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2006/01/30

(史料)江戸から故郷へ緊急報告―故郷へとばす摺物(かわら版)―

 文久2年(1862)7月ごろ、江戸ではたいへんな麻疹病が蔓延していました。安政のコロリ流行以来の大流行で死人も数多く出ていたようで、当時の諸記録にさかんに登場します。
 このとき偶々、武蔵国三保谷宿名主の田中三左衛門が所用で江戸に出府していました。そのとき彼は江戸の麻疹の惨状をみて仰天し、三左衛門の故郷にすむ鈴木久兵衛に送った書簡の写が、鈴木家文書の「御用留」という史料に残っています(埼玉県立文書館)。

(史料A)
手紙をもって啓上し仕り候、時下残暑の砌御座候処、いよいよ御清勤、泰賀し奉り候、然は此節世上一般麻疹病流行の処、なかには仮初の事に心得、不養生いたし、終(つい)には一命にもおよひ候者も少なからざる由、これにより御府内名家の医師え承り候ところ、養生有増認め遣わされ候間、自分ばかり心得居り候も不本意に付、せめては当堤内村々だけも告げ知らせたく存じ、別紙の通養生心得書、摺物にいたし差上候間、何とも御手数には存じ候えども、片時も早く御組合御村々小前の衆まで行届に相成候様御配慮願い上げ奉り候、尤もそれぞれ御手抜もこれあるまじく候得共、存じ付き候事ゆえ、失敬を顧みず申し上げ奉り候、何とぞしかるべき様、御取計いの程、ひとえに希(ねが)い奉り候、以上
(文久二年)七月廿三日  田中三左衛門
 鈴木久兵衛
右の通三保谷宿名主三左衛門心付を以申越候に付、早々上狢村・平沼村・中山村・白井沼村・紫竹村・当村、右六ヶ村え摺物配布いたし候、

 この三左衛門の言を纏めると以下のようになります。
 ①世上に麻疹病が流行しているが不養生していては命に関わる。②江戸の名医から養生のあらましの情報を得た。③自分だけがそれを知っているということも不本意である。せめて「当堤内村々」(川島堤の内にある村々)だけでも知らせてやりたい。④別紙のように養生書を摺物(かわら版)に仕立てたので、小前百姓(一般の百姓)にまで行き届くよう御配慮頂きたい。

 興味深いことに、このときの摺物の現物が、鈴木家文書「御用留」の中に綴じ込まれていました(史料B)。これは三左衛門が江戸で自費出版したものでしょう。江戸における流行病を目前にみた彼は、必死の思いでこの摺物を田舎に緊急に送付したのです。

(史料B)
はしか病者養生心得

 大きんもつ
魚るい 鳥るい ひや水 酒のるい 海草るい 貝るい いもるい うりのるい かしるい さとう類 なのるい なめもの類 しんつけ類 つみ草るい ねぎの類 せりのるい むかぎ 大豆 ほしのり とうなす わらび すいか こんにやく いだまめ かき  竹の子 はすの根 とうふ しゐたけ わさび らつきやう なし ところてん くだもの類 ふき うど 茶 ゆ水にて顔手足抔あらう事無用 右の外第一おそるべきハ、男女交合 ねびい 夜あるき うす着 うなぎ なまず どぜう めんるい あぶらけ 灸治 もちるい 梅ほし
……略……
   たべてよきもの
たくあんつけ しら玉 かつほぶし みそづけ くろまめ かんひやう とうがん いんげん さつまいも くわゐ むぎめし あづき あめ 道明寺 しんこもち やきふ 長いも にんじん 大こん かぶ はにんじん でんぶ ゆり しゞミ汁 かれい あわび
……略……
 文久二壬戌年七月

 ここでは麻疹に関わる食べてよい物・食べてわるい物・忌むべき行為などが記されています。小前百姓(一般の百姓)に配布することを意識してか、平仮名が数多く使われています。
 この摺物には、「魚るい」「鳥るい」は食べてはいけない、「たくあんつけ」「しら玉」は食べてよし、などといろいろ書いてありますが、おそらく医学的根拠は全くないでしょう。しかし当時のひとは必死です。三左衛門はふるさとのひとの命を救うべく、必死でこの情報を田舎に知らせたのです。電話も携帯電話もない時代の情報伝達です。

