2005/07/28

(古文書入門⑦)昨今古文書講座事情

・中高年組の古文書学習 わたしは古文書講座の講師をやってだいぶ長いのですが(大学院生時代からですから7~8年でしょうか)、受講いただく方々は所謂「団塊の世代」以上です。最近は若い方もちらほらみえますが、おおむね中高年組です。
 わたしが「昭和49年(1974)生まれだ」というとたいてい驚かれます。壇に登っている先生と机に座っている受講生で、年齢は後者のほうが圧倒的に上である。この逆転現象は学校教育にはあまりみられません。「失礼ながら、どうも生徒であるみなさんのほうが、江戸時代に近いようで」と頭を掻くとどっと笑う。滑稽な風景です。当方が「むかしは数え年ですから」というと、あちらは「そりゃそうですよ」というし、当方が「むかしは路にアスファルトなんてありません」というと、あちらは「そういえばそうでございましたね」と頷く。これにはもうかないません。
 たしかに懇意にして頂いている北原進先生(元・江戸東京博物館都市歴史研究室長)も「わたしだって高尾くんみたいな若い時分に、講義で日露戦争の話をしたとき、受講生に出役したひとがいて」と仰って苦笑なさっていたから、だいたいいつの時代も似たような現象があるのかもしれません。であるにしても、ここ戦後60年の社会の変わりようはどうでしょう。時の流れに緩急のむらがあるとして、戦後から現代の時の流れは途方もない急であって、この先生と受講生のあいだの断絶はどうにも埋めようがありません。

・人生経験の重み そんな受講生の方々は自分というものをしっかりともっていらっしゃる。
 たとえばわたしが「これこれという字典がいいですよ」とお薦めしても「いや、わたしはこれを使う」と頑固に仰る。それはそれで結構なことで、その〝信念〟の固さに驚かされます。むろんわたしにもお薦めする合理的な根拠があるわけですが、60年以上生きてきた人生自体もしっかりとした根拠です。〝ながく生きた〟という事実自体におおきな説得力があって「わたしはこれを」と仰るときに人生経験の重みを感じます。
 そういう人間のおもしろさを感じることができるのも古文書講座講師の余禄といえるでしょう。

・おかあさん方はすごい さて受講いただく方々の中をみわたすと、男性と女性とでは顕著なちがいがあって、意欲的な反応をしめすのは圧倒的に女性です。
 この女性の方々、―わたしの母親の年齢層以上の方が多いので「おかあさん」とよびますが―、おかあさん方はわからないなら「わからない」と仰るし、感心するなら正直に声をあげて感心する。わたしがすこし意外なことを発言すれば、おかあさん方はわたしに「うそォ」と声をかける。わたしも負けじと苦笑して「それはですネ」と答える。これは聴衆100人くらいいても同じです。
 このように黙って聞かれるよりもわかりやすく反応して頂ければ、話しているこちらも幾分か楽なのです。あまりやられると閉口しますが時々なら大歓迎です。この反応をするということはもの学びにとってとても重要な要素です。古文書に限った話ではありません。
 世のおしゃべり好きのおかあさん方は「今更もの学びなんて」と仰るかもしれませんが、このような意味でとてももの学びに向いていらっしゃると思いますけれども如何でしょうか。

・もっとひろい世代に このように古文書講座は何故中高年の方々ばかりなのでしょうか。
 いつかの新聞記事によれば、古文書講座に参加するあるご老人は「私たちの青春時代は戦争だったので楽しみがありませんでした」と仰っている。しかしそれにしても何故外国語・陶芸教室・料理教室ではなく古文書なのか。単純に考えれば「古文書=古い=ノスタルジー」という発想でしょうが、もしそうだとすれば若いひとも取り込む作戦を考えなければなりません。
 中高年の方々だけでなくわかいひとにも親しめるようにしたい。その意図で、わたしの講師の経験から、いつか自分なりの古文書入門書を出してみたい、と思うようになりました。英語・フランス語・韓国語を学ぶのと同じような気持ちで、「古文書を勉強してみたい」というひとたちを増やすためです。
 たしかに字典類を含めて従来多くの古文書入門書が出版されてきました。しかしわたしを満足させる本はあまり多くはありません。それは「なぜ古文書を読むのか」「どういうメリットがあるのか」「古文書を読むときの気持ちはどうか」など、古文書を学ぶ本質にふれた本があまりないと思うからです。より正確に表現するならば「古文書入門<一歩手前>入門書」が必要であるということでしょうか。
 古文書の知識がひろまることによって文化財理解の一助にもなります。そんな歴史研究人としての〝下心〟はさておき、世代をこえてみんなが抵抗感なしに古文書講座に足がはこべるような環境をつくることがまず大事ではないでしょうか。
 昨今の古文書講座事情から最近そんなことを考えています。

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2005/05/26

(古文書入門⑥)むかしのひとは何故くずし字を書くのか?

