2016/09/04

(史料)父を想う気持ち―漱石の長男―

 十川信介編『漱石追想』(岩波文庫)には、夏目漱石に関わった49人の追想が掲載されています。そのなかで、家族の追想もあり、家庭での漱石が、わけもわからず突然に怒り、子どもを殴るなどしていたことが記されています。それは、なぜなのか。漱石の長男で、バイオリニストの純一さんによる文章です。

ぼくは前にも記したが、自分を父が撲ったりしたことを、合点しにくかった。人が「君を愛していたからだ」などといっても、素直に受取れない。ところが或るとき、千谷七郎という人の『漱石の病跡』という本を、のぞいてみたことがある。それによると漱石は病気であったというのだ。躁鬱病のことである。父が憂鬱になったり、荒れたりしたのは、そういう病気のためかと思ったら、ひじょうに嬉しかった。たいていの人は、親が精神の病気を持っていたといえば、むしろ悲しく思うのだろうが、ぼくの場合には逆なのだ。つまり、あんなにぼくたちを可愛がってくれた人が、ふとしたときには乱暴をする。それを考えると、もやもやしていたのに、病気だときいてから、気分がさっぱりした。(『図書』昭和45年7月、十川信介『漱石追想』[岩波文庫]再録)

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2005/07/02

(人物史)川路左衛門尉聖謨

 安政4年(1857)4月21日、老中阿部伊勢守らの行列が、武蔵国多摩郡羽村上水大口見分のため、多摩郡の村々を通行したときのことです。
 沿道の百姓たちはいろいろとそのためのお世話をします。もちろん幕府首脳たちですから、格式とそれにともなう威厳があって、彼ら百姓たちと無駄口をたたくようなことはいたしません。百姓たちにとっても幕府首脳は雲の上のおひとだった。
 ところがそのお歴々の中、ひとりだけ人なつっこいおひとがいたようです。勘定奉行の川路左衛門尉聖謨(としあきら)です。何と彼が百姓に話しかけてきたので、それは「一奇談」として村の記録に残されました。

……爰に一奇談あり、御勘定奉行川路左衛門尉様御立出、御乗馬なされ候間、御馬脇に附添、青梅橋の方え御案内致し候処、種々御咄しの際、是よりサンホク迄何りこれあり候や御尋につき、羽村まで御通行筋ニサンホクと申す村名・地名御座無き旨申上候処、例の扇面(高尾注、地名を印刷した扇をもっていたらしい)御見なされ、是に正に記しこれあり候如何との仰につき、拝見致し候処、三ツ木村の内字サンホリの間違に御座候旨申上候処、成程サンホリのリとクとの書損、筆者の誤りにて発明と、手を打御笑ひなされ……

 つまりはこういうことです。

乗馬した川路が地名の印刷された扇をもちながら、百姓と話しながら歩いている。川路がふと「サンホクまで何里だ?」と百姓に尋ねた。すると百姓は「羽村までの沿道にサンホクなどという地名はございません」と答える。それで川路は不審な顔をして「ここにちゃんと『サンホク』と書いてあるではないか」と百姓に例の扇を差し出した。すると百姓は「三ツ木村の字の『サンホリ』の間違いでございます」と答えた。それで川路は「なるほど、『サンホリ』の『リ』と『ク』の書き損じだな。筆者の誤りということか。わかった」と手をうって笑った。

 実は彼は根っからの御旗本ではありません。日田の地役人の子にうまれ、江戸の幕臣の家に養子に入り、幕府の中枢にまで累進をとげた能吏です。
 もとが地役人の家ですから、百姓に親近感があって、フレンドリーに会話することができたのでしょう。また、現地の百姓と雑談することで、世の中をひろく知ることができるのです。幕府の御用部屋でいくら書類と格闘していても、わからないことは沢山あって、川路はそれを痛いほどよく知っていた筈です。
 ともあれ、村の記録に勘定奉行との雑談が残されるのは極めて珍しい。この記録は武蔵国多摩郡蔵敷村「里正日誌」に書き留められています。