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2006/01/23

(講座)第3回ワン・コイン古文書講座開講 附・江戸東京の歴史散歩のご案内

 この1回500円のワン・コイン古文書講座は原則的に毎月開催しております。2月の第3回は、女性の研究者の方をお招きして、女性の筆跡についてお話を頂きたいと思っています。今年の大河ドラマは山内一豊夫妻の出世物語「功名が辻」ですが、女性も立派な歴史の担い手であったわけです。それを古文書を読んで実感して頂ければと思います。
 ご案内は以下の通りです。

第3回ワン・コイン古文書講座

○日時:2月25日(土曜日) 4時15分(4時から開場)~6時15分
○場所:立正大学大崎キャンパス(住所〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16)3号館324教室(最寄り駅は山の手線の五反田・大崎駅、駅から徒歩7分です)
立正大学大崎キャンパスへのアクセス
立正大学大崎キャンパスの見取り図(3号館は時計台のある棟) 
○料金:500円(レジュメ代、その他一切無料)
○講師:横山百合子さん(東京都公文書館、東京大学大学院修了)
○講師から一言。「江戸時代は、「七去三従」の教えの生きていた時代といわれ、社会の表に出ることもなかった江戸町方の女性たち。しかし、家業にも、財産管理にも、はては”旦那”の財布の中身にまで目をひからせ、大奥コネクションをフルに活用し、見えないところで活躍をしている女も少なくありませんでした。そんな町方の女たちの姿を、手紙をとおして探ってみませんか?」

 会員制をとっておりませんので、出席の事前連絡も不要、飛び入り参加を歓迎しております。もちろん出席義務もありません。また1回毎に独立した講座になっておりますから、前回出席されなかった方でも充分お楽しみ頂けます。ただ、なにぶん格安の講座になっておりますので、多くの方にご参加頂き、運営ベースにのせていきたいと考えております。
 お誘いあわせのうえ、是非ふるってご参加ください。

(追加) ワン・コイン古文書講座特別企画「江戸東京の歴史散歩」も開催します。古文書だけでなく、実際に歩いて歴史を実感してください。

ワン・コイン古文書講座特別企画
「江戸東京の歴史散歩 第1回 交差する江戸のメインストリート」

日時:2006年3月11日(土)14:00から
集合:JR神田駅南口改札を出たところに14:00集合
所要時間:だいたい2時間くらい
解散場所:日本橋北詰
費用:500円(資料代など込み)
※小雨決行
お申し込み方法:2月25日(土)の第3回ワン・コイン古文書講座にてご案内を差し上げた上で希望者を募ります。また同講座に出席されない方も歓迎します。2月末日までの間に小林さん宛のメールで氏名・ご住所を明記の上お申し込みください。

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2006/01/16

(講座)第2回ワン・コイン古文書講座、ご参加ありがとうございました!

 先日1月14日(土曜日)は第2回目のワン・コイン古文書講座でした。雨がざあざあ降ってきて(これではお客さんの足がにぶるな)と不安に思っていたのですが、それにも関わらず何とか33人の方々のご参加を頂きました。前回と較べ人数が微増したうえに新顔の方が14人もみえました。運営者としてご参加頂いた方々にあつくお礼を申し上げます。
 この回の小林信也さん(東京都公文書館)「江戸をよむ」という講座では江戸の沽券状を読みました(小林さんのブログにてこの講座についてのコメントが読めます)。「沽券にかかわる」の、あの「沽券」です。どうでしょうか、ちょっと難しかったかもしれませんが、何を書くべきかが最初から決まっている定型文章の文書ですから、複数読むうちにだんだん慣れてくると思います。それに「すぐに読めるだろう」となんて安易に考えちゃいけません。たしかに古文書はやさしいのですが、それでも昔の文章ですから、多少の慣れは必要なのです。それに、もしみなさんにすぐに読めてしまったら、わたしたち古文書講座の商売がアガッタリになってしまいますでしょう? 今度ともどうぞ根気よくおつきあいのほどよろしくお願いいたします。
 さてこのワン・コイン古文書講座は1回毎に独立した講座となっております。初めて参加される方、前回参加されたなかったという方も大歓迎です。それに会員制ではありませんから、入会金なし、参加したりしなかったり、それはみなさんの自由です。講座の薄利多売形式ですので、なるべく多くの方のご参加を頂きたいと思います。お知り合いでお誘いあわせのうえ、お気軽にご参加ください。
 次回第3回目の講座は2月25日(土曜日)4時15分~、立正大学大崎キャンパス324教室でおこないます。講師は横山百合子さんです。江戸幕末か明治初頭の東京のお話になると思います。近々正式な告知をこのブログでおこないたいと思います。

