問題の宣伝ということに一役買っているのは事実である。まさか××中学校は「環境への配慮はわが校の教育の範疇に非ず」といいたいわけではないだろう。しかし説明不足である以上、そう勘ぐられても仕方のない広告であって、教育施設なのだから、とりわけ言葉を尽すべきであろう。そしてもし仮にクールビズが教育に「有害」だったとしても、ほかにもっと「有害」なことがこの世の中にたくさんある。それなのに何故ここでクールビズだけが標的になるのか、それも不可解である。
 広告に過剰な説明はむしろ宣伝に邪魔であることくらい、わたしにもわかる。しかし過激な広告を出したのだから、それだけにその理由を説明するのがふつうではなかろうか。繰り返すが、ここでわたしが問題にしたいのはあくまで校の説の是非でなく、①大きな広告なのに説明不足、②過激な内容なのに説明不足、③教育施設なのに説明不足、という不思議なアンバランスについてである。何か深淵な考えがあるのかどうなのかも窺うことすら許されず、いきなり戸をぴしゃりと閉められたような感じがした。これは昨今の生徒が「あの先公(先生)、ムカツクから」と一言で「説明」(?)を終わりにすることと同じである。
 何故「クールビズは子どもの教育に有害」か、その理由をくわしく拝聴してからでないと、その是非を考えることはできない。教育はあくまでコトバであると信じたい。犬養毅も「話せばわかる」と遺言したが、それも確かに「日本の歴史と伝統」のうちではないだろうか。

・「日本の歴史と伝統」とは さて、わたしはかくも聖人君子な××中学校の先生方とは正反対な性格で、恥ずかしいばかりの俗悪だから、何故男の頸にネクタイなる紐がぶら下がっておるのか常々疑問であった。
 ―ジタバタせずに女房に従容として差し出す首輪のつもりか、くちのまわりのケチャップを拭うハンカチの代用品のつもりか、将又(はたまた)酒席で鉢巻きにする紐か。偶然通りかかった百貨店のネクタイ売り場では必死に「ネクタイは男の唯一のおしゃれです」と連呼していた。そのような光景をみると、女性の服のおしゃれとくらべ、男性のネクタイの寂しさは隠すべくもないように思える。
 そこで、先の××中学校の「日本の歴史と伝統」でいえば、いっそのこと和服で会社や学校に通うというのはどうだろうか。とりわけ裃という着物がある。「遠山の金さん」が着ているあれである。幸いなことに我が家には江戸時代の先祖がつかったとされる裃が所蔵されているから、これを着てゆけば××中学校の先生にお褒めにあずかるかもしれない。ネクタイなんかよりよほどかっこいいだろう。べつに××中学校を揶揄しているわけではない。夏の銀行窓口の女性も浴衣で応対しているくらいだから突飛な考えつきでもない。むしろ和服出勤は新鮮で、外国人と応対するときも「samurai!」と案外相手から喜ばれることがあるかもしれない。
 「日本の歴史」専攻であるわたしの考える「日本の歴史と伝統」とは、××中学校の説のような意気盛んなものではなく、あくまでこのような軽い考えのものである。

(追記) 「クールビズは「部屋の温度を下げるかわりにノー・ネクタイにしましょう」という趣旨のものである。その効果のほどは疑問だが、環境問題の宣伝ということに一役買っているのは事実である」とかきましたが、そののちこんな記事。

クールビズ成果、東電で7000万kw時の電力減
 東京電力は8日、夏の軽装化運動「クールビズ」で、6~8月の販売電力量が計7000万キロ・ワット時減り、発電時などに発生する二酸化炭素(CO2)の排出を約2万7000トン削減できたと発表した。東電にとっては、7億円の減収になったが、地球環境に配慮する狙いで始まった軽装化運動が一応の成果を収めたことを裏付けた。……
(2005年9月8日19時44分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20050908i412.htm

 無駄ではなかったのです。「環境問題には有益であった」わけです。(2005.9.9追記)

