(思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路―
きょうはわたしの生い立ちについて、家族のことも絡めながら少々書いてみたいと思います。しかしきわめて私事に属することですから、おそらくひとさまに何の感興もおこさないでしょう。また平凡な生い立ちですから、とくにお話することはありません。
しかし少々かわった環境で育ちましたから、それについてお話する価値は若干あるかもしれません。そんなわけできょうはわたしのつまらない私事で埋めます。
・「囲碁一家」? わたしのうまれ育った家は父・母・わたし・わたしの弟の4人暮らし。千葉県千葉市にある平凡なサラリーマン家庭ですが、囲碁を中心にまわっていた家でした。実際「囲碁一家」というねたで雑誌の取材を受けたことがあります。ただ母とわたしのふたりは囲碁をうちませんから、「囲碁一家」は〝そと向け〟にやや誇張された表現だといえます。
父とわたしの弟のふたりはとても囲碁に熱心でした。
父は有段者でわかい頃は碁会所通いばかりしていました。大学時代は囲碁のおかげであやうく単位を落とし損ねたらしい。家庭でも囲碁をうちたくて、気まぐれにわたしの弟に囲碁を教え込んでしまった。
弟の高尾紳路は、「熱心」というもおろか、囲碁棋士として囲碁でめしを食っています。かれは最近テレビ・新聞・雑誌などによく出てきますからご存じの方も多いことでしょう。かれの履歴に関しては、囲碁の世界に疎いわたしよりも、むしろ囲碁ファンの方々のほうがずっとご存じでしょう。わたしの研究仲間でも、わたしの弟が誰なのかを知っているひとはそう多くありません。
女性である母は格別、我が家の男性陣の中で、この囲碁好きの父・弟ふたりと、そうでないわたしとでは、同じ家族のうちであるのに象ときりんくらいに人種が違う。囲碁ばかりではなく、父・弟が理系的で勝負事好き、わたしは文系的で勝負事がきらい、などなど。これは不思議なことです。
わたしの人生はこの父・弟の属する「囲碁の世界」から落ちこぼれることに始まり、それからコロリコロリとゴルフボールのように転がって、なぜだか歴史学にすっぽり嵌ってしまったのでした。
・囲碁のわからぬ兄、囲碁のわかる弟 わたしは高尾紳路の兄ですが囲碁はうてません。知っているのはうろ覚えな基本ルールだけで(アタリとかコウとか)、まともにうったことはなく、うとうと思ったこともありません。よくひとから「お兄さんもうたれるんでしょう?」と聞かれますが、うたない理由をいうのが面倒なせいで、いつも曖昧な返事をして適当にお茶を濁すことにしています。
わたしは紳路とは3つ違いの兄で、昭和49年(1974)の生まれです。わたしは幼い頃から体が弱く愚鈍の評もありました。学校ではどういうわけか忘れ物が多く、宿題はやらないしテストもできない、散々たるていでした。それで先生には叱られてばかりでよく懲罰をうけていたように記憶しています。いっぽう弟は勉強がよくできていたようです。
父から囲碁を教わったのはたしか小学校低学年の頃だったように思います。テキストは日本棋院発行の「囲碁は楽しい」という本。しかし父のげんこつがあまりに多かったためか、楽しいと思ったことはなく、子ども心に「テキストはうそつきだ」と思ったものです(テキストに責任はありません)。だからテキスト名だけはいまでもよく覚えているわけです。
わたしはまったく囲碁を理解せず、―げんこつが多くてアタマが壊れてしまったのかもしれません―、かえって弟の方が横からわたしよりも先に正解を指摘していました。「岡目(傍目)八目」といいますが、それよりもわたしには才能がなかったのでしょう。それで弟に気をよくした父はやがてわたしと弟とを一緒に教えはじめます。弟は囲碁を理解しない兄を出し抜くことで何がしかの満足を覚えていたようで、それが弟のやる気を高めていったのではないか。
当時のわたしもそれに薄々は気づいていたものの、生来闘争心が薄く格別悔しいとは思いませんでした。結果弟に負けるに任せ、わたしはそれで囲碁を覚えようとする気力も失せて、その後2度と石を握ることはなかった。
・「しんねこ」こと高尾紳路 紳路は昭和51年(1976)年生まれ。彼は父によく似て囲碁と相性がよかったらしい。
紳路はかわった子どもでした。囲碁以外の勝負事も好きで、負けん気がつよかった。トランプで負けても泣いておこっていました。わたしからみて何処がくやしいのかわからないけれど、とにかくムシャクシャするらしい。そんなとき白い顔のこめかみにうっすら青い筋がたっていた。武器は爪。幼い頃の彼は爪が薄くて引っ掻かれるととても痛かった。おこらせたらこれでガリガリやられる。だから家族は紳路を、
しんねこ
と呼んでいました。
とりわけ囲碁に勤勉でした。小学生のときは学校の宿題は学校で済ませ、家では囲碁の勉強に専念する。ランドセルをおろすとすぐに碁盤に向かっていました。江戸時代の棋譜を並べるのが好きで、誕生日プレゼント(クリスマス?)が『本因坊秀策全集』という本だった。和装仕立の美しい装幀の本で、小学生のプレゼントにしては途方もなく高価だったでしょう。こんな子ども何処探したっていやしません。江戸時代の棋譜だから、親から「廿」が二十、「卅」が三十であることを教えて貰って、ならべていました。それで将来自分が「本因坊」(第60期)になってしまった。