 もうひとつ、川路の能吏としての人物的雰囲気が伝わる文章をご紹介しましょう。ロシア人が川路と接触したときの文章です。

この川路を私達は皆好いていた。筒井老人とは別で、意味も違うが、老人以上でなくとも、少くとも同程度に好きであった。川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法でもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。その一語一語が、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイットと、炯眼と、練達を示していた。……私の気に入ったのは、川路が話しかけると、立派な扇子をついて、じっと見つめて聴く態度である。話の中程まで彼は口を半ば開いて、少し物思わしげな眼付になる。これは注意を集中した証拠である。(ゴンチャロフ著・井上満訳『日本渡航記』岩波文庫)

 交渉事にたけ、ここ一番で静かにふかい思索にふける。そんな川路の姿が目の前に浮かび上がってくるようです。幕府創業の功臣の子孫たち、つまり門閥の家々は、糞の役にも立ちません。かえって川路のような人間の方が役に立ち、胆がすわっていて立派だったのです。
 ちなみにこの川路、戊辰戦争の江戸城開城直前、自宅において、切腹ののちピストルで自分を撃ち抜き、自害しています。惜しい人物を亡くしたものです。彼の合理的思考癖とその最期とは、あまりに不釣り合いな感もありますが、無能な門閥の幕臣よりもはるかによく幕府を支えていた人物ですから、幕府と運命をともにしようと考えるのも、当然といえば当然でしょう。そのてん、越後長岡藩の河井継之助と似ているかもしれません。

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2005/06/18

(名前)命名するということ

 わたしの名前は善希といいますが、「善」の字は江戸時代からの世襲です。大した家柄ではありませんが、惰性で同じ字が歴代続いてしまったらしい。
 わたしの長男も「善」の字がつきます。彼の名前を考えたのはわたしですが、名前を決めるのが面倒だったから、とりあえず「善」を冠にし、その後ろにあまり意味のない文字をひとつつけた。あまり子どもの名前にこだわりません。これは子どもへの愛情とは無関係なことです。
 したがって、このような「どうせ名前なんて記号と同じだ」という極めて素っ気ない考え方に立てば、世襲の名前は結構便利かもしれないのです。ちなみに、次男の名前の場合は「善」の字はつきません。女房が考えてくれた名前ですが、どういう由来だったか思い出せません。それは女房もわたしと考え方は似ていて無造作につけてくれたからです。
 しかし昨今では凝った名前をつける親御さんが多くて驚かされます。親の愛情のあまり読ませ字が多く、名前の読み方がわからないものもあります。ただそれらは人知のおよぶ限りに考えに考え尽くしたものらしく、アイデア性に富み、「なるほど」と感心してしまうものばかりです。これは〝命名のプライベート化〟とよぶべきことかもしれません。
 それでもわたしの場合は、息子なんかにいい名前は勿体ないから、新種の昆虫の学名くらいに機械的でわかりやすいものが丁度よいだろう、と考えています。

 そんなわたしでもちょっとこころ動かされる名前がありました。
 それは松尾芭蕉「おくのほそ道」にあります。芭蕉が下野国那須野に通りかかる場面です。

   那須野
……雨降り日暮るる。……野飼の馬あり。草苅るおのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず、「いかゞすべきや。されども此の野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷き旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したいひてはしる。独りは小姫にて、名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
   かさねとは八重撫子の名成るべし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付けて馬を返しぬ。

   (久富哲雄訳)
……雨が降り出し、日も暮れてしまった。……野飼いの馬がいた。そばで草を刈っている男に近寄って嘆願したところ、田舎者ではあるけれども、やはり人情を知らないわけではなく、「どうしたらよいかなあ。案内してあげるわけにもいきませんが、とは言っても、この那須野は道がむやみやたらに分かれていて、この土地に慣れない旅人はきっと道をまちがえるでしょう。それが心配ですから、この馬に乗って行って、馬が止まった所で、馬を帰してください」と言って、馬を貸してくれた。小さい子供が二人、馬の跡について走って来る。一人は小娘で、聞いてみると、名前を「かさね」という。聞きなれない名前が、いかにも優雅に感じられたので、 「かわいらしい子供はよくなでしこにたとえられるが、この小娘は「かさね」という名前だそうだから、なでしこならば花びらの重なり合った八重撫子の名であろう。曽良」 まもなく人家のある村里に着いたので、馬の借り賃を鞍壺に結びつけて、馬を帰した。(久富哲雄全訳注『おくのほそ道』講談社学術文庫452、1980)

