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2016/08/11

(雑感)天皇の「お言葉」について―天皇の投げたボール―

天皇の「そうじゃない」「違うんだ」

先日の8月8日の天皇の「お言葉」とは何か。それは天皇が個人として明確に生前退位の希望を表明した、国民へのメッセージと理解することができる。

「お言葉」では「①国民の象徴としての天皇であるから公務を減らすというのはいけない、②摂政を置くというのも筋が違う、③崩御する際の退位については殯(もがり)の行事が厳しくなる」と発言していることから考えて、生前退位の気持ちを示したものと考えられる。生前退位という言葉そのものは発していないものの、ほかの選択肢を消して、生前退位のことを遠まわしに表現した、と理解できる。つまり、A・B・C・Dの選択肢のうち、Dを意思表示しようと思えば、A・B・Cの可能性を消せば、Dの意思表示ができるというわけである。

確度の高いNHKの報道によれば、天皇は、代役を立ててどうかという宮内庁の提案に対して「「そうじゃない」「違うんだ」などと強く否定し、「象徴としての務めを十分に果たせる者が天皇の位にあるべきだ」という考えを示し続けられました」(NHK NEWSWEB)という。この天皇の拘りは強い。象徴的天皇は国民の総意に基づくために能動的存在でなければならない、という強い信念があるのだろう。だから、健康な人物が天皇でなければならない。これからの天皇はどぶ板までやらなければ国民の総意は得られないし、天皇制は恒常的な制度になり得ない、と考えている。この考えは昭和天皇のそれとは同質ではない。 

天皇は個人的な定義を述べた

日本国憲法第1条では、天皇の政治的位置づけとして「①天皇は日本国の象徴である、②その地位は日本国民の総意に基づく」とする。この条文に関して、国民の側は通常「天皇の恣意的な政治的関与を防ぐ」という読みとり方をする。いっぽう、今回の天皇の「お言葉」によれば、それとは異なり、「象徴としての天皇は総意に基づかなければならないのであるから、『象徴的行為』としてのそれなりの仕事がある」という読みとり方をする。つまり、天皇個人としては、第1条に関して、天皇にとっての能動的行為を読み取ったのである。これは、天皇による象徴的天皇に関する個人的な定義であって、これを国民に向けて開陳したということは、憲法に定められた天皇の国政不関与という観点からすれば、ぎりぎりのボールを投げている、といえるだろう。

しかし、「象徴的行為」が何もないのかといえば、そうとは言い切れない。「象徴的行為」というものの定義が曖昧なまま、巡幸や祭祀という行為が慣行として「象徴的行為」の中に落とし込まれてきた、というのが現状ではないだろうか。天皇はこれらを国民の総意に基づくための「象徴的行為」と捉えて、体力がなければ勤まることではないと主張している。そこから生前退位の論理が導き出されたのである。

 天皇は、「お言葉」を述べることによって、自らの国政不関与を認めつつ、高齢化の問題と併せて、天皇の象徴的行為の定義について、国民に積極的にボールを投げかけたといえるだろう。

天皇が政治利用される?

日本大学の古川隆久教授は「生前退位が可能になると、政治的対立に利用される可能性がある」と指摘する(NHK NEWSWEB)。しかし、壬申の乱や保元・平治の乱などの時代ならとにかく、平成の世にその可能性があるのかどうか甚だ疑問である。「即位の際に誰が最もふさわしい能力を持っているかという判断基準から論争となる可能性がある」(古川氏)というけれども、古川氏のように議論をすれば天皇への過大評価を認めることになり国民主権と矛盾する。「そういうことがあってはいけない」と議論するのが正しいのではないだろうか。

 現に、主権をもっている国民は天皇の存在に左右されるのだろうか。今回の天皇の「お言葉」については支持する国民が多いけれども、いつもでも何でも支持するわけではない。たとえば、かつて天皇は園遊会(平成16年10月28日、米長邦雄氏に対する発言)において「(日の丸掲揚・君が代斉唱を)強制するべきではない」と発言したけれども、その発言については国民の一部に共感はありつつも、国民大勢の意見や政治の動向にはまったく影響を与えなかったし、むしろ「問題とされる可能性がある」として報道されたにすぎなかった。国民主権が定着したのが現状であり、そうあるべきと考えている国民が多いのではないだろうか。

ゆっくり過ごしてもらっては?

 高齢である天皇が「象徴的行為」に自分の体力が追いつかないと主張して引退したい」と仰るのだから、しっかり引き継ぎのできる環境を整えた上で、引退して頂き、吹上か何処かに邸を建ててさしあげて静かに暮らして頂くというのではどうだろうか? 天皇の発言する「象徴的行為」のあり方について、国民はいままで慣行として曖昧なまま追認してきたのだから、それについて今更根本的に議論をするということは、時間的にも労力的にも不可能に近い。

 いままでの天皇・皇族の意見は、慎重に扱われ過ぎてきたのか、国民や行政の側はそれに素通りすることが多かった。皇太子のいわゆる人格否定発言(平成16年5月10日皇太子記者会見、皇太子妃を庇う発言)などは、皇太子による切実なSOSであったが、それに対する具体的な動きは見られなかった。人権が一部制約されている天皇・皇族の問題について、すこしの顧慮があってもよいのではないかと思う。

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