おさない弟にも囲碁のお師匠さんがいました。田岡敬一さんというひとです。田岡さんは、高尾紳路をはじめ、三村智保さん・森田道博さんを発掘し育てたことで、死後に「名伯楽」とよばれたひとです。囲碁のアマチュア強豪で、囲碁の観戦記を書いたり、小説を書いたり、テレビのプロデューサーをやったりする、かわったおじいさんでした。子ども好きで、紳路めあてによく高尾家に遊びに来ていました。そのもとで随分しごかれたようです。
田岡さんの死後、その3人ともが田岡さんの親友だった名誉棋聖藤沢秀行さんの門下に移籍します。その経緯は藤沢秀行さんの『勝負と芸』(岩波新書)だったかに載っている筈です。この藤沢秀行さんはたいへんな奇人ですが、ここでは割愛します。
紳路は中学校2年生のときプロ棋士になっています。これら紳路の成長の記録は、彼の囲碁を覚えたころから、父が克明に書き留めてありますから、将来父が彼の伝記を書くときに貴重な史料になるでしょう。問題は父に文章上で人間紳路を浮き立たせる力量があるかどうかだけです。
ちなみにいま世間では子どもに英才教育を施すのが流行りです。しかし英才教育というのは「英才のための教育」であって、「凡人を英才にするための教育」ではありません。(うちの子、ひょっとして…)という考えはやめましょう。子どもに無用なストレスをかけることはありません。
・わたしは歴史小説で空想、そして古文書… さて、いっぽうのわたしはというと、さっぱりうだつがあがらなかった。わたしの青春時代は濃い霧のなかにあります。
父はわたしのことを「できが悪い」「失敗作だ」と、ほうぼうでこぼしていました。なるほど、学校の成績はよかったときも悪かったときもありますが、概ね低調、高校のときには成績はどん底まで落ち、落第しかかったことさえあって、親が高校に呼び出しをうけるというひとこまもありました。わたしの愚鈍さは教員の職員室でも話題になっていた。
元来わたしは勝負ごとが嫌いで、野球やサッカーの観戦にも熱中することはありませんから、囲碁にも受験戦争にも不熱心でした。おまけに歴史小説などの読書で独り空想を膨らます癖があって、ぼんやりとした恍惚のうちに青春を過ごし、父に「病院へ入れ」などとよく怒られたものです。歴史というのは浮世とは切り離された離れ座敷のようなもので、空想のよい種だと思っていました。浮世の煩雑なことを忘れるため歴史はわたしにとっていい〝隠れ家〟だったのです。
やっとのことで高校を卒業、一年浪人の後、立正大学史学科に何とか入学します。「何とか」というのは、この年の立正大学は受験制度の変更にともない、例年よりも偶々合格者を多く出し過ぎるというミスをやらかした。それでわたしも何とかその合格枠のなかに紛れ込むことができたのです。だから合格したと知ったとき、嬉しかったというより「夢じゃないか」と思った。父はというとわたしの大学入学に不満でした。もっと偏差値の高い大学をと考えていたのでしょう。しかしわたしは唯一得意だった歴史を勉強できるということで、それを大して気にもかけず、受験という煩わしい用事からの開放感をのんきに味わっているだけでした。
この大学入学が転機になって、それから純粋に自分と向き合い出したように思います。生物学・物理学・化学・文学・社会学・経済学など、あらゆる分野の本を精読して(いまはもう多くを忘れてしまいましたがいい経験です)、その傍ら、本業の歴史学を勉強しました。特に面白かったのは、江戸時代の古文書の解読で、歴史小説とは違った次元で、わたしお得意の空想は広がって興味がもてた。偶然に入った立正大学ですが、古文書で著名な大学でしたのでよい環境でした。非力ながら、独り暗い洞窟で錐をもむような気持ちで、落ちこぼれのわたしはわたしなりに、将来を模索しようと考えていたのです。
・「兄弟は他人の始まり」? よく「兄弟は他人の始まり」といいますが、最初から見事に兄弟は「他人」で、恐らくほとんどの部分で違う性格を持っているのではないかと思います。ただいまにして思えば、ふつうのサラリーマンにならなかったところは共通していて、全く似ていなくもないような気がしています。
また、父に関していえば、こうやって書いていると何か酷い父のようにみえますが、ちゃんと大学の学費などを出してくれました。そんな父もむかしと変わらぬ鬼瓦の貌のまま、ことしようやく還暦を迎えます。いまだに「はやくちゃんと就職せい」と口うるさいのですが、この口うるささがなくなったら、おそらく死期が近いということなのでしょう。還暦の祝いをやります。
こんなわたしも、いまは結婚をし2児の父になり、あんなにいやだったお勉強が世の片隅においてもらえる唯一の術となった。そんな我が身の不思議さに首を傾げる毎日です。
(付記) 弟高尾紳路本因坊についてのご質問を頂いても、何もお答えすることはありません。書いたように、囲碁のことも知らないし、それにまつわる人間関係もよく知りません。囲碁ファンのかたの方が、むしろよくご存じの筈です。
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