2005/09/08

(論文)わたしの処女作と『麻雀放浪記』

・処女論文 わたしの処女論文は学部卒業論文ではありません。
 わたしは大学時代「立正大学古文書研究会」という学部サークルに所属していました。「ひとのいやがるコモンジョに入っていくよな馬鹿もいる」というひともいたくらい、立正大学では怪しげでつらいといわれたサークルでした。
 毎年茨城県筑波郡谷和原村川崎(江戸時代は下総国相馬郡川崎村、常陸国土浦藩領)という在所をたずねて史料をお借りし、ちかくの合宿所にそれを車で持ち込んで共同調査をしていました。米や野菜を持ち込む自炊です。夏は暑くて冬は寒く、遅寝・早起きを義務づけられた過酷な合宿でした。毎日女子部員の誰かが病気でたおれるということもありました(現在の古文書研究会はそんな活動はしていないと思います)。
 この研究会で大学3年生のときに書いた調査報告書がわたしの処女論文。平成七年度調査報告書『文化文政期における村方騒動と村入用―下総国相馬郡川崎村の事例―』(立正大学古文書研究会)です。仲間4人での分担執筆でした。わたしの執筆分担は第1章で24頁分でした。―慢性的困窮にある川崎村が膨らみつつある村入用費管理の改革をしていくという話でした。このときの研究成果は茨城県谷和原村の村史『谷和原村の歴史』にも多く引用されることになります。
 同報告書の「編集後記」にはこうあります(この箇所もわたしの筆による)。

北風の冷たい二月となった。拙い報告書ではあるが、我々なりに頑張ってきたと思う。はじめのうちで一番苦労したことは、史料が少ないということだった。年六回ある限られた合宿のうちに、使用すべき史料を見つけて、それを筆写しなくてはならない。史料が少ない分だけゆっくりもしていられなかった。夏の第三回合宿の頃からだんだん史料が揃い始め、一応報告書としてカタチにはなりそうな状況となった。最初は見通しのきかない活動だったので、先輩方々にはいろいろと御心配をおかけしてしまった。御詫び申し上げたい。今年度は、阪神大震災やオウム事件と重大な事件が多かったけれども、われわれは大学時代のいい想い出をつくることができた。(後略) 

 この文章にあるようにこの年度は阪神大震災・オウム事件の年度だったのです。そうするといまから10年くらい前になるのでしょうか。先輩や仲間と喧嘩しながらつくった青春の証であり、研究人としての第一歩をしるした報告書です(懐かしいのですが、しかし大学を卒業してまだ7年しかたっていないことがわかって、今更ながら驚きです)。

・村入用用途への疑念 文化11年(1814)、この川崎村の百姓たちが、村入用費の管理維持について、名主(村長)にたいして疑いをもちかけます。村入用とは村運営に関する諸費のことで、当時何処の村でも膨らんでいく村入用の処置が問題になっていました。
 百姓たちは「名主が村入用を横領しているんじゃないか」(「村方見掠不実」)といいます。名主は疑いをかけられたまま文政4年(1821)に名主を退役しますが、ほんとうに横領したのかどうかまではわかりません。しかし名主がそんな酷いことをしていたとは思えませんから、名主の既得権益を奪おうとする百姓たちの駆け引きだった可能性もあります。何処の村でも「村方見掠不実」というのがキャッチフレーズのようによく使われていたのです。たとえば百姓からの訴状の条文にこういうものがあります。

土浦町色川屋三郎兵衛方ニて筆紙代として壱ヶ年ニ金弐両つゝ割合取立候得共、年々弐両つゝ定式ニ相懸り義難心得奉存候……
「土浦町色川屋三郎兵衛にて、村の公用で使う筆紙代を1ヶ年に金2両も取り立てているけれど、年々きまって2両もかかるなんて、おかしいんじゃないの?」

 川崎村の筆紙代は土浦町色川屋三郎兵衛が用立てていたことがわかります (たぶんここでいう筆紙代とは単に筆紙のお金だけでなく、土浦城下での公用でかかる諸費用あわせてのことでしょう)。ここでつかうお金の多さを百姓たちは問題にしています。江戸時代の会計監査といったところでしょうか。