 何故むかしのひとはくずし字を書くのでしょう。グニャグニャとしたくずし字は一見して非機能的な文字に映りますが、実際はどうなのでしょう。そして、そもそもくずし字とはどのような文字なのでしょうか。今回はその問題について逍遙してみたいと思います。

・文字の書き方 まず、文字の書き方の文化としては、主に、①楷書文化と②くずし字文化のふたつがあります。現在くずし字を書く(書くことのできる)ひとは稀ですから、歴史的には②から①へと変遷していったことになります。
 現在では、筆の達者なひと以外、くずし字を認めることはありません。学校では「書道」の授業時間以外はくずし字を習うことはないし、お役所でも原則的には楷書のみの使用で、「くずし字で書かないで下さい」という注意書きがされていることもある。結婚届・出生届提出の時にも、窓口の役所のかたは書類の字が正しく書かれているかどうか(はねる・はらうなど)、字典をひきながらいちいち確認しています。

・機能的な違い わたしの考えによると、楷書とくずし字では機能的な面で大きな違いがあります。乱暴にいってしまえば、楷書はおおむね一文字のみで判読できることが多いが、くずし字は一文字のみで判読できないことが多い(もっとも楷書でも、たとえば「一」と書かれていても、「いち」なのか、枯木から落ちた小枝なのか、わからないことがあります)。
 たとえば、「候」(そうろう、「です・ます」表現にあたる)という字があります。この「候」のくずし字は、いちばん簡略化されると単なる「ヽ」になる。白紙にただ「ヽ」と書くだけでは、何が書いてあるのかさっぱりわかりませんが、「御座」の下に「ヽ」があると「ああ、『御座候』(ござそうろう)と書いてあるんだな」と、そこではじめて判読することができます。
 また、「深」と「源」のくずし字の場合を考えてみましょう。このふたつのくずし字はよく形が似通っています。くずし字は形を極端に簡略化しますから、ほんらいは違う字同士であっても、形が似通ってしまうことが多いのです。すると、一字だけでは、「深」なのか「源」なのか、判別することができない。しかし、もしも「源氏物語」とあれば、「『深』でなくて『源』と書いてあるのだな」とわかり、もしも「深浅」とあれば、「『源』でなくて『深』なのだな」とわかる。
 つまり、くずし字の読解では、文字のかたちと意味の流れの両方を考えなければいけません。そのてん、固有名詞は大変です。先ほどの「深」と「源」の例でいえば、くずし字で書かれると、場合によっては「深田村」なのか「源田村」なのかわからない。その場合は地名辞典をひかないといけません。
 地名は地名辞典がありますが、人名になると辞典が使えないから更にやっかいです。赤穂浪士の「赤埴源蔵」(あかばね・げんぞう)が「赤垣源蔵」(あかがき・げんぞう)と誤って伝えられたのは、「埴」と「垣」のくずし字が似ていたからだといいます(福本日南『元禄快挙禄』)。固有名詞はどの字でもあてはまる可能性があるから誤読されやすいのです。博物館の展示の翻刻文でも、空欄になっていることが多いのは固有名詞です。

・くずし字の利点 こう考えてみると、くずし字は不便なように思えます。しかし、便利なことがないかというと、そうでもありません。くずし字は画数という概念がないほどに形を簡略化しますから、最初に字を覚えるときは覚えやすいかもしれません。
 勿論むかしの漢字は所謂「旧漢字」で、楷書で書くと画数が多い。むかしの「恋」だって大変で、「いとしいとしと言う心」で「戀」でした。しかし、むかしのひとは楷書よりもくずし字から先に字を覚えることが多かったようで、その証拠に寺子屋の教材をみてもみんなくずし字で書かれています。
 江戸時代の随筆にこんな話があります。

……楷書で「言」と「水」という字が書かれていた。こんな字は存在しない。これはおそらく「路」という字の誤りであろう。なぜなら、「足」と「言」、「各」と「水」は、各々くずし字がよく似ているからである。

 かえって楷書で書くと字を誤ってしまうのは、むかしのひとがくずし字から先に覚えていたことの証左でしょう。現在はワープロで書くと字を誤ってしまう(わたしもよくやります)。これが所謂「誤変換」ですが、それでもくずし字が不便だといえますか?