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2006/01/12

(講演)江戸東京博物館企画展示「江戸の学び-教育爆発の時代-」関連講座やります

 去年は江戸東京博物館の友の会(「えど友」)で講演をさせて頂きましたが、今年も同館とご縁があります。
 ことし江戸東京博物館2月・3月の企画展示(平成18年2月18日(土)~平成18年3月26日(日))は「江戸の学び-教育爆発の時代-」です。「教育爆発」という言葉は、教育学分野ではよく使われる言葉です。江戸時代は「教育爆発」がおきた時代でした。この「爆発」を見学者に実感させられるか否かが展示の勝負の分かれ目になるでしょう。
 東京都公式ホームページでは「生涯学習社会の本格的な到来を迎えつつある現在、「学び」に生き甲斐を見いだそうとする人々が多くなってきました。こうした変化は社会の成熟のようにみえますが、歴史をひもといてみると、江戸時代にも「学び」を楽しみとする多くの人々を見いだすことができます。この展覧会は、江戸時代の人々が「学び」とどのように向き合っていたのかを、寺子屋関係資料・和算奉納額・俳句奉納額・昌平坂学問書(原文ママ)関係資料などの資料を中心に再発見するものです」とあります。
 わたしはこの企画展示で関連講座の講演をすることになりました。

第6回「文字を知った人々-江戸時代の読み書き事情-」
講師:高尾善希(立正大学非常勤講師)
日 時 3月2日(木) 14:00~15:30 (定員130名)
講座コード 0601-5-06
応募締切 2月14日(火)
http://www.edo-tokyo-museum.or.jp/event/culture/culture06fuyu.html

 なぜわたしが? 教育史?
 そう、実はわたしは江戸時代の識字論に関する論文を書いたことがあるのです(教育史ではありません、むしろ教育という観点では追えない識字論を意識しました)。「近世後期百姓の識字の問題」(『関東近世史研究』50号)という論文です。この論文を面白がって引用くださったのは青木美智男さんという研究者のみで、あとは沈黙に近い扱いのまま、何年かが過ぎ去りました。
 この論文では村に残る江戸時代の選挙投票用紙(村役人を選出するときに使ったもの)などを使って江戸時代の百姓の識字の実態分析をしています。このわたしの論文で使われた選挙投票用紙が企画展示の展示品リストにあり、それでわたしが講演を頼まれたわけなのです。やっとわたしの成果が日の目をみました。
 この論文、なかなか面白いんですよ。講演では論文の内容をわかりやすく説明したいと思っています。応募締め切りは2月14日(火)、くわしくは江戸東京博物館のホームページでどうぞ。

