2014/03/30

(宣伝)高尾善希著『驚きの江戸時代』(柏書房)刊行されました

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・拙著のらい 今年3月下旬、拙著『驚きの江戸時代』(柏書房)が刊行されました。ここでは、拙著刊行の宣伝を兼ねて、拙著についての若干の補足説明をしたいと思います。この拙著の題名・副題・帯の文言はわたしが考えたものではなく、出版社の方が考えたものです(本の売れ行きにご配慮頂いた結果です)。

 そこで、ここでは改めて、わたしの言葉で拙著刊行の意図を解説したいと思います。 この書は主に江戸時代・明治初期のことを振り返った回顧録を扱ったものです。昔のひとがもっていた江戸時代・江戸時代的な意識を回顧録の記述の中から拾ってみよう、ということです。つまり、一言でいえば「江戸時代のことは、江戸時代のひとに訊いてみましょう」というわけです。そういうことを書いた本なのです。

・古文書・古記録を読んでもわからない過去のブラック・ボックス しかし、そもそもそういうことを書く必要があるの? と思われるかもしれません。江戸時代といえば文字文化の発達した時代です。古文書・古記録(古い日記)は豊富にあります。それらを読めば充分じゃないの? と。本当に、そうでしょうか。たとえば、「史料を読む」という行為について考えてみましょう。わたしは「史料を読む」という行為には4つのPhase (次元)があると考えています。

【史料読みのPhase (次元)】

Phase① くずし字

Phase② 現代人が読み易いように楷書体にする(これを一般的に「翻刻する」と称す)

Phase③ 現代語訳をする

Phase④ 史料中における昔のひとの行動(=意識)の理由を理解する

 大抵のひとの場合、Phase①~③までは、普通に考えつくと思います。しかし、Phase④のことを考えたことありますか? つまり、昔のひとが書き記した文章は存在するけれども、その文章中にみえる昔のひとの行動(意識)の理由がわからない、ということもあり得ます。

 ……うーん。ちょっと難しいでしょうか。たとえば、こういうことです。将軍家の葬列の際の江戸町触に「火の見櫓にひとを上げてはいけない」とあります(拙著136頁)。訳文としてそのように《読めた》としても、そもそも何故火の見櫓にひとを上げてはいけないのか? その理由まではわかりません。理由がその史料にまったく書いていないのです。やはりそこでは昔のひとの行動パターンのようなものを知らなければなりません。そのため回顧録のような史料にも助けてもらわなければなりません。

・古文書・古記録は黙して語らず 江戸時代の古文書・古記録の点数は? というと、歴史研究者がウンザリとして頭を抱えてしまうほどにあります。史料整理をしていて、一家あたり万単位の史料が土蔵からドサドサと出てくることすらもあります。嬉しい悲鳴なのですが。しかし、それらに何でも書いてあるというわけではありません。特にその当時は当たり前であったことは書いていません。わたしたちの日常生活を考えればわかることです。

 江戸時代的な日常生活のあり方が変化し、江戸時代が過去になりつつある時期は、明治20年代頃です。その頃からポツポツと回顧録が記されます。そこには、古文書・古記録が黙して語らない部分が解説されています。回顧録の執筆者が(このまま放っておくと、後世のひとがわからなくなるだろう)と考えたのでしょう。

 回顧録史料論試論…。そんな感じの本ですね。成功しているのかいないのか、さっぱりわかりませんが。ただ、(柳田國男『明治大正史世相篇』モドキのような本を書いてみたいな)と、大学院生時代からボンヤリと妄想していました。 拙著、全国書店で発売中です。

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2006/01/05

(書評と紹介)青木直己さん『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)

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・虎屋文庫青木直己さん 虎屋文庫主幹で食文化史研究者の青木直己さんが、去年の暮れ『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)を上梓された。著者の青木さんはわたしの大学の大先輩にあたり、ずいぶんお世話になっている方である。その関係で青木さんご本人から「きみのブログで書評してくれないか?」というご依頼を頂いた。新書本は旬モノ、ブログも旬モノ、さっそく一読して今回この書評を執筆した次第である。
 本にある青木さんのプロフィール。「1954年東京都生まれ。立正大学大学院博士後期課程研究指導修了。現在虎屋文庫研究主幹。学習院大学、NHK文化センター講師。和菓子に関する調査・研究に従事する。著書に『図説和菓子の今昔』など」。あの和菓子の老舗虎屋のアーキビストにして食文化史の専門家である。各界から脚光をあびる青木さんの存在は後輩としても誇らしい限りである。
 いっぽう、生活人としての青木さんはとても忘れっぽいご性格で、たとえば原稿をすぐ紛失したり、先日と同じ話をしたりする癖がある(失礼!)。しかしその反面、食文化についての知識はお忘れにはならず、やはりそこは研究者である。そのアンバランスさがユーモラスで、機会があったら脳みそを拝見してみたい(なんて失礼な後輩なんだ)。再び余計な話を重ねると、青木さんの奥さんは国文学研究資料館アーカイブス研究系の青木睦(あおき・むつみ)さん。夫婦揃ってのアーキビスト学者で、ご自宅にはおおきなコピー機があって仲良く夫婦共有。いやはや羨ましい限りで、夫婦同業だとこういうときに便利である(わたしの女房は歴史業界関係者ではないから意見の相違がたえない)。

