2006/01/30

(史料)江戸から故郷へ緊急報告―故郷へとばす摺物(かわら版)―

 文久2年(1862)7月ごろ、江戸ではたいへんな麻疹病が蔓延していました。安政のコロリ流行以来の大流行で死人も数多く出ていたようで、当時の諸記録にさかんに登場します。
 このとき偶々、武蔵国三保谷宿名主の田中三左衛門が所用で江戸に出府していました。そのとき彼は江戸の麻疹の惨状をみて仰天し、三左衛門の故郷にすむ鈴木久兵衛に送った書簡の写が、鈴木家文書の「御用留」という史料に残っています(埼玉県立文書館)。

(史料A)
手紙をもって啓上し仕り候、時下残暑の砌御座候処、いよいよ御清勤、泰賀し奉り候、然は此節世上一般麻疹病流行の処、なかには仮初の事に心得、不養生いたし、終(つい)には一命にもおよひ候者も少なからざる由、これにより御府内名家の医師え承り候ところ、養生有増認め遣わされ候間、自分ばかり心得居り候も不本意に付、せめては当堤内村々だけも告げ知らせたく存じ、別紙の通養生心得書、摺物にいたし差上候間、何とも御手数には存じ候えども、片時も早く御組合御村々小前の衆まで行届に相成候様御配慮願い上げ奉り候、尤もそれぞれ御手抜もこれあるまじく候得共、存じ付き候事ゆえ、失敬を顧みず申し上げ奉り候、何とぞしかるべき様、御取計いの程、ひとえに希(ねが)い奉り候、以上
(文久二年)七月廿三日  田中三左衛門
 鈴木久兵衛
右の通三保谷宿名主三左衛門心付を以申越候に付、早々上狢村・平沼村・中山村・白井沼村・紫竹村・当村、右六ヶ村え摺物配布いたし候、

 この三左衛門の言を纏めると以下のようになります。
 ①世上に麻疹病が流行しているが不養生していては命に関わる。②江戸の名医から養生のあらましの情報を得た。③自分だけがそれを知っているということも不本意である。せめて「当堤内村々」(川島堤の内にある村々)だけでも知らせてやりたい。④別紙のように養生書を摺物(かわら版)に仕立てたので、小前百姓(一般の百姓)にまで行き届くよう御配慮頂きたい。

 興味深いことに、このときの摺物の現物が、鈴木家文書「御用留」の中に綴じ込まれていました(史料B)。これは三左衛門が江戸で自費出版したものでしょう。江戸における流行病を目前にみた彼は、必死の思いでこの摺物を田舎に緊急に送付したのです。

(史料B)
はしか病者養生心得

 大きんもつ
魚るい 鳥るい ひや水 酒のるい 海草るい 貝るい いもるい うりのるい かしるい さとう類 なのるい なめもの類 しんつけ類 つみ草るい ねぎの類 せりのるい むかぎ 大豆 ほしのり とうなす わらび すいか こんにやく いだまめ かき  竹の子 はすの根 とうふ しゐたけ わさび らつきやう なし ところてん くだもの類 ふき うど 茶 ゆ水にて顔手足抔あらう事無用 右の外第一おそるべきハ、男女交合 ねびい 夜あるき うす着 うなぎ なまず どぜう めんるい あぶらけ 灸治 もちるい 梅ほし
……略……
   たべてよきもの
たくあんつけ しら玉 かつほぶし みそづけ くろまめ かんひやう とうがん いんげん さつまいも くわゐ むぎめし あづき あめ 道明寺 しんこもち やきふ 長いも にんじん 大こん かぶ はにんじん でんぶ ゆり しゞミ汁 かれい あわび
……略……
 文久二壬戌年七月

 ここでは麻疹に関わる食べてよい物・食べてわるい物・忌むべき行為などが記されています。小前百姓(一般の百姓)に配布することを意識してか、平仮名が数多く使われています。
 この摺物には、「魚るい」「鳥るい」は食べてはいけない、「たくあんつけ」「しら玉」は食べてよし、などといろいろ書いてありますが、おそらく医学的根拠は全くないでしょう。しかし当時のひとは必死です。三左衛門はふるさとのひとの命を救うべく、必死でこの情報を田舎に知らせたのです。電話も携帯電話もない時代の情報伝達です。

