2005/07/05

(思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路―

 きょうはわたしの生い立ちについて、家族のことも絡めながら少々書いてみたいと思います。しかしきわめて私事に属することですから、おそらくひとさまに何の感興もおこさないでしょう。また平凡な生い立ちですから、とくにお話することはありません。
 しかし少々かわった環境で育ちましたから、それについてお話する価値は若干あるかもしれません。そんなわけできょうはわたしのつまらない私事で埋めます。

・「囲碁一家」? わたしのうまれ育った家は父・母・わたし・わたしの弟の4人暮らし。千葉県千葉市にある平凡なサラリーマン家庭ですが、囲碁を中心にまわっていた家でした。実際「囲碁一家」というねたで雑誌の取材を受けたことがあります。ただ母とわたしのふたりは囲碁をうちませんから、「囲碁一家」は〝そと向け〟にやや誇張された表現だといえます。
 父とわたしの弟のふたりはとても囲碁に熱心でした。
 父は有段者でわかい頃は碁会所通いばかりしていました。大学時代は囲碁のおかげであやうく単位を落とし損ねたらしい。家庭でも囲碁をうちたくて、気まぐれにわたしの弟に囲碁を教え込んでしまった。
 弟の高尾紳路は、「熱心」というもおろか、囲碁棋士として囲碁でめしを食っています。かれは最近テレビ・新聞・雑誌などによく出てきますからご存じの方も多いことでしょう。かれの履歴に関しては、囲碁の世界に疎いわたしよりも、むしろ囲碁ファンの方々のほうがずっとご存じでしょう。わたしの研究仲間でも、わたしの弟が誰なのかを知っているひとはそう多くありません。
 女性である母は格別、我が家の男性陣の中で、この囲碁好きの父・弟ふたりと、そうでないわたしとでは、同じ家族のうちであるのに象ときりんくらいに人種が違う。囲碁ばかりではなく、父・弟が理系的で勝負事好き、わたしは文系的で勝負事がきらい、などなど。これは不思議なことです。
 わたしの人生はこの父・弟の属する「囲碁の世界」から落ちこぼれることに始まり、それからコロリコロリとゴルフボールのように転がって、なぜだか歴史学にすっぽり嵌ってしまったのでした。

・囲碁のわからぬ兄、囲碁のわかる弟 わたしは高尾紳路の兄ですが囲碁はうてません。知っているのはうろ覚えな基本ルールだけで(アタリとかコウとか)、まともにうったことはなく、うとうと思ったこともありません。よくひとから「お兄さんもうたれるんでしょう?」と聞かれますが、うたない理由をいうのが面倒なせいで、いつも曖昧な返事をして適当にお茶を濁すことにしています。
 わたしは紳路とは3つ違いの兄で、昭和49年(1974)の生まれです。わたしは幼い頃から体が弱く愚鈍の評もありました。学校ではどういうわけか忘れ物が多く、宿題はやらないしテストもできない、散々たるていでした。それで先生には叱られてばかりでよく懲罰をうけていたように記憶しています。いっぽう弟は勉強がよくできていたようです。
 父から囲碁を教わったのはたしか小学校低学年の頃だったように思います。テキストは日本棋院発行の「囲碁は楽しい」という本。しかし父のげんこつがあまりに多かったためか、楽しいと思ったことはなく、子ども心に「テキストはうそつきだ」と思ったものです(テキストに責任はありません)。だからテキスト名だけはいまでもよく覚えているわけです。
 わたしはまったく囲碁を理解せず、―げんこつが多くてアタマが壊れてしまったのかもしれません―、かえって弟の方が横からわたしよりも先に正解を指摘していました。「岡目(傍目)八目」といいますが、それよりもわたしには才能がなかったのでしょう。それで弟に気をよくした父はやがてわたしと弟とを一緒に教えはじめます。弟は囲碁を理解しない兄を出し抜くことで何がしかの満足を覚えていたようで、それが弟のやる気を高めていったのではないか。
 当時のわたしもそれに薄々は気づいていたものの、生来闘争心が薄く格別悔しいとは思いませんでした。結果弟に負けるに任せ、わたしはそれで囲碁を覚えようとする気力も失せて、その後2度と石を握ることはなかった。

・「しんねこ」こと高尾紳路 紳路は昭和51年(1976)年生まれ。彼は父によく似て囲碁と相性がよかったらしい。
 紳路はかわった子どもでした。囲碁以外の勝負事も好きで、負けん気がつよかった。トランプで負けても泣いておこっていました。わたしからみて何処がくやしいのかわからないけれど、とにかくムシャクシャするらしい。そんなとき白い顔のこめかみにうっすら青い筋がたっていた。武器は爪。幼い頃の彼は爪が薄くて引っ掻かれるととても痛かった。おこらせたらこれでガリガリやられる。だから家族は紳路を、