・酒井伴四郎日記  青木さんの本『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)は、幕末に江戸へ単身赴任した、紀州藩下級武士酒井伴四郎の日記を紹介したものである。
 酒井伴四郎は禄高30石取りの紀州藩士。万延元年(1860)、叔父宇治田平三・大石直助ら6人とともに、中山道を紀州から江戸へ出府してくる。おのぼりさんはおのぼりさんであるからこそ、いろんな記録を残そうとする。江戸という大都市において、みるもの・きくものすべてが新鮮で、驚きの連続だからである。そこが後世の人間からすれば「目のつけどころ」である。
 日記は万延元年5月から年の暮れまでの記録だが、半年といえども、その筆まめな性癖と正直な心情吐露は読む者を魅了する。武士といえども日記中では町方とかわらぬ日常生活があって、金銭の面でケチな叔父の宇治田平三と喧嘩したり、常磐津に熱をあげてみたり、えげつない見世物を見物したり、仲間とエッチな話でもりあがったり、横浜に異人を見物したりしている。
 この日記は研究者間ではとても有名な史料で、ほうぼうの論文・書籍で引用されてきた。しかしそのわりには全体像をわかりやすく解説した本が出版されてこなかった。とくに伴四郎は若くて健康なせいかよく喰べ、日記には豊かな江戸の食事記録がある。わたしは専門家によってそれらがこまかく考察されることが必要だと感じていたが、その矢先、この青木さんの本が出た。とりわけこの食事記録に青木さんは目をつけ、伴四郎の食事記録を紹介するとともに、一般的な江戸の食文化について紹介している。
 本の中では、9月21日条に出てくる「名物おてつ」が「おてつ牡丹餅」を意味し、「江都名物双六」に「こうじ町おてつ」として出てくることや、川柳にまで出てくること、また8月11日条の「くこう」が解熱剤や強壮剤であること、「どじょう汁」が夏の季語であることなど、いろいろとわかりにくいことを教えてくれる。そして日記全体の観察も行き届いていて、あさりの記述が出てこないこと、1年に9回もどじょう鍋を喰べていること、1年に31回もそばを喰べていること、1年に14回もすしを喰べていること、などを指摘している。
 酒井伴四郎日記はたいへん魅力的な日記である。ただ惜しむらくは、良質な翻刻本に恵まれていないことである。唯一の翻刻史料である林英夫校訂「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿の移り変わり 四谷編』新宿区)は、翻刻の誤りがあまりにも多く、そのまま史料として使うには困難をともなう。青木さんも極力翻刻の間違いを訂正していると思うが、それでも8月18日条「須原屋にて武鑑を買、また仙女番買」という箇所について、「『仙女番』という本はよくわかりません。もしかすると吉原の女郎の評判を記したものかもしれません」とする(150頁)。しかしこれは「仙女香」の翻刻間違いで、「仙女香」とは南伝馬町で売られていたおしろいの名前である。ふるさとの女房へのお土産として買ったものだろう。「仙女香」は江戸の出版物に頻繁に宣伝広告されていて、伴四郎も武鑑を買った須原屋で広告をみた可能性がある (仙女香と出版物に関しては湯浅淑子「仙女香と出版物の改掛」<『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版所収>に詳しい) 。むろんこれは青木さんの責任外である。わたしも時々日記を読んでいて意味がわからなくなることがある。これでは今後の研究に支障をきたすだろう。したがって今後は、江戸研究者が鳩首相談して、正確な翻刻本を作成する必要があるように思う。

