2016/08/11

(雑感)天皇の「お言葉」について―天皇の投げたボール―

天皇の「そうじゃない」「違うんだ」

先日の8月8日の天皇の「お言葉」とは何か。それは天皇が個人として明確に生前退位の希望を表明した、国民へのメッセージと理解することができる。

「お言葉」では「①国民の象徴としての天皇であるから公務を減らすというのはいけない、②摂政を置くというのも筋が違う、③崩御する際の退位については殯(もがり)の行事が厳しくなる」と発言していることから考えて、生前退位の気持ちを示したものと考えられる。生前退位という言葉そのものは発していないものの、ほかの選択肢を消して、生前退位のことを遠まわしに表現した、と理解できる。つまり、A・B・C・Dの選択肢のうち、Dを意思表示しようと思えば、A・B・Cの可能性を消せば、Dの意思表示ができるというわけである。

確度の高いNHKの報道によれば、天皇は、代役を立ててどうかという宮内庁の提案に対して「「そうじゃない」「違うんだ」などと強く否定し、「象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」という考えを示し続けられました」(NHK NEWSWEB)という。この天皇の拘りは強い。象徴的天皇は国民の総意に基づくために能動的存在でなければならない、という強い信念があるのだろう。だから、健康な人物が天皇でなければならない。これからの天皇はどぶ板までやらなければ国民の総意は得られないし、天皇制は恒常的な制度になり得ない、と考えている。この考えは昭和天皇のそれとは同質ではない。 

天皇は個人的な定義を述べた

日本国憲法第1条では、天皇の政治的位置づけとして「①天皇は日本国の象徴である、②その地位は日本国民の総意に基づく」とする。この条文に関して、国民の側は通常「天皇の恣意的な政治的関与を防ぐ」という読みとり方をする。いっぽう、今回の天皇の「お言葉」によれば、それとは異なり、「象徴としての天皇は総意に基づかなければならないのであるから、『象徴的行為』としてのそれなりの仕事がある」という読みとり方をする。つまり、天皇個人としては、第1条に関して、天皇にとっての能動的行為を読み取ったのである。これは、天皇による象徴的天皇に関する個人的な定義であって、これを国民に向けて開陳したということは、憲法に定められた天皇の国政不関与という観点からすれば、ぎりぎりのボールを投げている、といえるだろう。

しかし、「象徴的行為」が何もないのかといえば、そうとは言い切れない。「象徴的行為」というものの定義が曖昧なまま、巡幸や祭祀という行為が慣行として「象徴的行為」の中に落とし込まれてきた、というのが現状ではないだろうか。天皇はこれらを国民の総意に基づくための「象徴的行為」と捉えて、体力がなければ勤まることではないと主張している。そこから生前退位の論理が導き出されたのである。

 天皇は、「お言葉」を述べることによって、自らの国政不関与を認めつつ、高齢化の問題と併せて、天皇の象徴的行為の定義について、国民に積極的にボールを投げかけたといえるだろう。

天皇が政治利用される?

日本大学の古川隆久教授は「生前退位が可能になると、政治的対立に利用される可能性がある」と指摘する(NHK NEWSWEB)。しかし、壬申の乱や保元・平治の乱などの時代ならとにかく、平成の世にその可能性があるのかどうか甚だ疑問である。「即位の際に誰が最もふさわしい能力を持っているかという判断基準から論争となる可能性がある」(古川氏)というけれども、古川氏のように議論をすれば天皇への過大評価を認めることになり国民主権と矛盾する。「そういうことがあってはいけない」と議論するのが正しいのではないだろうか。

 現に、主権をもっている国民は天皇の存在に左右されるのだろうか。今回の天皇の「お言葉」については支持する国民が多いけれども、いつもでも何でも支持するわけではない。たとえば、かつて天皇は園遊会(平成16年10月28日、米長邦雄氏に対する発言)において「(日の丸掲揚・君が代斉唱を)強制するべきではない」と発言したけれども、その発言については国民の一部に共感はありつつも、国民大勢の意見や政治の動向にはまったく影響を与えなかったし、むしろ「問題とされる可能性がある」として報道されたにすぎなかった。国民主権が定着したのが現状であり、そうあるべきと考えている国民が多いのではないだろうか。

ゆっくり過ごしてもらっては?

 高齢である天皇が「象徴的行為」に自分の体力が追いつかないと主張して引退したい」と仰るのだから、しっかり引き継ぎのできる環境を整えた上で、引退して頂き、吹上か何処かに邸を建ててさしあげて静かに暮らして頂くというのではどうだろうか? 天皇の発言する「象徴的行為」のあり方について、国民はいままで慣行として曖昧なまま追認してきたのだから、それについて今更根本的に議論をするということは、時間的にも労力的にも不可能に近い。

 いままでの天皇・皇族の意見は、慎重に扱われ過ぎてきたのか、国民や行政の側はそれに素通りすることが多かった。皇太子のいわゆる人格否定発言(平成16年5月10日皇太子記者会見、皇太子妃を庇う発言)などは、皇太子による切実なSOSであったが、それに対する具体的な動きは見られなかった。人権が一部制約されている天皇・皇族の問題について、すこしの顧慮があってもよいのではないかと思う。

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2007/05/24

(お知らせ)「歴史学関係ブログ集成」について

関係者各位

 関係者各位には益々ご活躍のこととお慶び申し上げます。さて現在、歴史学研究者・歴史学サークル・歴史学関連業者の方々のブログを、「歴史学関係ブログ集成」というかたちでリンクをしております。5月24日に更新がひと段落し、現在251個のリンクが完成しております。うちわけは以下の通りです。

○日本史85

○東洋史15

○西洋史19

○考古学56

○博物館27

○文書館・アーカイブズ関係10

○史料紹介6件

○学会・研究会・大学研究室40

○出版社・書店3件

 編纂方針は運営上明らかにはしておりません(あくまで歴史学というてんに拘り、歴史マニア的なものなどは範疇外とさせて頂いております)。そして、インターネット社会の国際上の慣例に従い、リンクは原則的に作成者の方には一々ご連絡を差し上げてはおりません。ただ、作成者の方の中で、「リンクを引かれたくない」というご要望、あるいはリンクの引き方についてのご要望などがございましたら、拙宅のメールか、あるいはこのブログのコメント欄までお寄せください。ただし、ご要望にはお応えできない場合もあります。