しんねこ

 と呼んでいました。
 とりわけ囲碁に勤勉でした。小学生のときは学校の宿題は学校で済ませ、家では囲碁の勉強に専念する。ランドセルをおろすとすぐに碁盤に向かっていました。江戸時代の棋譜を並べるのが好きで、誕生日プレゼント(クリスマス?)が『本因坊秀策全集』という本だった。和装仕立の美しい装幀の本で、小学生のプレゼントにしては途方もなく高価だったでしょう。こんな子ども何処探したっていやしません。江戸時代の棋譜だから、親から「廿」が二十、「卅」が三十であることを教えて貰って、ならべていました。それで将来自分が「本因坊」(第60期)になってしまった。
 おさない弟にも囲碁のお師匠さんがいました。田岡敬一さんというひとです。田岡さんは、高尾紳路をはじめ、三村智保さん・森田道博さんを発掘し育てたことで、死後に「名伯楽」とよばれたひとです。囲碁のアマチュア強豪で、囲碁の観戦記を書いたり、小説を書いたり、テレビのプロデューサーをやったりする、かわったおじいさんでした。子ども好きで、紳路めあてによく高尾家に遊びに来ていました。そのもとで随分しごかれたようです。
 田岡さんの死後、その3人ともが田岡さんの親友だった名誉棋聖藤沢秀行さんの門下に移籍します。その経緯は藤沢秀行さんの『勝負と芸』(岩波新書)だったかに載っている筈です。この藤沢秀行さんはたいへんな奇人ですが、ここでは割愛します。
 紳路は中学校2年生のときプロ棋士になっています。これら紳路の成長の記録は、彼の囲碁を覚えたころから、父が克明に書き留めてありますから、将来父が彼の伝記を書くときに貴重な史料になるでしょう。問題は父に文章上で人間紳路を浮き立たせる力量があるかどうかだけです。
 ちなみにいま世間では子どもに英才教育を施すのが流行りです。しかし英才教育というのは「英才のための教育」であって、「凡人を英才にするための教育」ではありません。(うちの子、ひょっとして…)という考えはやめましょう。子どもに無用なストレスをかけることはありません。

・わたしは歴史小説で空想、そして古文書… さて、いっぽうのわたしはというと、さっぱりうだつがあがらなかった。わたしの青春時代は濃い霧のなかにあります。
 父はわたしのことを「できが悪い」「失敗作だ」と、ほうぼうでこぼしていました。なるほど、学校の成績はよかったときも悪かったときもありますが、概ね低調、高校のときには成績はどん底まで落ち、落第しかかったことさえあって、親が高校に呼び出しをうけるというひとこまもありました。わたしの愚鈍さは教員の職員室でも話題になっていた。
 元来わたしは勝負ごとが嫌いで、野球やサッカーの観戦にも熱中することはありませんから、囲碁にも受験戦争にも不熱心でした。おまけに歴史小説などの読書で独り空想を膨らます癖があって、ぼんやりとした恍惚のうちに青春を過ごし、父に「病院へ入れ」などとよく怒られたものです。歴史というのは浮世とは切り離された離れ座敷のようなもので、空想のよい種だと思っていました。浮世の煩雑なことを忘れるため歴史はわたしにとっていい〝隠れ家〟だったのです。
 やっとのことで高校を卒業、一年浪人の後、立正大学史学科に何とか入学します。「何とか」というのは、この年の立正大学は受験制度の変更にともない、例年よりも偶々合格者を多く出し過ぎるというミスをやらかした。それでわたしも何とかその合格枠のなかに紛れ込むことができたのです。だから合格したと知ったとき、嬉しかったというより「夢じゃないか」と思った。父はというとわたしの大学入学に不満でした。もっと偏差値の高い大学をと考えていたのでしょう。しかしわたしは唯一得意だった歴史を勉強できるということで、それを大して気にもかけず、受験という煩わしい用事からの開放感をのんきに味わっているだけでした。
 この大学入学が転機になって、それから純粋に自分と向き合い出したように思います。生物学・物理学・化学・文学・社会学・経済学など、あらゆる分野の本を精読して(いまはもう多くを忘れてしまいましたがいい経験です)、その傍ら、本業の歴史学を勉強しました。特に面白かったのは、江戸時代の古文書の解読で、歴史小説とは違った次元で、わたしお得意の空想は広がって興味がもてた。偶然に入った立正大学ですが、古文書で著名な大学でしたのでよい環境でした。非力ながら、独り暗い洞窟で錐をもむような気持ちで、落ちこぼれのわたしはわたしなりに、将来を模索しようと考えていたのです。