 わたしはこの文章が何処となくゆかしく思えて、「女の子がうまれたら『かさね』にしよう」と考えていました。
 ところが「『かさね』とは怪談の幽霊の名前ではないか」とひとから指摘され、それもそうかと急に熱がさめてしまった。しかも結局女の子もうまれなかったのです。
 それで「世の中はうまくはいかないもんだ」とこちらが「恨めしく」思ったものです。

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2005/04/25

(史料)「御国恩」とはなんぞや

 よく「武士は喰わねど高楊枝」といいますが、武士は困窮しても武士としての面目を失うまいとします。それは、時として気高くみえますが、時として滑稽にうつります。
 「花は桜木、人は武士」というように、武士というと美しき日本人の典型とみられていますが、その一方で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉もあります。忠臣蔵のような忠臣劇は結構ですが、民草に迷惑をかけてもらっては困る。

 「高楊枝」をやっている幕府や藩も、とりわけ江戸時代も後期になると、深刻な経済的逼迫に陥り、そんな暢気なことはいっていられなくなります。そこで商人・百姓から、本来の税とは別に、臨時税である「御用金」を取り立てることが多々ありました。その理屈は

東照神君(家康)以来、殿様が世の中を泰平におさめているからこそ、おまえたち民が安穏に暮らしてゆけるのだ、この無事泰平の『御国恩』に感謝せよ

というものです。「冥加金」と称することもありますが、この「御国恩」の冥加に報謝する、という意味です。とりわけ町人に対する納金要求は激しいものでした。たくさんお金をもっているからでしょうが、取り立ての論理はこうです。

武士は武をもって世の中をおさめる。百姓は力業して農作物をつくる。しかるにおまえたち商人は世の中のために何をした?

 このように「様々な身分的立場から国家を支えよう」という考えは、江戸時代から一般的に存在した考え方です(「役の論理」)。しかし「商人は著しく国家への貢献度が低い」という考え方は、果たして実態を表現したものでしょうか? 幕府や藩は、この商人からたくさん借金していますし、百姓だって、鍬や衣服が買えるのは商人が存在するからでしょう。理不尽であることこの上もありません。

 この「御国恩」の虚偽を鋭く批判したのが福沢諭吉です。おもしろい文章なので、長文を厭わずここに引用しましょう。

政府は年貢運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと言うべし。 (中略) 然るに幕府のとき、政府のことを御上様(おかみさま)と唱え、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅籠までもただ喰い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、甚だしきは旦那が人足をゆすりて酒代(さかだい)を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。或いは殿様のものずきにて普請をするか、または役人の取計いにていらざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、色々言葉を飾りて年貢を増し御用金を言い付け、これを御国恩に報いると言う。そもそも御国恩とは何事を指すや。百姓町人らが安穏に家業を営み盗賊ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と言うことなるべし。固(もと)よりかく安穏に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言うべからず。政府もし人民に対してその保護をもって御恩とせば、百姓町人は政府に対しその年貢運上をもって御恩と言わん。政府もし人民の公事訴訟をもって御上の御約介(厄介)と言わば、人民もまた言うべし、十俵作り出したる米の内より五俵の年貢を取らるるは百姓のために大なる御約介(厄介)なりと。いわゆる売り言葉に買言葉にて、はてしもあらず。兎に角に等しく恩のあるものならば、一方より礼を言いて一方より礼を言わざるの理はなかるべし。
(『学問のすゝめ』岩波文庫、青102―3、1942 同書二編、24頁~25頁)

 福沢の文章はとても易しく明快な文章なので(岩波文庫版なので歴史的仮名遣いなどはいまの仮名遣いに直してあります)、現代語訳は無用でしょう。福沢の文章は現代人にとっても読みやすいのが特徴です。外国語をよく勉強していた彼は、機械仕掛けの論理的で明快な文章を書くことのできる、数少ない日本人でした。ここで福沢は、江戸時代の「御国恩」の馬鹿らしさを痛烈に批判しています。「もともと安穏に人民が渡世できるのは政府の法があるためである。しかし法を設けて人民を保護するはもともと政府の商売柄であって当然の職分である。したがってこれを御恩などといってはいけない」。小学生でもわかる理屈です。
 ところがこの「御国恩」感覚はなにも江戸時代ばかりではありません。なぜなら「御国恩」への「報国」は、アジア・太平洋戦争まで続くのです。日本人は福沢の文章を読んでいながら、何と馬鹿なことをし続けたのでしょうか。