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2006/01/09

(報告要旨)「巣鴨町軒別絵図」の世界―江戸時代の巣鴨町を再現する―

 江戸時代後期、江戸は大江戸と称されるほど繁栄を極めた。この大江戸文化の爛熟に主導的な役割を果たしたのはほかならぬ江戸町方にすむ無名の人々であった。しかしその町方の具体的な景観については史料に乏しく、人名・渡世・居住位置の3つが同時に判明する町方の地点は驚くほどに少ない。たとえば、有名な江戸の切絵図では、町方は町名が記されたうえでその中が灰色に塗り潰されているのみで、それ以外知り得る情報はすくない。
 昨年の夏、わたしは偶然なことにより、江戸御府内巣鴨町の軒別絵図を発見することができた。それは旧幕府引継書(国立国会図書館)「和宮御下向」(808―56)という簿冊の中に綴じ込まれていた。文久元年(1861)製作のもので「巣鴨町軒別絵図」という題名が付されている。報告はこの絵図を紹介・分析したものである。この旧幕府引継書は、幕府の記録群を明治政府が引き継いだもので、誰でも閲覧することが可能で、しかも著名な史料群である (日本マイクロ写真がマイクロ・フィルムを作成している) 。しかし数は厖大でまだ未解明な史料がたくさん眠っていると想像される。「巣鴨町軒別絵図」もわたしに見出されるまでは未見のまま眠っていたのである。
 絵図が作られた原因は文久元年(1861)の和宮降嫁であった。降嫁の行列が関東に入ったところで、中山道の立場である巣鴨町が急に行列人数の宿泊場に指定され、僅か3日で絵図が作成・提出された。絵図は詳細を究めたもので、絵図記載の軒数は合計238軒、一軒毎に住所・所持階層(家持・家主・地借・店借)・職業・人名が判明し、所々家作の大きい家には○印が付けられている。
 この絵図を渡世毎に分析した結果、巣鴨町をおおまかに3つの地域に区切ることができると思われる。①一番板橋宿寄りの上組は交通・流通の結節点といえる地域である。馬持・駕籠舁渡世といった交通業者が多いため、板橋宿からくる旅人を待ち受け、あるいは板橋宿へ出て行く旅人を送り出す機能をもっていたと考えられる。また青物・水菓子を商う店が多いため、青物市場的な様相を呈していた可能性を指摘できる。②真ん中の上中組(上仲組とも)・下中組(下仲組とも)は植木屋遊園街として賑わっていた地域である。植木屋はふつうの植木屋とちがい、自邸内を作庭して菊づくりの見世物をおいて、多くの見物客を呼び寄せていた。同時にこの植木屋群は飯屋・居酒屋を近接して抱えており、これらは見物客に飲食を供する店と解釈することができる。③いちばん江戸寄りの下組は、酒屋・荒物屋・小間物屋・呉服屋などといった渡世があり、都市生活に身近な品を商う店が集中している印象がある。
 さらにこの絵図の分析は、ほかの情報と結びつけることによっても活きてくる。たとえば、この絵図に記載されている店のご子孫がいまも巣鴨に住み、おなじ渡世をおこなっている事例をみつけることができた(巣鴨駅前和菓子屋「福島家」)。わたしの聞き取り調査によって、この家の伝承における江戸時代の店の位置と、絵図に出てくる店の位置とが、ほぼ一致することがわかった。絵図の史料的信憑性を高める事例といえる。そのうえ、考古発掘成果と絵図との整合性も指摘することができる。たとえば、巣鴨遺跡では「高サキ」「伊勢孫」という文字をもつ通い徳利が多く出土しているが、絵図などの分析によってこの持ち主が上組伊勢屋孫兵衛・下組高崎屋半兵衛であることがはっきりわかり、その居住位置もほぼ特定することができた。また、以前の巣鴨遺跡発掘では、植木屋の遺構から大量の料理屋遺物が出てきたことがある(巣鴨駅前「桃花源」ビル地点)。この矛盾についても、絵図によって植木屋が飯屋に地貸しをしていたことが判明するから(保坂四郎左衛門地借平右衛門)、容易にこの謎を解くことができるのである。考古学成果と文献とを補い合わせる一事例といえよう。
 これらの成果は、平成15年3月27日、豊島区後援での講演会・シンポジウムを開催することによって、地元に還元することができた。今後、巣鴨地蔵通り商店街の街づくり計画の一環に、絵図をはじめとする歴史史資料が盛り込まれる可能性がある。もしこの絵図をめぐる研究が今後も現地のフィールド・ワークによって進むのであるならば、現地の町づくり計画と実証研究との両者が関わあいをもつということも、充分視野にいれてよいのではないかとわたしは考えている。
(立正大学史学会大会報告要旨、2005年11月27日立正大学大崎校舎511教室)

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2006/01/05

(書評と紹介)青木直己さん『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)

