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2005/10/24

(講座)ワン・コイン古文書講座、ついに開催します!

・お待たせいたしました 怠け者のわたしにしては頑張りました。
 2005年9月19の記事「(生涯教育)「ワン・コイン古文書講座」は如何ですか? ―安価でたのしく、くずし字を学ぼう―」で宣言していた1講座500円のワン・コイン古文書講座を開催します。その記事では、

・「ワン・コイン500円」宣言、「来る者拒まず」宣言 ……わたしは最近になって古文書講座を開設したいと思うようになりました。もしわたしがそれをやるなら、会場さえ確保できれば、講座受講料は一講座(2時間)500円玉ワン・コインでけっこうだと思います(資料代含む)。入会金もありませんし出入りは自由です。いっさい「来る者拒まず」で定員制(抽選制)をとりません。1万人希望者が来たら来たで東京ドームでやりましょう。20人しか来なかったら小さな教室で事足ります。

 と申しましたが、いまのところ10名ちかくの方々にご応募を頂いております。ありがとうございました (拙宅のメールの不具合により、一部の方々にはお返事をお送りすることが遅れました、申し訳ございません)
 そこで早速第1回目を開催したく存じます。ふるってご参加ください。

第1回ワン・コイン古文書講座

○日時:12月10日(土)3時15分(3時から開場)~5時15分
○場所:立正大学大崎キャンパス(住所〒141-8602 東京都品川区大崎4-2-16)11号館1164教室(最寄り駅は山の手線の五反田・大崎駅、駅から徒歩7分です)「品川・大崎エリアに位置し、都会の喧騒と住宅街の雰囲気、二つの魅力を味わえる大崎キャンパスは、時にはドラマの撮影にも使われています。JR大崎駅・五反田駅から徒歩7分。とくに大崎駅は、山手線の他に、湘南新宿ライン・埼京線・りんかい線も乗り入れており、神奈川・埼玉・千葉の隣接県からのアクセスもますます便利になりました。平成16年度春には総合学術情報センターも完成し、最新設備を備えたキャンパス・ネットワークシステムの拠点となっています。」(立正大学のサイトより)
立正大学大崎キャンパスへのアクセス
立正大学大崎キャンパスの見取り図(11号館は右端)
○参加料500円(プリント代など、その他一切無料)
○講師:高尾善希(立正大学非常勤講師)
○演題「くずし字を読む〝ココロ〟」
○講師より一言。「古文書って本当にむつかしいものなのでしょうか? そして、何故むかしのひとはくずし字で書くのでしょうか? 現代人が抱き勝ちな素朴な疑問から、古文書で使われたくずし字の役割について考えてみましょう」。

・飛び入り参加もOK! もちろん飛び入り参加も大歓迎です。教室は50人以上は楽に入る教室をとっていますからご安心ください(そんなに来るかなあ~)。20名単位の古文書解読サークルご一同様も歓迎してお受け入れ致します。もし教室に入りきれなかったら、新しいおおきな教室を借りることを検討いたしましょう! 当日には小林信也さん (博士(文学)(東京大学)。 『江戸の民衆世界と近代化』<山川出版社>の著者。小林信也さんのブログは「江戸をよむ東京をあるく」です)もみえます。
 また講義後の質問も大歓迎です(ここも従来の講座と違うところです)。ブログのコメント欄をお使いください。

※この記事の宣伝のためしばらく更新をとめます。その間は本ブログの分家ブログ「江戸時代研究の日々」に文章を書いていきたいと思っています。また「歴史学関係ブログ集成」というリンク集もつくりました。あわせてご愛顧のほどお願いします。