・色川屋三郎兵衛と『麻雀放浪記』 さて話はかわりますが、この常陸国土浦城下にすむ色川屋三郎兵衛家は、このように訴状に出てくるので、学生時代にちょっと調べたのですが、けっこう著名な家であることがわかりました。幕末になると色川三中(みなか)・色川御蔭(おかげ)と兄弟で学者を輩出します。三中は国史・古典研究に秀でて本草学者としても著名。中井信彦『色川三中の研究』という研究書もあってときどき古本屋に出ます。御蔭は国学・蘭学・和歌に秀でていました。この御蔭のひ孫さんが色川武大(たけひろ)さんです。既に故人ですがそんな先祖からの血をうけてか小説家でした。純文学を書くときは本名で、麻雀小説を書くときは「阿佐田哲也」というペンネームです。『麻雀放浪記』などの著作があります。
 下手な麻雀をうっていた学生時代のわたしは、たまたま古文書から出てきた『麻雀放浪記』のご先祖さまに、ちょっと不思議な感じをうけたのでした。

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2005/07/15

(町なみ)そうだ、川越へいこう

 歴史(歴史学)オタク諸君。
 カノジョができたら、川越城下につれていこう。
 何故と聞かなくてもよろしい。とにかくいけばわかる。真偽定かならざる風聞によれば、江戸時代村落史の研究者で、カノジョを自分の調査村落につれていったひとがいるらしい。熱心な村落史研究信徒であったこのわたしも、いちどそれをやろうと思ったが、それは絶対よしたほうがいい。自分の視野の狭さを告白するようなもので気持ちのいいものではないからです。もちろん村落史研究=視野の狭い研究といいたいわけではない。カノジョとのデートなら、たとえば遊園地とか高級レストランでお食事とか、いろいろあるじゃないですか、といいたいのです。
 しかし川越城下ならばセーフです。

 その川越城下とはどういうところか。
 川越藩は、江戸近辺という地理的環境もあってか、親藩・譜代藩・将軍に信任のある家が襲封し、酒井家(酒井重忠)・酒井家(酒井忠利・忠勝)・堀田家・松平家(長沢松平家)・柳沢家・秋元家・松平家(越前松平家)・松平家(松井松平家)というぐあいに次々と領主がかわりました。とりわけ明和期から幕末のながきにわたって封じられた越前松平家支流の松平大和守家は、天保期以降17万石もの領地をかかえ、代々従四位をもらうほどの格式をもっていた。江戸近辺にしては大きい大名家のひとつだったのです。
 川越はその城下町であった。いま江戸情緒が残っていてよく「小江戸」と呼ばれますが、江戸時代からの呼称であったかどうかはわかりません。しかし何れにせよ、江戸文化の影響を色濃くうけた江戸の衛星都市であったことは間違いありません。
 太平洋戦争ではいろいろな都市が空襲で烏有に帰しましたが、川越だけは何故か爆弾を落とされずにすんだ。それで江戸・明治のふるい町なみが残されることになりました。
 現在、川越城下の蔵造りの町なみは、景観を美しくするために電線を地中に通しています。だからカノジョと歩くにはいいところでしょう。

 さてよく「蓼喰う虫も好き好き」というけれど、なんとわたしのカノジョになってくれるという、とても奇特なお嬢さんが現れた。わたしが大学院博士後期課程のときです。
 わたしなんか研究ばかりしていたので、髪もボサボサ、服もヨレヨレ、いま流行りの「電車男」も真っ青である。それで何故カノジョができたのか、その詳しい経緯については恥ずかしいから書かない。読者のご想像にお任せしましょう。とにかくカノジョができたのです。
 わたしが川越藩領の村の研究していたこともあるが、まずそのカノジョを川越へ連れていった。川越城下が如何なるところなのかを説明しながらあるく。それはまあまあ本格的なもので、川越藩領村の名主の日記「林信海日記」に川越城下の記事が多いから、そのコピーを参考資料としてカバンの中に入れてあったわけです。