・酒井伴四郎が常磐津に通う理由―伴四郎の心中に迫る― 青木さんの本についての参考のため、酒井伴四郎日記についての私見をのべておきたい。
 日記をよむと、酒井伴四郎は常磐津師匠の稽古所にたいそうな熱をあげていることがわかる。ことの発端は6月28日、伴四郎が藩邸のひとから「三味線の師匠のところへ通わないか」という誘いをうけたことにはじまる。このとき彼は「涼しくなってからがよい」とあまり乗り気ではなかったが、6月晦日にまた誘いをうけ、あまり断るのもどうかと藩邸近くの鮫ヶ橋裏長屋にある常磐津琴春師匠へ稽古に出向いた。ところがどういう風のふきまわしか、伴四郎はそれ以来同居の叔父の目を憚るくらいに「面白ふそふに」この常磐津稽古所に通い、月に10回以上も顔を出すことさえあった。
 その変貌ぶりは何故か。それは彼が最初に稽古所に出向いた6月晦日条の文章中にはこうある。

師匠は四十余りの大不義料、娘は小人嶋、

 母である師匠は「大不義料」(不器量)、その娘は「小人嶋」とある。ここで問題なことはこの「娘は小人嶋」という言葉の解釈である。
 山本博文さん(東京大学)は「(娘は)背が低かったのだろう」と解釈し(山本博文『江戸を楽しむ』中公文庫)、青木さんの本では意味を怪しんでか「嶋」の字を抜いている。しかしわたしは「小人嶋」のままでよいと思っている。
 なぜなら、この「小人嶋」(こびとじま)という言葉は、「背が低く小さい人の住むと考えられた想像上の島」のことで、これに関連して「小人島の鶴」というフレーズもあるからである。その意味は「小人島では、人よりも鶴の方が大きいことから、物事の釣合のとれないこと。また、調和のとれないことのたとえ」である(『日本国語大辞典』)。したがって、「小人嶋」=「小人島の鶴」で「正反対」という意味をもつ。そのため以上の文章は「師匠はたいへんな不器量だが、娘はたいへんな美人である」と訳すのが妥当である。はじめて来訪したこの日、この母と娘しか姿がみえなかったから、伴四郎は母子家庭だと思ったらしい。
 以下はわたしの飛躍的な史料解釈である(というより助平なわたしの勘ぐりである)。このことをわざわざ記した伴四郎はこの娘に密やかな好意を寄せていたのではないか。女房・子もちといえども、まだ28歳の男盛り、しかも単身赴任の身の上である。そんな彼が、娘が美人の母子家庭に足を踏み入れれば、ちょっとその雰囲気に酔いしれたとしても不思議ではない。その証拠に翌日の条にはこうある。

さてこの稽古屋は親子二人と思の外、夕方の事ゆえ亭主と養子と帰り、都合四人の家内、

 そう、母子家庭ではなかった。この「亭主」とは師匠琴春の亭主で、「養子」とはおそらく娘の亭主で婿養子だろう。この記述の紙背には(なあんだ、親子ふたりじゃないのか、しかも亭主もちじゃあねえかよ)という伴四郎の嘆息があるように思われてならない。
 何れにせよ、「面白ふそふ」な伴四郎の常磐津通いの背景には、美人の娘の存在を無視することはできない。娘義太夫も美人で人気を集めたという。常磐津の稽古所も人気商売、看板娘的な娘がいれば商売上有利だったに違いない。オトコなんてそんなものである。
 酒井伴四郎日記にはほかの箇所にも他言を憚るような記述が散見される。したがってこの日記は帰国後に家族などにみせることを予定していない純粋な私的日記ではないかと思う。それゆえに、酒井伴四郎日記は史料的価値が高く、現代人の共感をもうむのではないだろうか。くわしくはかるいタッチで楽しく書かれている青木さんの本を読まれたい。
(NHK出版生活人新書165、700円+税、2005年12月)

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2005/05/02

(専門書拾い読み③)大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)

 ある就職試験で「あなたは仏教系の大学を出ていらっしゃいますが、日本人の宗教観についてどういうお考えをおもちですか」という質問をされたことがあります。
 内心「アッ」と思いました。なぜなら出身の立正大学では仏教についての授業をひとコマもとらずに卒業してしまったからです。うちの大学は宗教にとても寛容な大学ですが、それにしても勿体ないことをしました。わたしの怠惰について叱責されたような気がしました。