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2005/10/18

(募集)東京都国分寺市で考古資料倉庫火災、復旧ボランティアを募集

 先日8日午前0時過ぎ、東京都国分寺市で史跡出土品倉庫で火災があったそうです。「朝日新聞」によれば下記の模様です。

国指定史跡出土品倉庫焼ける、対策本部設置
 国分寺市西元町1丁目の国指定史跡「武蔵国分寺跡」の出土品を収めた倉庫で8日未明、火災があり、倉庫や収納箱などが焼けた。同市は11日に対策本部を立ち上げ、被害復旧に全力を挙げている。……8日午前0時過ぎ、煙が上がっているのに気づいた近くの住民から119番通報があった。火は約4時間後に消し止められたが、倉庫2棟が全焼、1棟が一部焼けるなど計55平方メートルが焼けた。倉庫内や倉庫脇に積み上げてあったプラスチック製の収納箱1200箱や、武蔵国分寺跡などから出土した瓦や土器、遺跡調査結果を記した紙や写真などが被害にあった。市は、……ぬれてしまった紙の資料などの復旧に取り組むという。(10/13)インターネット「朝日新聞」多摩版
http://mytown.asahi.com/tama/news02.asp?kiji=4282

 この「午前0時過ぎ」に煙があがるというのはどういうことでしょう。それに、どうして考古資料の倉庫で火災なのでしょうか。ともあれ、これに対して東京都国分寺市ふるさと文化財課では、復旧ボランティアを募集しています。下記サイトをご覧ください。

■ 火災被害を受けた市文化財施設の復旧ボランティアを募集します。 
 10月8日深夜の遺跡調査会の火災により市内遺跡発掘調査資料の一部が被害を受けました。教育委員会ふるさと文化財課ではこれら資料の早急な保存処理をするために専門知識を有する方のボランティアを募集しています。
【資格】史・資料取扱経験者 博物館学芸員資格所持者 考古学専攻 日本史専攻 調査員経験者
担当:ふるさと文化財課(内線479) 
http://www.city.kokubunji.tokyo.jp/ptl_bosyu/70bun/kasaikinkyuutaisakuvora051017/index.html

 わたしの大学の先輩がこのふるさと文化財課にお勤めなので (以前博徒「小金井小次郎」の史料の所在を教えて頂きました、拙稿、立正大学史学会編『宗教社会史研究Ⅲ』(2005.11刊行予定)「石碑からみた『慶応水滸伝』―武蔵国北多摩郡周辺の博徒勢力範囲―」参照) 、拙宅にボランティア募集の情報が入ったのですが、妻が出産間近なので家を空けるわけにもゆかず困りました。協力して頂けるという方がいらっしゃいましたら、是非御駆けつけください。

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2005/10/10

(ドキュメント)博徒「小川の幸蔵」の生涯①―小川のどろぼう宿―

―小川のどろぼう宿
 といえば、帝都東京近郊の多摩の土地で知らぬものはなかった。道中の旅人を泊まらせては金品を奪い、時には殺してしまうことさえもあるという。

・菅原道明自伝 東北福島県の水力発電事業に尽力し福島市議にも撰ばれた菅原道明は、二十代の半ば、そのどろぼう宿に泊まった経験をもっている。それが菅原道明の回顧録『古稀来』に載っている。
 菅原は安政二年に肥前国南高来郡湯江村池田名の富家にうまれ、明治九年長崎師範学校を卒えると、西南戦争の余燼冷めやらぬ明治一二年の夏に上京し横浜に入った。それから彼は、すぐに其処で神奈川県西多摩郡青梅町青梅小学校訓導兼校長赴任の辞令をうけとった。せわしないことに、何と赴任日はその翌々日であった。
 菅原は辞令をうけとるや、その翌朝から人力車で京橋を発して新宿まで出て、また別の車で青梅に入ろうとした。車夫から「今日中には青梅には行き着きませんが」といわれたが、「いけるところまでいってくれ、青梅になるべく近くまでやってくれればよいから」と車夫を急かした。
 帝都市外は道がひろくて平坦で、車は勢いよく泥を飛ばして飛び出した。しかし角筈の十二社を過ぎたころから段々と上り坂になって、車の進みは捗らなくなった。三字(時)半頃になり車夫は汗を拭きながら、あがる息を堪えつつ「御泊まりには少しはやいでしょうが、この先には上等の宿屋がありませんから、むしろここにお泊まりになって、翌朝早立ちなさるのがご都合でしょう」とすすめた。菅原は「そうか、それならそれでもよい」と素直に頷き、車をおりることにした。
 其処は多摩の小川という在所で、旧幕時代は武蔵国多摩郡小川村といい、青梅街道沿いの人通り激しい殷賑の土地で、明暦年間に街道の便のために設けられた宿場村であった。