 そこでちょっとした〝事件〟がありました。町なみに「A」という表札のかかった経師屋がありました。ここでは「A」と仮に伏せ字にしておきますが、姓氏辞典に載っているかどうか心配するほどに、なかなか世間ではみかけない珍姓である。その他は現代風の造作のお店であって、一見して何の特徴もありません。
 しかしわたしは思いあたる節があって、咄嗟に持参していた「林信海日記」のコピーをひらき、あっと驚きました。そこには「A八郎右衛門」なる人物が登場して、それも職業が同じ経師屋なのです。これはおおごとだと思い、早速A家のサッシを開いて「ごめんなさい」と声をかけた。……そのときカノジョはそとで待たせておいた。
 すぐにご主人が出てきました。わたしはご主人に「林信海日記」をおみせして「これはお宅のご先祖ではありませんか」とお尋ねした。するとご主人は首をひねりつつ「わからんけど」と呟き、やがて奥から掛軸でつかったらしい古い一本の白木をもってきた。そこにはなんと

 A八郎右衛門

 と、墨痕生々しくはっきりと書いてあるではないか。突然のご先祖探訪でご主人も吃驚り。A家を辞してわたしは、

 どうだ、これが川越なんだ

 とカノジョに一言。カノジョもわたしのいきなりの行動とその顛末にあんぐり。カノジョと町を逍遥していて、いきなり調査するのはわたしくらいでしょうか。
 このカノジョは、いまわたしの女房になっています。

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2005/04/06

(シンポジウム)地域をどう考えるか

 江戸御府内の巣鴨は町方の具体的な様子(巣鴨町)がわかります。わたしが旧幕府引継書という古文書群を閲覧していたとき、「巣鴨町軒別絵図」という絵図の存在に気付いたからです。
 『巣鴨百選』というタウン誌で、それを地元の方々にご紹介させて頂きました。また、絵図を学問的に分析した原稿、豊島区遺跡発掘調査報告書『巣鴨町Ⅵ』掲載、拙稿「『巣鴨町軒別絵図』と近世巣鴨町の諸相」は、先日ゲラがあがってきましたから、もうすぐ刊行されます。

 さて、先日は地元の巣鴨でこの絵図についての基調講演を行い、街づくりのシンポジウムにも参加してきました。シンポジウムのパネリストとして、豊島区商工部長さん、福祉・建築・都市計画の研究者、歴史学分野ではわたしが参加しました(当日豊島区長さんもおみえでした)。非常に活気あふれるシンポジウムでした。わたしも街づくりについて発言を求められたので、そこで喋ったことを以下に掲載します。
 わたしは現在の巣鴨については何も知らないし、江戸時代の絵図をみつけてきたということ以外に何の因果もないわけですから、「何か一言…」といわれて、何も戸惑いを覚えないことはありません。ただ「歴史学というちょっと変わったことをやっている人間の目からみて、現在の地域がどう映るのか」というのが趣旨でしょうから、その考えに従って発言しました。
 巣鴨だけでなく他の土地にもあてはまることが多いかもしれません。そういう目でお読み頂ければと思います。

―以下、シンポジウムでの高尾発言(当日の発言をもとに再構成した)

・未来志向性の現代社会 わたしはさきほど50分ばかりお時間を頂いてお話させて頂きましたし、都市計画についてはまったく素人ですから、ここではわたしの思う街づくりについての雑感を、2つ・3つくらいお話するにとどめたいと思います。
 みなさんもご記憶に新しいと思いますが、「南セントレア市」騒動というのがありました。愛知県のある自治体で、「南セントレア」という、まあ、その土地の由来には何の関係もない自治体名がつけられそうになりました。これは「これから新しい自治体をつくっていこう」という意識のあらわれなんだと思います。この未来志向な考え自体については一概に否定するつもりはございません。なぜなら、そもそも地域というのは、常に新しい要素を絶えず受け入れつつ、新陳代謝していかねばならないからです。ただ、「南セントレア」でおかしいなあと感じることは、未来志向性ばかりに偏向していることですね。いままで地域に堆積した文化を一切顧慮していません。考えてみれば、いまの世の中「これからどうなるのか」という話題ばかりです。占い・株価・国際関係の未来などなど。現在という〝点〟から常に未来へ顔が向いています。それが現代社会のひとつの特徴だと思っています。未来志向自体は結構ですが、しかしそればかりではいけません。
 それでは逆に過去志向ではどうか。わたしは過去を扱う歴史学をやっておりますが、その立場からあえていわせて頂くと、過去志向ばかりでもだめだと思います。「むかしからAなんだから、Aじゃないとだめなんだ」という発想では発展性がありません。
 したがって街づくりでは、未来志向・過去志向の両方をうまく混ぜて考えることが大事ではないかと思うわけです。