 日本人は宗教についてあまり深くは考えない民族だといわれてきました。なるほど「お葬式は仏教だが、結婚式はキリスト教」という場合も少なくありません。江戸時代も似たようなもので、原則的に人びとは特定の宗教・宗派に拘らず、寺でも神社にでも参ります。
 ただ、生活道徳・規律にまできびしく影響を及ぼす、重みのある宗教を「宗教」と呼ぶのならば、たとえば浄土真宗のようなものがありますし、イエ信仰みたいなものも「宗教」の中に入れてよいかもしれません。
 イエには「御先祖様」がいます。5~6代以内の近い先祖なら固有名詞で把握できますが、もっと遠くの、名前も知らぬご先祖さえも、一緒くたにして「御先祖様」と把握して仏壇で拝む。子どもの時にわるさをして親から「御先祖様にお詫びなさい」と詰め寄られるのも「宗教」だし、「田地を売り払ってはご先祖様に申し訳がない」と思うのも「宗教」である。生きているひとも死後もまつられると思えばこそ、何の心配もなく家業に精を出せる。しかし現在ではそのような「宗教」も弱体化して、会社などの〝世間様〟だけが「宗教」になってしまったから、「それでは本人が救いようがない」と、ひとの世界に疲れたときのために、新興宗教や心理学が用意されている。
 ―咄嗟のこともあって、そんな気合いの入らない返答をした気がします。宗教系大学の出身らしくもっと勉強すべきでしょう。

 イエ観念といえば大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)にこうあります。

田畑の単独相続制が定着した近世中期以降、田畑を付けて嫁にやることは原則的に否定されたものの、明治初年に全国各地の習俗を調査して集成した『全国民事慣習類集』の「婚資」の項には、入嫁の際に田畑も持参する例も稀であったことが報告されている。注目すべきは、それは「身体不具面貌醜悪ノ償料ニ宛ル」もので、世間体を憚って内密に行っているとされていることである。この事例は未婚女性をめぐる当時の社会通念とその境涯を背景としていたことは疑いなく、そこには、なんとかして娘を正規の人生コースに乗せてやり、世間から後指をさされないようにしてやりたいという親心が働いていたのだろう。(p155~156)

 結婚せずに家の厄介になると、子孫からの祭祀をうけられず、「無縁仏」になる可能性があるようです。そうすると「御先祖様」の列に加われないわけです。それで「身体不具面貌醜悪ノ償料」ということになります。イエというものの性格を窺わせる興味深い事例といえます。

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2005/03/11

(大河ドラマ)「義経本」は「つまらない」?

 今年の大河ドラマは源義経が主人公ですが、わたしはいまだ一度もみておりません。歴史を研究する者として一度はみなければと思っているのですが、子どもふたりにチャンネル権を奪われ、いつも子ども向け番組のビデオばかりみています。

 それでも、書店に源義経関係の本が数多く居並ぶ光景をみて、ついつい手をのばしてしまいます。力のある歴史研究者が筆をとったものもあり、それらはどれも興味深いものばかりです。
 たとえば、①保立道久さん『義経の登場 王権論の視座から』(NHKブックス)・②五味文彦さん『源義経』(岩波新書)・③角川源義さん・高田実さん『源義経』(講談社学術文庫)の3冊があります(③のみ古い本の復刊です)。しっかりとした義経の本をよみたければこの3冊で充分でしょう。
 しかしそれでも、一般読者(ふだんは歴史に馴染みのないひと)にとっては「つまらない」だろうなあ、という感じがします。それは本の作者の責任ではなく史料の責任です。
 源義経というのは日本人にとって格別な存在です。戦の天才だが、意外に美男子で純情、同時に悲劇の人物で、霧の中の幻影のように数多くの伝説に包まれている。日本人の好きそうな人物像でしょう。しかしそれらのほとんどは後世の作り話であって、彼について確実に判明している部分はとても少ない。一般読者にとって源義経という人物への期待が大きい分だけ、歴史研究者による「本当の話」は、とても興ざめに感じられるのではないでしょうか。
 繰り返しますが、これは本の作者の責任ではなく史料の責任です。

 したがって、源義経ひとりの事績を、信頼できる史料に従って律儀に叙述しようとすれば、おそらく新書の字割りでわずか50頁くらいが関の山ではないでしょうか。これでは本になりません。それではどうするかというと(というと語弊がありますが)ふたつの書き方があります。
 ひとつめは、義経の事績に触れつつ、同時にその歴史的背景、義経をとりまく人物などを数多く取り上げることによって、義経を浮き彫りにしてみよう、という書き方(特に保立さんの本)。ふたつめは、同じように義経の事績に触れつつ、そのうえで、その義経から離れ、鎌倉時代以降「義経像」がいかに形つくられていったかを追求する書き方(特に五味さんの本)でしょう。角川・高田さんの本は、共著というかたちでうまく両者のバランスをとっています。共著というかたちをとらざるをえないこと自体、義経という人物の難しさを象徴しています。
 そうやって書くのはいいけれど、やはり「義経と弁慶の五条橋の出会いを出してくれ」という読者にとっては失望の念を隠しきれないようです。現にそういう読後感を記したブログを読むことができます。