・多摩郡小川の旅館 車のとまった傍に一軒の瀟洒な屋敷ふうの旅館があった。車夫がすすんで交渉にでると番頭がすぐに「御泊まりなさい」と案内にきた。菅原は車賃と幾ばくかの礼金を包んで車夫にわたすと旅館の門をくぐった。
 しかし案内されたのは六畳のむさい座敷だった。菅原は「ほかに涼しい部屋はないのか」と訊くと、番頭は「ありますが、皆ふさがっております」と頭を下げながら申し訳なさそうに答えたので、「しからばこれでよい」とこたえて座敷に荷物をおろすことにした。すぐに「風呂ができた」という案内があって、手拭いさげて邸内を逍遙してみると、外見よりもひろくて庭園泉水などもあり、この田舎には珍しいなかなかの旅館であることがわかった。また通り過ぎた女中に「ここは何という在所か」と訊ねると、女中は「小川村中宿ともうします、丁度東京と青梅の中間で多摩郡にあたります」などと手慣れた感じの丁寧な返事がかえってきたので、だいぶ客慣れしているようにも感じられた。
 蜩がなく頃にまた先ほどの番頭がやってきて、「相宿を願いたいのですが」といってきた。
「随分繁昌しているな」
「へえ、恐れ入ります」
「どんな客だ」
「中年の蚕紙商の方で御座います」
 菅原はすこし考えてから「よかろう」とこたえた。番頭のつれてきた男は実直そうな男で、「失礼します」と慇懃に頭を下げて入ってきた。
 それから暫くして番頭がまた「再び失礼いたしますが、いま一人をお願いいたします」という。それで今度も「どんな客か」と問うたが、「ご婦人の方で御座います」という。菅原はすぐに「婦人は困る」といったが、番頭は「既に七十位のお婆さんで御座いますから、お困りになるようなご婦人ではございません」といってわらった。
「知り合いか」
「いいえ、知り合いでは御座いませんが、大丈夫でしょう」
 菅原は相宿の蚕紙商の男を振り返ると、彼は「支障ないでしょう」と頷いた。これだけ繁昌している宿なのだから仕方あるまい。それで老婆とも相宿をすることになった。入ってきたのをみると、なるほど番頭のいうとおり、腰のまがったよろよろとした老婆であった。
 商人の男とは二、三あたり障りのない世間話を交わした。彼は武州埼玉の者でこの多摩一帯を商談に歩いているのだという。この頃多摩あたりの景気がよいということであった。しかしいっぽうの老婆は気味の悪いほどの無口で、これといった印象はなかった。夕食後暫くして三人は一室内に寝についた。