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2006/01/09

(報告要旨)「巣鴨町軒別絵図」の世界―江戸時代の巣鴨町を再現する―

 江戸時代後期、江戸は大江戸と称されるほど繁栄を極めた。この大江戸文化の爛熟に主導的な役割を果たしたのはほかならぬ江戸町方にすむ無名の人々であった。しかしその町方の具体的な景観については史料に乏しく、人名・渡世・居住位置の3つが同時に判明する町方の地点は驚くほどに少ない。たとえば、有名な江戸の切絵図では、町方は町名が記されたうえでその中が灰色に塗り潰されているのみで、それ以外知り得る情報はすくない。
 昨年の夏、わたしは偶然なことにより、江戸御府内巣鴨町の軒別絵図を発見することができた。それは旧幕府引継書(国立国会図書館)「和宮御下向」(808―56)という簿冊の中に綴じ込まれていた。文久元年(1861)製作のもので「巣鴨町軒別絵図」という題名が付されている。報告はこの絵図を紹介・分析したものである。この旧幕府引継書は、幕府の記録群を明治政府が引き継いだもので、誰でも閲覧することが可能で、しかも著名な史料群である (日本マイクロ写真がマイクロ・フィルムを作成している) 。しかし数は厖大でまだ未解明な史料がたくさん眠っていると想像される。「巣鴨町軒別絵図」もわたしに見出されるまでは未見のまま眠っていたのである。
 絵図が作られた原因は文久元年(1861)の和宮降嫁であった。降嫁の行列が関東に入ったところで、中山道の立場である巣鴨町が急に行列人数の宿泊場に指定され、僅か3日で絵図が作成・提出された。絵図は詳細を究めたもので、絵図記載の軒数は合計238軒、一軒毎に住所・所持階層(家持・家主・地借・店借)・職業・人名が判明し、所々家作の大きい家には○印が付けられている。
 この絵図を渡世毎に分析した結果、巣鴨町をおおまかに3つの地域に区切ることができると思われる。①一番板橋宿寄りの上組は交通・流通の結節点といえる地域である。馬持・駕籠舁渡世といった交通業者が多いため、板橋宿からくる旅人を待ち受け、あるいは板橋宿へ出て行く旅人を送り出す機能をもっていたと考えられる。また青物・水菓子を商う店が多いため、青物市場的な様相を呈していた可能性を指摘できる。②真ん中の上中組(上仲組とも)・下中組(下仲組とも)は植木屋遊園街として賑わっていた地域である。植木屋はふつうの植木屋とちがい、自邸内を作庭して菊づくりの見世物をおいて、多くの見物客を呼び寄せていた。同時にこの植木屋群は飯屋・居酒屋を近接して抱えており、これらは見物客に飲食を供する店と解釈することができる。③いちばん江戸寄りの下組は、酒屋・荒物屋・小間物屋・呉服屋などといった渡世があり、都市生活に身近な品を商う店が集中している印象がある。
 さらにこの絵図の分析は、ほかの情報と結びつけることによっても活きてくる。たとえば、この絵図に記載されている店のご子孫がいまも巣鴨に住み、おなじ渡世をおこなっている事例をみつけることができた(巣鴨駅前和菓子屋「福島家」)。わたしの聞き取り調査によって、この家の伝承における江戸時代の店の位置と、絵図に出てくる店の位置とが、ほぼ一致することがわかった。絵図の史料的信憑性を高める事例といえる。そのうえ、考古発掘成果と絵図との整合性も指摘することができる。たとえば、巣鴨遺跡では「高サキ」「伊勢孫」という文字をもつ通い徳利が多く出土しているが、絵図などの分析によってこの持ち主が上組伊勢屋孫兵衛・下組高崎屋半兵衛であることがはっきりわかり、その居住位置もほぼ特定することができた。また、以前の巣鴨遺跡発掘では、植木屋の遺構から大量の料理屋遺物が出てきたことがある(巣鴨駅前「桃花源」ビル地点)。この矛盾についても、絵図によって植木屋が飯屋に地貸しをしていたことが判明するから(保坂四郎左衛門地借平右衛門)、容易にこの謎を解くことができるのである。考古学成果と文献とを補い合わせる一事例といえよう。
 これらの成果は、平成15年3月27日、豊島区後援での講演会・シンポジウムを開催することによって、地元に還元することができた。今後、巣鴨地蔵通り商店街の街づくり計画の一環に、絵図をはじめとする歴史史資料が盛り込まれる可能性がある。もしこの絵図をめぐる研究が今後も現地のフィールド・ワークによって進むのであるならば、現地の町づくり計画と実証研究との両者が関わあいをもつということも、充分視野にいれてよいのではないかとわたしは考えている。
(立正大学史学会大会報告要旨、2005年11月27日立正大学大崎校舎511教室)

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2005/09/05

(江戸形成史)殺伐とした江戸

・「刀よこせ棒鑓よ」 江戸時代というと天下泰平のイメージがあります。しかしとりわけ江戸時代初期は島原の乱を過ぎるあたりまで戦国乱世の遺風があり、乱暴沙汰が多く何処も殺伐としていました。将軍のお膝元江戸もその例外ではありません。旗本奴と町奴の喧嘩もちょうどこの頃です。
 その参考になるのが「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」 (『日本随筆大成』第2期4、吉川弘文館、1974)の記述です。

むかしは一ヶ年の内に、一度も、三四度も、夫刀よこせ棒鑓よなどというて、下々も刀拵尻からげ騒し事有しゆゑ、ふだん油断せざりし。近年はそれ刀よといふ程のさわぎなき故、今の若い衆は家内にて丸腰などにて随分油断の体なり、

 ……「むかし」は一ヶ年のうちに三四度も「刀をよこせ、棒・鑓(やり)をよこせ」などという騒ぎがあるため、下々も刀を用意して尻からげて騒ぐことがあった。だから普段は油断することがなかった。しかし「近年」はそういうこともなく、家内では「丸腰」つまり刀をさしていないのだ。
 ここでいう「むかし」とは明暦大火前で18世紀中頃以前のことです。その頃は刀・鑓・棒の3点が使われた「騒し事」が年に多いときで4回もあったといい、非常に殺伐としていた様子がわかります。「近年」とは享保初年のことでしょうが、その頃には「それ刀よ」という騒ぎはなく家で刀をささない武家もあったといいます。

・「要らざる金六」 話はかわりますが、徳川家康はよく鷹狩りを好みました。その目的には軍事演習や自分自身の運動のためということもありますが、そとへ出て民情視察をするということもありました。特に家康は鷹狩り以外にもふだんから下々に声をかけるということが時々あったようです。しかし歴代将軍の中で家康だけがヒューマニストであったわけではありません。時代が下ると将軍という地位も制度化・儀礼化・観念化され、庶民の前には出てこなくなって〝雲の上の人〟になります。
 三浦浄心「慶長見聞集」という史料にこんな譚があります。
 家康存命当時の江戸本町一丁目に益田金六という町人がいました。家康は何故かこの金六がお気に入りでした。家康の外出のとき金六はきまって大手御門外にうずくまっていて、城のそとへ出てくると家康は駕籠をあけて「金六よ」と声をかけて微笑みます。町人とはいえ金六は「大御所様三河岡崎におはします時より御存知の町の者」(史料原文)で家康について三河から出てきた「三河譜代」でした。
 金六は家康の行列の先頭にたち竹杖をついて左右の町を見まわし、「拝み奉れ」(史料原文)と町の者にいって歩きます。それをみて駕籠の中の家康は愉しそうです。それで世の人びとは、