 しかし義経を語るに「義経ひとりのことばかりを語ればよろしい」というのは、とても勿体ないことで、せまい論じ方です。
 義経はあの時代にしかも源氏の貴種として生まれてこその義経です。もしも平安時代や江戸時代に生まれたらどうだったか。違った階層社会の中に生まれればどうだったか。現代にサラリーマンの息子として生まれたらどうか。当然違った人生が待っていたでしょう。したがって義経の周囲の人間(社会)についての考察も、読者には煩瑣に思われるかもしれませんが、義経の研究にとってとても大事なことです。現代の我々にしても、まさに現代のこの社会に生きているからこそ〝我々〟たりえるのであって、人体の生理だけがひとの性格を決定しているわけではありません。「当たり前じゃないか」といわれるかも知れませんが、普段の生活でそんなことは意識しません。それを浮かび上がらせるのが歴史学だと思っています。
 また実態としての義経だけが義経ではありません。ふだん我々も日常的に感じているように、自分のイメージする自分と、他人がイメージする「自分」とが、食い違うことはよくあります。他人から誤解されて受けとめられる「自分」も、不本意ながら自分の一部として認めざるを得ません。よって誤解される「義経」(物語上の義経)も大事な義経の一部には違いない。これも「当たり前」のことですが、そんな哲学的なことは普段考えないでしょう。
 歴史学はいろんなことを教えてくれそうです。

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2005/02/15

(史料)司馬遼太郎『俄』と江戸時代の「戸籍」―「宗門人別帳」について―

 江戸時代にも所謂「戸籍」があります。「宗門人別帳」というもので毎年村ごとに作成されていました。悪事などで「宗門人別帳」から人別記載を抜くことを「帳外」(ちょうがい・ちょうはずれ)といい、この「帳外」処分になったひとは「無宿」になります。
 たとえば、日常行状のよろしくない者が、行方不明になったりする場合、彼が何処かで犯罪を犯すと家族に迷惑がかかります。むかしは連座制で家族も罪を蒙るからです。それには、家族はまえもって彼を勘当処分にしてしまえばよい。縁を切れば、彼と家族とは無縁の関係になるからです。やくざ者に無宿が多いのはそのためです。
 これに関連する記述のある小説として、大坂の侠客小林佐兵衛こと明石屋万吉を扱った、司馬遼太郎『俄―浪華遊侠伝―』(講談社文庫、1972)があります。
 万吉は少年のころ、父が逐電してしまい、「泥棒」になろうと、そのむらの庄屋に自分の帳外処分を出願します。以下は万吉と庄屋とのやりとりです。

……「人別帳から、この万吉の名を抜いていただきたいのでございます」「えっ、もう一度言え」「勘当してくだされ」庄屋はおどろいた。勘当というのは、戸籍(人別帳)から名を抜いて無宿人になるという意味である。親が放蕩息子をこらしめるために勘当するというのは、よくある。が、多くはお上には内証のことで無宿人にするわけではない。万吉のいう勘当は法律上の正式の勘当で、庄屋を通じて町奉行所にねがい出、良民の籍からぬいてしまうことである。「おまえ正気か」「いかにも正気でござりまする」……「これ万吉、勘当は悪いやつが受ける罰やがそれを知っての上か。おまえは、どんなわるいことをした」「いままでは悪事を働いたことはございませんが、これからは泥棒もするかもしれませぬ」「けっ、されてたまるか」(14頁~16頁)

 万吉自身は勝手に逐電したわけではありません。このように、逐電する前に、自分からノコノコと庄屋に出かけていって「『帳外』にしてくれ」などと願うのは、あまり例のないことです。史実かどうかは知りません。
 ただ、わたしはこれと同様の事例を知っています。武蔵国入間郡赤尾村名主林家文書でみた事例をご紹介しましょう(拙稿「村の中の『江戸』―都市・村落の社会関係―」 竹内誠編『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版、2003.10)。

……名主林家日記にみえる四郎兵衛の風与出のはなしを紹介しておきたい。天保五年(一八三四)の赤尾村では、安野源右衛門という百姓が、惣百姓の意志を飛び越えて、領主川越藩の代官と癒着して強引に名主任命を獲得するという事件がおきている。そのとき村では大変な内訌があるのだが、翌年四郎兵衛と金右衛門という二人の源右衛門名主反対派の百姓は、名主林家を訪れ、「去年之一件之儀ニ付含有之候ニ付除帳ニ致し貰度」(去年の一件には腹が立ったから除帳にしてほしい)と言い出す。その妙な主張に名主は戸惑い気味に「除帳は何か悪事之ヶ条無之候ては如何」(除帳は何か悪事のことがないと無理だ)と答えた。すると二人は「右之趣出来兼候ハヽ風与出ニ相成可申、何レ我等事生男子此侭ニては差置かたく」(それが駄目ならば風与出する、男に生まれてこのままには出来ぬ)と言い返した。のちに四郎兵衛は再度「除帳」を願い出たので、当惑したであろう名主は「風与出」として処理をし、藩への報告は「悪事ニ携候趣之風聞有之」となった。四郎兵衛は江戸浅草田原町三丁目遠州屋林蔵を頼ったのち帰村している。……