「歴史学関係ブログ集成」

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2006/03/01

(生活)子ども三昧

200261 ・子ども好き? 勤務日数のすくない非常勤暮らしをして家庭をもっていると、まったく仕事のない休日をどう使うかが、おおきな問題となる。
 むろん研究者をめざす者として、研究をしたいのはやまやまだが、家庭に子どもが3人もいるのでそうもいかず、「家族サービス」 (女房にいわせると、それは当然の行為であるから、「サービス」と表現すべきではないようだ) に勤しむわけである。
 わたしのこのブログを読んで下さっている方から、よく「親ばか」などといわれるが、実はわたしはそれほど子ども好きでもない。折角の休みだから、正直子どもと遊ぶ気分にはなれず、「はやく本を読みたい」「テレビをみたい」「新聞を」などと考えて、いつも女房に叱られている。
 むろんわたしも子どもはふつうにかわいいとおもうし、そのうえ自分の子どもであるから、目の中にいれていたかろう筈もない。しかし長い時間、それも一日中遊んでやるとなると話は別である。悪戯はするし暴力はふるうは喧嘩はする。小悪魔といっていい。ちょっと油断するなら、お茶の入った湯飲みにミニカーが浮かんでいる。

 わたしなんて毎日よ

 と女房にいわれて「ごもっとも」と思うが、なんとも疲れる。

・「子ども好きなんですよ」? 「子ども好きなんですよ」とは、スルメが好きとかチョコレートが好きとかいうふうに、独身の男女が異性の気をひくために(家庭的なイメージをアピールするためか)よく口にするコトバであるが、これはたいてい信じてはいけない。よく「甥っ子(姪っ子)がいてかわいがってやるんです」というフレーズもあるが、これも信じるには価しない。なぜならその甥っ子(姪っ子)は、近所に住んでいたとしても、ぷいっとすぐに家に帰ってしまう筈である。子どもが好きかどうかなんて、自分の家庭に子どもがいない限りは、わかりっこないことである。「毎日子どもと暮らしても何も腹が立ちません」という、仏のような慈悲に溢れるひとをこそ「子ども好き」とよぶべきであろう。道を歩いている子どもが可愛いなんて、当たり前のことで、だから子どもは誘拐されるのである。
 だいたい毎日子どもと相対していると、どんな善人でもムカッと腹のたつもので、自分の子どもならよその子どもより寛大になれるものの、それでも苛つくものである。
 わたしは自分自身が子どもであるせいか、いつも子どもとチャンネル争いやらおやつの争いをしている。女房いわく、

 あなた、おとなでしょう? いくつ?

 はいはい、今年でめでたく32歳ですよ。しかし許せないことは許せないのである。わたしも『負け犬の遠吠え』の酒井順子さん世代のエゴイストなのかもしれない。

・休戦 しかしながら子どもの心には波がある。時々ちょっと親の気をひこうとするときもあって、そんなときは親のいうことを気味が悪いくらいによくきく。何故なのかはよくわからない。おそらく「悪戯をして怒られる」といういつものサイクルに草臥れてくるのかもしれず、親の愛情を欲しくなるときなのかもしれない。所謂「休戦」。そんなときはきもちよく遊んでやることができる。
 そんなとき、4歳になる長男から、〝おとうさんの絵〟なるものを貰った。いつも「おとうさんなんて…」といっている長男の手によるものである。
 どんなものか、おそるおそるひらいてみると、はたして鬼のような顔はしていなかった。似ていないようで似ているようでもある。とにかくほっとして、大切に畳み、部屋の隅にしまっておいた。

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2006/01/30

(史料)江戸から故郷へ緊急報告―故郷へとばす摺物(かわら版)―

 文久2年(1862)7月ごろ、江戸ではたいへんな麻疹病が蔓延していました。安政のコロリ流行以来の大流行で死人も数多く出ていたようで、当時の諸記録にさかんに登場します。
 このとき偶々、武蔵国三保谷宿名主の田中三左衛門が所用で江戸に出府していました。そのとき彼は江戸の麻疹の惨状をみて仰天し、三左衛門の故郷にすむ鈴木久兵衛に送った書簡の写が、鈴木家文書の「御用留」という史料に残っています(埼玉県立文書館)。

(史料A)
手紙をもって啓上し仕り候、時下残暑の砌御座候処、いよいよ御清勤、泰賀し奉り候、然は此節世上一般麻疹病流行の処、なかには仮初の事に心得、不養生いたし、終(つい)には一命にもおよひ候者も少なからざる由、これにより御府内名家の医師え承り候ところ、養生有増認め遣わされ候間、自分ばかり心得居り候も不本意に付、せめては当堤内村々だけも告げ知らせたく存じ、別紙の通養生心得書、摺物にいたし差上候間、何とも御手数には存じ候えども、片時も早く御組合御村々小前の衆まで行届に相成候様御配慮願い上げ奉り候、尤もそれぞれ御手抜もこれあるまじく候得共、存じ付き候事ゆえ、失敬を顧みず申し上げ奉り候、何とぞしかるべき様、御取計いの程、ひとえに希(ねが)い奉り候、以上
(文久二年)七月廿三日  田中三左衛門
 鈴木久兵衛
右の通三保谷宿名主三左衛門心付を以申越候に付、早々上狢村・平沼村・中山村・白井沼村・紫竹村・当村、右六ヶ村え摺物配布いたし候、

 この三左衛門の言を纏めると以下のようになります。
 ①世上に麻疹病が流行しているが不養生していては命に関わる。②江戸の名医から養生のあらましの情報を得た。③自分だけがそれを知っているということも不本意である。せめて「当堤内村々」(川島堤の内にある村々)だけでも知らせてやりたい。④別紙のように養生書を摺物(かわら版)に仕立てたので、小前百姓(一般の百姓)にまで行き届くよう御配慮頂きたい。

 興味深いことに、このときの摺物の現物が、鈴木家文書「御用留」の中に綴じ込まれていました(史料B)。これは三左衛門が江戸で自費出版したものでしょう。江戸における流行病を目前にみた彼は、必死の思いでこの摺物を田舎に緊急に送付したのです。

(史料B)
はしか病者養生心得

 大きんもつ
魚るい 鳥るい ひや水 酒のるい 海草るい 貝るい いもるい うりのるい かしるい さとう類 なのるい なめもの類 しんつけ類 つみ草るい ねぎの類 せりのるい むかぎ 大豆 ほしのり とうなす わらび すいか こんにやく いだまめ かき  竹の子 はすの根 とうふ しゐたけ わさび らつきやう なし ところてん くだもの類 ふき うど 茶 ゆ水にて顔手足抔あらう事無用 右の外第一おそるべきハ、男女交合 ねびい 夜あるき うす着 うなぎ なまず どぜう めんるい あぶらけ 灸治 もちるい 梅ほし
……略……
   たべてよきもの
たくあんつけ しら玉 かつほぶし みそづけ くろまめ かんひやう とうがん いんげん さつまいも くわゐ むぎめし あづき あめ 道明寺 しんこもち やきふ 長いも にんじん 大こん かぶ はにんじん でんぶ ゆり しゞミ汁 かれい あわび
……略……
 文久二壬戌年七月