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2005/04/09

(俳句)芭蕉と一茶、ふたつの天の川―元禄文化と化政文化―

 松尾芭蕉の俳句も小林一茶の俳句も魅力的ですが、しかしそれぞれに理由は異なります。
 芭蕉と一茶とでは生きていた時代も作風もまったく違います。いや「生きていた時代が違うから作風も違う」といったほうが正確でしょうか。
 芭蕉の生きていた時代は江戸時代中期の元禄文化の時代です。上方を中心とし富裕層の支える豪奢な文化でした。いっぽう一茶の生きていた時代は江戸時代後期の化政文化の時代です。江戸を中心とし庶民の支える生活感あふれる文化でした。

 芭蕉は天の川をこうみています。

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川  芭蕉

 なんだかアメリカのスピルバーグの映画に出てきそうな雄大な風景です。芭蕉はつくってきたような「わざとらしい」風景を詠みます。
 実際芭蕉の句にはフィクションが交ざっているといわれます。天文学者は「芭蕉が天の川をみたと思われる新暦8月18日には、天の川は海に対して垂直に立っていた筈ではないか」と指摘します。それでも美しい風景であるには違いありません。文学的レトリックに優れた作品です。

 いっぽう一茶はどうでしょうか。

 うつくしや 障子の穴の 天の川  一茶

 一茶は「障子の穴」から天の川をみます。芭蕉の天の川のようなダイナミックな感じはありませんが、そのかわり「わざとらしい」印象はなく、ふとした卑近な場面でみつける美しさがあります。とても素直な表現で、われわれも同じような風景をみることができそうな気がします。
 実際、一茶は江戸に出てきて、貧しい長屋暮らしの中で障子の穴から天の川を眺めたに相違ありません。彼は「障子の穴」という日常生活の中に天の川を発見したのです。また一茶は芭蕉と違い、比較的無造作な表現の俳句をたくさん残します。化政期の大量商品生産を象徴するかのようです。

 芭蕉は広大な海の中に天の川を眺め、一茶は障子の穴から天の川を眺める。みなさんはどちらの天の川がお好みでしょうか? わたしはどちらかというと一茶の方が好きかもしれません。
 好き嫌いはあると思います。この芭蕉と一茶の天の川の表現の違いこそが、元禄文化と化政文化の違いなのだと思います。

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2005/03/08

(映画)映画「草の乱」をみて―困民党総理田代栄助はどう描かれたか?―

 去年公開されていた映画「草の乱」は、埼玉県民のみなさんの募金によって作られた映画です(主演は「井上伝蔵」役の緒方直人さん)。明治17年、松方デフレに喘ぐ秩父の民衆が蜂起した事件、秩父事件を扱ったものです。「江戸時代研究の休み時間」を標榜している以上、この映画には言及しなければならないでしょう。
 この農民一揆をおこしたのは「秩父困民党」です。彼らはながらく天皇制に歯向かう「暴徒」という烙印が押され、歴史の闇に葬り去られたままでした。今回、県民の方々の手によって、映画のかたちで復権されました。その意味で貴重な映画といえます。映画を支える人びとの情熱が伝わってきました。

 この「秩父困民党」の総理(頭取)は田代栄助という人物です。映画では林隆三さんが演じていました。この人物、実は歴とした「博徒」です。しかし研究者は「単なる『博徒』ではなく『侠客』であった(つまりヤクザではない)」と〝注釈〟をつけて説明します。彼の尋問調書にこうあります。

……自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者頼リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ、中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事、実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人、……
 なるほどこれを信じれば「侠客」であったことになります。秩父は養蚕地帯です。金銭トラブルなどが頻発したに違いないのですが、そういうとき、彼が仲裁してことをおさめてくる。頼りになる親分だった。その延長線上に一揆の総理職があるわけです。
 もっとも、幕末から明治にかけての「博徒」は、一般的にも我々のイメージする現代の暴力団とは違うものだと思います(勿論いろんな側面はあります)。たとえば、百姓一揆の頭取に「博徒」がおさまることは全く珍しいことではありません。したがって「博徒」田代が総理でもおかしくはない。このことひとつとっても、「博徒」が地域社会からどのような目で見られていたかがわかります。むかしの「博徒」は地域社会から乖離した存在ではなかったのです。

