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2006/01/05

(書評と紹介)青木直己さん『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)

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・虎屋文庫青木直己さん 虎屋文庫主幹で食文化史研究者の青木直己さんが、去年の暮れ『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)を上梓された。著者の青木さんはわたしの大学の大先輩にあたり、ずいぶんお世話になっている方である。その関係で青木さんご本人から「きみのブログで書評してくれないか?」というご依頼を頂いた。新書本は旬モノ、ブログも旬モノ、さっそく一読して今回この書評を執筆した次第である。
 本にある青木さんのプロフィール。「1954年東京都生まれ。立正大学大学院博士後期課程研究指導修了。現在虎屋文庫研究主幹。学習院大学、NHK文化センター講師。和菓子に関する調査・研究に従事する。著書に『図説和菓子の今昔』など」。あの和菓子の老舗虎屋のアーキビストにして食文化史の専門家である。各界から脚光をあびる青木さんの存在は後輩としても誇らしい限りである。
 いっぽう、生活人としての青木さんはとても忘れっぽいご性格で、たとえば原稿をすぐ紛失したり、先日と同じ話をしたりする癖がある(失礼!)。しかしその反面、食文化についての知識はお忘れにはならず、やはりそこは研究者である。そのアンバランスさがユーモラスで、機会があったら脳みそを拝見してみたい(なんて失礼な後輩なんだ)。再び余計な話を重ねると、青木さんの奥さんは国文学研究資料館アーカイブス研究系の青木睦(あおき・むつみ)さん。夫婦揃ってのアーキビスト学者で、ご自宅にはおおきなコピー機があって仲良く夫婦共有。いやはや羨ましい限りで、夫婦同業だとこういうときに便利である(わたしの女房は歴史業界関係者ではないから意見の相違がたえない)。

・酒井伴四郎日記  青木さんの本『幕末単身赴任 下級武士の食日記』(NHK出版生活人新書165)は、幕末に江戸へ単身赴任した、紀州藩下級武士酒井伴四郎の日記を紹介したものである。
 酒井伴四郎は禄高30石取りの紀州藩士。万延元年(1860)、叔父宇治田平三・大石直助ら6人とともに、中山道を紀州から江戸へ出府してくる。おのぼりさんはおのぼりさんであるからこそ、いろんな記録を残そうとする。江戸という大都市において、みるもの・きくものすべてが新鮮で、驚きの連続だからである。そこが後世の人間からすれば「目のつけどころ」である。
 日記は万延元年5月から年の暮れまでの記録だが、半年といえども、その筆まめな性癖と正直な心情吐露は読む者を魅了する。武士といえども日記中では町方とかわらぬ日常生活があって、金銭の面でケチな叔父の宇治田平三と喧嘩したり、常磐津に熱をあげてみたり、えげつない見世物を見物したり、仲間とエッチな話でもりあがったり、横浜に異人を見物したりしている。
 この日記は研究者間ではとても有名な史料で、ほうぼうの論文・書籍で引用されてきた。しかしそのわりには全体像をわかりやすく解説した本が出版されてこなかった。とくに伴四郎は若くて健康なせいかよく喰べ、日記には豊かな江戸の食事記録がある。わたしは専門家によってそれらがこまかく考察されることが必要だと感じていたが、その矢先、この青木さんの本が出た。とりわけこの食事記録に青木さんは目をつけ、伴四郎の食事記録を紹介するとともに、一般的な江戸の食文化について紹介している。
 本の中では、9月21日条に出てくる「名物おてつ」が「おてつ牡丹餅」を意味し、「江都名物双六」に「こうじ町おてつ」として出てくることや、川柳にまで出てくること、また8月11日条の「くこう」が解熱剤や強壮剤であること、「どじょう汁」が夏の季語であることなど、いろいろとわかりにくいことを教えてくれる。そして日記全体の観察も行き届いていて、あさりの記述が出てこないこと、1年に9回もどじょう鍋を喰べていること、1年に31回もそばを喰べていること、1年に14回もすしを喰べていること、などを指摘している。
 酒井伴四郎日記はたいへん魅力的な日記である。ただ惜しむらくは、良質な翻刻本に恵まれていないことである。唯一の翻刻史料である林英夫校訂「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿の移り変わり 四谷編』新宿区)は、翻刻の誤りがあまりにも多く、そのまま史料として使うには困難をともなう。青木さんも極力翻刻の間違いを訂正していると思うが、それでも8月18日条「須原屋にて武鑑を買、また仙女番買」という箇所について、「『仙女番』という本はよくわかりません。もしかすると吉原の女郎の評判を記したものかもしれません」とする(150頁)。しかしこれは「仙女香」の翻刻間違いで、「仙女香」とは南伝馬町で売られていたおしろいの名前である。ふるさとの女房へのお土産として買ったものだろう。「仙女香」は江戸の出版物に頻繁に宣伝広告されていて、伴四郎も武鑑を買った須原屋で広告をみた可能性がある (仙女香と出版物に関しては湯浅淑子「仙女香と出版物の改掛」<『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版所収>に詳しい) 。むろんこれは青木さんの責任外である。わたしも時々日記を読んでいて意味がわからなくなることがある。これでは今後の研究に支障をきたすだろう。したがって今後は、江戸研究者が鳩首相談して、正確な翻刻本を作成する必要があるように思う。