 ここでは麻疹に関わる食べてよい物・食べてわるい物・忌むべき行為などが記されています。小前百姓(一般の百姓)に配布することを意識してか、平仮名が数多く使われています。
 この摺物には、「魚るい」「鳥るい」は食べてはいけない、「たくあんつけ」「しら玉」は食べてよし、などといろいろ書いてありますが、おそらく医学的根拠は全くないでしょう。しかし当時のひとは必死です。三左衛門はふるさとのひとの命を救うべく、必死でこの情報を田舎に知らせたのです。電話も携帯電話もない時代の情報伝達です。

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2006/01/12

(講演)江戸東京博物館企画展示「江戸の学び-教育爆発の時代-」関連講座やります

 去年は江戸東京博物館の友の会(「えど友」)で講演をさせて頂きましたが、今年も同館とご縁があります。
 ことし江戸東京博物館2月・3月の企画展示(平成18年2月18日(土)~平成18年3月26日(日))は「江戸の学び-教育爆発の時代-」です。「教育爆発」という言葉は、教育学分野ではよく使われる言葉です。江戸時代は「教育爆発」がおきた時代でした。この「爆発」を見学者に実感させられるか否かが展示の勝負の分かれ目になるでしょう。
 東京都公式ホームページでは「生涯学習社会の本格的な到来を迎えつつある現在、「学び」に生き甲斐を見いだそうとする人々が多くなってきました。こうした変化は社会の成熟のようにみえますが、歴史をひもといてみると、江戸時代にも「学び」を楽しみとする多くの人々を見いだすことができます。この展覧会は、江戸時代の人々が「学び」とどのように向き合っていたのかを、寺子屋関係資料・和算奉納額・俳句奉納額・昌平坂学問書(原文ママ)関係資料などの資料を中心に再発見するものです」とあります。
 わたしはこの企画展示で関連講座の講演をすることになりました。

第6回「文字を知った人々-江戸時代の読み書き事情-」
講師:高尾善希(立正大学非常勤講師)
日 時 3月2日(木) 14:00~15:30 (定員130名)
講座コード 0601-5-06
応募締切 2月14日(火)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/culture06fuyu.html

 なぜわたしが? 教育史?
 そう、実はわたしは江戸時代の識字論に関する論文を書いたことがあるのです(教育史ではありません、むしろ教育という観点では追えない識字論を意識しました)。「近世後期百姓の識字の問題」(『関東近世史研究』50号)という論文です。この論文を面白がって引用くださったのは青木美智男さんという研究者のみで、あとは沈黙に近い扱いのまま、何年かが過ぎ去りました。
 この論文では村に残る江戸時代の選挙投票用紙(村役人を選出するときに使ったもの)などを使って江戸時代の百姓の識字の実態分析をしています。このわたしの論文で使われた選挙投票用紙が企画展示の展示品リストにあり、それでわたしが講演を頼まれたわけなのです。やっとわたしの成果が日の目をみました。
 この論文、なかなか面白いんですよ。講演では論文の内容をわかりやすく説明したいと思っています。応募締め切りは2月14日(火)、くわしくは江戸東京博物館のホームページでどうぞ。

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2006/01/09

(報告要旨)「巣鴨町軒別絵図」の世界―江戸時代の巣鴨町を再現する―

 江戸時代後期、江戸は大江戸と称されるほど繁栄を極めた。この大江戸文化の爛熟に主導的な役割を果たしたのはほかならぬ江戸町方にすむ無名の人々であった。しかしその町方の具体的な景観については史料に乏しく、人名・渡世・居住位置の3つが同時に判明する町方の地点は驚くほどに少ない。たとえば、有名な江戸の切絵図では、町方は町名が記されたうえでその中が灰色に塗り潰されているのみで、それ以外知り得る情報はすくない。
 昨年の夏、わたしは偶然なことにより、江戸御府内巣鴨町の軒別絵図を発見することができた。それは旧幕府引継書(国立国会図書館)「和宮御下向」(808―56)という簿冊の中に綴じ込まれていた。文久元年(1861)製作のもので「巣鴨町軒別絵図」という題名が付されている。報告はこの絵図を紹介・分析したものである。この旧幕府引継書は、幕府の記録群を明治政府が引き継いだもので、誰でも閲覧することが可能で、しかも著名な史料群である (日本マイクロ写真がマイクロ・フィルムを作成している) 。しかし数は厖大でまだ未解明な史料がたくさん眠っていると想像される。「巣鴨町軒別絵図」もわたしに見出されるまでは未見のまま眠っていたのである。
 絵図が作られた原因は文久元年(1861)の和宮降嫁であった。降嫁の行列が関東に入ったところで、中山道の立場である巣鴨町が急に行列人数の宿泊場に指定され、僅か3日で絵図が作成・提出された。絵図は詳細を究めたもので、絵図記載の軒数は合計238軒、一軒毎に住所・所持階層(家持・家主・地借・店借)・職業・人名が判明し、所々家作の大きい家には○印が付けられている。
 この絵図を渡世毎に分析した結果、巣鴨町をおおまかに3つの地域に区切ることができると思われる。①一番板橋宿寄りの上組は交通・流通の結節点といえる地域である。馬持・駕籠舁渡世といった交通業者が多いため、板橋宿からくる旅人を待ち受け、あるいは板橋宿へ出て行く旅人を送り出す機能をもっていたと考えられる。また青物・水菓子を商う店が多いため、青物市場的な様相を呈していた可能性を指摘できる。②真ん中の上中組(上仲組とも)・下中組(下仲組とも)は植木屋遊園街として賑わっていた地域である。植木屋はふつうの植木屋とちがい、自邸内を作庭して菊づくりの見世物をおいて、多くの見物客を呼び寄せていた。同時にこの植木屋群は飯屋・居酒屋を近接して抱えており、これらは見物客に飲食を供する店と解釈することができる。③いちばん江戸寄りの下組は、酒屋・荒物屋・小間物屋・呉服屋などといった渡世があり、都市生活に身近な品を商う店が集中している印象がある。
 さらにこの絵図の分析は、ほかの情報と結びつけることによっても活きてくる。たとえば、この絵図に記載されている店のご子孫がいまも巣鴨に住み、おなじ渡世をおこなっている事例をみつけることができた(巣鴨駅前和菓子屋「福島家」)。わたしの聞き取り調査によって、この家の伝承における江戸時代の店の位置と、絵図に出てくる店の位置とが、ほぼ一致することがわかった。絵図の史料的信憑性を高める事例といえる。そのうえ、考古発掘成果と絵図との整合性も指摘することができる。たとえば、巣鴨遺跡では「高サキ」「伊勢孫」という文字をもつ通い徳利が多く出土しているが、絵図などの分析によってこの持ち主が上組伊勢屋孫兵衛・下組高崎屋半兵衛であることがはっきりわかり、その居住位置もほぼ特定することができた。また、以前の巣鴨遺跡発掘では、植木屋の遺構から大量の料理屋遺物が出てきたことがある(巣鴨駅前「桃花源」ビル地点)。この矛盾についても、絵図によって植木屋が飯屋に地貸しをしていたことが判明するから(保坂四郎左衛門地借平右衛門)、容易にこの謎を解くことができるのである。考古学成果と文献とを補い合わせる一事例といえよう。
 これらの成果は、平成15年3月27日、豊島区後援での講演会・シンポジウムを開催することによって、地元に還元することができた。今後、巣鴨地蔵通り商店街の街づくり計画の一環に、絵図をはじめとする歴史史資料が盛り込まれる可能性がある。もしこの絵図をめぐる研究が今後も現地のフィールド・ワークによって進むのであるならば、現地の町づくり計画と実証研究との両者が関わあいをもつということも、充分視野にいれてよいのではないかとわたしは考えている。
(立正大学史学会大会報告要旨、2005年11月27日立正大学大崎校舎511教室)