 赤尾村百姓四郎兵衛は、むらで意見があわなかったことがあり、腹に据えかねて「男子の意地で『風与出』(ふとで)をする」、つまりむらを出奔して「帳外」処分になる、と自ら申し出ました。これに対して名主は当惑気味に「何か悪事がないと」と答えますが、結局名主側で「悪事に携わっている風聞がある」ということをでっち上げて、それを領主に報告して「帳外」処分にしました。そのあいだ彼は江戸浅草田原町遠州屋を頼って落ちていきました。
 これは以上にみた万吉のはなしと同様の事例です。

(付記)ちなみに、万吉が賭場で喧嘩をする場面で、再び宗門人別帳の話がでてきます。

「汝(われ)」と、親分株の中僧がいった。「どこの子じゃい」「天涯の無宿じゃ」「むしゅく?」「無宿人よ」子供に無宿人があろうか。「うそやと思うたら、北野村の庄屋へ入って人別帳をしらべてこい。御府内浪人明井采女のせがれ万吉という名に朱の棒がひかれているはずじゃ」(22頁~23頁)

 万吉のように「帳外」になったり、死亡したり、婚姻・養子等の事情でむらのそとへ出たりすると、宗門人別帳からはずされます。そのときその年の宗門人別帳に、その旨の注記が朱筆で入ります。さきの万吉の科白(せりふ)はそのことを示しています。何気ない科白ですが手が込んでいます。

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2005/02/09

(専門書拾い読み②)清水邦夫さん「新史料至上主義に疑問」 西海賢二さん「悲しい現実」 『地方史研究』310・311

 歴史研究の論文の世界では、興味深い史料を探してきて翻刻(くずし字を楷書<活字>に直すこと)し紹介するという、所謂「史料紹介」という付加価値を意識することがあります。史料の多い江戸時代史ならなおさらです。論旨はさることながら、史料を紹介すること自体にも価値が発生するのです。英訳すること自体に意味があるのと同じです。
 わたしは「おまえは相変わらずおもしろい史料を探してくるなあ」と先輩から感心されたことがあります。もちろん「宝探し」が悪いわけではありません。あたらしい史料を探るのは結構なことです。しかしそればかりではいけない。みんなが知っている、すでに紹介されている史料を使って、独自の視点でそれに切り込み論じる能力がなければいけない……。それに関して清水邦夫さんの論考から。

小稿は新史料至上主義に疑問を呈する立場から一度は研究に用いられた史料に基づき考察する。論文掲載・言及なしという意味で新史料といえるのは史料⑥・⑦・⑧、および史料③・⑨の一部である。
(清水邦夫「地誌調についての一考察―武蔵国埼玉郡騎西領・忍領・八条領の事例を中心に―」『地方史研究』310、2004.8)

 また、同じ『地方史研究』誌上から、西海賢二さんの文章もご紹介しましょう。これは行政の世界ではよくある光景です。

(高尾注、相模原市立博物館の展示に寄せて)……なお、相模原の展示は三回拝観する機会があったが、二回目だったか近世史(古文書)を専門とする学芸員が国民健康保険課移動になり、代わりに配属された者は学芸員でもなく門外漢の人が移動してきたとのことを職員の人たちが嘆いていたが、博物館の維持管理が経営上に厳しいという現況にあっても学芸員の資質が殺がれるような移動は地域博物館にとっては悲しい現実なのである。
(西海賢二 展示批評「『二つの石像物展示』によせて」『地方史研究』311、2004.10)

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2005/01/19

(作家)司馬遼太郎さんの文章の謎

 歴史学の専門家にも評価される歴史小説家は、あまり多くはありませんが、司馬遼太郎さん・吉村昭さん等は別格でしょうか(それでも批判はあるようですが)。わたしは好んで読んでいます(注1)。というより歴史小説から歴史好きになったくちです。
 もちろん、学術論文と小説とでは、分野が違うから、優劣の議論は成立しません。ただ、特に司馬さんには、史実とフィクションとを交ぜてお書きになる傾向があるため、読者に両者がわかりずらく、戸惑わせる面はあります。そこは批判点としてありうる議論かもしれない。
 しかし、そうではあっても、基本的には「小説から先は各自で勉強してください」ということではないでしょうか? 「小説は嘘ばかりだ」と目くじらをおたてになる方がいらっしゃいますが、それはどうでしょう。講釈師の〝嘘〟に腹を立てるようなものだと思います。小説の内容に興味をもって、それがきっかけで、もとの史料にあたるようになるというのであれば、それはそれで結構なことではないか、と思います。そうでなければ、物語として楽しめばよろしい。時代劇の時代考証にしてもしかり。