・文化財を「地域財」に それでは具体的にどうするか。この巣鴨には川越みたいな古い町並みこそ残っておりませんが、地域づくりにとても恵まれた土地です。先ほどもお話したように、「巣鴨町軒別絵図」が存在することによって、江戸時代の町並みがくわしくわかる旧・御府内でもまれな土地になりました。また幸運なことに考古学発掘が盛んです。巣鴨遺跡という埋蔵文化財指定地域になっていますから、旧・武家屋敷には武家屋敷の遺跡が、旧・町方には町方の遺跡が出てくる。建物の建て替えをすれば何かしら出てくるのです。
 それに関して、地元の方とお話致しますと「いやあ、困ったなあ、お金はかかるし、工期は遅れるから」って仰るんです(笑)。でもよく考えれば、これは調査する側にとっても地元住民にとっても、不幸なことですね。「ここ掘れワンワン」じゅありませんが、本来は宝物である筈の文化財発掘です。「困ったなあ」と思ってしまうのは「文化財がちゃんと〝地域財〟として意識されていないから」ではないでしょうか。地域の財産として位置付ければどうでしょう。
 たとえば町に出土したお皿や徳利を展示するスペースでも設ければどうか(ヨーロッパではお馴染みの光景だそうですが日本にはありません)。さらに「巣鴨町軒別絵図」の情報を歩道プレートに埋め込んで町並みを再現してはどうか。絵図と考古遺物でちょっとした町並み博物館ができます。
 巣鴨を掘っていらっしゃる豊島区遺跡調査会さんは、『巣鴨百選』というタウン誌を使って発掘の報告を盛んにしていらっしゃいます。学問成果の地域還元という意味ですばらしい試みだと思います。みなさんにも是非読んで頂きたいのですが、わたしもそのご努力を学びたいと思います。
 よく「文化財を大切にしましょう」といいますが、わたしはあまりこの言い方が好きじゃありません。なんだかお説教に聞こえてしまうからです。文化財を大切にしなければならないのは当然ですが、むしろ「地域のために文化財をどう利用できるのか」という議論から、文化財の大切さを説きおこすほうが、説得力があるんじゃないかと思うのです。
 特にこの巣鴨では「巣鴨町軒別絵図」と考古学発掘の2つをもっておもしろいことができるのではないでしょうか。楽しみにしております。

・町並みにいろんな要素を わたしは江戸時代の研究をしておりますので、「いっそのこと、江戸時代の町並みらしく建物も改装したらどうか」と考えますが、地元の方々は昭和レトロで売り出したいそうです。
 巣鴨に限った話ではありませんが、土地にはいろんな時代の要素がバームクーヘンのように折り重なっているのです。したがいまして、巣鴨の町の風景にも江戸・明治・大正・昭和・平成・未来の6つの要素を混ぜるようにして、彩りのある町にしてはどうかと思います。
 ただ、江戸時代研究の観点から申し上げますと、「昭和レトロ」っていうのは、明治・大正時代の産物を受け継いでいる文化です。もちろんその背後には江戸時代がちゃんとあります。だから、われわれが「昭和レトロ」だと思い込んでいる文化の中には、実は江戸時代の文化が入り込んでいる場合が多いんじゃないだろうか、と思うわけです。
 たとえば先ほどお話ししたように、「巣鴨町軒別絵図」から推測した軒別の間口平均値が、いまのビルの幅とほぼ一致していたり、江戸時代の巣鴨町の住人の御子孫がお住まいになっていたり、江戸時代からお客さんをもてなす「もてなしの街」であることも、一切変わっておりません。
 ……といろいろ申し上げましたが、何分わたしは現在の巣鴨をあまり知りませんし、都市計画についても素人ですから、きょうご出席の先生方のご意見やみなさんのお知恵なども一緒にあわせまして、いい街をつくって頂きたいと思っています。