・「兄弟は他人の始まり」? よく「兄弟は他人の始まり」といいますが、最初から見事に兄弟は「他人」で、恐らくほとんどの部分で違う性格を持っているのではないかと思います。ただいまにして思えば、ふつうのサラリーマンにならなかったところは共通していて、全く似ていなくもないような気がしています。
 また、父に関していえば、こうやって書いていると何か酷い父のようにみえますが、ちゃんと大学の学費などを出してくれました。そんな父もむかしと変わらぬ鬼瓦の貌のまま、ことしようやく還暦を迎えます。いまだに「はやくちゃんと就職せい」と口うるさいのですが、この口うるささがなくなったら、おそらく死期が近いということなのでしょう。還暦の祝いをやります。
 こんなわたしも、いまは結婚をし2児の父になり、あんなにいやだったお勉強が世の片隅においてもらえる唯一の術となった。そんな我が身の不思議さに首を傾げる毎日です。

(付記) 弟高尾紳路本因坊についてのご質問を頂いても、何もお答えすることはありません。書いたように、囲碁のことも知らないし、それにまつわる人間関係もよく知りません。囲碁ファンのかたの方が、むしろよくご存じの筈です。

| | コメント (8) | トラックバック (3)

2005/06/22

(子ども)身体髪膚これを父母に受く

 あまり浮き世のことは存ぜぬで暮らしてきたわたしも、子どもができると、身辺家事のことで忙殺され、かえって研究の世界から遠のくことが多くなりました。
 これではいけないと思うものの、子どもと一緒に遊んだ休日など、夕方になればぐったりで、すぐに寝入ってしまいます。

 昨日は仕事を休んで幼稚園の授業参観にゆきました。家庭ではみることのできない長男の横顔をみてきて、心底おもしろかった。
 自由時間では、みんながブランコや滑り台で遊んでいるのに、長男だけはダンゴムシをみつけようと、あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら、しゃがんで独り遊びに熱中している。しかし、格別寂しそうでもないし、友だちがいないわけでもなさそうで、彼の興味関心はよほどユニークにできあがっているらしい。
 授業がはじまったときも、みんながうたをうたって随分たつというのに、「ひよこ1組」のクラス部屋になかなか姿を現さない。どうしたことかと周囲をみまわすと、隣の部屋で長男がゆっくりと手をあらっているではないか。その後ろ姿は、慌てているふうでもない。浮き世のことはどうあれ、自分のペースを後生大事にしているようで、その様たるや、何ともいえずに可笑い。
 お遊戯でも、ひとりだけテンポがおくれるから、先生が長男につきっきりで、先生は侍女のように甲斐甲斐しくお世話をしてくれる。おどりの動きが複雑で嫌気がさしたのか、泣きそうでいると、すかさず先生がはげましてくれます。
 総じて、わたしの長男は変わり者であるらしい。そして、そんな長男の何から何までが、幼いときのわたしに酷似していて、親子はこれだけ似てしまうものなのかと、驚きを禁じ得なかったのです。たしかに「身体髪膚これを父母に受く」というから、当然といえば当然なのですが、かほどまでとは思わなかった。

 わたしのちいさな頃は、現在のように「個性」なとどいう物差しはありませんでした。教育といっても、徹底的に管理するだけで、先生も体罰をすることに平気だったし、子どもに対する発言もあまり気にしていませんでした。先生によって才能も人格も様々でしたが、まずは家畜の世話ができる力量さえあれば教師がつとまっているような気分でした。
 その証拠に、小学生のときのわたしは、鈍重だということで「ぶた」と先生から呼ばれていたし、親も先生から「将来ろくな人間に育ちません」と宣告されて、ショックをうけたこともあったようです(半分あたりましたが)。当時通っていた近所の英語塾の先生も哀れみの表情で、

 学校の授業わかる?

 とわたしに聞いてきました。「ううん、わからないよ」と答えると「そうなの」とだけ言い、あとはおし黙ってしまった。勉強ができないということは、ひとをお通夜ほどに暗い気持ちにさせるらしく、―その先生に失礼ですが―、子ども心にたいへん可笑しかった。
 そんなていたらくだったわたしの子どもが上等である筈もなく、今回の授業参観でそれをしっかりと確認してきました。「まあ、そんなもんだろう」と笑って妻に報告しました。
 そんな菲才なわたしであっても、有り難いことに、偶々わたしを必要としてくれる奇特な方々がこの世にあって、そのお陰様でなんとかご飯にありついているし、近頃は何でも個性と評価される結構な世の中になったらしいから、この先、長男も何とかなるのかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/06/09

(子ども)「お茶の水」の災難

 先日、「歴史学研究会」という名前の大きな学会を見学するため、ひさしぶりに3歳の長男をともなって遠出をしました。学会の場所は東京のお茶の水にある明治大学リバティ・タワー(東京都千代田区神田駿河台。地上23階・地下3階・高さ119mの巨大な大学校舎)です。
 むろん「見学」といっても、子ども連れの状態で学会報告をきけるわけがなく、出版社の出店くらいを「見学」するのが関の山で、とにかく長男とぶらぶらする口実として学会という場を使ったわけです。長男は電車が好きだし、明治大学リバティ・タワーは途方もなく高いから、子どもの目にも面白かろう、という考えもありました。その学会には臨時託児所もあるようでしたが、申し込みに事前連絡が必要で面倒くさいし、子どもを押し込めておいても意味がありません。

