去年公開されていた映画「草の乱」は、埼玉県民のみなさんの募金によって作られた映画です(主演は「井上伝蔵」役の緒方直人さん)。明治17年、松方デフレに喘ぐ秩父の民衆が蜂起した事件、秩父事件を扱ったものです。「江戸時代研究の休み時間」を標榜している以上、この映画には言及しなければならないでしょう。
この農民一揆をおこしたのは「秩父困民党」です。彼らはながらく天皇制に歯向かう「暴徒」という烙印が押され、歴史の闇に葬り去られたままでした。今回、県民の方々の手によって、映画のかたちで復権されました。その意味で貴重な映画といえます。映画を支える人びとの情熱が伝わってきました。
この「秩父困民党」の総理(頭取)は田代栄助という人物です。映画では林隆三さんが演じていました。この人物、実は歴とした「博徒」です。しかし研究者は「単なる『博徒』ではなく『侠客』であった(つまりヤクザではない)」と〝注釈〟をつけて説明します。彼の尋問調書にこうあります。
……自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者頼リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ、中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事、実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人、……
なるほどこれを信じれば「侠客」であったことになります。秩父は養蚕地帯です。金銭トラブルなどが頻発したに違いないのですが、そういうとき、彼が仲裁してことをおさめてくる。頼りになる親分だった。その延長線上に一揆の総理職があるわけです。
もっとも、幕末から明治にかけての「博徒」は、一般的にも我々のイメージする現代の暴力団とは違うものだと思います(勿論いろんな側面はあります)。たとえば、百姓一揆の頭取に「博徒」がおさまることは全く珍しいことではありません。したがって「博徒」田代が総理でもおかしくはない。このことひとつとっても、「博徒」が地域社会からどのような目で見られていたかがわかります。むかしの「博徒」は地域社会から乖離した存在ではなかったのです。
さて、映画「草の乱」において、栄助の身の上が窺えるシーンは、以下の3箇所があります。加藤伸代さんのシナリオ「草の乱」から引用します(『シネ・フロント』2004年8月号。番号はシーン番号)。
(A)16「演説会会場」(高尾注、大井憲太郎の演説会) 織平「おい! ありゃ、大宮郷の田代栄助じゃねぇかい」 威風堂々とした年配の男・田代栄助が、入ってくるのが見える。栄助、座る。 善吉「間違いねぇ」 織平「田代さんが、自由党の演説聞きにくるたあな……」
(B)114「皆野の旅館『角屋』・表」 ……栄助、胸を押さえて、玄関の上りかまちに倒れ込む。出迎えた、菊池、善吉が驚く。 善吉「総理!」 伝蔵「胸痛でがんす。持病らしい……」 熊吉「親分、しっかりしとくんな!」
(C)40「織平宅・座敷」 ……善吉「党には頭がいる。引き受けちゃあもらえますめいか」 宗作「引き受けておくんない」 寅一「親分!」 織平「おれが頭じゃ、博徒の集りだと勘繰られやしねえか」 小柏「誰かお心当たりは、ござんせんか」 織平「……大宮郷の、田代栄助はどうだい」
この(A)と(B)によって、田代が「博徒」の親分であることを、何となく観客ににおわせています。ところが(C)では、加藤織平が「博徒」(事実加藤も「博徒」でしたが)であり田代は違う、という設定になっています。ちょっと不鮮明な構成です。つまり(C)では、田代の「博徒」の役回りを、加藤織平が代わりに背負ったかたちになっています。
「秩父困民党」の名誉回復は大事な仕事ですが、映画で史実を全てそのままに切り取ることは困難だったようです。秩父事件顕彰の経緯からして、映画で田代を「博徒」と表現することは不可能だったのでしょう。もしも一度「博徒」と表現してしまえば、観客に必ず誤解を与えることでしょう。
わたしが映画「草の乱」を観覧した理由は、「いったい田代はどう描かれているだろうか?」というマニアックな関心があったからですが、映画製作サイドのご苦悩の痕跡にため息が出ました。<歴史ドラマ表現>と<歴史の実在>とのズレはなかなか難問なのです。映画製作サイドには、是非このことをお訊きしてみたいと感じました。
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