(付記)「週刊! 木村剛」 第43回「BLOG of the Week」「実名で書くなんて勇気がありますね?!」 「週刊! 木村剛」の「BLOG of the Week」に選んで頂きました。これで木村さんに選んで頂くのは3回目になりました。アクセスも多く頂きました。この場をかりてお礼申し上げたいと思います。

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2005/02/24

(史料調査)現代の「江戸時代」―「聞き取り調査」あれこれ―

 われわれ古文書読み屋でも、古文書と「にらめっこ」ばかりしているわけではありません。調査対象地に行ってひととお話をし、江戸時代の息吹を感じてくる。それがここでいう「聞き取り調査」です。
 別に気分転換のためにしているわけではありません。むしろ研究のために積極的な意味があります。

 そもそも「この平成の世にブラブラ歩いて、江戸時代のことなんかわかるの?」と思われるかたも多いでことでしょう。
 たしかに、最近は「江戸は遠くなりにけり」という感をつよくします。しかしそれでも、よく探せば、江戸時代の名残りが残っていることもあります。あるお宅に訪問して「あのう、お宅はA家と御姻戚ですね」とお尋ねすると、ふつうに「ええ、そうですよ」とお答え頂く。A家と姻戚関係を結んだのは、みんなが丁髷を結っていた江戸時代のことなのです。また、古文書を指さして「この方は」とお訊きすると、「ああ、このひととても貧乏だったそうよ」とお答え頂く。「この方」は江戸時代のひとです。

 ある由緒ある名家をご訪問したときのこと。
 その家の功績を調べようといろいろ質問させて頂きました。しかしご当主は「やはりそれを調べられては困ります」と困惑気味です。
 何故というと「地域の中で浮かび上がりたくないのです」という。

……当家は地域のひとに支えられて生きてきました、これからもそうです、たしかに当家は地域の中に大きな功績を残してきましたが、しかしそれを公表しては、自慢がましく聞こえ、地域のひとの不評を買ってしまいます……。
 そのようなお答えを頂き、結局わたしはすごすごと引き下がってきたのですが、そのかわり、わたしは大きな勉強をしました。「何故その家が江戸から現在まで地域で存続しえたのか?」という命題の答えが、なんとなくみえてきたような気がしたからです。

 よくテレビなどではお嬢様を紹介する番組があります。そこで拝見するお嬢様はたしかにお金持ちですが、やはりお金を使うのが大好きで、おまけに高学歴、いろんな意味で浮世離れをしています。
 しかし、せまい意味での「お嬢様」、つまり、いまだふるい人脈の中に生きる家の「お嬢様」は、拍子抜けするほどの常識人で、経済観念もふつうで、周囲に気配りのできるひとだったりします。そうでなければ歴史の堆積の中で生きていくことはできないでしょう。家のひとはそれがよくわかっている。もっとも、その種の「お嬢様」はマスコミうけはしませんし、本人だって取材拒否でしょう。ノーブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)、身分に伴う果たすべき社会的義務というべきか、それとも、地域や社会関係に引っ張られながら生きる富裕層というべきか。
 別に、由緒の家やお金持ちの家を礼賛しよう、というのではありません。わたしの場合、むしろそのウラに潜む社会の方に目が向いています。とにかくブルジョアの発展の歴史は一筋縄ではいかないのです。
 このように聞き取り調査をすると、いろんなことが勉強できます。何も勉強机だけではありません。