 何故だか知らないけれど、長男にはガラスに透けてみえるエレベータの昇降が面白いらしい。飽きもせず大人しくずっと見物しているから、その間にわたしはちょっと出版社の出店にならぶ新刊書をながめることができた。そうかと思うと、まじめに雑誌を読んでいる研究者にアッカンベエをしてまわり、げらげら笑って喜んでいる(被害にあわれた方、申し訳ございません)。
 ただ、学会であったみなさんも子どもがたいそう珍しかったらしく、随分かわいがってくださいました(ありがとうございました)。長男にとっても学会は物珍しかったらしく、始終上機嫌でした。いい社会勉強にもなりました。

 ところが帰りの電車がいけなかった。通常より多く駅をとばす特別快速電車にのって、「これではやく帰れるぞ」と安心してくつろいでいたところ、長男が地獄の一言。

 おしっこ…

 おしっこ? あれま、彼は目に涙を浮かべて尿意を訴えているではないか。きょう一日、何度も彼の大便・小便に気をつけていたつもりでしたが、昼間にお茶を多く飲ませたのがいけなかったらしい。車内にトイレはないし、特別快速だからしばらく駅にはとまらない。本人は絶体絶命ですが、車内は大笑いです。

 がんばれ、坊や

 と、周囲のおばさん・おねえちゃんに励まされながら彼は必死にこらえた。そしてようやくついた駅のトイレに長男を担ぎ込むと、急いでパンツを脱がせて、何とか用事を済ませることができました。よかった、よかった。
 とめどもなく流れるおしっこの色は、面白いくらいに黄色くて、昼間にのませたお茶がそのまま出てきたようでした。
 とんだ「お茶の水」の災難でした。
 そのあとは長男と歌をうたいながら帰りました。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/08

(無名人の歴史)曾祖父小学校教員加藤退祐、青雲の志を抱く

 大学浪人時代、明治・大正期の本をよくよみました。なかでも赤穂浪士関係の本は面白く、47士の姓・通称・諱などを暗誦するほどでした(勿論もう忘れてしまいましたが)。信夫恕軒『赤穂義士実談』・福本日南『元禄快挙録』です。
 わたしの母方の曾祖父、三重県三重郡三重村生桑の地主の息、加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)は小学校訓導をつとめ読書家でした。専門は地理歴史科。わたしは彼の所蔵本を愛読したのです。

 『元禄快挙禄』は岩波文庫に入っていますから(青159-1、1998)容易に入手できます。曾祖父の明治時代本を大切に保存するため、先日、あらたに岩波文庫版の『元禄快挙禄』を入手しました。浪人時代を思い出しながら頁をめくりました。とても懐かしかった。『赤穂義士実談』は『元禄快挙録』ほど有名な本ではありません。しかし講談をそのまま筆写したものらしく、その意味で興味深い本です。語り口の歯切れよさ・軽妙さに感心しました。いま手に入るのでしょうか。古本屋にいけばあるかもしれません。
 これらでわたしは旧漢字・旧仮名遣いに慣れ親しみました。顔もみたことがない曾祖父と同様に、日本史を専らに勉強しているのは何かの縁でしょう。

 先日母方の実家に祖母の法事に行って参りました。そのとき曾祖父退祐の蔵書目録をみつけました。
 それには蔵書の値段や入手年などが記されており、入手年は大正3年頃が最新でしょうか。記録されている本は約500冊です(これらの大半は加藤家に現存しておらず、図書館に寄贈してあります)。
 蔵書目録には「読書論」という巻頭言がついています。これを読むことによって、曾祖父の読書に対する想いを知ることができます。彼は結核を煩い満31歳でこの世を去るわけですが、存命中は明治人らしい青雲の志をもっていたことがわかりました。「読書論」の内容は、我が家の秘密といいたいところなのですが、明治・大正期における村のインテリ層の志向がわかる好史料なので、みなさんにご紹介致します。曾祖父の蔵書で勉強したわたしにとってはとりわけ貴重な史料です。