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・虎屋文庫青木直己さん 虎屋文庫主幹で食文化史研究者の青木直己さんが、去年の暮れ『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)を上梓された。著者の青木さんはわたしの大学の大先輩にあたり、ずいぶんお世話になっている方である。その関係で青木さんご本人から「きみのブログで書評してくれないか?」というご依頼を頂いた。新書本は旬モノ、ブログも旬モノ、さっそく一読して今回この書評を執筆した次第である。
 本にある青木さんのプロフィール。「1954年東京都生まれ。立正大学大学院博士後期課程研究指導修了。現在虎屋文庫研究主幹。学習院大学、NHK文化センター講師。和菓子に関する調査・研究に従事する。著書に『図説和菓子の今昔』など」。あの和菓子の老舗虎屋のアーキビストにして食文化史の専門家である。各界から脚光をあびる青木さんの存在は後輩としても誇らしい限りである。
 いっぽう、生活人としての青木さんはとても忘れっぽいご性格で、たとえば原稿をすぐ紛失したり、先日と同じ話をしたりする癖がある(失礼!)。しかしその反面、食文化についての知識はお忘れにはならず、やはりそこは研究者である。そのアンバランスさがユーモラスで、機会があったら脳みそを拝見してみたい(なんて失礼な後輩なんだ)。再び余計な話を重ねると、青木さんの奥さんは国文学研究資料館アーカイブス研究系の青木睦(あおき・むつみ)さん。夫婦揃ってのアーキビスト学者で、ご自宅にはおおきなコピー機があって仲良く夫婦共有。いやはや羨ましい限りで、夫婦同業だとこういうときに便利である(わたしの女房は歴史業界関係者ではないから意見の相違がたえない)。

・酒井伴四郎日記  青木さんの本『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)は、幕末に江戸へ単身赴任した、紀州藩下級武士酒井伴四郎の日記を紹介したものである。
 酒井伴四郎は禄高30石取りの紀州藩士。万延元年(1860)、叔父宇治田平三・大石直助ら6人とともに、中山道を紀州から江戸へ出府してくる。おのぼりさんはおのぼりさんであるからこそ、いろんな記録を残そうとする。江戸という大都市において、みるもの・きくものすべてが新鮮で、驚きの連続だからである。そこが後世の人間からすれば「目のつけどころ」である。
 日記は万延元年5月から年の暮れまでの記録だが、半年といえども、その筆まめな性癖と正直な心情吐露は読む者を魅了する。武士といえども日記中では町方とかわらぬ日常生活があって、金銭の面でケチな叔父の宇治田平三と喧嘩したり、常磐津に熱をあげてみたり、えげつない見世物を見物したり、仲間とエッチな話でもりあがったり、横浜に異人を見物したりしている。
 この日記は研究者間ではとても有名な史料で、ほうぼうの論文・書籍で引用されてきた。しかしそのわりには全体像をわかりやすく解説した本が出版されてこなかった。とくに伴四郎は若くて健康なせいかよく喰べ、日記には豊かな江戸の食事記録がある。わたしは専門家によってそれらがこまかく考察されることが必要だと感じていたが、その矢先、この青木さんの本が出た。とりわけこの食事記録に青木さんは目をつけ、伴四郎の食事記録を紹介するとともに、一般的な江戸の食文化について紹介している。
 本の中では、9月21日条に出てくる「名物おてつ」が「おてつ牡丹餅」を意味し、「江都名物双六」に「こうじ町おてつ」として出てくることや、川柳にまで出てくること、また8月11日条の「くこう」が解熱剤や強壮剤であること、「どじょう汁」が夏の季語であることなど、いろいろとわかりにくいことを教えてくれる。そして日記全体の観察も行き届いていて、あさりの記述が出てこないこと、1年に9回もどじょう鍋を喰べていること、1年に31回もそばを喰べていること、1年に14回もすしを喰べていること、などを指摘している。
 酒井伴四郎日記はたいへん魅力的な日記である。ただ惜しむらくは、良質な翻刻本に恵まれていないことである。唯一の翻刻史料である林英夫校訂「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿の移り変わり 四谷編』新宿区)は、翻刻の誤りがあまりにも多く、そのまま史料として使うには困難をともなう。青木さんも極力翻刻の間違いを訂正していると思うが、それでも8月18日条「須原屋にて武鑑を買、また仙女番買」という箇所について、「『仙女番』という本はよくわかりません。もしかすると吉原の女郎の評判を記したものかもしれません」とする(150頁)。しかしこれは「仙女香」の翻刻間違いで、「仙女香」とは南伝馬町で売られていたおしろいの名前である。ふるさとの女房へのお土産として買ったものだろう。「仙女香」は江戸の出版物に頻繁に宣伝広告されていて、伴四郎も武鑑を買った須原屋で広告をみた可能性がある (仙女香と出版物に関しては湯浅淑子「仙女香と出版物の改掛」<『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版所収>に詳しい) 。むろんこれは青木さんの責任外である。わたしも時々日記を読んでいて意味がわからなくなることがある。これでは今後の研究に支障をきたすだろう。したがって今後は、江戸研究者が鳩首相談して、正確な翻刻本を作成する必要があるように思う。