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2005/01/22

(雑感)落とすひとあれば、拾うひとあり

 去年のある日の夕方、わたしは東京区内の某駅をぶらぶら歩いていました。すると一見品のいい中年のご婦人が「あのう、すみませんが」と声をかけてきました。
 それで「はい、なんでしょう」と答えると、そのご婦人、「まことにお恥ずかしい話なのですが」とモジモジしている。よく事情を聞いてみると「父が急病という知らせをうけ、本千葉まで行かねばならない、それで慌てて家を出たものの、途中で財布の中身が乏しいことに気がついた、キャッシュ・カードももっていないのでどうしようもない、だから少々お金を拝借願えないか」ということでした。それで、わたしの連絡先と少々ばかりのお金を、彼女に手渡しました。彼女は「ありがとうございます、すぐにお返しにあがりますから」と、丁重に何度もお辞儀をしていました。
 そのあとすぐ「しまった、馬鹿なことをした」と思い返しました。これは詐欺じゃないか、だいたい交番に行って事情を話せば少々は借用してくれる筈ではないか、そして何故彼女の名前と住所を控えておかなかったのか……。
 ひとから「お人好しすぎる」といわれましたがあとの祭り。やはりそのお金は返ってきませんでした。あれが演技だとしたら名演技で、たぶんそんなことを職業(?)にしているかたなのでしょう。お金が返ってこない悔しさよりも、裏切られた悔しさのほうが大きい。そもそもわたしが馬鹿なのですが、それにしてもイヤな世の中になったなあ、と感じました。

 以上とは別のはなしです。先週、急ぎの原稿を書く用事で、東京区内某所の風景写真を撮ろうと、一眼レフ・カメラをもって家を出ました。
 その電車の中、ほかの原稿のことなどもいろいろ考えて、あたまがゴチャゴチャになっていました。そんなときには油断があって何か事件をおこすものです。……何と電車の中に一眼レフ・カメラを置き忘れてしまったのです。
 下車して暫く歩き、駅を出たところでそれに気がつき、慌てて駅に戻って遺失物係に連絡しました。しかしいつまでたっても「みつからない」という返事。なんという馬鹿なことをしたんだ! ああ万事休す。悔やんでも悔やみきれない。高価な品を落としてしまったというショックよりも、思い出の品を失ったショックの方が大きかった。史料調査で長く使っていた一眼レフ・カメラだったからです。いろいろな史料を撮影してもらった一眼レフ・カメラに申し訳なくってしょうがない。
 それで「もうなくしてしまっただろう」と諦めていたころ、駅の遺失物係でなく、警察署から「あなたの一眼レフ・カメラがあるよ」という連絡が入りました。ある方がみつけてくれて警察署まで届けてくれたのです。
 幸運なことに、一眼レフ・カメラの入ったケースに、偶然わたしの名前・住所を書いた紙切れが入っていたのです。電車の中でみつかったのではないのが不思議でしたが、とにかく無事に返ってきたので、ほんとうによかった。
 拾って頂いたYさんにお礼を申し上げます。さきの詐欺のイヤな経験も何処へやら、やっぱり世の中捨てたもんじゃありません。ひとのあたたかさが身に沁みた経験でした。

 落としては拾う。そうやって禍福は縄のように繰り返すのでしょうか。いや、そんな馬鹿なことをいっていてはいけません。すべてはわたしのドジに始まったのですから!

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2005/01/01

(雑感)雪つもる元旦に思うこと―戦後60年を経て―

 みなさま、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。珍しく雪つもる年明けとなりました。きのう大晦日は子どもと雪で遊びました。