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2005/03/02

(古文書入門⑤)文書館で江戸時代に出会う

 「まだ古文書を触ったことがない」という方は、なるべく本物の古文書をご覧になるのがよいでしょう。
 もちろん、本の図版をみるのもいいのでしょうし、精巧につくられたコピーでも結構ですが、やはり古文書はなるべく本物をみるのがよろしい。そちらの方が感情移入できて、古文書の勉学へのモチベーションがあがりますし、和紙の様子・帳面の仕立て方・筆の流れなどがよく観察できて、とても勉強になる筈です。
 わたし自身、江戸時代の研究をするようになってから既に久しいのですが(といっても10年ちょっとですが)、やはり本物の古文書を手にとって触れると、タイム・スリップしたような気分になって、とても楽しいものです。そういう気持ちを、いつまでも持ち続けていたいと思っています。歴史はロマンですよ。
 わたしがまだ大学院生のとき、国重要文化財の指定のため院政期の史料の整理をお手伝いしたことがありました。そこでわたしが先生に「あっ、先生。紙に指紋がついてますよ!」といったところ、その先生「あたりまえだろ、むかしのひとにだって指紋があるんだよ」。
……トホホ、先生。わたしはそんなことをいいたいんじゃありません。先生もわたしみたいに一緒になって驚いてほしかったのになあ。

 しかしこのような史料整理は大学で勉強しているからこそ経験できることです。「本物の古文書なんてどうやってみるんだ?」という方も多いことでしょう。
 もちろん博物館に行けばみることができますが、ガラス・ケースの中にあるだけで、みているだけで疲れてしまう。実際に手にとってみられるわけではありませんから〝ガラス・ケース越しの恋〟というべきか。
 ところが本物の古文書を手にとってみられる所はあるのです。それは通称「文書館」(モンジョカン・ブンショカン)という施設です。
 市民に情報提供をする主な施設としては、博物館・図書館・文書館の3つをあげることができます。博物館・図書館はよく知られていますが、それらに較べて文書館の社会的認知はあまり高くはありません。「なに、それ?」というかたも多いことでしょう。呼称はまちまちで、場合によっては「史料館」などと称していることもあり、博物館・図書館が文書館的機能を併せ持っている場合もあります。
 文書館では、歴史的文化財である古文書や、最近の公文書等までを閲覧に供します。だからいらっしゃるお客さんは多様で、土地の権利関係調査のため区画整理関係資料をみる土木関係者のかたから、ご先祖調べのかた、あるいは、わたしのような歴史学研究をするひとまでいます。「文書の図書館」といえばよいのでしょうか? けれども図書館の本の貸し出しのようなことはしていません。ふつうは文書を写真撮影したりすることだけが許されます。

 文書館では、古文書の保護のため、古文書を写したマイクロ・フィルムや紙焼き本で閲覧する場合も多く、わたしの勤務する東京都公文書館でも、古いものは原則的にはマイクロ・フィルムでの閲覧です。しかし現物の古文書を出す館も多く、その場合は古文書を触ってみることができます。たとえば、東京都だと国文学研究資料館史料館(アーカイブス研究系)や、わたしもよく研究でお世話になった埼玉県立文書館でも、本物の文書を閲覧することが可能です(一部紙焼き本などでの閲覧)。
 しかし現物の古文書を閲覧する場合、いくつかの作法があります。それを知らないといけません。たとえばマジック・ボールペンなどインクの出る筆記用具は厳禁。和紙はインクを吸い込みやすいからです。また指輪やネックレスといった装飾品も、古文書をひっかけてしまう可能性があるのでいけません。もちろん古文書を読むときはよく手を洗ってから。……このような作法は古文書の入門書にも書いてありますから、よく御覧になってください。不安なひとは慣れているひとに一緒についていくのがよいでしょう。
 大切なのは、古文書を守ってきたひとたちへの感謝の気持ちをもって、閲覧することです。

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2004/12/13

(古文書入門④)くずし字字典、どれがいい?