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2005/08/19

(戦後60年)〝凡下〟ということ

 小泉総理の靖国神社参拝問題については、総理が参拝しなかったということもあってか、国内ではいちぶの騒ぎを除いては(ほかの閣僚などが参拝しましたが)空蝉(うつせみ)のように静かに過ぎてゆきました。
 日本という国はおもしろくて、政府は「靖国の英霊」というわりには何故だか各地で戦没された兵士の方々のお骨も拾わないし、拾ってきてもDNA鑑定すら積極的にやろうともしません。したがって政府の本音としては案外英霊はどうでもよいのかもしれず、靖国神社はたぶんに政争の具として扱われているに過ぎないのでしょう。総理が選挙対策のために参拝しなかったということもそのことを裏付けています。
 それはさておき、靖国神社自体は日本特有のひとつの価値観のかたまりに過ぎません。世界で通用する普遍的なものではありませんから、たとえば中国は怒っています。こういう問題に接していると、人間の命の重たさというのはどれも平等ではないのだという平凡な事実について再認識せざるを得ません。

 ひとつには、自分自身に近しければ近しいほど、人間の命は重たくなっていく筈でしょう。たとえば海外で何か事故がおきると、テレビのニュースはきまって「日本人の乗客にけがはありませんでした」というコメントをつけます。もしも不幸にして海外で日本人が亡くなれば、漠然とおおごとだと感じるでしょう。さらにそれが自分の属している町内会の住人なら「香典でももっていこうか」という気持ちになるし、はたまた死人が自分の親戚ともなれば、なおのこと悲嘆にくれることでしょう。ところが自分にまったくかかわりあいのない、名前もきいたことのない国々の方々が亡くなっても、「お気の毒に」と思うこそすれ、それ以上の感慨はどうしてもおきないかもしれない。
 もうひとつには、お金の多寡も人間の命の軽重をきめます。アメリカでの9・11同時多発テロでの犠牲者は、アメリカ人およびアメリカに繋がる富裕な資本主義国で働く人たちでした。いわばお金持ちが死んだわけですが、資本主義社会にとってお金持ちが死ぬことほど理不尽な事態はない。なぜなら資本主義社会のルールではお金は命さえ買えるからです。医者に大金をもってゆけば癌でも適切な治療をしてくれますが、いっぽうお金のないひとたちは適切な治療もないままに路傍に死んでゆくだけです。このルールを打ち崩したテロはけっして許せないということになるから、やはり同じようにお金をつかってテロを支援する国家を潰さねばならないという理屈になる。いっぽうお金持ちでない国々のひとは、いくら死んでもあまり問題視されないから、アメリカ軍の誤爆での犠牲者のお名前は9・11の犠牲者ほどには記憶されることはないでしょう。
 何処の国にうまれたか、あるいは貧富何れかというのは、偶然のいたずらにすぎないことが多いので、その意味では地球上何処に生きている人間も命の軽重に大差はない筈ですが、しかし実際にはそうはなっておりません。悲しいかな、わたしたちはかくも矛盾したこの現実に生きていて、かつ生きざるを得ないわけです。

 この命の軽重の矛盾についてみなさんは口に出しませんけども(わたしは馬鹿正直だからいってしまうけれども)、たいへん愚かなことだとは気づいています。その意味で根源的に人間は愚かな動物である。もっともここでいう「愚か」とはバカの意ではありません。仏教で〝凡下〟という便利な言葉があるから、そこから借用してそう言い換えたほうがいいかもしれません。
 しかし一般的に人間はその〝凡下〟のままでいいとは考えていません。ナショナリズムや経済格差を克服して〝凡下〟をのりこえようという試みがあるし、使い古された言葉ですがおもいやりや礼譲ということによっても〝凡下〟を包み込もうとしています。その努力や考えがあったればこそ人間は人間たりうる存在になるのでしょうし、それが人間のこれからの歴史の趨勢でしょう。
 しかし残念ながら人間はときどき「〝凡下〟のままでいい」と頑固にあぐらをかいて動かない場合があるらしい。そこで冒頭の靖国神社のはなしにもどりますが、この問題についてもそれと同じにおいがする。誤解がないようにいっておきますが、わたしは死者をいたみ戦争の犠牲者の方々をとむらうこと自体を否定しているわけではありません。ただ、弔いが国単位で閉じこもっているのは、先に述べた「日本人の乗客にけがはありませんでした」というふうな〝凡下〟さがある、ということを表現したいに過ぎません。

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2005/07/31

(教育)学力崩壊

 学力崩壊の論議が喧しい昨今ですが、かくまでに暇人が多いものかと驚きを隠せません。
 むろん暇が多いということ自体は慶賀すべきことかもしれませんが、学力崩壊を嘆く暇があったら、道路におちているたばこの吸い殻一本でもひろって頂きたい。「学力をもっている」良識ある大人が道路にたばこの吸い殻を落とすなど、学力崩壊よりもよほどゆゆしき問題ではないか。
 おとな諸君。
 「暇人」とよばれて悔しかったら中学校のテストでも解いてみなさい。