 さて、2005年になる今年は、アジア・太平洋戦争(以下「戦争」)戦後60年にあたります。ちなみに、わたしの父が昭和20年(1945)の生まれだから、彼の歳を数えれば、戦後何年かがわかるようになっています。父は今年で暦が還りました。わたしも歳を喰う筈です。
 古文書を探しに現地調査をすると、ご老人方のいろいろな貴重なお話に接することができます。調査する当方の目的は、もちろん主に江戸時代の話や史料なのですが、昔の話題といえば、どうしても戦争の話が出てきます。今まで江戸時代の話をしていたとしても、すぐに話が脱線して戦争の話になってしまう。「いやあ、あのときは大変な時代だったんだよ」。お聞きする当方も、―主目的の江戸時代の話は措いて―、その戦争の話にしばし耳を傾ける。自分のおじいさん・おばあさんから聞いた、おとぎ話のような遠い昔の江戸時代の話よりも、自分が経験した戦争の話を聞いて貰いたい、そんな心持ちが伝わってくるような気がします。
 わたしの大叔父は陸軍士官学校の学生として終戦を迎えました。まだまだお元気なので、去年、戦前・戦中・戦後の体験をお聞きし、それを録音テープにとらせて頂きました。「主観的な感想も交えてください、むしろそれが聞きたいのです」という不躾な注文に快諾して頂きました。とても興味深いお話で、後世に残す価値があると感じました。よいことをしました。
 終戦の年に20歳だった方ももう80歳です。そろそろ戦争中の貴重な記憶も消え失せようとしています。そこで、日本全国規模で各都道府県毎に、「戦争の記憶」録音調査のようなことを行ってはどうでしょう(思い切って途方もない予算を使って!)。神社仏閣・古文書だけが文化財でなく、ご老人たちの戦争の記憶も大切な生きた文化財です。国家的プロジェクトで、何億使っても勿体なくない事業だと思うのです。役に立たない道路よりも、ずっと役に立って長持ちする〝道路〟になる筈です。

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2004/11/06

(学生生活)田舎に出る学生、都会に出る学生

 「なつかしい学生時代」といっても、ほんの数年前に過ぎないのですが、いろいろな思い出があります。わたしが古文書解読を身につけた場は、「古文書研究会」という大学の研究会でした。
 活動の中心は合宿です。田舎のむらの名主宅から、古文書をお借りして合宿所へ運び、4泊5日、古文書解読ばかりです。その4泊5日の合宿は年に6回もありました(わたしはそれを4年間、無遅刻・無欠勤でした。合宿だけではありません、合宿の準備・勉強会・合宿での調査成果の執筆と、一年中大忙しです)。
 合宿所は古くなった学校をお借りしていました。米や野菜などを、みんなで合宿所へ持ち込み自炊し、掃除等も、もちろん自分たちでします。貧乏学生の寄合いですから、合宿費を切り詰めるため、食事は貧しく、ごはん・沢庵・塩っ気のうすいみそ汁くらいしかないことも多かった、と思います。冷暖房はきかないから、酷暑の中・寒波が襲った中の合宿はとりわけ厳しい。古文書を読むというよりも、古文書を読む環境とのたたかいで、からだをわるくして寝込む学生も珍しくありませんでした(特に女子学生)。もちろん、合宿所から外出することは固く禁止、合宿所ではお酒も御法度です。
 「ひとのいやがる古文書(研究会)に 入っていくよな馬鹿もいる」といわれました。「大学時代を楽しもうぜ」というこの時代、すすんで苦労しようというのだから、けったいな学生たちがいたものです。……そういえば、合宿所へ向かう途中の田舎町、リックサックを背負うわたしたちに、あるひとが不思議そうに、「学生さんたち、どこへゆくんだね?」と声をかけてきました。わたしは説明が難しいので、咄嗟に「いや、山登りみたいなもんです」と答えましたが、考えてみれば、その周辺に山など何処にもないのです。だからそのひとに「うっそォ」といわれ、ふたりで大笑いをしました。

 こんなことを書くのは、先日、早稲田大学の「スーパー・フリー事件」を扱ったノンフィクションを読んだからです(小野登志郎著『ドリーム・キャンパス スーパーフリーの「帝国」』太田出版、2004)。この本で、主犯の和田容疑者が、1993年の入学であることを知りました(注1)。所属大学は違うものの、わたしと同期なのです。そこで、わたしたちが「遊び系サークル」とは全く正反対の学生生活をおくったことを、改めて実感したわけです。田舎に出る学生、都会に出る学生、両極端でした。
 ちなみに、現在の研究会は、わたしたちの時のような過酷な合宿はしていませんが、合宿による研究活動は続けています。

(注1)わたしたち1993年頃の受験生たちは所謂「団塊の世代」ジュニアです。どの大学も入学することが難しかったことを覚えています。和田容疑者はその頃に早稲田大学政経学部に入学していますから、成績はたいへん優秀だったと思います。

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