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2006/01/05

(書評と紹介)青木直己さん『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)

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・虎屋文庫青木直己さん 虎屋文庫主幹で食文化史研究者の青木直己さんが、去年の暮れ『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)を上梓された。著者の青木さんはわたしの大学の大先輩にあたり、ずいぶんお世話になっている方である。その関係で青木さんご本人から「きみのブログで書評してくれないか?」というご依頼を頂いた。新書本は旬モノ、ブログも旬モノ、さっそく一読して今回この書評を執筆した次第である。
 本にある青木さんのプロフィール。「1954年東京都生まれ。立正大学大学院博士後期課程研究指導修了。現在虎屋文庫研究主幹。学習院大学、NHK文化センター講師。和菓子に関する調査・研究に従事する。著書に『図説和菓子の今昔』など」。あの和菓子の老舗虎屋のアーキビストにして食文化史の専門家である。各界から脚光をあびる青木さんの存在は後輩としても誇らしい限りである。
 いっぽう、生活人としての青木さんはとても忘れっぽいご性格で、たとえば原稿をすぐ紛失したり、先日と同じ話をしたりする癖がある(失礼!)。しかしその反面、食文化についての知識はお忘れにはならず、やはりそこは研究者である。そのアンバランスさがユーモラスで、機会があったら脳みそを拝見してみたい(なんて失礼な後輩なんだ)。再び余計な話を重ねると、青木さんの奥さんは国文学研究資料館アーカイブス研究系の青木睦(あおき・むつみ)さん。夫婦揃ってのアーキビスト学者で、ご自宅にはおおきなコピー機があって仲良く夫婦共有。いやはや羨ましい限りで、夫婦同業だとこういうときに便利である(わたしの女房は歴史業界関係者ではないから意見の相違がたえない)。

・酒井伴四郎日記  青木さんの本『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)は、幕末に江戸へ単身赴任した、紀州藩下級武士酒井伴四郎の日記を紹介したものである。
 酒井伴四郎は禄高30石取りの紀州藩士。万延元年(1860)、叔父宇治田平三・大石直助ら6人とともに、中山道を紀州から江戸へ出府してくる。おのぼりさんはおのぼりさんであるからこそ、いろんな記録を残そうとする。江戸という大都市において、みるもの・きくものすべてが新鮮で、驚きの連続だからである。そこが後世の人間からすれば「目のつけどころ」である。
 日記は万延元年5月から年の暮れまでの記録だが、半年といえども、その筆まめな性癖と正直な心情吐露は読む者を魅了する。武士といえども日記中では町方とかわらぬ日常生活があって、金銭の面でケチな叔父の宇治田平三と喧嘩したり、常磐津に熱をあげてみたり、えげつない見世物を見物したり、仲間とエッチな話でもりあがったり、横浜に異人を見物したりしている。
 この日記は研究者間ではとても有名な史料で、ほうぼうの論文・書籍で引用されてきた。しかしそのわりには全体像をわかりやすく解説した本が出版されてこなかった。とくに伴四郎は若くて健康なせいかよく喰べ、日記には豊かな江戸の食事記録がある。わたしは専門家によってそれらがこまかく考察されることが必要だと感じていたが、その矢先、この青木さんの本が出た。とりわけこの食事記録に青木さんは目をつけ、伴四郎の食事記録を紹介するとともに、一般的な江戸の食文化について紹介している。
 本の中では、9月21日条に出てくる「名物おてつ」が「おてつ牡丹餅」を意味し、「江都名物双六」に「こうじ町おてつ」として出てくることや、川柳にまで出てくること、また8月11日条の「くこう」が解熱剤や強壮剤であること、「どじょう汁」が夏の季語であることなど、いろいろとわかりにくいことを教えてくれる。そして日記全体の観察も行き届いていて、あさりの記述が出てこないこと、1年に9回もどじょう鍋を喰べていること、1年に31回もそばを喰べていること、1年に14回もすしを喰べていること、などを指摘している。
 酒井伴四郎日記はたいへん魅力的な日記である。ただ惜しむらくは、良質な翻刻本に恵まれていないことである。唯一の翻刻史料である林英夫校訂「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿の移り変わり 四谷編』新宿区)は、翻刻の誤りがあまりにも多く、そのまま史料として使うには困難をともなう。青木さんも極力翻刻の間違いを訂正していると思うが、それでも8月18日条「須原屋にて武鑑を買、また仙女番買」という箇所について、「『仙女番』という本はよくわかりません。もしかすると吉原の女郎の評判を記したものかもしれません」とする(150頁)。しかしこれは「仙女香」の翻刻間違いで、「仙女香」とは南伝馬町で売られていたおしろいの名前である。ふるさとの女房へのお土産として買ったものだろう。「仙女香」は江戸の出版物に頻繁に宣伝広告されていて、伴四郎も武鑑を買った須原屋で広告をみた可能性がある (仙女香と出版物に関しては湯浅淑子「仙女香と出版物の改掛」<『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版所収>に詳しい) 。むろんこれは青木さんの責任外である。わたしも時々日記を読んでいて意味がわからなくなることがある。これでは今後の研究に支障をきたすだろう。したがって今後は、江戸研究者が鳩首相談して、正確な翻刻本を作成する必要があるように思う。