扨も金六は果報の者かな、上様の御自愛浅からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者也、
(金六はいいのう、家康様のたいそうなお気に入りだ、侍だったら過分の知行も下されるだろうに)

 と噂します。
 夕暮れになると金六は帯刀し江戸の町をめぐって辻番を点検してまわります。火の不始末があれば金六は「此町に月行事はなきか、何とて火の番をかたく申付ざるぞ」(史料原文)と叫びます。それで町人たちが驚いて「町奉行のお咎めか」と道に出てきてみれば、金六の姿をみて「なんだ金六の仕業か」と目をまるくします。また夜更に戸のあいた家をみつければ、そこでも金六は「盗人ぞ、町の者ども出会え」と叫び、四方の町を動揺させます。町人たちが「鑓・刀・棒をひきさげ松明(たいまつ)を手毎に持て」、「盗人はいづくに有ぞ」(史料原文)と道に出てきてみれば、金六の姿をみてまた吃驚りする。
 江戸の人びとはこんな金六をもてあましました。それで彼らは要らざる世話のことを「要らざる金六」といいました。金六は武士身分の者ではありませんし、ましてや町奉行所の者でもありません。「金六の奴は町人のくせに町奉行所のような世話をしやがる」という皮肉です。しかし家康お気に入りだから誰も文句をいえません。ほかの史料もみてみると、支配制度の未成熟なこの頃、金六のような「お節介者」がひとりやふたりではなかったのではないかと思われます。
 ここでふたつのことに注目しましょう。①金六が帯刀していることです。「町人に似合ぬ大かたなを肩に打かたげ」「刀を抜持」(史料原文)っていたとあり、まだこの頃は武士・町人の身分制がしっかりしていなかった様子がわかります。②町人が金六の声に驚いて「鑓・刀・棒をひきさげ」て出てくるというくだりは、江戸の町人も武器をもって戦うことがありうる、ということを意味します。この刀・鑓・棒の3点セットは先にご紹介した「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」の「刀よこせ棒鑓よ」とよく符合しています。
 この頃の江戸の角地には何と「三階櫓」という軍事施設のようなものまであったのです。それだけ江戸の町は殺伐としていました。

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2005/08/30

(江戸形成史)「浅草砂」とは何か

・「浅草砂」とは? 江戸考古学の研究者にお会いすると、きまってお訊ねすることがあります。

―「浅草砂」ってご存じですか?

 という質問です。ご存じの方はありません。管見の限り江戸考古学の文献にもその名がみえません。わたし自身もつい最近気になったことで、江戸考古学に怠慢の罪があるわけではありません。ところが江戸時代初期の江戸の史料に、「浅草砂」という砂が頻繁に出てきます。
 たとえば、江戸時代初期の正保5年(改元慶安元年、1648)江戸町触にはこう出てきます。

  御請申事
町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
(略)
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 ここでは海道(街道)の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて中高につくことを命じています。「中高」とは中央を高くして左右を低くすることで(つまり蒲鉾の断面のような形になる)、道の中央を乾かすためでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここ以外にも当時の道普請関係の史料に幾度か「浅草砂」が出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。そしてこの〝「浅草砂」に「海砂」をまぜる〟とはどういうことなのでしょうか。

・「浅草砂」は砂利、「海砂」はただの粒子の細かい砂 「浅草砂」は土地の名前が付いていることからもわかるように、何処でも採れるような砂ではないようです。それでは浅草はどのような土壌なのでしょうか。
 江戸時代初期の随筆の「慶長見聞集 巻之九」 (『江戸叢書第二巻』江戸叢書刊行会、1980 P245) 「武蔵と下総國さかひの事」には、浅草特有の土壌について述べている箇所があります。

見しは今、角田川(隅田川)は武蔵と下総のさかひをながれぬ、されば河なかばよりこなた(武蔵側つまり江戸側)には石有、あなた(下総側)はみなぬまなり、爰に浅草の者云けるは、下総の國に石なき事を、浅草の童部共あなどり笑て、五月になればゐんし(印地、石合戦のこと)せんとて、舟に石をひろひ入、河向ひに見えたる牛島の里の汀へ舟をさしよせ、牛島のわらは共をつぶてにて討勝て、利口を云いて年々笑ふ、 (括弧内は高尾の補注)

 武蔵国浅草は石がたくさんあり、ひとつ川向こうの下総国は沼沢地であまり石がない。浅草の童らは自分の地に石が多いことで、下総国牛島の童らに対して石合戦(印地)で有利になる。これに対して著者三浦浄心は「かくのごとくの國境を如何成かよくしりて分けれたる事の不思議さよ」という感想を述べています。『台東区史』には「浅草砂」についての記述はありませんが、浅草一帯の石の多さについての記述はあります。ちかくに「待乳山」という山がありますが、私見ではほんらい「真土山」だったのでしょう。「真土」、つまりその山だけは石がなくて「真土」だったというわけです。
 また喜多村信節「嬉遊笑覧」 (『日本随筆大成』別巻「嬉遊笑覧1」、吉川弘文館、1979 p47) では「浅草砂」のことを「浅草砂利」といっています。

浅草砂利 むかし江戸にては地突に用る砂利は浅草の産を用ゆ 「正保五年日記」子の二月廿一日町触に、町中海道悪敷所へ浅草砂に海砂まぜ、高低なき様に築可申候、ごみ泥にて築申間敷事。又寛文三年卯四月十日町触に、今度日光へ神田橋より本郷通を被為成候云々海道悪敷所は浅草砂にて中高に一両日中急度築立可申事など多数見えたり。浅草には今に砂利場と云処あり、また古へは隅田川の辺をすべて石浜といへり、今もこのあたりの土中に小石多し