 さて、映画「草の乱」において、栄助の身の上が窺えるシーンは、以下の3箇所があります。加藤伸代さんのシナリオ「草の乱」から引用します(『シネ・フロント』2004年8月号。番号はシーン番号)。

(A)16「演説会会場」(高尾注、大井憲太郎の演説会) 織平「おい! ありゃ、大宮郷の田代栄助じゃねぇかい」 威風堂々とした年配の男・田代栄助が、入ってくるのが見える。栄助、座る。 善吉「間違いねぇ」 織平「田代さんが、自由党の演説聞きにくるたあな……」

(B)114「皆野の旅館『角屋』・表」 ……栄助、胸を押さえて、玄関の上りかまちに倒れ込む。出迎えた、菊池、善吉が驚く。 善吉「総理!」 伝蔵「胸痛でがんす。持病らしい……」 熊吉「親分、しっかりしとくんな!」

(C)40「織平宅・座敷」 ……善吉「党には頭がいる。引き受けちゃあもらえますめいか」 宗作「引き受けておくんない」 寅一「親分!」 織平「おれが頭じゃ、博徒の集りだと勘繰られやしねえか」 小柏「誰かお心当たりは、ござんせんか」 織平「……大宮郷の、田代栄助はどうだい」

 この(A)と(B)によって、田代が「博徒」の親分であることを、何となく観客ににおわせています。ところが(C)では、加藤織平が「博徒」(事実加藤も「博徒」でしたが)であり田代は違う、という設定になっています。ちょっと不鮮明な構成です。つまり(C)では、田代の「博徒」の役回りを、加藤織平が代わりに背負ったかたちになっています。

 「秩父困民党」の名誉回復は大事な仕事ですが、映画で史実を全てそのままに切り取ることは困難だったようです。秩父事件顕彰の経緯からして、映画で田代を「博徒」と表現することは不可能だったのでしょう。もしも一度「博徒」と表現してしまえば、観客に必ず誤解を与えることでしょう。
 わたしが映画「草の乱」を観覧した理由は、「いったい田代はどう描かれているだろうか?」というマニアックな関心があったからですが、映画製作サイドのご苦悩の痕跡にため息が出ました。<歴史ドラマ表現>と<歴史の実在>とのズレはなかなか難問なのです。映画製作サイドには、是非このことをお訊きしてみたいと感じました。

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2004/12/25

(山の風景)富士山山頂のはなし

 年末年始の雲のすくないあかるい空に、富士山の姿はよく映えます。先日、富士山の山頂が国有地から浅間大社の所有地になったのだそうです。同地は、徳川家康の寄進以来、浅間大社の持ち物であるべきはずと、裁判で認められたからです。この時世、裁判・行政の世界で、大まじめに「徳川家康」が引っ張り出されるのは、あまりにも稀なことで、たいへんな驚きです。以下に「毎日新聞」の記事を引用しておきます。

富士山家康寄進の地、ようやく浅間大社へ-山頂部の土地、無償で- 富士山頂部の385万平方メートル-最高裁判決から30年経て- 徳川家康が富士山本宮浅間大社(渡辺新宮司、静岡県富士宮市)に寄進したとされる富士山8合目以上の国有地約385万平方メートルが、大社側に無償で譲り渡されることになり、財務省東海財務局と同大社が17日、譲与に関する文書を交わした。大社側が譲渡を求めた訴訟で30年前に勝訴していたが、静岡・山梨県境が画定していないためこれまで見送られていた。同財務局は「大社側からの要請もあり、いつまでも放置できないので手続きを取った」と話している(「毎日新聞」2004年12月18日東京朝刊)。

 ところで、江戸時代のひとが書く富士山頂は、見た目よりだいぶデフォルメして描いてあります。太宰治の小説『富嶽百景』の冒頭に、そのことの指摘があります。

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図のよって東西及南北に断面図を作ってみると、東西縦断は、頂角、百二十四度になり、南北は百十七度である。(太宰治『富嶽百景』)