   読書論
身ハ一室ニアリテ内外ノ事情ニ通ジ古今ノ英雄ニ接シ得ルハ読書ニアラズヤ、世人読書ヲ以テ人生最大且ツ高貴ナル楽トナス、故ナキニアラズ、
河水流レテヤマズ、日月シバラクモ休マズ、世ハ浸々トシテ文明ニ進ム、今日我等ハ世ト歩ヲ共ニセント欲シテ、タマタマコヽニ激甚ナル生存競争ヲ現出シヌ、ソノ勝利者トシテ名誉ヲニナヒ月桂冠ノ捧ゲウル身ヲ誰カ望マザラン、アヽ我等ノ理想コソ其ノ勝利者ニアラズヤ、而ラバ勝利者タルハ天授ナルカ、否々、真実ノ誠アルニ外ナラズ、人ト生レテ誠ヲ有セザルナシ、誠ハ実ニ諸徳ノ根底ニシテ、忠トイヒ孝トイヒ、其他一トシテ誠ノ変形ナラザルハナシ、依テ修養鍛錬如何ニヨリテ玉トモ甍トモナル、古人曰ク「丈夫玉砕ストモ甍全ヲ恥ズ」ト、而ハ世ハ変レドモ、誠ハ千古不変ナリ、豈男子タルモノ誠ヲ理想ノマトニ掲ゲ邁進セザルベケンヤ、邁進々々、聞クダニ勇マシキ語ニアラズヤ、而レドモ顧ミヨ、戦闘準備確実ナラザル邁進ハ邁進ニアラズ、盲進ナリ、スベカラク盲進ハ排セヨ、而シテ準備ヲ整ヘ余裕綽々イザ鎌倉トキカバ、駿馬ニ鞭ケ功名一番槍何ゾ難カラン、コレ所謂邁進ナリ、
コノ準備コソ読書ニアリ、他ニ求ムルヲ得ズ、刻苦勉励不断ノ努力ヲ以テ常ニ書ニ親シマンカ、必ス誠ハ其内ニ萌芽シ、必ズ成功ノ彼岸ニ達スルヲ得ン、

   蔵書目録ニツイテ
年ト共ニ蔵書増加シテ誠ニ記憶ニ苦シム、ヨツテコヽニ蔵書目録ヲ編シ、数多ノ部類ニ分チ、蔵書ノ整理ヲナス

   部類一覧
一修身部(9項目) 二教育部(25項目) 三国文部(65項目) 四書方部(5項目) 五小説部(24項目) 六漢文部(23項目) 七数学部(23項目) 八歴史部(25項目) 九伝記部(25項目) 一〇地理部(36項目) 一一語学部(59項目) 一二博物部(21項目) 一三理化部(13項目) 一四政法部(6項目) 一五商業部(22項目) 一六経済部(5項目) 一七工業部(12項目) 一八農業部(10項目) 一九図画部(14項目) 二〇手芸部(1項目) 二一体育部(11項目) 二二辞書部(21項目) 二三修養部(26項目) 二四楽典部(13項目) 二五雑誌部(23項目) (計517項目) (括弧内は高尾の注記)

 以下は曾孫である小生の意訳文です。

   読書論
 部屋に居ながらにして、内外の事情に通じ、古今の英雄と接することができる方法こそ、読書ではないだろうか。世の人は読書をもって人生最大かつ高貴な楽しみとしてきた。理由なきことではない。
 河の水は流れてやまず、太陽や月はしばらくも休むことはない。世はますます文明社会となった。今日の我等は世の中と歩みをあわせようとして、たまたまここに激甚なる生存競争社会を現出した。その勝利者として、名誉を担って月桂冠を捧げ得る身を、誰もが望むことだろう。ああ、我等の理想こそはその勝利者となることである。
 それでは、その勝利者となるのは単なる天の恵みの結果かといえばそうではない。それは真実の「誠」の結果にほかならない。ひととして生まれて「誠」をもたない者はいない。「誠」は実に諸徳の根元であって、忠といい孝といい、そのほかひとつとして「誠」の変形でないものはない。したがって「誠」の修養・鍛錬の成果いかんによって、人間の質が玉ともなるし甍ともなる。いにしえのひとは「丈夫玉砕すとも甍全を恥ず」という。だから世は変わっても「誠」は千古不変である。男子たる者はその「誠」の理想を目標にして邁進しなければならない。邁進、邁進……、聞くだに勇ましい言葉ではないか。しかし顧みよ、戦闘準備の確実ではない「邁進」は、邁進でなく単なる盲進にすぎない。すべからく盲進は排しなければならない。それで、もしも準備を整えて余裕綽々という状態であれば、「いざ鎌倉」と聞いて駿馬に鞭うち、功名一番槍の勲功をあげるのも、そう難しいことではないだろう。これがいわゆる「邁進」ということでなのである。
 この準備こそが読書である。他に手段を求めることはできない。刻苦勉励のたゆまぬ努力をもって、常に書に親しめば、必ずや「誠」はその身の内に芽ばえ、成功の岸に達することができるだろう。

   蔵書目録について
年とともに蔵書が増加してまことに記憶に苦しむことになった。よってここに蔵書目録を編んで、あまたの部類に分かち、蔵書の整理をした。

 彼はこの青雲の志を抱いたまま、若くして生涯を閉じますが、この蔵書目録は残りました。これを今後分析してどこかで史料紹介できればと思っています。

(付記)曾祖父加藤退祐のくわしい履歴書もみつかりました。それによると高等小学校訓導とあり中学校教員は誤りだったことがわかりました(三重県三重郡海蔵尋常高等小学校訓導・三重県三重郡神前尋常高等小学校訓導・三重県三重郡神前村立農業補習学校訓導などを歴任)。ほかにも新たにわかったことがあり、それらと適合するようにいままでの記事を訂正しておきました(祖母のふるい聞き取りなどに頼っていたため間違いが多かったのです)。なお履歴書によれば、退祐の生まれたのは明治26年(1893)5月8日で、奇しくも今日です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/03