 ここでは「浅草砂」=砂利であって、「むかし江戸」で地突に用いる砂利は浅草産のものを用いたとあります。一般的に「砂」という語の範疇には砂利も含みます。だから「浅草砂」は粒子の大きい「砂」、つまり砂利だったと理解していいでしょう。
 それに対して「浅草砂」に混ぜる「海砂」とは何でしょう。「海砂」という言葉は一般的に粒子の大きい海砂利も含みますが、砂利に砂利を混ぜるようなことはないため、この場合は微細な粒=砂であったと理解すべきでしょう。単に「海砂」とあるから、砂浜ならばどこでも採れるふつうの砂をさしたと思われます。
 以上をまとめると先の正保5年(改元慶安元年、1648)町触の文章は、

 道を砂利+砂で築き固めよ

 という意味に解釈できます。

・砂利と砂を混ぜる意味 この砂利と砂とを混ぜる工法はむかしからふつうにあるもので珍しいものではありません。その参考に大手建築会社某社技術企画センター企画部から頂いたご回答をもとにしてわたしの文責でその理由をまとめます。

(1)砂利道とは……砂利とか砂を道路の土(路床といいます)の上に撒いて固めた層を路盤とか路盤工と言い、このような道路は砂利道と呼ばれおります、現在でもよく見かける道路構造です。 日本では都市の一部を除いては、モータリゼーションが発達する以前の昭和20年代までは砂利道が主流でした。
(2)砂利と砂……現在では砂利・砂は大きな石を砕いて作られた道路用砕石砂利(粒の大きさが5mm~40mm程度) と砕石砂(粒の大きさが5mm以下)を混ぜて道路用砕石が用いられています。日本でも上記(1)で説明した時代までは、海とか川より採取した丸みのある天然砂利、天然砂が主流として使われていました。(今でもコンクリートに使うケースは多い)
(3)砂利と砂を混ぜる効果……砂利と砂を混ぜるのは(1)で説明した路盤の安定と強度を確保する為です。砂利のみを使用したのでは、砂利と砂利の間の隙間が多く路盤が安定しません。この砂利と砂利の間の隙間に粒の小さい砂が入り込み隙間の無い路盤を造る事によって路盤の安定と強度を確保することが可能となります。現在では道路用の砕石は事前に砂利と砂を理想的に配合(ブレンド)した材料が一般的に用いられています。

 粒子の大きさの違う砂で土地を築く理由は、粒度分布のいい砂、つまりまちまちな粒の砂をつかうとよく地面が締まるからです。たとえば箱にパチンコ玉ばかりを敷き詰めた場合指で押せば容易にへこみますが、それは玉と玉の間に隙間があるからです。その隙間をさらに小さな粒で埋めれば安定します。それと理屈は同じです。また海砂を使うのは水はけをよくするためでしょう。泥を使うと粒子が細かすぎて排水を妨げてぬかるみをつくるので不都合なのです。

・浅草の「砂利場」 先の喜多村の「嬉遊笑覧」にみえる通り、浅草には「砂利場」という里俗町名が何箇所かあって、切絵図などにもその名がみえます。「御府内備考」「浅草志」 (三田村鳶魚『未刊随筆百種』第2巻、中央公論社、1976) などの諸書にもあります。特に「浅草志」が記された当時(近世後期か)でも「元砂利場にて今も下を掘に砂利多く出るよし」(同書)とあります。
 それらは何れも江戸城修理に使う砂利をボーリング採取した所で、使われた後は埋め戻されています。その後何れも町場化して「砂利場」という里俗名だけが残りました。ちなみに浅草以外にも「砂利場」はあります。
 あたらしい都市江戸の造成に浅草の砂利が活躍したものと思われます。都市造成の基礎条件みたいなものに目をむける必要があるのではないかと感じます。

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2005/08/27

(江戸形成史)泥だらけだった江戸の町―江戸の街路と浅草砂―

・砂がひいてあった街路 江戸という都市は徳川家康が入府してから大規模な発展をとげます。最近中世史研究の側から「家康前の中世江戸もかなり栄えていたのではないか」という指摘がでてきました。けれども現在の東京のもとを形づくったのは、やはり江戸時代の徳川家といっていいでしょう。
 江戸時代初期、とりわけ17世紀中頃以前の江戸は史料が少なくて謎が多いのですが、たとえば江戸時代初期のころの江戸の街路は、どのように整備されて発展していったのでしょうか。
 まず三浦浄心「慶長見聞録 巻之五」 (『江戸叢書第二巻』(江戸叢書刊行会、1980 P137 正しい史料名は「見聞集」(けんもんしゅう)。幾つか活字本あり) 「土風に江戸町さはぐ事」をみてみましょう。

見しは昔、江戸たえず吹たり、されば龍吟ずれは雲をこり、虎うそぶけは風さはぐ、かゝるためしの候ひしに、江戸に土風吹は、町さはがしかりけり、……昔は江戸近邊神田の原より板橋迄見渡、竹木は一本もなく皆野らなりしが、いま江戸さかゆくまゝ、あたりの野原三里四方に家を作りふさぎ、海道には眞砂をしき、土のあきまなければ、土くじりはいづくをか吹からん、町しづかなり。

 江戸開府前の江戸は埋め立て地・ローム土壌であるためか、多くの土埃が舞っていたらしい。そこで「海道」には「眞砂」を敷いて土の空き間を無くしていったため、土埃は舞わず静かになっていったという。
 「眞砂」を敷くことについて、その砂はどのようなもので何を使ったのかなど詳細は不明ですが、当然街路を固めて舗装する目的だったのでしょう。だからわたしはひかくてき粒子の大きい砂利のようなものだったのではないかと想像します。水江漣子さんによれば、「慶長見聞集」における「いま」の時期は、寛永8年(1631)頃まで下るといいますから、この頃までには随分道が整備されていたかのようにも読めます。