・酒井伴四郎が常磐津に通う理由―伴四郎の心中に迫る― 青木さんの本についての参考のため、酒井伴四郎日記についての私見をのべておきたい。
 日記をよむと、酒井伴四郎は常磐津師匠の稽古所にたいそうな熱をあげていることがわかる。ことの発端は6月28日、伴四郎が藩邸のひとから「三味線の師匠のところへ通わないか」という誘いをうけたことにはじまる。このとき彼は「涼しくなってからがよい」とあまり乗り気ではなかったが、6月晦日にまた誘いをうけ、あまり断るのもどうかと藩邸近くの鮫ヶ橋裏長屋にある常磐津琴春師匠へ稽古に出向いた。ところがどういう風のふきまわしか、伴四郎はそれ以来同居の叔父の目を憚るくらいに「面白ふそふに」この常磐津稽古所に通い、月に10回以上も顔を出すことさえあった。
 その変貌ぶりは何故か。それは彼が最初に稽古所に出向いた6月晦日条の文章中にはこうある。

師匠は四十余りの大不義料、娘は小人嶋、

 母である師匠は「大不義料」(不器量)、その娘は「小人嶋」とある。ここで問題なことはこの「娘は小人嶋」という言葉の解釈である。
 山本博文さん(東京大学)は「(娘は)背が低かったのだろう」と解釈し(山本博文『江戸を楽しむ』中公文庫)、青木さんの本では意味を怪しんでか「嶋」の字を抜いている。しかしわたしは「小人嶋」のままでよいと思っている。
 なぜなら、この「小人嶋」(こびとじま)という言葉は、「背が低く小さい人の住むと考えられた想像上の島」のことで、これに関連して「小人島の鶴」というフレーズもあるからである。その意味は「小人島では、人よりも鶴の方が大きいことから、物事の釣合のとれないこと。また、調和のとれないことのたとえ」である(『日本国語大辞典』)。したがって、「小人嶋」=「小人島の鶴」で「正反対」という意味をもつ。そのため以上の文章は「師匠はたいへんな不器量だが、娘はたいへんな美人である」と訳すのが妥当である。はじめて来訪したこの日、この母と娘しか姿がみえなかったから、伴四郎は母子家庭だと思ったらしい。
 以下はわたしの飛躍的な史料解釈である(というより助平なわたしの勘ぐりである)。このことをわざわざ記した伴四郎はこの娘に密やかな好意を寄せていたのではないか。女房・子もちといえども、まだ28歳の男盛り、しかも単身赴任の身の上である。そんな彼が、娘が美人の母子家庭に足を踏み入れれば、ちょっとその雰囲気に酔いしれたとしても不思議ではない。その証拠に翌日の条にはこうある。

さてこの稽古屋は親子二人と思の外、夕方の事ゆえ亭主と養子と帰り、都合四人の家内、

 そう、母子家庭ではなかった。この「亭主」とは師匠琴春の亭主で、「養子」とはおそらく娘の亭主で婿養子だろう。この記述の紙背には(なあんだ、親子ふたりじゃないのか、しかも亭主もちじゃあねえかよ)という伴四郎の嘆息があるように思われてならない。
 何れにせよ、「面白ふそふ」な伴四郎の常磐津通いの背景には、美人の娘の存在を無視することはできない。娘義太夫も美人で人気を集めたという。常磐津の稽古所も人気商売、看板娘的な娘がいれば商売上有利だったに違いない。オトコなんてそんなものである。
 酒井伴四郎日記にはほかの箇所にも他言を憚るような記述が散見される。したがってこの日記は帰国後に家族などにみせることを予定していない純粋な私的日記ではないかと思う。それゆえに、酒井伴四郎日記は史料的価値が高く、現代人の共感をもうむのではないだろうか。くわしくはかるいタッチで楽しく書かれている青木さんの本を読まれたい。
(NHK出版生活人新書165、700円+税、2005年12月)

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2005/10/18

(募集)東京都国分寺市で考古資料倉庫火災、復旧ボランティアを募集

 先日8日午前0時過ぎ、東京都国分寺市で史跡出土品倉庫で火災があったそうです。「朝日新聞」によれば下記の模様です。

国指定史跡出土品倉庫焼ける、対策本部設置
 国分寺市西元町1丁目の国指定史跡「武蔵国分寺跡」の出土品を収めた倉庫で8日未明、火災があり、倉庫や収納箱などが焼けた。同市は11日に対策本部を立ち上げ、被害復旧に全力を挙げている。……8日午前0時過ぎ、煙が上がっているのに気づいた近くの住民から119番通報があった。火は約4時間後に消し止められたが、倉庫2棟が全焼、1棟が一部焼けるなど計55平方メートルが焼けた。倉庫内や倉庫脇に積み上げてあったプラスチック製の収納箱1200箱や、武蔵国分寺跡などから出土した瓦や土器、遺跡調査結果を記した紙や写真などが被害にあった。市は、……ぬれてしまった紙の資料などの復旧に取り組むという。(10/13)インターネット「朝日新聞」多摩版
http://mytown.asahi.com/tama/news02.asp?kiji=4282

 この「午前0時過ぎ」に煙があがるというのはどういうことでしょう。それに、どうして考古資料の倉庫で火災なのでしょうか。ともあれ、これに対して東京都国分寺市ふるさと文化財課では、復旧ボランティアを募集しています。下記サイトをご覧ください。

■ 火災被害を受けた市文化財施設の復旧ボランティアを募集します。 
 10月8日深夜の遺跡調査会の火災により市内遺跡発掘調査資料の一部が被害を受けました。教育委員会ふるさと文化財課ではこれら資料の早急な保存処理をするために専門知識を有する方のボランティアを募集しています。
【資格】史・資料取扱経験者 博物館学芸員資格所持者 考古学専攻 日本史専攻 調査員経験者
担当:ふるさと文化財課(内線479) 
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/ptl_bosyu/70bun/kasaikinkyuutaisakuvora051017/index.html

 わたしの大学の先輩がこのふるさと文化財課にお勤めなので (以前博徒「小金井小次郎」の史料の所在を教えて頂きました、拙稿、立正大学史学会編『宗教社会史研究Ⅲ』(2005.11刊行予定)「石碑からみた『慶応水滸伝』―武蔵国北多摩郡周辺の博徒勢力範囲―」参照) 、拙宅にボランティア募集の情報が入ったのですが、妻が出産間近なので家を空けるわけにもゆかず困りました。協力して頂けるという方がいらっしゃいましたら、是非御駆けつけください。