(恐れながら)100年前のテスト答案、曾孫が採点

 わたしの母方の曾祖父、三重県三重郡三重村生桑の地主の息子加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)は小学校訓導でした。結核を煩い満31歳でこの世を去りました。この退祐が生徒時代に記したテスト答案用紙が加藤家の蔵の中に残っていました。みつけたときは吃驚りでした。
 曾祖父の100年前のテスト答案をみているとなんだか不思議な感じがします。答案の中の曾祖父はわたしよりはるかに年下なのです(!)。予科2年とは四日市商業学校予科2年生のことで15歳になります。明治41年(1908)。退祐公には失礼ながら不肖の曾孫善希がこれを批評し奉らんと存じます。なんだかわたしの方が緊張します。

 さて答案は「山吹」と「我が元旦」の2枚です。重複する無用な表現があるところなどに、多少の未熟さを感じるものの、構成としてはよくまとまっています。
 「山吹」は現代と同じ言文一致体(「である」調)で、「我が元旦」は文語体(「なり・たり」調)で書かれています。当時の学校では両様の書き方を習ったようです。教師側の評価は朱筆でもって「山吹」に「能し」(よし)、「我か元旦」に「善し」(よし)とあります。どちらもまず合格だったようです。

 まず「山吹」。引用されている「七重八重」という歌は「後拾遺和歌集」にあるもので、太田道灌の故事でも有名です(太田道灌の故事は当時の教科書に載っていたものでしょうか)。むかし「山吹は実を結ばない」という俗信があったことの証拠として、効果的に引用しています。

   山吹 予科第二学年甲 加藤退祐
山吹の花は夏の始めに開き、葉は深緑色で花は黄金色である。この黄金色の花と深緑色の葉との配合色がいかにも華美で、下品といふ人もあれど、そこになんとなく赴き(「趣き」の誤字)があるように思はれる。山吹の実を結ぶといふことは、博物の本にかいてあるが、諸種の本を見れば、実を結ぶとも結ばないともかいてある。古き歌に「七重八重 花はさけども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき」といふ歌もある。この歌によれば実(は)ないようである。しかし植物の本にはまさかうそはかくまい。それで実を結ぶに相違あるまい。古人は自分が見ないから、実を結ばぬものと心得違いをしたのであらう。そうはいふものゝ、われもまだ実を見ないから、たしかな判断はできないのである。
(句読点・括弧等はわたしが補った。旧漢字は新漢字に直した。)

 「我が元旦」。元旦の雰囲気がよく出ています。元旦一日の気象の転変が、まるで一年間の転変を象徴しているかのようです。締めの言葉「まちにまちたる元日も夢の間に過ぎたり」という文句が明治人らしい。また「ころころ」「ばらばら」という擬声音語が多用されているところは一見幼くみえますが、明治時代の文章に一般的にみられる傾向でした(前田愛『近代読者の成立』<岩波現代文庫、2001>)。

   我が元旦 予科第二学年甲組 加藤退祐
新玉の、年たちかへりてさしのぼる、朝日のかげうらゝかに、戸毎にたてた日の御旗を、そよく風に翻へり、老も若きも満面に、あふるゝばかりの笑をふくむ。早朝より雪は降り出して、身を切るばかりの北風は、細い悲い声をして、雨戸へあたる雪の音は、物凄く聞ゆ。外套(コート)にて全身を覆ひて、一人の友と共に拙宅を出発し、此烈風と戦ひて遂に当校に着し、新年拝賀式をゝへて帰らむとす。雪はますますはげしく降りて、面をも向けがたし。はや積雪五・六寸に及びて歩行に困難し、漸くにして帰宅せり。午後風なぎたれば、小供は竹馬に乗つて走り、小犬はころころ転びまはり、雀がそこらの枝で羽叩きする度毎に、ばらばら、ばらばら、其の花の散るのもおもしろし。午前は粉雪、午後は綿雪、終日間断なく降りたり。まちにまちたる元日も、夢の間に過ぎたり。
(句読点・括弧等はわたしが補った。旧漢字は新漢字に直した。)

 音読してみると気持ちよく、文章のリズムによく配慮してあることがわかります。やはり昔のひとは文章を音読したのではないかと思います。今のわたしにこんな文章を作れといわれても、「うーん」というところでしょう。曾祖父退祐公はすごい。脱帽でございます。採点なんてとてもとても。曾祖父退祐公に両方とも100点を奉ります。曾孫は恐れ入りました。

(付記)このテスト答案の公表の是非をめぐってわたしの母親(退祐孫)と相談しました。「もう加藤の家も断絶したし100年前のことだから差し支えなし」という結論になりました。曾祖父にあったひともこの世にもういないかもしれません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/31