・泥深かった江戸の街路 だから少なくとも寛永期までには全面的に何らかの舗装が行われていたことは事実でしょう。しかし同じ「慶長見聞集」には道のぬかるみが多かったはなしも出てきます。

見しは今、江戸町の道、雨少ふりぬれば、どろふかふして往来安からず、去程に、足駄のは(歯)の高きを皆人このめり、猩々は酒履を好み、江戸の人は沼履を好む、人・猩かはれ共、用る所は漢和ことならず、

 この史料によると、江戸の街路が泥深く往来しにくいため人々が歯の高い足駄を利用していたことがわかります。また泥水がはねたりして往来のトラブルにもなることもありました。新しい造成都市であった江戸はこういうところにマイナス面があったのです。
 近世初期における外国人ロドリコの見聞記によると、江戸の街路の美しさについてほめている箇所がありますから、「眞砂」は確かにあっただろうし、実際に整備されていたのかもしれません。しかし「眞砂」のある箇所はまだ完全ではなかったか、一部舗装が壊れていたか、何れかが想像されます。

・道路の舗装と「浅草砂」 『江戸町触集成』によれば、江戸時代初期の荒れた街路の舗装につかう砂として「浅草砂」というのが出てきます。正保5年(改元慶安元年、1648)町触から。

   御請申事
一、町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
一、下水并表之みぞ滞なき様ニ所々ニ而こみをさらへ上ケ可申候、下水江こみあくた少も入申間敷候、若こみあくた入候ハヽ可為曲事、
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 この町触2ヶ条はごみ対策と纏めることができますが、街路に関していえば1ヶ条目が注目されます。
 街路の舗装にごみが「使われた」というのは滑稽です。むろん深い考えあってのことでなく、ごみをもてあまして街路へ捨てたというのが実情でしょう。泥とゴミで余計にぬかるみをつくったことも想像されます。そこでここでは街路の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて「中高」につくことを命じています。ここでいう「中高」とは中央を高くして左右を低くすることでしょう(つまり蒲鉾の断面のような形になります)。これによって道の中央を乾かすのでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここでいう「浅草砂」とは、浅草で掘って採取された小さめの石で、砂利といってもいいようなものだったと思います。海砂は海辺でふつうに採取された、粒子の細かい砂のことだと思います。この町触を信じる限り、江戸時代初期の江戸の街路は、このような砂利と細かい粒子の砂で固められたのでしょう。

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2005/08/08

(騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談―

・『福翁自伝』の「英国軍艦江戸湾来航事件」 いまの世の中地震続きで心配です。そろそろ拙宅のある関東も危ないというので心配です。
 文久3年(1863)春も、江戸は歴史上稀有なクライシスにさらされていました。英国軍艦が横浜沖に集まり、江戸の幕府と戦争をするかもしれないという緊迫した状況があったからです。「英国軍艦江戸湾来航事件」です。このとき江戸は一触即発の戦争勃発の危機にあって、江戸っ子によるおおきな避難騒動がおきました。結局戦争はおきませんでしたが、江戸の人びとがこのときに経験した恐怖はなみなみならぬものがあったようです。
 ことの原因は前年(文久2年)におこった生麦事件です。これは東海道神奈川宿ちかくの生麦という在所で、薩摩藩の行列が英国人たちを殺害・傷害した事件です。それに対して英国は幕府にたいして賠償金要求に出てきました。むろん要求といっても、ふつうにやっては話はまとまりませんから、横浜沖の軍艦という武力を背景に交渉したわけです。アヘン戦争で中国を屈服させた英国ですから、このくらいはお手のものです。それに対して日本の江戸幕府はやはり戸惑うばかりで、会議をしても小田原評定、なかなか結論がでません。そのうち幕府も半ば戦争を覚悟したようです。
 福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂福翁自伝』(岩波文庫)に、福沢諭吉の目からみた「英国軍艦来航事件」が記されています。ちょっと長い引用ですが煩を厭わずご紹介することにしましょう。

それから攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御進発として長州征伐に出掛けるというようなことになって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親をもって交わろうと思うてこれまでも有らん限り柔らかな手段ばかりを執っていた、然るに日本の国民が乱暴をして、あまっさえ人を殺した、如何にしてもその責は日本政府にあって免るべからざる罪であるから、こののち二十日を期して決答せよという次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、なお二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕って眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。……そうするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、ところがもう二十日待ってくれろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやらこうやら待ってもらうことになった。ところでいよいよ償金を払うか払わないかという幕府の評議がなかなか決しない。その時の騒動というものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判、……これはいよいよやるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時までも説が決しない。事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私のところに疵の付いた箪笥がある。いよいよ荷物を片付けようというので箪笥を細引で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣はないからというので、青山の穏田という所に呉黄石という芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私はかねて知っているから、呉の所に行って、どうか暫くここに立退場を頼むと相談もととのい、いよいよ青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。これは今明日の中にいよいよ事は始まると覚悟をきめた。その前に幕府から布令が出てある。いよいよ兵端を開く時には、浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを合図に用意致せという市中に布令が出た。江戸ッ子の口は悪いもので「瓢箪 兵端 の開け初めは冷 火矢 でやる」と川柳があったが、これでも時の事情はわかる。……それからまた可笑しいことがある。私の考えに、これは何でも戦争になるに違いないから、マア米でも買おうと思って、出入の米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋に入れて置いた。ところが期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると言ったところが、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負って駈けることも出来なかろう。これは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜いと言ったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、

 このとき福沢は幕府で翻訳の仕事をしていましたから内部事情がよくわかります。福沢は「事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズ」と幕府内部の無責任体質を浮き彫りにしています。また福沢は戦争のときのために米や味噌を蓄えていましたが、むしろ逃げるときはそれらは不必要だと、苦々しげに書いていておもしろい。
 このときは福沢だけではなく、江戸っ子が大勢「われ先に」と避難してゆきました。その結果草鞋や大八車の運賃なども高騰します。江戸の避難民の記事は驚くべきことに、とおく北関東の村々の日記中にも散見されます。しかし結局幕府は賠償金を支払うこととなり、戦争の危機はなくなったのでした。