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2005/10/10

(ドキュメント)博徒「小川の幸蔵」の生涯①―小川のどろぼう宿―

―小川のどろぼう宿
 といえば、帝都東京近郊の多摩の土地で知らぬものはなかった。道中の旅人を泊まらせては金品を奪い、時には殺してしまうことさえもあるという。

・菅原道明自伝 東北福島県の水力発電事業に尽力し福島市議にも撰ばれた菅原道明は、二十代の半ば、そのどろぼう宿に泊まった経験をもっている。それが菅原道明の回顧録『古稀来』に載っている。
 菅原は安政二年に肥前国南高来郡湯江村池田名の富家にうまれ、明治九年長崎師範学校を卒えると、西南戦争の余燼冷めやらぬ明治一二年の夏に上京し横浜に入った。それから彼は、すぐに其処で神奈川県西多摩郡青梅町青梅小学校訓導兼校長赴任の辞令をうけとった。せわしないことに、何と赴任日はその翌々日であった。
 菅原は辞令をうけとるや、その翌朝から人力車で京橋を発して新宿まで出て、また別の車で青梅に入ろうとした。車夫から「今日中には青梅には行き着きませんが」といわれたが、「いけるところまでいってくれ、青梅になるべく近くまでやってくれればよいから」と車夫を急かした。
 帝都市外は道がひろくて平坦で、車は勢いよく泥を飛ばして飛び出した。しかし角筈の十二社を過ぎたころから段々と上り坂になって、車の進みは捗らなくなった。三字(時)半頃になり車夫は汗を拭きながら、あがる息を堪えつつ「御泊まりには少しはやいでしょうが、この先には上等の宿屋がありませんから、むしろここにお泊まりになって、翌朝早立ちなさるのがご都合でしょう」とすすめた。菅原は「そうか、それならそれでもよい」と素直に頷き、車をおりることにした。
 其処は多摩の小川という在所で、旧幕時代は武蔵国多摩郡小川村といい、青梅街道沿いの人通り激しい殷賑の土地で、明暦年間に街道の便のために設けられた宿場村であった。

・多摩郡小川の旅館 車のとまった傍に一軒の瀟洒な屋敷ふうの旅館があった。車夫がすすんで交渉にでると番頭がすぐに「御泊まりなさい」と案内にきた。菅原は車賃と幾ばくかの礼金を包んで車夫にわたすと旅館の門をくぐった。
 しかし案内されたのは六畳のむさい座敷だった。菅原は「ほかに涼しい部屋はないのか」と訊くと、番頭は「ありますが、皆ふさがっております」と頭を下げながら申し訳なさそうに答えたので、「しからばこれでよい」とこたえて座敷に荷物をおろすことにした。すぐに「風呂ができた」という案内があって、手拭いさげて邸内を逍遙してみると、外見よりもひろくて庭園泉水などもあり、この田舎には珍しいなかなかの旅館であることがわかった。また通り過ぎた女中に「ここは何という在所か」と訊ねると、女中は「小川村中宿ともうします、丁度東京と青梅の中間で多摩郡にあたります」などと手慣れた感じの丁寧な返事がかえってきたので、だいぶ客慣れしているようにも感じられた。
 蜩がなく頃にまた先ほどの番頭がやってきて、「相宿を願いたいのですが」といってきた。
「随分繁昌しているな」
「へえ、恐れ入ります」
「どんな客だ」
「中年の蚕紙商の方で御座います」
 菅原はすこし考えてから「よかろう」とこたえた。番頭のつれてきた男は実直そうな男で、「失礼します」と慇懃に頭を下げて入ってきた。
 それから暫くして番頭がまた「再び失礼いたしますが、いま一人をお願いいたします」という。それで今度も「どんな客か」と問うたが、「ご婦人の方で御座います」という。菅原はすぐに「婦人は困る」といったが、番頭は「既に七十位のお婆さんで御座いますから、お困りになるようなご婦人ではございません」といってわらった。
「知り合いか」
「いいえ、知り合いでは御座いませんが、大丈夫でしょう」
 菅原は相宿の蚕紙商の男を振り返ると、彼は「支障ないでしょう」と頷いた。これだけ繁昌している宿なのだから仕方あるまい。それで老婆とも相宿をすることになった。入ってきたのをみると、なるほど番頭のいうとおり、腰のまがったよろよろとした老婆であった。
 商人の男とは二、三あたり障りのない世間話を交わした。彼は武州埼玉の者でこの多摩一帯を商談に歩いているのだという。この頃多摩あたりの景気がよいということであった。しかしいっぽうの老婆は気味の悪いほどの無口で、これといった印象はなかった。夕食後暫くして三人は一室内に寝についた。

・盗難事件 夜明け頃老婆がおきて雨戸をくる音に目を醒ました。すると宵に枕下に置いた友禅縮緬の包みの様子が妙である。包みに入れていた筈の紙入と時計が、何故か包みより離れて出ているのである。咄嗟に「はっ」と思って飛び起き、便所に入って確かめると、やはり在中の紙幣がなかった。
(やられた)
 と思ったが、たれにもいわないことにした。何事もなかったふりをして便所から出て座敷に戻ると、商人の男もせわしなく身辺の何かを調べている様子だった。しかしふたりは黙って夜具を片づけだした。いっぽう老婆は先に顔を洗いそそくさと勝手元で朝飯を済ませ、「先を急ぎますから」と暇乞いをして座敷を出た。
 老婆の出たあとで、商人の男は菅原の傍にそっと寄ってきて、早口で「実はわたしは昨夜金を盗まれたのです、あなたは?」と耳打ちした。菅原も「同じです、金だけ、書類はそのままでした」と小声で短くこたえた。
「如何程でしょう」
「小遣いですが、拾五、六円ほど」
「それは大変だ、わたしは三、四円だけでしたが」と商人の男は震えた声をあげ、「さっきの老婆ですよ、ひとりで朝食して急いで出ていったから、疑えば疑われもする、すぐに番頭を呼びましょう」といって、手をたたいて番頭を呼んだ。
 やってきた番頭にふたりは一件を打ち明けた。すると番頭も驚いて「それではあの老婆が怪しい」といい後を追いかけた。そのあいだ菅原と商人の男が庭をみてまわると、板塀に九尺梯子がひとつかけてあるのをみつけた。
「これで逃げたのでしょうか」
 と商人の男は梯子を見あげて訝しげにいったが、菅原もあの老婆に登れるのだろうかと疑問に思った。しかしこの梯子は如何にも不自然ではあった。そうこうしているうちに番頭が帰ってきて、
「老婆を調べましたが六十銭よりほかはありませんでした、さすれば盗賊はほかにあるのでしょう、田無の警察までは遠いので老婆は放してやりました」
 と報告してきた。老婆が内から手引きをして盗賊があの梯子で逃げたものだろうか、しかしさりとて番頭の言も信じられるものではない、ここでいろいろ思案したところで今更どうなるわけでもあるまい。それで菅原は「すぐに警察に届けねばならぬが、警官がここにやってくるまで待っている暇はない、わたしが出発のうえで届けるなら届けてくれ」と番頭にいい、自分の身上を明かして「もし用事があればあとから書面で頼む」と申し入れるだけにした。
 埼玉の商人とは思わぬ災難を慰めあって、旅館でわかれた。