 「何か勉強をはじめたい」というとき、一念発起のエネルギーから、特に〝気合い〟が入りがちです。それで、「ヨシ、勉強するぞ」と、とりわけ分厚い難しい本等を買い込むわけですが、ところがどうしたことか、「さあ、はじめよう」と思った途端、眠たくなってもう勉強する気が起こらない……、そんな経験はありませんか?(少なくともわたしは幾度となくあります)。それはたぶん、いきなり分厚い難しい本なんか買うからいけないのでしょう。強い信念があればあるほど、最初は気楽に、だらだらと始めたほうがよいようです。それに、初心者には初心者の勉強方法がある、と考えた方がいいのではないでしょうか。

 「古文書勉強したいんですけど、くずし字字典は何がいいでしょうか?」というご質問が多いので、ここではそれについて、わたしの意見を述べてみたいと思います。実は、「字典は何がよいか?」という疑問について、答えてくれる情報はあまりありません。だから、―私見ではありますが―、ここで話しておく価値はあると思います。
 おそらく、初心者には、林英夫編『増訂 近世古文書解読字典』(柏書房、1972~)が一番よいと思います。1972年に第1刷が出され、わたしの手持ちの本は「1997年第32刷」です。だからもう30年以上にわたって刷を重ねる、大ロング・セラーであるわけです(どうでもいい話ですが、わたし1974年生まれなので、この字典の方がわたしより年上ですね)。わたしは柏書房のまわしものではありませんが(柏書房の本をちょっと執筆したことはありますが)、これは本当にいい字典だと思います。
 この字典の何処がよいかというと、①ひとつめに、とても薄くてハンディなことです。全体で387頁しかありません。「Ⅰ 史料編」が5頁~68頁まで、「Ⅱ 用例編」が71頁~126頁まで、「Ⅲ 文字・熟語編」が131頁~312頁まで、「Ⅳ 参考資料編」が314頁~349頁まで、「索引」が350頁~387頁まで、という内訳です。この中の「Ⅲ 文字・熟語編」が字典の機能をもっている部分です。薄い! これは心理的圧迫を受けずにすみます。②ふたつめに、とても廉価だということ。わたしの手持ちのものでは「2524円+税」という直段表示です。大学でこの本をテキストにしたことがあるのですが、学生たちの反応は「えー、高い!」でした。そんなことはありません、一生ものですから。③みっつめに、字の解説ばかりではなく、熟語の用例まで載せてあり、親切なことです。これは便利です(実は、くずし字というのは、一文字だけでは判定できないことが多いのです、これについてはいつか述べてみたいと思います)。
 もちろん分厚い字典でもいい字典はたくさんあります。たとえば、その筆頭格が児玉幸多編『くずし字用例辞典』(東京堂出版、1981~)でしょう。これは字の用例も熟語の用例もマンモス級で、約1300頁にも及ぶすごい字典です(近藤出版社に版権があったとき、同社の社長さんが、表題と索引以外はすべて手書きで書いた、という信じられない本。手にとってご覧下さい)。しかし「普及版」でないと持ち運びできません。優秀な字典ですが、浩瀚すぎて初心者には使いこなすことは難しいでしょう(したがって「優秀な字典=初心者に優しい字典」とは限りません)。くずし字にある程度慣れたら買うべき本です。そのときには、とても頼りになるでしょう。

 だから、勉強のはじめは、やはり林英夫編『増訂 近世古文書解読字典』(柏書房)だと思います。ただし、柏書房はこの手の字典をシリーズで出していますから、似通った表題の本が多いのです。買い間違えにご注意ください(この字典、わたしの所属していた大学の古文書研究会でも使用しているのですが、毎年買い間違える新入学生がいるのです……、ご注意!)。

(付記) ここでいう「古文書」とは近世文書のことをさしています。それ以前、古代・中世文書の勉強法等に関してはここでは触れていません。ちなみに、わたしが持っている字典は、先にご紹介した『増訂 近世古文書解読字典』『くずし字用例辞典』に加え、『新編古文書解読字典』(柏書房。載っている字数も程よく多く、用例も厳選されている、なかなかのスグレモノです。知る人ぞ知る、使ってみればよさがわかる字典です)の3冊です。これ以外の字典を買ったことがありません。またこれ以外の字典をあまり使うことはありません。
 以上はあくまで私見です。使いやすい字典はひとによって様々だと思います。ほかのご意見をお持ちの方はコメントをお寄せください。