・酒井伴四郎が常磐津に通う理由―伴四郎の心中に迫る― 青木さんの本についての参考のため、酒井伴四郎日記についての私見をのべておきたい。
 日記をよむと、酒井伴四郎は常磐津師匠の稽古所にたいそうな熱をあげていることがわかる。ことの発端は6月28日、伴四郎が藩邸のひとから「三味線の師匠のところへ通わないか」という誘いをうけたことにはじまる。このとき彼は「涼しくなってからがよい」とあまり乗り気ではなかったが、6月晦日にまた誘いをうけ、あまり断るのもどうかと藩邸近くの鮫ヶ橋裏長屋にある常磐津琴春師匠へ稽古に出向いた。ところがどういう風のふきまわしか、伴四郎はそれ以来同居の叔父の目を憚るくらいに「面白ふそふに」この常磐津稽古所に通い、月に10回以上も顔を出すことさえあった。
 その変貌ぶりは何故か。それは彼が最初に稽古所に出向いた6月晦日条の文章中にはこうある。

師匠は四十余りの大不義料、娘は小人嶋、

 母である師匠は「大不義料」(不器量)、その娘は「小人嶋」とある。ここで問題なことはこの「娘は小人嶋」という言葉の解釈である。
 山本博文さん(東京大学)は「(娘は)背が低かったのだろう」と解釈し(山本博文『江戸を楽しむ』中公文庫)、青木さんの本では意味を怪しんでか「嶋」の字を抜いている。しかしわたしは「小人嶋」のままでよいと思っている。
 なぜなら、この「小人嶋」(こびとじま)という言葉は、「背が低く小さい人の住むと考えられた想像上の島」のことで、これに関連して「小人島の鶴」というフレーズもあるからである。その意味は「小人島では、人よりも鶴の方が大きいことから、物事の釣合のとれないこと。また、調和のとれないことのたとえ」である(『日本国語大辞典』)。したがって、「小人嶋」=「小人島の鶴」で「正反対」という意味をもつ。そのため以上の文章は「師匠はたいへんな不器量だが、娘はたいへんな美人である」と訳すのが妥当である。はじめて来訪したこの日、この母と娘しか姿がみえなかったから、伴四郎は母子家庭だと思ったらしい。
 以下はわたしの飛躍的な史料解釈である(というより助平なわたしの勘ぐりである)。このことをわざわざ記した伴四郎はこの娘に密やかな好意を寄せていたのではないか。女房・子もちといえども、まだ28歳の男盛り、しかも単身赴任の身の上である。そんな彼が、娘が美人の母子家庭に足を踏み入れれば、ちょっとその雰囲気に酔いしれたとしても不思議ではない。その証拠に翌日の条にはこうある。

さてこの稽古屋は親子二人と思の外、夕方の事ゆえ亭主と養子と帰り、都合四人の家内、

 そう、母子家庭ではなかった。この「亭主」とは師匠琴春の亭主で、「養子」とはおそらく娘の亭主で婿養子だろう。この記述の紙背には(なあんだ、親子ふたりじゃないのか、しかも亭主もちじゃあねえかよ)という伴四郎の嘆息があるように思われてならない。
 何れにせよ、「面白ふそふ」な伴四郎の常磐津通いの背景には、美人の娘の存在を無視することはできない。娘義太夫も美人で人気を集めたという。常磐津の稽古所も人気商売、看板娘的な娘がいれば商売上有利だったに違いない。オトコなんてそんなものである。
 酒井伴四郎日記にはほかの箇所にも他言を憚るような記述が散見される。したがってこの日記は帰国後に家族などにみせることを予定していない純粋な私的日記ではないかと思う。それゆえに、酒井伴四郎日記は史料的価値が高く、現代人の共感をもうむのではないだろうか。くわしくはかるいタッチで楽しく書かれている青木さんの本を読まれたい。
(NHK出版生活人新書165、700円+税、2005年12月)

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