 世の中はおとなが支配しているのだから、おとなの学力崩壊が社会問題になる筈がありません。おとなになったらおとなであるが故にテストされる機会なんかありません。試しに中学校のテスト用紙をおとなの前にもっていってご覧なさい。きっとそのおとなに「失礼だろう、キミ!」と一喝されることでしょう。実はこの世で一番謎なのはおとなのアタマの中なのではないでしょうか。おとなが自分自身のアタマの中を点検しようとするのはおとなにとって自殺行為にも等しいことでしょう。
 学力崩壊ということを言い出したのはどうせ先生連中でしょう。もっと大きな問題が転がっていないだろうか。そもそもおとなはむかしは子どもだったくせに生意気じゃないか。

 義務教育の知識といっても記憶の彼方にいっていることが多いでしょう。人間は動物の中でいちばん頭がいいといっても、たいていはすぐに忘れてしまう。先日も妻と以下のような会話。

○妻「地震って最初に小さく揺れるわよね」
○わたし「そう。地震にはP波とS波っていうのがあって、最初にP波っていうのがくるんだよ。P波とS波っていうのは……」(と、いろいろ説明する)
○妻「また難しそうなことをいって!」(と、怒る)
○わたし「い、いや別に……、難しそうなじゃなくて……、中学校でふつうに習ったヨ???」

 おそらくこういうことはふつうにあるのではないでしょうか。中学校で習う知識はすでにおとな社会においては珍奇な知識として扱われています。先日も市役所の役人の方が「非常勤」の「勤」の漢字が書けずに往生していらっしゃったのをみました。子どもの学力崩壊以上に問題なことは、おとなになってから急に勉強を放棄するひとが多いことでしょう。勿論かくいうわたし自身だって、(常人以上に)忘却することが多いから、日々勉強しなければならないわけです。
 ちょっと横道に逸れますが、文部科学省の義務教育の定義というのも、よくわかりませんね。そこでの議論は、円周率を何処まで教えるかなど、変に些細なことばかりで、おおきなコンセプト(概念)についてあまり問題になっている形跡がない。たとえば実際社会に出てみると学校で習わない大事な知識が沢山ある。わたしなぞは「これを学校で教えて欲しかったのに」、そう慨嘆する場面が数限りなくありますが、それでほんとうにいいのでしょうか。

 さて、学校で「異様に」(とわたしはみえる)お勉強ができたあのクラスの仲間たちは、いまどうしていることやら。
 わたしは勉強ができませんでした。どういうわけか先生に黒板にかいて説明してもらってもさっぱり理解できず、先生にも仲間にも嘲笑されていました。だから中学校までは母親に勉強の多くを教わっていたのですが、しかしそのおかげで(?)、岩波ジュニア新書やら学習漫画やらで一生懸命いまだに勉強しています。むしろ子どもの頃勉強ができなかったほうが、勉強にたいする恐怖心が植え付けられているから、勉強にたいするやる気が長続きするのではないかと思っています(これはわたしだけに通用する理屈でしょうか)。 

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2005/07/22

(社会観)死体なき世の中

 大学院生のとき、板碑研究で有名な千々和到先生の授業をうけました。
 先生は授業の劈頭、「みなさん、人間の死体を何回みたことがありますか」「現代では人間の死体をみなくなりましたね」ときりだした。
 そういえば、人間の命が地球よりも重たくなったのも、つい最近の出来事です。

 むかしの日本の絵葉書にも、中国人(? だったか)の斬首風景を題材にしたものがあります。ある博物館の女性の研究員にそれをちょっとみせたら、―とても申し訳ないことに―、彼女をすっかり怯えさせてしまいました。もちろんわたしに悪気はなく、「世の中はつい最近まで殺人をかるくみていた」ということを指摘したかったに過ぎませんが、わるいことをしました。
 そういえば、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を描いた映画『シンドラーのリスト』も、凄惨なシーンが続くためか、映画の途中から白黒画像に変わっています。こうやって観衆が「みたくない」といえばたちまち白黒映画になってしまう。しかしその時点で真実の幾ばくかは葬られることになります。