・戦争になったとき何処へ逃げるか 『番付で読む江戸時代』(柏書房)の拙稿では、この事件に関する見立番付をすべて読み込んで分析してみました。
 わたしの調べでは、いざ戦争となった場合、大砲玉の飛んできそうな横浜や品川・芝周辺の江戸南部・江戸内湾海岸沿いが危ない、という風評だったようです。見立番付を集めてみますと「横浜の町人」「芝品川の物もち」「海辺の物持」「海辺の四民」「江戸南方四民」などとあります。とりわけお金持ちはまず逃げ出さなければなりません。家財道具などが多かったからです。福沢でさえ米・味噌で難渋するくらいですから、彼らはとても大騒ぎだったことでしょう。
 逃げるといっても何処へ逃げたのでしょう。さきの『福翁自伝』によると、福沢は青山に逃げるつもりだったようですが、見立番付では「場すへの大家さん」「根岸の売家」「千住辺の家主」は避難民をうけいれて儲かった、としています。
 問題は「大店・沢庵屋へ立退」とある見立番付の解釈です。『番付で読む江戸時代』では、練馬は大根の名産地であることから(練馬大根)、この「沢庵屋」を練馬方面と解釈して、わたしはこれを「大店は練馬へ逃げた」と解釈してみました。原稿締め切りに追われていたとはいえ、これでいいのかどうか、正直いってわたしも自信がありませんでした。
 そこで後日、三井文庫の史料をしらべてみることにしました。三井文庫とは大店のひとつ三井越後屋の貴重史料を保存・研究している施設です。三井文庫「安政四年 永書」(文書番号138)文久3年(1863)3月条には、

…店々相談之上、売用之品并諸帳面其外太切(大切)之品追々荷造為致、桐生・藤岡・半能(飯能)・八王子・練馬右五ヶ所え都合克差送り可申…

 とありました。わたしはこれをみてホッとしました。どうやらわたしの考えは間違いではなかったようです。やれやれ。それにしてもこれでにわかに大根流通と大店との関係が気になってきました。こうやって問題がひろがってゆきます。

(付記)この「英国軍艦江戸湾来航事件」のとき、将軍家茂は京都にいました。将軍留守中のこの江戸のクライシスは、幕府にとって衝撃だったらしく、京都にいた浪士隊の新徴組に江戸帰還を命じます。しかし近藤勇らは京都に残留して新撰組を組織します。3月13日には新徴組江戸帰還組が京都を出発しています。また、幕府が賠償金を支払う方針で幕府と英国が和睦したあと、英国軍艦は薩摩藩にも回航して交渉します。その結果、薩英戦争がおきました。この事件のもたらした波紋はおおきかったといえます。

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2005/08/05

(騒動)大江戸クライシス

・大江戸クライシス 幕末維新期の江戸社会の大騒動といえば、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
 ペリー来航でしょうか、それとも官軍が攻めてきた江戸開城前夜か、あるいは彰義隊の上野山戦争でしょうか。たしかにそれら何れも、上は武士から下は庶民まで上を下への大騒ぎでしたが、これらに勝るとも劣らない大事件がありました。
 それは文久3年(1863)3月~4月にかけておきた「英国軍艦江戸湾来航事件」です。この事件は海外からの脅威によっておこった江戸っ子の避難騒動ですが、ペリー来航事件よりも規模の大きな騒動であったと思います。
 この事件については特にきまった名称もなく、歴史研究者さえも事件の大きさのわりにはあまり注目していないように思います。たとえば『江戸東京年表』(小学館、1993)にもこの事件についての記述は全くありません。それでこの事件についての史料の誤読や事実関係の誤解が珍しいくらいに数多く散見されます。これは幕末維新史の研究にとってゆゆしき事態だと思っています。
 しかし史料は豊富で錦絵・見立番付・落首などが多く出ています。そのことについての一端は『番付で読む江戸時代』(柏書房)所収の拙稿「幕末の激動と人びと」に披露しておきましたので、興味のあるかたはご覧ください。

・生麦事件 文久2年(1862)8月21日、神奈川近い生麦村で、薩摩藩「国父」島津久光の行列が、無礼のかどで通りかかったイギリス人1人を殺害、2人を負傷させるという事件が発生します。これが世にいう「生麦事件」です。薩摩藩にとっては、江戸で幕府に攘夷決行・幕政改革を決意させ、意気揚々の帰国途中でしたから、その勢い余っての事件だったといえます。薩摩藩の行列は幕府の制止にもかかわらず、そのまま東海道を進んでいきました。
 この薩摩藩が蒔いていった不測の事件は大きな外交問題にまで発展し、文久3年(1863)2月、イギリスは多数の軍艦を横浜沖に結集させ、幕府に先の生麦事件に対する賠償を求めます。イギリスの態度は強硬で、もしも交渉決裂した場合、江戸や周辺の海岸で兵端が開かれることが予想されました。幕府は次々に防衛や治安維持のための町触を出し臨戦態勢をとりました。このために江戸町中は騒然となりました。

・記録 江戸神田雉子町の名主である斎藤月岑は、「武江年表」文久3年(1863)3月条の中で、このときの騒ぎを次のように述べています(『新訂武江年表』2巻<平凡社、1968>)。