・郡長砂川源五右衛門の話―どろぼう宿の実態― 夕刻になってやっと青梅に到着し、志村屋という宿に旅装を解いた。
 そしてすぐに郡役所に郡長砂川源五右衛門を訪れて着任の挨拶をした。すると郡長の砂川はにこやかに出迎えてくれ、「お疲れ様でした、早速に某亭で歓迎会をひらきましょう」といってくれた。菅原にとっては小川でひと災難あったあとなので、その志がとりわけ有り難く思われた。
 某亭にいくと郡吏・青梅町長・学区取締など、およそ十人近くが揃っていた。郡長砂川は旧幕時代には名物里正(名主)であったらしく、なかなか老巧のひとで、弁舌においては敵するものはなく座中で一目置かれていた。
 酒が闌(たけなわ)となって座中は頤(おとがい)を解いて賑やかになった。菅原道明の回顧録『古稀来』にはこの座中での菅原と郡長の会話が記されている。

……酒闌にして、私は昨夜盗難に逢った事を話した。始終を聞いてゐた郡長殿は「夫れは先づ命に別状がなくてよかつた、君が金を多く持たなかった賜だ」といふ。妙なことを云ふと思うたから「夫れは何故か」と問うたら、其の説明に曰く「小川の彼の宿は附近切つての博徒の親分某(有名な博徒 私も名は聞いて居る)の妾の内職場である。金持の旅人と見れば直に数名の子分で締めて仕舞ふ。構へも立派だし庭園も広く、女も垢抜けのしたのが三、五人は居る。旅人は良い宿に着いたと喜び、美女の晩酌で酔ひつぶれて前後も知らぬ間に彼の世に旅立たせる訳はない。二三年前から毎年絹商人又は種紙(蚕紙)配布後代金集めに廻る者など大分やられる。今年も三千円を持つた絹商人が宿り合はせて殺された。知つて居る者は宿らぬが不案内の旅人は宿つて難に遇ふ」云々。
「そんな所をなぜ其筋では手を附けぬか」と反問すると「手を着ければ何百の子分を持つてる親分だから、どんな大騒動が起るかも知れぬ、それで其筋でも知つて知らぬ振りして居ると見える」と云はれた。私は思うた、昔は将軍の御膝元、今は大政府の脚下と云ふべき地(新宿より四五里)で、昔の安達が原の様な恐ろしい事が今でも行はれるのかと大いに脅えた。郡長殿は笑つて居る計りだつた「信州の長脇差、関東の無宿者と云ふが、今では、甲武の博徒で其筋でも困つて居る様だ」と又太白 (高尾註、「大きな盃」) を挙げられる。私は恐ろしい旅の空であるわいと思うた。

 このあとに菅原は旅館志村屋に帰って寝についたが、郡長の小川のどろぼう宿の話が脳裏に焼き付いて残り、隣の話し声に「私を襲ふのでは無いか」(同書)と気が気でなく、なかなか熟睡できなかった。そのことをあとで郡長砂川にいうと、彼は「小川の事で脅して置いたから其心配は尤である。然し志村の事は下女と料理番との媾引 (高尾註、あいびき) である、とんだ事で校長先生を驚かしたものだ」(同書)と大きなくちをあけてわらった。

・博徒「小川の幸蔵」とは 偶々菅原道明というひとの自伝の筆にとめられた、この「小川のどろぼう宿」に関わる「博徒の親分某」こそ、旧幕時代から明治はじめにかけて多摩一帯に縄張りをはった博徒「小川の幸蔵」そのひとである。本名を小山幸蔵といい、旧幕時代には子分五十人をひきつれて暴れまわった名物博徒である。
 それにしても、商人を取り込んで殺してしまう、悪夢のような〝蟻地獄〟旅館はいったい何故街道沿いに堂々と構えていられるのであろうか。そこで、博徒「小川の幸蔵」は地域社会や支配権力にとって、どのような存在なのだろうかという疑問がわく。たとえば、郡長砂川源五右衛門の語る宿の残虐性、宿の公然とした犯罪のやり方、警察や郡長の諦めにも似た博徒との距離のとりかたなどは、現在ではちょっと想像し難いことばかりである。これらはどう理解したらよいのだろうか。
 それには博徒「小川の幸蔵」そのひと自身の履歴を知らねばならない。しかし、それを語り尽くすには、多摩地域の社会状況の根の部分にまで掘り進めなければならないし、時間軸のうえでも、旧幕時代、おそらく天保の頃までは遡らなければならないだろう。
 これから、博徒「小川の幸蔵」の栄光と屈折と挫折の人生を、武州多摩地域の歴史と地域性の中において、なぞってみたいと思うのである。

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2005/10/04

(大学)史学科大学生の素朴な疑問

・アンケート 立正大学でわたしの授業がはじまりました(わたしの担当授業は後期授業です)。そこではいくつかの設問をのせたアンケートを配りました。その回答を匿名でみなさんにご紹介することにしましょう (学生にはそのことは了解を得ています) 。設問中「歴史のことでふだん疑問に思っていることはありますか?」という欄に対し、主に6つのすばらしい回答を得ました。やってみるものですね。

①なぜ私の友達に歴史嫌いが多いのか。
②昔の失敗を知っているはずなのに同じ失敗をしていることがあるような気がするところ。
③江戸時代の天ぷらについての技術。
④幕末の志士は会合で、どのような酒(どこの産の)を飲み、どのような料理を食べていたのか。姉小路公知卿を暗殺したのは本当は誰か。
⑤個人的なんですが、祖母の家に「浅間神社もどき」があって碑文もあったんですが、何故農家のうちが、それを管理しているのかが不思議です。疑問です。
⑥歴史はどこで始まりどこで終わるのか。