 養老孟司さんではありませんが、我々の生きる社会は「人間の死体のない(あるいは「ないことになっている」)社会」でしょう。とりわけこの日本社会は「本人が望まないなら死体をみなくてもいい」というくらいに自由のある社会であって、その社会がイラクに兵隊をおくったわけです。
 イラク派兵の是非は措くとしても、この矛盾関係はいつも国民一人ひとりが念頭にいれておいたほうがいいでしょう。いわば、われわれは決して血しぶきを浴びることのないガンマンである。畳の上から戦争を議論するというてんにおいては、小泉首相をはじめとするほとんどの日本人が同じ穴のむじなでしょう。
 もっともあしたにはアルカイダに東京の山手線を爆破されるかもしれませんが、そのときにはじめて、日本人は自分たちの社会の本当のなりたちを「知る」ことになるのでしょう。
 それに、現在の血なまぐさい中東の国々・民族を「およそ理解できない人びとだ」などと論評するひともありますが、歴史的にみれば(といっても50年~100年たかだかの過去)、何処の国・民族だって似たり寄ったりなのです。それが厳然たる歴史的事実です。

 先日品川区立品川歴史館において、「博徒『小川の幸蔵』とその時代」という講演をおこなってきました。
 2時間講座を隔週2回分で計4時間という、折角の長時間を頂けるということなので、あえて博徒というむつかしい演題を選ぶことにしました。何故むつかしいかといえば、―わたしの話の巧拙は別として―、そもそも博徒のはなし自体が敬遠されることが多いからです。窃盗・脅迫・殺人という生臭い事例が多くて、ひとによって好き嫌いがはっきりわかれます。しかしこれは、幕末つまり100年ちょっとまえくらいの地域社会には、ふつうにあった風景なのです。こういうことに目をそむけてもらっては、歴史をほんとうに理解したことにはなりません。
 それで、そのためにわたしはずいぶん配慮して、博徒という話題をとりあげる理由について、前置きとして30分もかけて大汗かいて説明しました。それほどにこの話題をとりあげるのはやっかいなのです。
 殺人ということなら、新選組だって伊藤博文だってやっていた筈で、それが歴史上の話柄としてふつうにとりあげられています。それなのに何故博徒の殺人だけがアウトなのでしょう。イデオロギーの有無でしょうか。イデオロギーによって殺されたら霊魂は浮かばれるのでしょうか。
 講演の中でふれた、武蔵国多摩郡の博徒「小川の幸蔵」というひとは、彼自身おもしろいエピソードをもっているのですが、彼を囲む地域社会もまたおもしろい。彼の社会的位置はとても複雑で、必要悪というか、彼はとんでもない犯罪をおかす反面で、地域の秩序をたもつ有意義な役割をも担っていましたから、地域社会はなかなか彼を排斥することができないわけです。平気で理由もないような殺人を犯すわけですが、そのくせ地域防衛のために生命を賭して戦ったこともあります。これらすべてを歴史学の問題としてとりあげ、どちらの面をも正面から考えてほしい、と(怠け者のわたしにしては珍しく)力説したのです。
 もちろん殺人は決して許されざる憎むべき犯罪です。われわれはそんな殺人からほど遠いと感じてしまう社会に生きていますが、それはとんでもない誤解・嘘ごとであって、暴力・殺人はわれわれのすぐ隣りにある(あった)。そのことがわたしの伝えたいほのかなメッセージだったわけです。
 もっともわたしのまずい話で、はたしてそこまで伝わったかどうかはわかりません。ただ、あとで聞いた話によれば「好評だった」ということでした。おそらくわたしのひねくれた話に共感してくれた方が、最低でも一人はいらっしゃったであろうことに、安心し満足しました。

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2005/01/10

(雑感)「学問サイト」はどうあるべきか

 このブログ名は「江戸時代研究の休み時間」ですが、書いている本人に「休み」感覚はありません。わざとやっていることとはいえ、題材や語り口も固く、駄文ながらも1エントリーを書きあげるたびに、やれやれといった感じです。もっとも充実感はあります。そして面白いからやっているのです。