・酒井伴四郎が常磐津に通う理由―伴四郎の心中に迫る― 青木さんの本についての参考のため、酒井伴四郎日記についての私見をのべておきたい。
 日記をよむと、酒井伴四郎は常磐津師匠の稽古所にたいそうな熱をあげていることがわかる。ことの発端は6月28日、伴四郎が藩邸のひとから「三味線の師匠のところへ通わないか」という誘いをうけたことにはじまる。このとき彼は「涼しくなってからがよい」とあまり乗り気ではなかったが、6月晦日にまた誘いをうけ、あまり断るのもどうかと藩邸近くの鮫ヶ橋裏長屋にある常磐津琴春師匠へ稽古に出向いた。ところがどういう風のふきまわしか、伴四郎はそれ以来同居の叔父の目を憚るくらいに「面白ふそふに」この常磐津稽古所に通い、月に10回以上も顔を出すことさえあった。
 その変貌ぶりは何故か。それは彼が最初に稽古所に出向いた6月晦日条の文章中にはこうある。

師匠は四十余りの大不義料、娘は小人嶋、

 母である師匠は「大不義料」(不器量)、その娘は「小人嶋」とある。ここで問題なことはこの「娘は小人嶋」という言葉の解釈である。
 山本博文さん(東京大学)は「(娘は)背が低かったのだろう」と解釈し(山本博文『江戸を楽しむ』中公文庫)、青木さんの本では意味を怪しんでか「嶋」の字を抜いている。しかしわたしは「小人嶋」のままでよいと思っている。
 なぜなら、この「小人嶋」(こびとじま)という言葉は、「背が低く小さい人の住むと考えられた想像上の島」のことで、これに関連して「小人島の鶴」というフレーズもあるからである。その意味は「小人島では、人よりも鶴の方が大きいことから、物事の釣合のとれないこと。また、調和のとれないことのたとえ」である(『日本国語大辞典』)。したがって、「小人嶋」=「小人島の鶴」で「正反対」という意味をもつ。そのため以上の文章は「師匠はたいへんな不器量だが、娘はたいへんな美人である」と訳すのが妥当である。はじめて来訪したこの日、この母と娘しか姿がみえなかったから、伴四郎は母子家庭だと思ったらしい。
 以下はわたしの飛躍的な史料解釈である(というより助平なわたしの勘ぐりである)。このことをわざわざ記した伴四郎はこの娘に密やかな好意を寄せていたのではないか。女房・子もちといえども、まだ28歳の男盛り、しかも単身赴任の身の上である。そんな彼が、娘が美人の母子家庭に足を踏み入れれば、ちょっとその雰囲気に酔いしれたとしても不思議ではない。その証拠に翌日の条にはこうある。

さてこの稽古屋は親子二人と思の外、夕方の事ゆえ亭主と養子と帰り、都合四人の家内、

 そう、母子家庭ではなかった。この「亭主」とは師匠琴春の亭主で、「養子」とはおそらく娘の亭主で婿養子だろう。この記述の紙背には(なあんだ、親子ふたりじゃないのか、しかも亭主もちじゃあねえかよ)という伴四郎の嘆息があるように思われてならない。
 何れにせよ、「面白ふそふ」な伴四郎の常磐津通いの背景には、美人の娘の存在を無視することはできない。娘義太夫も美人で人気を集めたという。常磐津の稽古所も人気商売、看板娘的な娘がいれば商売上有利だったに違いない。オトコなんてそんなものである。
 酒井伴四郎日記にはほかの箇所にも他言を憚るような記述が散見される。したがってこの日記は帰国後に家族などにみせることを予定していない純粋な私的日記ではないかと思う。それゆえに、酒井伴四郎日記は史料的価値が高く、現代人の共感をもうむのではないだろうか。くわしくはかるいタッチで楽しく書かれている青木さんの本を読まれたい。
(NHK出版生活人新書165、700円+税、2005年12月)

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