 ところで(以下別の話題になります)、司馬遼太郎さんの文章中、わたしにはわからぬ言葉があります。
 以下は司馬遼太郎さん『歴史と視点―私の雑記帖―』(新潮文庫)「見廻組のこと」という一編から。幕末、幕府が京都に設置した〝警察組織〟見廻組についての説明部分。

見廻組というのは新選組が浪士結社であるのに対し、直参の子弟から志望者を募って組織されていた。そういう建前だが、直参の子弟でそれを望むのがすくないため、末期にはだいぶ浪人を召募したりしている。新選組なら近藤勇にあたる職の組頭というのが、大名であった。蒔田相模守広孝という者で、蒔田家はわずか一万石とはいえ、代々備中に所領をもっている。が、蒔田相模守の組頭というのはごく形式的なことで、直接指揮はしていない。じかに官営テロリズムの指揮をとっていたのは、よく知られているように直参の佐々木唯(只)三郎であった。佐々木は末期には千石の旗本だったから組頭として通用していたが、実際の職名は与頭(よがしら)といったらしい。(119頁)

 ここで司馬さんは、わざわざ「与頭」に「よがしら」とルビをふり、「組頭」と違う職名として説明なさっています。これは本当のことなのでしょうか?
 というのは、ふつう「与頭」は「くみがしら」と発音し、「組頭」と同じ言葉として使われるからです。そもそも「与する」は「クミする」と読みますから、「組」=「与」で、両者の間でよく文字の置き換えが行われます。たとえば、村方文書でもよく「組頭」が「与頭」になっていますが、これは同じものをさしています。この種のことは日常茶飯です。さらに、上記の引用文中にも、「佐々木唯(只)三郎」とありますが、「唯三郎」でも「只三郎」でも、江戸時代の人間はどっちでも書いてしまうわけです。
 佐々木の「与頭」の場合は本当に「よがしら」でしょうか。ちなみに幕府職制での「小性組与頭」の場合「ともがしら」と発音するらしい。
 司馬さんはお亡くなりになったので、いまとなってはお訊ねすることもできません。うーむ。

(注1)司馬遼太郎さんの著作本はほとんど読みました。とりわけ紀行文『街道をゆく』シリーズが一番長かったのですが読破。『街道をゆく』読破のコツは、日本全国地図を買ってきて、登場した地名に印を付けながら読むことです。

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2004/12/16

(言葉)「株式」

 当ブログ記念すべき初トラックバックは、なんと木村剛さん(KFi株式会社代表取締役社長)からでした(このあいだ木村さんの本を拝読したばかりです)。おかげさまで急にアクセス数が伸びました。それで今回、経済に疎いながらも、歴史からみた経済用語のはなしを用意しました。この場にて木村さんに謝意を表したいと思います。

 さて、佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社、2000.4)は、おもしろい本でした(両方とも慶応義塾大学教授<当時>)。
 先生役の竹中さんが、経済学の根本を、わかりやすい例え話を出しながら、平易に教えてくれます。生徒役の佐藤さんも、長年のサラリーマンの経験から、的を射た質問を出し、説明に対する反応もよく好感がもてます。ただし「株の話」という章の中で、「株式」という言葉の内容に触れた箇所についてはちょっとした問題があるようです。そのくだりを以下に引用しましょう。 