(享年満31歳)曾祖父のハンガー・ストライキ

 親戚には理系が多いのですが、むかし小学校訓導の職にあり、わたしと同じく日本史を専攻していたひとがいます(ただし当時は日本史とはいわず国史といっていました)。母方の曾祖父で三重県三重郡三重村生桑の地主の息子、加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)です。
 この退祐の祖父も津藩家中に学問を教えたり、維新後は村の学校にオルガンを仕入れさせたりした人物でした。

 父林三郎は息子に自由民権の神様板垣退助に因んだ「退祐」(憚って「助」を「祐」にした)という名をつけたくせに、学問に理解がなく、所謂「精農」タイプのひとでした。大きな地主でしたが、懸命に働いて手の節の皺がきれいになくなってしまったといいます。だから息子退祐の「師範学校に進みたい」という希望に、林三郎は忌々しげに「百姓に学問はいらん」というばかりでした。
 それに腹をたてた退祐は「飯なんかいらん」と屋敷の蔵に籠もってしまう。いまでいうところのハンガー・ストライキです。退祐は何日も蔵の中に閉じこもって出てこない。退祐に同情的な母のよねは、林三郎には内緒で、蔵にいる退祐に食事を差し入れていたそうです。林三郎は察していたのでしょうが、知らぬふりをしていました。
 そのうち「しょうがない」と林三郎は根負けして、退祐の師範学校進学を許したのでした。

 やがて退祐は三重県師範学校に進みます。ときどき東京の師範学校に研修に出かけ、帰ってきたとき「おとうちゃん、東京で本を買ってきた」と林三郎に一冊の本を手渡します。尾崎紅葉「金色夜叉」。林三郎はこれをみてなぜか「これが東京の本か、退祐がすごい本を買ってきた」とたいへん有り難がった。退祐は「毎日これをみんなに読み聞かせる」と夕方になるとちょっとした読書会が始まりました。今でいうところの「連続ドラマ」でしょうか。
 おそらく退祐は声色を使いながら、父母や小作人に「金色夜叉」を読んで聞かせたのでしょう(ちなみに明治期の読書は家庭の中で誰かが読んで聞かせるという形態が珍しくないようです。前田愛『近代読者の成立』<岩波現代文庫、2001>より)。

 教員免許をとった退祐は近所の小学校に赴任します。趣味はボートとトランペット。ボートには沢山のお金が要用だったようで、林三郎への無心の手紙が残っています。
 しかし惜しい哉、教員共用の茶碗から結核菌が感染して風邪を併発、あっという間に満31歳の短い生涯を閉じます。息子の進路に反対だった林三郎は、この息子の悲しい結末にどのような感慨をもったのでしょう。あとには退祐の妻(わたしの曾祖母)と遺児の幼いちづ子(わたしの祖母)が残されました。
 退祐の遺言は、

ちづ子に学問を

 ということでした。これからは女性といえども学問が必要だ。退祐は学問にこだわりました。ちづ子は結局大学にも専門学校にも進学しませんでしたが、娘3人(末娘=わたしの母)に高等教育をうけさせます。退祐の遺言が背景にあったそうです。
 さて、死ぬときの退祐には不思議な話があります。病床にある筈の退祐が元気に歩いているのを目撃したひとがいます。また、訃報を知らせていない筈のひとが退祐の葬式にやってきて、「夢で退祐さんがお別れを言いにきた」といっています。何れも怪談じみた譚ですが、それほどこの世に未練があったのでしょう。

 かつて退祐がハンガー・ストライキをした蔵の横に、ひとつの家屋があります。そこには沢山の書籍が詰まっています。かつて退祐が愛読した本たちです。多くを図書館に寄付してしまいましたが、退祐が買ってきた「金色夜叉」などが残っています。それをみていると何となく人間の情念みたいなものが伝わってくるような気がします。
 わたしの従姉妹が青山学院大学国文科に進んだとき、この書籍群の一冊を大学の先生にみせました。すると「なんでこんな本を持っているの?」と訊かれたそうです。わたしも退祐の本で旧仮名遣いなどを勉強し歴史のみちに進みます。曾祖父には一度もお会いしたことがありませんが、しみじみ宿命的なものを感じています。

(付記)昨年加藤退祐の娘加藤ちづ子(わたしの祖母)は83歳で永眠しました。これによって加藤家は断絶しました。加藤家の明治期建築(おそらく明治10年以前の築でしょう)の屋敷は毀されずに残されます。退祐の曾孫たちはわたしを含めて6人います。ひひ孫4人。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/03/23

(息子)おとうさんのうそ

 ぼくのおとうさんは「たかおよしき」っていうんだ。歴史研究人(れきしけんきゅうにん)っていうのをやっているらしい。
 ぼくが寝ている朝早くに会社(?)に出かけ、ぼくが寝てしまっている夜に帰ってくる。なんだかオバケみたいなんだ。だからあんまり「いってらっしゃい」「おかえりなさい」をいったことはない。休みの日もお昼からお仕事。まるでゼンマイじかけのオモチャみたい。たまたま家にいるときも、
「おれは忙しいんだ」
 っていつも部屋で探し物。おかあさんは「整理がわるいだけネ」といっている。
 おとうさんは「おれは整理がよければ今ごろは大学者だ」「おれの部屋にはすごい史料がある、しかし何処にあるのかわからない」って威張っているけどそんなの自慢になるの?