 頂角を鋭くするのは、塔のように高く描いてやろう、という意図なのでしょう。それでも、あまりに細長い富士というのは、途中からぽっきり折れてしまいそうで、どうも気持ちがわるい。ちなみに太宰のいう「広重の富士は八十五度」とは、例の「五十三次」に描かれた富士のことでしょう。それでも、いろいろ確かめてみると、広重は構図によって富士の頂角を使い分けているようです。
 そのてん、このあいだ江戸東京博物館で公開された、日本橋繁昌絵巻「熈代勝覧」(注1)に描かれた富士は、わたしが正確にはかってみたところ、120度程で、頂角はとても写実的であることがわかりました。ただしこの「熈代勝覧」の富士は、あきらかに富士を大きく描きすぎています。つまり、頂角は正しくとも大きさはデフォルメされている、というわけです。

(注1)「熈代勝覧」は、文化年間の江戸日本橋の様子を、今までになく詳細に描いた絵巻です。ご覧になったことのある方は多いでしょう。ご覧になっていない方は、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熈代勝覧」の世界』(講談社、2003)をご覧ください。

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2004/12/19

(忠臣蔵)浅野内匠頭刃傷事件―内匠頭、その胸中には?―

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城の松之大廊下にて、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に突然刃傷に及ぶ。これが赤穂事件の発端で忠臣蔵で最初の名場面です。
 今年は忠臣蔵のテレビドラマが流行りでしたが、一体今までに幾つの忠臣蔵のテレビドラマがつくられたのでしょう。概ねどれも講談本が下敷きにされていますから、ドラマ同士で台詞が一致してしまうことさえ珍しくありません。

 テレビドラマの松之大廊下の場面では、内匠頭は大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照に羽交い締めにされ、「家族も捨て領地も捨てての刃傷で御座る、武士の情け、せめてもう一太刀を」と必死に梶川に懇願するというのが普通です。ところが意外なことに史料上の内匠頭はそのようなことは発言していません。史料上の内匠頭の発言は以下の通り。

拙者儀も五万石之城主にて御座候。乍去御場所柄不憚之段は、重々恐入奉存候得共、官服を着候もの、無体之御組留にては官服を乱し(候)。(「多門伝八郎覚書」石井紫郎校注『日本思想大系27 近世武家思想』岩波書店、1974)
 ここでは「わたしも五万石の城主である、官服を乱すから離してほしい」と懇願していることがわかります。家族も捨て領地も捨てたこの期に及び、なんと彼は服の乱れに気をとられています。刃傷の原因として乱心説がありますが、この奇妙な発言は彼の乱心の証左なのでしょうか?

 この奇妙な発言は、―現代人からみてどんなに奇妙であったとしても―、当時の武家社会における常識の範囲内で理解できます。内匠頭の発言内容を説明すると、……内匠頭は「五万石の城主」の資格をもって「五位の諸大夫」の官職が与えられ、それゆえに殿中で「大紋」の官服を着る資格をもつ、したがって「大紋」の官服は彼の格式を表す大切な衣服であって、ここで「大紋」の官服を乱されることは、彼本人のみならず、播州浅野家そのものを乱されることにも等しい、だから彼は「大紋」の乱れを恥辱に感じる、ということでしょう。
 ここから内匠頭の格式意識への執着を看取することができるのではないでしょうか。たかが衣服ではなかったのでしょう。命より名誉を重んじる意識は当時の武家社会に珍しくありませんでした。
 ちなみに、梶川に離してもらった内匠頭、「大紋」の乱れを直すと、やっとほっとしたのか、