 これを書くためにネットで勉強もしています。たとえば、当ブログ作成の参考として、普段から様々な研究者の方のサイトを拝見しています。どれも研究者離れした力作揃いで、そういった所謂「学問サイト」はいろいろなところで紹介され推奨されもし、数は少なくありません。
 しかし、わたしのみた限り、その「学問サイト」のほとんどは、その学問分野にある程度知識がないと、理解できないものです。初心者にもとっつきやすいものが少ないと感じました。もちろん、それがわるいというわけではなく、おそらく研究者仲間・学生では重宝されるだろうし、「門外漢にはムツカシイということがわかる」ということ自体、門外漢にとって、ひとつの知的収穫かもしれない。しかし、さらに欲をかくならば、初心者をもっと意識したサイトづくりを心掛ければ、世間的認知もより広まるし、つくった意義も深まるし、ひととの交流も活発になって、新しい発見もあるのではないか、と感じます。それは当ブログにおいても心しなければならないことです。

 この問題は学問のありかた自体の問題でもあるかもしれません。
 わたし自身いままでは(いまでも)学会人間です。学会に出て興味深い発表を聞いて、自分でも発表をしますし、学会の運営にまで深く関わってきました。その仲間うちでは「これは重要な問題だぞ」と興奮をし議論を深めたものでした。もちろん、学会に出なくとも学問はできますが、学会は自分にとって重要な契機付けを与えてくれる場で、いまの自分をかたちづくった重要な要素だといえます。
 一方、この学会というのがある意味「くせ者」で、心の何処かに「これではいけない」と思っている自分もいました。……学会はたしかに重要なんだけど、何か大切なことを見落としてはいないだろうか? 学会の仲間はほんの少数の研究者で、研究会のお客さんも研究者で、発行する雑誌の読者も研究者。この学会活動とともに、もっとひろい世間をも相手にしていかないと、「井戸の中の蛙」になってしまうのではないか? と。ずいぶん前から、その「ひろい世間をも相手にする」試みとして、ネットはとても重要な手段だと考えていました。それでこのブログを立ち上げてみたわけです。だからこの場では、自分の研究等について、わかりやすく明快に語ろうと心がけています。
 しかし、当ブログがその試みに耐えうる資格があるかというと、なかなか心細い感があります。作成者であるわたしも、ちょっとのことしか知らない未熟者で、とても専門家面して歴史研究者を代表して発言することなどできません。もうちょっと仲間を増やさないいけない、と考える今日この頃です。ただ、学会での飲み会では、世の中と学問との関係について、熱く勇ましい発言をなさる方が多いので、さほど悲観はしていません。

 それで最近、小林信也(こばやし・しんや)さんに、ブログの作成をおすすめしました。そして実際開設なさっています(歴史系ブログ一覧参照)。「思い立ったらすぐ実行」という態度は快いばかりです。
 小林さんはわたしにとって職場の同僚で、研究の大先輩でもあります。東京大学で博士(文学)号をとり、最近その博士論文を『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社)にまとめられました。有名学術雑誌にも投稿してきた、ある意味〝アカデミックな世界の王道〟を歩いてきたひとです(ご本人はこれに対してどういうかはわかりませんが)。こういうひとがブログをやると、どういうことを発言するのか、個人的には非常に興味のあるところです。そして、小林さんのブログの題名「江戸をよむ東京をあるく」は、フィールド・ワークや現在おこっている問題を重視しながら歴史を考えるという、ご自身の学問スタイルを表現した言葉でもあります。こういう方だからこそ語ることのできることがある筈です。
 すこし拝見したところ、題材の選び方や語り口も(わたしよりも)くだけていておもしろいし、趣味の話もお入れになっているところがよい。歴史に関係のない方にとっても、とっつきやすいブログになると期待しています。

(付記)当ブログ「江戸時代研究の休み時間」が、「ココログ 木村剛モノログ横町 トラックバック井戸端会議 まとめ、殿堂入りモノ」に殿堂入りしました。木村剛さんありがとうございました。

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2005/01/07

(雑感)研究人がネットで実名を名乗るとき

 わたしは、このブログ「江戸時代の休み時間」を、実名「高尾善希」として書いています。実名ばかりでなく、写真も履歴も職歴も論文名も、全て公開しています。公開していないのは、家族の氏名や年齢、あるいは住所・電話番号くらいでしょう。ネットでは「実名を晒す」という表現があるくらいで(この場合は「自分の意図によらず他人から実名を暴露されること」をさします)、あまりいいイメージはありません。だから「(実名で書くなんて)勇気がありますね」といわれます。たしかに、文系の研究人としてはかなり変則的・大胆な行為で、道の真ん中で裸で寝ころんでいるようにみえます。
 しかし、実際のところは、実名にしろ匿名にしろ、どちらにしても得失はありましょう。ネットの玄人のかたにいわせると、「実名か匿名かというよりも、書く内容による」のだそうで、たとえ匿名でも、ひとから恨まれるような過激な書き方であれば、トラブルに巻き込まれやすくなるのだそうです。たしかに、総務省によるネット・トラブルの調査によれば、実名よりも匿名のほうがトラブルが多いのだそうです。これは意味深な結果です。ちなみにアメリカでは、ネットでも新聞でも実名で書くことは珍しくないようです。それに従ったわけではありませんが、あえてここでは実名で書くことを選択しました(注1)