 おとうさんは相当なうそつきらしい。
 このあいだ夕飯のとき、おばあちゃんが「ヨシキさん××って何?」とおとうさんに聞いた。するとおとうさんは得意気に「ああ、××とは△△ですね」と説明する。
 するとおかあさんは新聞なんかを取り出してきて「それ、違うわよ」っていうんだ。おとうさんは缶の穴みたいにくちをポカンとさせてから、ちょっと照れ笑いして「あれ、すみません」とおばあちゃんにぺこりと謝る。
 おかあさんは「あんた馬鹿なんだから、そとであんまりベラベラ喋らない方がいいわ」って助言するんだ。でもおとうさんは「俺が喋らなかったら商売あがったりだ」ってションボリ。「歴史講座」で2時間も喋らなきゃいけないんだって。2時間も間違いだらけの話をするんだろうか? それはそれですごい才能だ。

 そういえば、ドライブのとき「雲はなんでできてるの?」っておとうさんに聞いたら、おとうさんはくそ真面目な顔で、
「綿飴」
 っていうんだ。おかあさんは「ちゃんと説明してあげなさいよ」っておとうさんにいうけど、おとうさんは「綿飴だ」って頑として譲らない。
「綿飴の上には鬼がいて、太鼓を叩いてカミナリを出して悪い子のヘソをとる。それにおとうさんは雲を食べたことがある。確かに甘かった」
「どうやって食べたの?」
「神社のお祭りの出店で食べた」

 そもそもぼくには歴史研究人っていうのがよくわからない。ひょっとして何かいけない仕事でもしているんじゃないか。
 お風呂に入っているとき、ぼくは思い切って、おとうさんに「お仕事って何やっているの?」って聞いてみたんだ。
 すると「夢を売ってる」と答えてくれた。「夢って何?」って聞いたら「歴史っていうのはね」っていろいろ答えてくれたけど、よくわかんなかった。もしかしたらいつものうそかもしれない。

 それでもこの間おとうさんは、お仕事の帰りぼくの大好きな電車を買ってきてくれた。小田急の新しいロマンスカーのNゲージ。とってもうれしかった。おとうさんは、
「限定品だぞ」
「2000円もしたんだ」
「俺のお小遣いから出したよ」
 という3つを何度も繰り返す。するとおかあさんは「あら恩着せがましいのね」。
 どうやらこれはうその話じゃないらしい。

(付記)……あれほどパソコンに触るなっていったのに。悪戯書きしやがって。(父より)

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2004/10/22

(思い出)祖母と勉強机

 先日、三重県にいる母方の祖母が、83歳で亡くなりました。幼い頃からよく可愛がってもらいましたので、思い出も多くあります。
 なかでも、わたしが小学校1年生のころ、祖母から勉強机を買ってもらった思い出があります。わたしの世代のイメージする勉強机といえば、大きくて、流行のアニメ・キャラクターの絵があって、成長にあわせて机や椅子が上下し、ひきだしが幾つも付いている、デラックスな机でしょう。おそらく、いまの子どもたちも、そんな勉強机を思い浮かべるにちがいありません。高度経済成長後の豊かさが詰まった、過保護な机といえます。
 ……ところが、祖母が買ってきた勉強机は、驚くほど小さな木製の机でした。機能といえば、短い4つの足が折り畳めるだけです。すっかりデラックスな勉強机を買ってもらえると期待していた当時のわたしは、その机をみてガッカリ、大泣きしました。もっとも、両親にあとで、ちゃんとデラックスな机を買ってもらったのですが。

 さて、祖母の葬式の当日。博物館の講演の仕事が入っていたため、残念ながら途中で式を抜け出して、新幹線で東京に帰らねばなりませんでした。その講演の演題は「庶民の識字」でした。そこで用意したテキストには、寺子屋の絵を載せてあります。その絵の子どもたちがむかう勉強机は、わたしがむかし祖母に買ってもらった、小さな勉強机にそっくりなのです。なるほど、祖母の世代からしてみれば、勉強机といえば、寺子屋でつかうような、素朴で小さな机にきまっているのでしょう。
 これは、新幹線の中でテキストを眺めながら、思い出した出来事です。なにやら、祖母の思い出と因縁めいているようにも思えました。それにしても、あの祖母に買ってもらった勉強机は、どこへいってしまったのやら。もう捨ててしまったのか、それとも何処かにしまってあるのか、よく思い出せません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)