 個人的なふとした疑問でも、そこからおおきな論文に仕立てることは可能です。研究者の方々でもそんなことをしてきました。論文をよむことも大切ですが、まずは自分本位で考えることが大切です。

・歴史を学ぶ意味 「①なぜ私の友達に歴史嫌いが多いのか」「②昔の失敗を知っているはずなのに同じ失敗をしていることがあるような気がするところ」の2回答は、ふかいところで繋がっています。実はわたしも同じようなことを考えていました。
 現在の世の中というのは「過去を喪失した世の中」であって、つまり常にイマという点のうえに立っていて、そこから未来という〝空白〟に生きているのが現代人の特徴です。たとえばこれからの国政・これからの外交・これからの教育・これからの株価など……。あまり過去を振り返ろうとはしていません。従来の日本が「右大将頼朝公以来」や「東照宮以来」や「明治大帝以来」や「先祖伝来の田畑」などと、様々な過去に縛られてきたことを考えてみるに、これはかなり風変わりなことではないでしょうか。
 しかしその反面、「日本人の誇り」をもつことを主張し、アジア・太平洋戦争の日本をいちぶ肯定するような議論もでてきました。これは、先ほど述べた「過去を喪失した世の中」とは関連性のある現象で、「歴史をもういちど作りなおそう」という動きだといえます。もちろん「日本人の誇り」自体がわるいわけではありません。しかし、それによって①さんの友達が「歴史好き」になったとしても、もし夜郎自大で自分勝手な歴史観がすこしでも含まれれば、②さんのいう「昔の失敗」は頭の中から消えてしまうから、そこはおおきな落とし穴です。また試しに戦前・戦中のむかしの歴史教科書を読んでみて下さい。大河ドラマ調というか、劇画調というか、講談調というか、けっこう面白い本なのです。ところが吹き出したくなるようなばかみたいなウソばかりです。だから面白けりゃいいというわけではありません。歴史はマンガじゃないんだから。

・日常への視点 「③江戸時代の天ぷらについての技術」「④幕末の志士は会合で、どのような酒(どこの産の)を飲み、どのような料理を食べていたのか」という疑問は、むかしの日常生活に関するものです。こういった日常生活を明らかにすることも、歴史学での重要なテーマです。徳川家康が天ぷらをたべて腹痛をおこしたというのは有名な譚ですが、歴史はふるい筈です。江戸の出店でも売っていて絵ものこっています。幕末の志士が集う京都ではどのような食事が出たのでしょうか。もし「幕末の志士」で史料がなければ、もし興味があれば「料理」というところに重点をおいて、「幕末京都における○○の料理」という課題でもいいわけです。京都の庶民の日記でもみれば何かわかるかもしれません。京都のお酒ならばちかくの池田・伊丹・灘などが名酒を産する土地です。伊丹は京都の近衛家領でした。近衛家は酒造業を積極的に保護し、近衛家が鑑札などに使用した合印文は、いまも伊丹市章として使われています。近衛家出入りの志士ならば伊丹の酒かもしれません。
 これは自分の家に関する疑問。「⑤個人的なんですが、祖母の家に「浅間神社もどき」があって碑文もあったんですが、何故農家のうちが、それを管理しているのかが不思議です。疑問です」。そうですね、これも不思議です。まず石碑に何が書いているのかを調べてみて下さい。その石碑に富士山のマークは入っていませんか。大きさを測って様子を写真におさめてみましょう。つぎにむらにふるい書き物はのこっていませんか。むらのご老人や旧村役人家などの旧家を訪ねれば、何かわかるかもしれません。文字だけではなくむらにふるい言い伝えなどはのこっていませんでしょうか。大学にはたくさんの本があって、民俗学や歴史学などの書棚に浅間神社や富士信仰や屋敷神に関する本がありますから、それを繙いてみてください。このようなふとした日常の疑問は大切にしてください。是非レポート提出はこの事例でお願いします。

・歴史のはじまりとおわり 「⑥歴史はどこで始まりどこで終わるのか」。これはなかなか深い疑問です。
 歴史には必ず文脈があります。「歴史」と2文字でおわる歴史はありえません。つまり「○○の歴史」とか「××の歴史」とか、必ず枕詞がつくわけですが、たとえば「日本の歴史」はいつからなのでしょうか。
 さきほど亡くなった網野善彦というひとは、このことにたいへん疑問をもった歴史家です。「日本」という国号や「天皇」という称号は7世紀になってつくられました。「日本」がつくられた当初は列島全部が「日本」の支配下ではなくて、東北などは「日本」の範囲の外にありますね。そのうえ「日本」成立以前の聖徳太子は当然「日本人」ではありません。⑥さんが「どこで終わるのか」と「終わる」という視点もいれたことはすごいことです。「『日本』だけではなく別の国号もあってもいい」というのが網野さんの議論だったからです。この世の中すべからく未来永劫という事柄はありません。必ずどれにもはじまりとおわりがあります。それを意識することも歴史学の目的のひとつです。

・大学生の問題意識 このように大学生の問題意識はなかなか先鋭的です。たぶん自分はあまり先鋭的だと意識しておらず〝天然的先鋭〟なのかもしれません。しかしもしそうであったとしても、先鋭的だと教えてあげることは必要です。「勉強してないネ」ということは簡単ですがそれだけでは何の問題の解決にもなりません。
 以下は「抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明」でノーベル生理学医学賞をとった利根川進さんと立花隆さんとの対談集『精神と物質』(文春文庫)から (わたしの愛読している本です、遺伝子の知識がないと内容はかなり難解ですが) 。利根川さんは大学生の頃生物の細胞を知りませんでした (質問者は立花さん、返答者は利根川さん)

―理学部の化学科の出身でしたね。もともと生物に対する興味から分子生物学に入っていかれたわけじゃないんですか。
「ぼくは高校で生物をとってないんです。だから生物学の知識なんて、はじめは何もなかったですね。たとえばね、この人間の体がみんな細胞でできてるなんてことは、大学に入って一般教養の生物をとるまで知らなかったくらいなんですよ。それを聞いたとき、へえーって思ってね、すぐ友達にその話をしたら、お前そんなことも知らなかったのかって、すごくバカにされましたけどね(笑)。こんな話書かないでくださいよ」
―いやあ、その話いいですね。ノーベル賞の利根川さんが細胞を知らなかったなんて傑作ですよ。ぜひ書かせてください。 (第1章「安保反対」からノーベル賞へ)

 ノーベル生理学医学賞研究者が、大学生時代に細胞を「知らなかった」ということもさることながら、同時に「へえーって思ってね、すぐ友達にその話をした」というところも重要です。こう考えると昨今喧しい大学生の学力低下問題って何なのでしょうか。

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