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2004/11/27

(古文書入門③)とほうもない江戸時代の情報量

 江戸時代の研究をしていて、この時代の史料のとほうもない量を、いつも実感しています。「浜の真砂が尽きるとも、江戸時代研究のタネは尽きまじ」でしょう。したがって、このブログのネタも尽きることはありません。
 たとえば、わたしは武蔵国入間郡赤尾村名主林家文書という文書群を研究しています(「名主」というのは村長のことです)。だいたい、現在の大字(おおあざ)が、江戸時代には「××村」と呼ばれ、一個の行政区画をなしていたわけですが、それは全国で約63000ヶ村あります。埼玉県坂戸市大字赤尾、江戸時代の赤尾村もそのひとつです。
 この赤尾村の文書群、江戸時代の史料だけでなんと約10000点もあります。細かい字で書いてある分厚い名主の日記、これでも1点としかカウントされていませんから、たいへんな量です。大学生の頃からこの文書群を研究していますが、まだ見きっていません(アッタリマエダ!)。全史料を精読する頃には、わたしはおじいさんになってしまうかもしれませんね。

 江戸時代の史料の多さを実感しましょう。そのまえに、日本全国に残る古代・中世史料、つまり江戸時代以前の史料の総量は、どのくらいあるのでしょうか? そこで、このあいだお亡くなりになった大石慎三郎さんの著書、『大江戸史話』(中公文庫、1992)を繙いてみます。

文献史学の拠り処となる史料は、古いところからいえば古事記は一応除外されるので、六国史と呼ばれている日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代天皇実録から始まる。(中略)これ以降の史料は東大史料編纂所の編集にかかる大日本史料に収められている。もちろん一点のがさずすべてというわけではないが、基礎史料はかなり尽くされているとしてよいであろう。中世と近世との区切をどこでつけるか、(中略)ここでは(中略)永禄十一年(一五六八)を目安にしておこう。さてこの目安で大日本史料を分けると、旧版本一二三冊、新版本八三冊の都合二〇六冊が中世以前の部分にあたる。(高尾注、これらを400字詰原稿用紙に直して換算すると)約二十万枚ということになる。(同書「大江戸の常識」より)

 これによると、江戸時代以前の史料の情報量は、400字詰原稿用紙にして20万枚あるということです。どうです? 多いような、少ないような。
 それでは、江戸時代の村方文書と、較べてみることにしましょう。大石さんは同書で信濃国北佐久郡五郎兵衛新田文書(現在、長野県北佐久郡浅科村上原・中原・下原)の文書を換算しています。同新田文書は4ヶ所にわかれていますが、そのうちの1ヶ所を計算すると、

それは(高尾注、マイクロフィルムで)二百リール、約十三万枚あり、全部で約三十万枚は越すと予想されている。これを仮に写真一枚を四百字詰原稿用紙一・三枚と計算すると三十九万枚ということになる。(同書「大江戸の常識」より)

 そうすると、なんと「日本全国における、江戸時代より前の時代の史料」(400字詰原稿用紙20万枚)<「江戸時代の村の、ある家における史料」(400字詰原稿用紙39万枚)、ということになるわけです。しかも、江戸時代の村は前述のように63000もあります。ちょっと気が遠くなりますね。
 ちなみに、村落史研究の権威明治大学木村礎さんによれば、村方文書は30億点にものぼるのだそうです。「人類が江戸時代の文書を全部見きることはほとんど不可能」といっても過言ではありません。
 ちょっと試しに、神田の古本屋にでも出てみて下さい。江戸時代の古文書が売りに出されています。また、あなたの家が旧家ならば、蔵の中にありませんか? 「文政××年」「天保××年」とか書かれたふるい紙切れが。こういうのも江戸時代の史料。立派な古文書、文化財といえるのです。大切に保存して下さい。