「○三月初旬より横浜に於いて、異国の使船鎖港の御応接激切に及ばんの由、この事に就き閭巷の浮説により実否を弁ぜずして、去る丑年の如く、諸人慴怕のこゝろをいだき、耆嫗婦幼をして遠陬へ去らしめ、資材雑具は郊外の親戚知己の許へ預くるとて、これを運送しけるが、程なく騒屑の噂も止みければ、四月のころより各安堵して本処へ帰れり。此の間、尊卑の家に費す所の金額はいかばかりならむ。又棍賊侯白(ぬすびとかたり)時を得て掠奪せるも多かりしとぞ。此の節、船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)等の賃銭甚だ貴かりし。」(高尾が字を改変した箇所がある)

 むつかしい言葉で書いてありますが、要するにこういうことです。このとき江戸やその周辺がパニックに陥ります。さすがに幕府も戦争を半ば覚悟したため、多くの人々が「慴怕のこゝろ」を抱いて江戸から「郊外」へ逃げ出す騒ぎになった。もちろんペリー来航時(「去る丑年の如く」)にも同じような騒ぎはありましたが、現場が江戸から遠い浦賀であるし、戦争目前というわけでもなかったから、この時ほどのパニックにはならなかったと思います。
 ここで「耆嫗婦幼」とありますが、一家そろって郊外に逃げ出すことも多かったと思われます。もちろん「資材雑具」も江戸以外の親戚知己のもとへ預けます。その結果、労働者である「船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)」は、運賃が「賃銭甚だ貴」くなったので大もうけしました。普段は肩身の狭い思いをしている彼らですが、この時とばかりは大変な量の「資材雑具」をもつ江戸の富裕層の足下をみたのです。そのうち4月に入り幕府がイギリスに賠償金を支払うことで決着したため、やっと事態が沈静化、避難民は「安堵」して江戸へ帰ってゆきました。
 この後に英国軍艦は薩摩にまわり、同じように薩摩藩と賠償金要求をします。そこでは幕府とは違い戦争となりました。これが世にいう「薩英戦争」です。結局幕府は戦争をしませんでしたが、薩摩藩は戦争をしました。このときの違いが幕末維新史の流れにおおきな影響を与えたことはいうまでもありません。

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2005/06/15

(史料)居眠りの愉楽

 いよいよまた暑い季節がやってきます。その風物詩(?)ともいえそうな習慣が昼寝です。最近では昼寝の効果が見直されてきたようで、社員みんなで昼寝をする会社もあるそうです。
 こういうことは今昔同じで、「こう暑いんじゃ、やってられないよ」といわんばかりに江戸っ子も昼寝をしていたようです。菊池貴一郎編『江戸府内 絵本風俗往来』(青蛙房復刻版、1965)を繙いてみましょう。

○午睡(ひるね)
真夏の頃は、午飯(ひるめし)終るや、睡気頻りに催し、市中道路の往来も日光のつよさに堪へかねて、一時は絶て止ぬるまゝ、自然近隣何等の響も聞へず、諸職人は午飯休(ひるやすみ)の肱枕(ひじまくら)、諸商店は算盤にもたれる手代あれば、硯箱へ肱(ひじ)をつきたる老番頭も見へ、船漕よする小僧さんもあり、勝手の方に女中方思ひ思ひの忍眠り、奥にて子供を寝しながら、母親さへもへの字の形、去れば此時いづれも同じ鼾睡(いびき)の声、……午飯終れば睡(ねむ)るものと眼が覚て又ひるね、気楽な世代と笑はれるが、昔の江戸の習慣とは扨お恥かしいことなりける、

 「日光のつよさ」で町中がしいんと静かになって、諸職人・手代・老番頭・小僧・女中、そして子どもを寝かす母親まで、枕をならべて討ち死にしている。いまにも目に浮かんでくるような風景です。

うつぶいて筆で艫を押す夜手習 「もみち笠」

 とくに小僧は夜しか勉強する時間がありません。時間とあぶらを惜しまず手習いをする。それで昼間も居眠りしてしまうのかもしれません。

 さきに「昼寝は江戸っ子の恥ずかしい習慣」というふうに書いてありますが、世界的にみて日本人は居眠りをする民族なのだ、という意見もあるようです。考古学者の故・佐原真さんによるエッセイ集『考古学千夜一夜』(小学館ライブラリー88、小学館、1996)「居眠りも日本文化」に教えられました。

欧米の人びとは、日本人の居眠りを異常視する。「交通機関の中では、彼らはものを読んでいなければ眠っている。やむなく乗客のまんなかに立ったままで……。なにしろ日本人は、こうこうと明かりがついていようと、ひどい喧騒の中であろうと、どんな人込みの中であろうと、いつでもどこでも眠ることができる」(P=ランディ著 林瑞枝訳『ニッポン人の生活』文庫クセジュ 白水社 一九七五年)。……学生時代、樋口隆康さんの古鏡の講義を一人だけで受けたとき、私は睡魔におそわれた。一対一なんだからおきていなければと理性がよびかけたけれど無駄。その心地よかったこと。目を覚ますと、講義は、淡々と続いていた。何たる寛容さ。いま、教壇に立って居眠り学生を決してとがめだてしないのは、その思い出ゆえと、日本文化を大切にしたい精神からである。

 先生ひとりと学生ひとりとはこれ如何に? 怪しむことなかれ、大学院生の授業では、こういうことも珍しくないのです。わたしも先生ひとりに生徒3人の授業をうけていました。欠席したらたいへんですが、居眠りもまずい。
 それでも居眠りをしてしまった。佐原真さんという大物も睡魔には勝てなかったということでしょう。睡魔に弱い怠惰なわたしも励まされるような(?)エピソードです。

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2005/05/05

(史料)武士が犬の糞を踏む―酒井伴四郎日記―

 旅ゆけば心浮き立つのは今も昔もかわりません。
 紀州藩衣紋方(衣服担当部局)の下級武士酒井伴四郎は、万延元年紀州から江戸に公用でやってきます。彼にとって江戸の様子は見るもの聞くもの驚きの連続で、その感想を細かに日記に書き記しています。ここではその一部をご紹介することにしましょう。