殊之外内匠頭歓被申「多門伝八郎覚書」(同上文献)
 たいへん喜んだといいます。やはり彼にとって「大紋」の乱れは大問題だったようです。

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2004/10/28

(地震)続・尾張藩士の日記にみる地震予兆現象

 前回の続きです。新潟中越地震の被害が増えています。深くお見舞いを申し上げます。
 前回は、尾張藩士朝日文左衛門の日記、「鸚鵡籠中記」をご紹介しました。この日記には、元禄大地震の5日前・1日前に、そして宝永大地震の1日前にも、地震予兆現象らしい記述があることを述べました。わたしは最初これらの史料をみたとき、何のことやらさっぱりわからず、「ひゞきの音」「火之玉」「光物」「甚光る」とは、いったい何なのだろうかと、得体の知れぬ記述に、ただ戸惑っていたのです。
 そこで、最初に、天文の専門家におうかがいしました。すると「さあ、わかりませんねえ」というそっけないご返答です。おそらくわたしの説明がわるかったのでしょう、興味関心もない、といったそぶりでした。次に、気象の専門家におうかがいしたところ、開口一番、「それは地震予兆かもしれませんね」と意外なお答えでした。地震の予兆現象として、「ひゞきの音」つまり「地鳴りがする」ということは、何となく想像できるにしても、はたして空まで光るものだろうか? と半信半疑でした。それで、よく調べてみたところ、その仰るとおりで、3つの記事は大地震の直前だったのです(!)。これには吃驚りさせられました。空が光る原因は、地盤がきしむことによるプラズマ発光現象だということです。これにより、地球の大気圏より上か下かで、学問の専門領域がくっきりわかれていることを知りました。「江戸時代の記述だからきっとデタラメに相違ない」と早合点せず、ひとに質問して正解でした。
 尾張藩士朝日文左衛門。彼はたいへんな記録魔で著名ですが、彼の些細な事件の記述は、300年の時を越えて、貴重な情報を我々に示しているといえます。文左衛門の記述の信頼性も増しました。「鸚鵡籠中記」にはまだこの種のおもしろい記事が多いので、今後折りをみてご紹介してみたいと思います。
 それにしても、地震は予測できないものでしょうか。今回の大惨事に直面してつくづくそう思わざるを得ません。

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2004/10/24

(地震)尾張藩士の日記にみる地震予兆現象

 新潟県等に大きな地震がおきました。被害にあわれた方にはお見舞い申し上げます。わたしの住む東京もかなり揺れを感じました。
 みなさん、このような地震の大惨事に直面すると、「もしも地震が予測できたなら、どんなにいいだろうに」とお感じになることと思います。実際そのような研究はないこともないのです。……地震の前には、その予兆を示す現象が、確認されることがあります。これを「地震予兆現象」(seismic forerunners)と呼びます。何か“トンデモ説”のように思われるかもしれませんが、学術的研究がすすめられている現象です。発生原因等の科学的分析は、まだ完全には追求できていませんが、現象自体の報告事例は、山ほどあります(たとえば、先日お亡くなりになった、力武常次さんのご著書があります。力武常次『地震前兆現象―予知のためのデータベース』東京大学出版会、1986)。
 むかしから「地震の前にはナマズがあばれる」といいますが、それも地震予兆現象のひとつです。地形変化・地鳴り・空の発光現象・海や井戸の水位低下・地震雲・動物異常行動等があげられます。
 きょうは、尾張藩士朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」から、わたしがみつけた地震予兆現象と思われる記事を3つ、ご紹介することにしましょう(この部分は何故か東京大学地震研究所『新収日本地震史料』に抜け落ちているため、特に史料を引用して記しておきましょう)。

○元禄16年(1703)11月23日「元禄大地震」5日前・1日前の記述
元禄16年(1703)11月18日(新暦12月26日)「(江戸)昨日、四ツ谷辺火之玉空よりおち候よし。」元禄16年(1703)11月22日(新暦12月30日)「(名古屋)丑半刻、遠くひゞきの音聞ゆ。後に聞之ば、光物飛と。」
 18日条の江戸における「火之玉」、そして22日条の名古屋における「ひゞきの音」「光物」の記述は、23日の「元禄大地震」(関東南部、相模・房総で被害が大きかった。推定マグニチュード8の巨大地震)の地震前兆現象の可能性を指摘することができます。

○宝永4年(1707)10月4日「宝永大地震」1日前の記述
 宝永4年(1707)10月3日(新暦10月27日)「(名古屋)三日……夜。雲間甚光る。電の如にして勢弱し。」
 月が出ていないようなので月光ではありません。「電の如」とあるから雷でもないでしょう。これは1日後の宝永大地震(4日、中部・近畿・四国・中国・九州、推定マグニチュード8の巨大地震)の地震予兆現象の可能性を指摘することができます。

 空の発光現象は、地盤のきしみによる大気中のプラズマが原因、と予測されています。上記史料中の「火之玉」「光物」「甚光る」という記述はそれかと思われます。

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