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2004/10/01

(古文書入門②)古文書講座、人気のひみつ―思ったほど難しくない古文書―

 唐突ですが、英語と江戸時代の古文書、どっちがマスターしやすいと思われますか? わたしは、断然古文書の方がマスターしやすいんじゃないか、と思います(ひとによって感じ方の違いはあるかもしれませんが)。
 古文書といえども日本語です。もちろん、江戸時代特有の言葉遣いはありますが、そんなに数はありません。また、「可被成候」を「なさるべくそうろう」と読むような、漢文の返り読みもありますが、ある程度パターンが限られているため、これもあまり難しくない(もっとも、江戸時代以前の文書には、難読語や返り読みの頻度の高い傾向があります)。
 すると、残る問題はくずし字解読のみです。このくずし字こそが、古文書解読へのハードルといっても過言ではありません。ですが、むかしは子どもも寺子屋で覚えて書いていたわけで、現代の大人が読めない筈はありません。また、江戸時代のくずし字は、多様な流儀を使っているのではないか、と思っている方がほとんどだと思いますが、原則的には、日本全国、上は将軍・諸侯から下は百姓まで、「御家流」(おいえりゅう)という流儀のくずし字を使って書きます。したがって、この「御家流」を覚えてしまえば、江戸時代のくずし字、つまり古文書解読が可能です(注1)。だから、「ワタシ、ちゃんと江戸時代の原史料を読めますよ」とアピールする意味で、「ワタシ、御家流を読んでいます」と表現することもあるくらいです。だいたい2~3年で基本的な読み方をマスターできます(これ、本当)。もちろん、難読なものを読もうとすれば、さらなる研鑽が必要ですが。
 古文書講座は、高年齢層を中心に人気ですが、この高くもなく低くもないちょうどよいハードルが、心地よく感じられるのかもしれません。年金暮らし、子どもが大きくなって、比較的時間の余裕ができ、もっと生き甲斐がほしいおとうさん・おかあさんが、比較的多いようにみえます。わたしが講師の市民自主グループでは、わたし(現在30歳)が圧倒的に若いです(もっとも最近は大学生の女の子がひとり出席してくれています)。年齢的には受講生の方が江戸時代に〝近い〟ことが多く、特に、関東大震災をご記憶の方もいらっしゃって、この年齢層の方のおっしゃることは、むしろこっちが勉強になっています。いわゆる「昔話」が重宝される場って、古文書講座くらいじゃないでしょうか。これも高年齢層に人気の要因かもしれません。

(注1)よく掛け軸にあるようなニョロニョロとした〝芸術的〟な字。あれは古文書の専門家でもすらすら読めないことがあります。「御家流」でないことが多いからです。川柳「売家と唐様で書く三代目」。「御家流」以外のくずし字が書ける、教養のつんだ金持の家のどら息子が、自分の家を売るため、「唐様」のくずし字で「売家」と紙に書く、という意味。何のために教養を積んだのやら。

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2004/09/30

(古文書入門)古文書を読みたい、どうしたらいい?

 今日のお題は「古文書入門」です。ここでいう古文書とは、墨でニョロニョロ、ミミズのような文字が書かれた史料のことです。
 わたしも江戸時代を研究しているため、博物館・カルチャーセンター等で、「古文書入門講座」なるものを依頼されることがあります。そのたびに応募されるかたの多さに驚かされます。残念ながら、わたしの講座に人気があるのではなく、どうやら古文書解読自体が、ブームらしいのです。「ニョロニョロ(古文書)が読めるようになりたいです! どうしたらいいんですか?」と質問をされることも多くなりました。わたし自身はというと、大学教育・大学での研究会という、とても恵まれた場で古文書解読を習いましたから、ここで自分の経験を話すことは無意味でしょう。
 そこで、大学で学ばず、全くの趣味・独学で古文書解読を修得された方を観察してみました。するといくつかの共通点があることがわかります。1つには、①古文書通信講座を受講され、②地域の古文書市民サークルに参加され、③博物館等の講座も受講される、という3者かけもちの「欲張り」な方が多いようです。勉強の機会を積極的に確保する。2つには、勉強で知り合った友達が多いというのも見逃せません。友達同士で互いに教え合うというなかで勉強されているようです。3つには、格別頭がよいというよりも、物怖じしないひとが多いのではないかと思います。つまり、何でもひとに質問する、これが学びの極意なのかもしれませんね(古文書の勉強に限ったことではないでしょう)。
 講師の側も心得たもので、あるひとは、わざと自分の作ったテキストに間違いを仕掛けるのだそうです。案の定受講生の方が「先生、これは間違いですよ」と指摘してくる。すると講師は「あ。その通りですねえ。よく勉強されていますね」と答えてあげる。わたしはこれを聞いたとき「プロい!」と唸りました。ノセル講師にノル受講生か。こうやって受講生の古文書解読力が上がっていくわけです。
 ちなみに、わたしのテキストにも間違いがありますが……、もちろん本気で間違えています。ごめんなさい。

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