六月朔日……大名小路え行、諸大名之屋敷一見致、余り暑き故照り降り傘壱本叔父様と買、又大名登城下り見物ニ参り、幸上之帰御拝し、其勢飛鳥之落る計り也、諸大名小名之下り誠ニ目を驚ス……。

 大名屋敷や大名行列は見物の対象でした。江戸は諸大名が集まる唯一の土地でした。

廿五日……直助ニ髪結い貰、叔父様・予・為吉同道ニて、赤羽根之有馬之屋敷見物、薩摩ノ屋敷見物、其所予犬之くそふむ、夫ヨリ芝田丁高輪泉覚(岳)寺へ参り、赤穂家臣四十七人之墓へ詣り、為吉ハ品川之問屋へ行、其間ニ茶屋へ這入一盃呑、大ニ高し、夫ヨリ日影丁へ行、着物壱枚買、又芝へ行、小道具帰り懸岩水屋ニてどぜう鍋・すし抔買、帰着……。

 赤羽の有馬家屋敷(火の見櫓が有名)・島津家屋敷を見物します。
 しかしそこで彼は犬の糞を踏んでいます(「犬之くそふむ」)。「江戸に多きもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉があり、屋号に伊勢屋、祠に稲荷、動物に犬というのが江戸の定番でした。伴四郎もここで江戸の〝手痛い洗礼〟を受けたようです。
 気を取り直して赤穂浪士の墓に参詣。茶屋に入って一杯飲んだが「高し」と不満、しかしその後どじょう鍋・すしを買います。

十七日……両人(伴四郎・為吉)ニて芝へ行、愛宕山へ参詣いたし、世間を見渡し、江戸三分一ハ爰ヨリ見ゆる、其広サは中々詞ニも筆ニも尽しがたく候、夫ヨリ増上寺え参詣いたし、其寺内之広さ、寺之内とハ不被思候、通り抜ケ、扨諸道具・錦絵・其外細工物、諸事何やかや商店之賑ひ驚目候……。

 愛宕山は江戸を見渡すのに絶好の場所でした。「江戸は三分の一しかみえないが、その広さは言葉にも筆にもならない」と語っています。増上寺を通り商店の賑わいをみて目を驚かします。
 有馬家屋敷・赤穂浪士の墓・どじょう鍋・愛宕山などなど、伴四郎の見物先は江戸見物の定番でした。ほかにも美人の常磐津師匠のもとに通ったり、開帳や見せ物を見物したりと、武士のわりにはユーモラスな行動をみせています。
 この伴四郎の日記は林英夫「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿区の移り変わり―四谷編―』新宿区教育委員会、1983)で翻刻紹介されています。

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2005/04/28

(今も昔も)江戸奉公人立志伝

 雪国から江戸へ出稼ぎに出てくる人たちは、ことのほか多かったようです。甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・越後(新潟県)などです。わたしの好きな小林一茶も信濃からの出稼人のひとりで、彼らは特に「信濃者」「椋鳥」の蔑称で呼ばれました。
 菊池貴一郎編『江戸府内 絵本風俗往来』(青蛙房復刻版、1965)を繙いてみましょう。

○甲信のもの江戸に出づ
甲州・信濃辺は雪降りつゞき、寒さも随て烈しく、家業農業の合の間なるより、この頃江戸に出て奉公につくものあり、又商ひをなして、明年の春は利得を懐中して帰国するあり、そのまゝ江戸に永住するもありけるが、十中七八までは帰国するなり、何故江戸に止まらざるやといふに、火事と喧嘩の多きに恐れけるとなんと聞こえし、奉公するは多くは湯屋・米屋に住みこむもの、十に八九なり、永住して江戸に止まる者は、町内の木戸際に番屋といふものありて、其番屋の番太郎といふものになり、又は酒店の傭(やとい)などとなる、然るに末は金を溜て米屋の店を出すものは、甲斐・信濃・越後の出生に限りたり。

 ―甲信地方の出稼ぎ人は湯屋・米屋に住み込んで働く。春になると給金を懐にさっさと帰ってしまう。何故といえば江戸の火事と喧嘩に嫌気がさすからである。まれに江戸に永住するものがあって番屋の番人か酒店の雇い人になる。お金をためると米屋の店を出す。それが甲信越地方の出身者の傾向である。

 唐突ですが、「目白御殿」と通称される旧田中角栄邸宅(現、田中直紀・眞紀子邸宅)が東京都目白にあるそもそもの理由は何でしょうか。
 田中角栄は大正7年(1918)新潟県刈羽郡二田村(かりわぐん・ふただむら)に生まれます。尋常高等小学校を卒業すると科学者・実業家の大河内正敏(旧大多喜藩主大河内家当主、理研コンツェルンの生みの親)を頼って上京します。江戸時代にも越後国からたくさんの百姓が出稼ぎにきたわけですが、それを彷彿とさせるような光景です。行き先が大名家というのも面白い。いわば武家への中間奉公を目指したわけです。このへんあまり江戸時代と変わっていない。
 けっきょく彼は大河内家の門前払いを喰い、その下請の土建会社に就職します。そして勉励刻苦したのちに政治家になり、自由党(現在の自由党とは無関係)総務にまで出世します。そのとき東京都目白の土地16500平方キロメートルを購入します。
 購入の理由はこの土地が故郷二田村旧領主の椎谷藩堀家屋敷跡だったからだそうです(水木楊『田中角栄 その巨善と巨悪』日本経済新聞社)。この話の真偽はわかりません。わたしも調べてみましたが、江戸時代の目白に、堀家の屋敷を確認することはできませんでした。……もしかしたら明治以後に堀家が屋敷をもったということなのかもしれません。
 何れにせよ田中角栄の執念みたいなものを感じさせます。もし誤伝だとしてもそれはそれでおもしろい誤伝です。

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