竹中 だから株式のことを「シェア」と言うんです。みんなが出し合って好きなときに売れるからシェアするっていう。そういうふうにみんなで出し合って、あるときは会社に出資したり、あるときは逃げることがもできる。そして、これが肝心なことなんですが、出資者はお金を出しているだけだから、会社がもし倒産しても責任が有限なんですね。単純に株を損するだけなんです。
(高尾注、略)
佐藤 そうか、株式って「株」式なんですね(笑)。ヘボン式とか、竹中式とか、そういうナントカ式の「式」なんですね。今まで「株式」っていう言葉はいっしょくたの言葉として僕の耳に入ってたから特に意味を感じなかったんですけど……。
竹中 「株」式……。なるほどそうかも知れませんね。株のようなやり方っていうね……。
 「株式」という言葉は意外に古く、前近代にも多く出てくる言葉です。「株」は、もともと「権利」という意味があります(たとえば「御家人株」「株仲間」)。「式」もそれと同じで、中世でよく使われる「職」(しき)の語に通じ「権利」を意味している、という意見があります(網野善彦)。わたしはこちらが本当かもしれないと思っています。たとえば、江戸時代のむらの史料にも、「百姓跡式」「株式」という用例がよくあって、この場合、百姓の家を相続する権利のことをさしているからです(「近例にはかけおちのかぶ式取上る儀相止」大石久敬『地方凡例録』)。だから傍線部の佐藤さんの解釈は疑問です。「株式」「為替」(かわせ)「書き入れどき」「黒字」「赤字」等々……、経済分野にはふるい言葉が多いようです。
 しかし、そういったうるさい言葉の詮索はさておき、佐藤さんのあたまの回転の速さには脱帽です。この佐藤説の当否は別として、彼の堅苦しくない解釈が読者の理解の助けとなっているからです。それがかえって本の価値を高めていると思っています。

(付記)今日病を得ました。風邪かもしれません(子どもの風邪がうつった?)。仕事を休んでいます。わたしにとって皮肉なくらい、きょうはいい天気です。

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2004/10/09

(学者)大学者、もうひとつの「何となく…」

 先に、古代史家井上光貞さんが、実証史家らしからぬ「なんとなく」発言をしている、という話をご紹介しました。実は彼はもう一箇所、興味深い「何となく」発言をしています。それは、先の本とは別の概説書、『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社)における、「謎の世紀」という章です。いよいよ神武天皇以降の天皇家の系譜を腑分けしよう、というくだりです。

「……皇室の系譜を研究することは、皇室が今日なお日本の象徴として君臨していられる以上、何となくはばかられる気持ちもするが、「王名表」たる帝紀の分析は、大和朝廷の歴史を知るうえには、ひじょうに重要なことなのである。……」
 彼は前述のとおり、明治の元勲井上馨の孫(曾孫。桂太郎の外孫)で、天皇家の藩屏たる華族の家柄でした。その意味で「何となくはばかられる」気分は仕方がないのでしょう。
 しかし、井上さんはこの本では問題意識先鋭で、皇国史観を批判し記紀を科学的に語ろうと、まず―戦後の通史としては異例なことに―、あえて記紀の内容から起筆しています。皇国史観も通史は記紀から書き始めますが、それを裏返す意味でそのようにしたのだ、と思います。
 曾祖父馨が近代的天皇制国家の樹立に荷担し、曾孫光貞さんが「何となくはばかられる」お気持ちでその国家の〝葬式〟をする。……そう思えば、この「何となく」発言も、何となくおもしろい話ではありませんか。

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2004/10/07

(学者)大学者、意外な発言「なんとなく…」

 以下は、ある古代史の大学者が、概説書で、推古朝になったとされる一七条憲法について発言している箇所です。推古朝より下るものとする説もありますが、この方は推古朝説に賛成しています。

「……憲法は、この種の詔書(高尾注、中国の詔書)を下書きにして書いたのではあろうが、中央集権の未熟な時代にふさわしく、また、なんとなく古拙のおもむきがある。
 これを読んで目をまるくしてしまいました。「なんとなく古拙の……」といわれても、こちらは到底納得できません。この方は手堅い実証で知られたひとだから、余計に、この「なんとなくクリスタル」風の言葉使いは、なんとなく不思議な感じがしたからです。いままであらゆる史料を引いて、糸が張りつめたような考証を行いながら、ここへきて突然緩み、何で「なんとなく」なのか?
 思うにこの部分は、「なんとなく」というしかなかったのではないかと思います。史料をさんざん博捜した方がいうのだから、もう信じるしかない(?)。「なんとなく」を具体的に説明しろと問われ、説明すれば、本1冊くらいにはなるのかもしれません。それで、概説書という場でもあって、つい「なんとなく」と書いてしまったのではないでしょうか。もうお亡くなりになった方ですので、確かめる術はありません。
 もちろん、もし大学のゼミ発表で、「ワタシ、なんとなく…思うんです」なんて学生が発言したら、先生は怒るかもしれないし、わたしなんかが論文で書いたら、嗤われるかもしれません。しかし、この「なんとなく」という部分は、大学者の発言だけに、なんとなく深い井戸を見下ろすような気持ちがします。
 井上光貞。井上馨・桂太郎の孫。東京大学文学部教授、国立歴史民俗博物館館長。引用文は『日本の歴史 飛鳥の朝廷』(小学館、1974)より。

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