 わたしがこう思うのは「ネット初心者」だからなのもしれませんが、……いまここでわたしがやっていることは、雑誌に気軽なエッセイを書くことと何ら変わりはなく、単に、使われる媒体が紙かデジタルデータかの違いがあるだけです。たしかに、ひとの目に触れる機会は、デジタルデータの方があるかもしれませんが、不特定多数のひとに文章を公開するという基本的な要素は雑誌と同じです(ただ、雑誌に文章を載せるには、入稿してゲラにし、ゲラ稿にあかを加え、何稿かをくりかえします。しかしネットならばその面倒はない。自分がみつけた史料や突然に思いついたこと等を、すぐに書いてゆくことができます。書いたあとでも、間違いに気がつけば、簡単に訂正することができる。雑誌ならそうはいきません、ゲラ稿であかを入れそこなったらおしまいです)。
 雑誌に投稿するのだって、実名なんだから、ネットで文章を公開するのも、やはり実名です。

 実名で書いていますから、全責任は自分にあり、その緊張のうえで記述します。だから、流行の匿名掲示板のような記述形式・内容にはなりえません。わたしの場合ちょっとオーバーで、―お気づきになったかたもあるかもしれませんが―、わたしの文章は、一貫して「です・ます」調、ネット特有の「顔文字」さえ、一切使用していません。もっとも、ここまでやる必要はないかもしれませんが。
 その一方で匿名には匿名の価値があります。わたしも匿名掲示板に大きな価値を認めています。しかし、匿名掲示板には幾つかの難点がある、と思います。それは、誹謗中傷が多くなることや、情報の信用性の有無が閲覧者に判定できない等です。後者、信頼性の判定の問題は重大です。厖大な匿名の書き込みの中にも、―匿名であるがゆえの―、重大な情報が書かれているかもしれないのに(たとえばタレコミ情報等)、―匿名であるがゆえに―、ニュース・ソースをちゃんと把握できない。隔靴掻痒の感がなくはありません。
 有効な人的交流を目的とし、かつ、「まじめな文章を書く」という、このブログの使用目的から鑑みれば、そのニュース・ソースを明示したほうがよい、つまり、わたしの実名・履歴等を明らかにした方がよいのではないか、と考えました。理系の研究者にとって実名公開は珍しくもないけど、特に文系のひとにとっては、コロンブスの卵で、意外とおもしろいんじゃないないか、と思ったのです。

 さきに、実名でも匿名でも危険な場合は危険だといいましたが、それでも、実名であるが故の危険性は常にあって、危険がゼロにはなりえないことは充分認識しています。例えば、家にいるよりも外で歩いている方が危険であるのと同じように、実名でぶらぶらしているわけですから、何らかのトラブルに巻き込まれる危険をなしとはしません。家に籠もってなにもしていないのが一番安全です。また、文系の方々が、ネット実名公開について、どのようなイメージをもっているのかも、気になります。「はしたない行為だ」等と思われていないかどうか。それに対しては、まあ、読んで下さい、というしかありません。
 しかし、この危険性・危惧をのりこえて、ここでは何か大きなものを得ることができると考えています。それが何なのかわたしにもよくわかりません。ただ現時点では、―詳しくは書けませんが―、このブログのお陰で、驚くほど人脈が広がりましたし、自分の研究意欲向上にも益があります。

(注1)人文研究者でも実名でブログを運営していらっしゃる方もいます(たとえば欄外「歴史系ブログ一覧」参照)。なおネットにおける実名・匿名問題については下記ブログが参考になります。津村ゆかりさん「技術系サラリーマンの交差点」カテゴリー「匿名・実名」 木村剛さん「週刊!木村剛」「匿名の人はコミュニティを壊す権利を持っているのか?」。トラックバック先もあわせて参照して下さい。

※このエントリーの転載、どうぞご自由に。

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