・盗難事件 夜明け頃老婆がおきて雨戸をくる音に目を醒ました。すると宵に枕下に置いた友禅縮緬の包みの様子が妙である。包みに入れていた筈の紙入と時計が、何故か包みより離れて出ているのである。咄嗟に「はっ」と思って飛び起き、便所に入って確かめると、やはり在中の紙幣がなかった。
(やられた)
 と思ったが、たれにもいわないことにした。何事もなかったふりをして便所から出て座敷に戻ると、商人の男もせわしなく身辺の何かを調べている様子だった。しかしふたりは黙って夜具を片づけだした。いっぽう老婆は先に顔を洗いそそくさと勝手元で朝飯を済ませ、「先を急ぎますから」と暇乞いをして座敷を出た。
 老婆の出たあとで、商人の男は菅原の傍にそっと寄ってきて、早口で「実はわたしは昨夜金を盗まれたのです、あなたは?」と耳打ちした。菅原も「同じです、金だけ、書類はそのままでした」と小声で短くこたえた。
「如何程でしょう」
「小遣いですが、拾五、六円ほど」
「それは大変だ、わたしは三、四円だけでしたが」と商人の男は震えた声をあげ、「さっきの老婆ですよ、ひとりで朝食して急いで出ていったから、疑えば疑われもする、すぐに番頭を呼びましょう」といって、手をたたいて番頭を呼んだ。
 やってきた番頭にふたりは一件を打ち明けた。すると番頭も驚いて「それではあの老婆が怪しい」といい後を追いかけた。そのあいだ菅原と商人の男が庭をみてまわると、板塀に九尺梯子がひとつかけてあるのをみつけた。
「これで逃げたのでしょうか」
 と商人の男は梯子を見あげて訝しげにいったが、菅原もあの老婆に登れるのだろうかと疑問に思った。しかしこの梯子は如何にも不自然ではあった。そうこうしているうちに番頭が帰ってきて、
「老婆を調べましたが六十銭よりほかはありませんでした、さすれば盗賊はほかにあるのでしょう、田無の警察までは遠いので老婆は放してやりました」
 と報告してきた。老婆が内から手引きをして盗賊があの梯子で逃げたものだろうか、しかしさりとて番頭の言も信じられるものではない、ここでいろいろ思案したところで今更どうなるわけでもあるまい。それで菅原は「すぐに警察に届けねばならぬが、警官がここにやってくるまで待っている暇はない、わたしが出発のうえで届けるなら届けてくれ」と番頭にいい、自分の身上を明かして「もし用事があればあとから書面で頼む」と申し入れるだけにした。
 埼玉の商人とは思わぬ災難を慰めあって、旅館でわかれた。

・郡長砂川源五右衛門の話―どろぼう宿の実態― 夕刻になってやっと青梅に到着し、志村屋という宿に旅装を解いた。
 そしてすぐに郡役所に郡長砂川源五右衛門を訪れて着任の挨拶をした。すると郡長の砂川はにこやかに出迎えてくれ、「お疲れ様でした、早速に某亭で歓迎会をひらきましょう」といってくれた。菅原にとっては小川でひと災難あったあとなので、その志がとりわけ有り難く思われた。
 某亭にいくと郡吏・青梅町長・学区取締など、およそ十人近くが揃っていた。郡長砂川は旧幕時代には名物里正(名主)であったらしく、なかなか老巧のひとで、弁舌においては敵するものはなく座中で一目置かれていた。
 酒が闌(たけなわ)となって座中は頤(おとがい)を解いて賑やかになった。菅原道明の回顧録『古稀来』にはこの座中での菅原と郡長の会話が記されている。

……酒闌にして、私は昨夜盗難に逢った事を話した。始終を聞いてゐた郡長殿は「夫れは先づ命に別状がなくてよかつた、君が金を多く持たなかった賜だ」といふ。妙なことを云ふと思うたから「夫れは何故か」と問うたら、其の説明に曰く「小川の彼の宿は附近切つての博徒の親分某(有名な博徒 私も名は聞いて居る)の妾の内職場である。金持の旅人と見れば直に数名の子分で締めて仕舞ふ。構へも立派だし庭園も広く、女も垢抜けのしたのが三、五人は居る。旅人は良い宿に着いたと喜び、美女の晩酌で酔ひつぶれて前後も知らぬ間に彼の世に旅立たせる訳はない。二三年前から毎年絹商人又は種紙(蚕紙)配布後代金集めに廻る者など大分やられる。今年も三千円を持つた絹商人が宿り合はせて殺された。知つて居る者は宿らぬが不案内の旅人は宿つて難に遇ふ」云々。
「そんな所をなぜ其筋では手を附けぬか」と反問すると「手を着ければ何百の子分を持つてる親分だから、どんな大騒動が起るかも知れぬ、それで其筋でも知つて知らぬ振りして居ると見える」と云はれた。私は思うた、昔は将軍の御膝元、今は大政府の脚下と云ふべき地(新宿より四五里)で、昔の安達が原の様な恐ろしい事が今でも行はれるのかと大いに脅えた。郡長殿は笑つて居る計りだつた「信州の長脇差、関東の無宿者と云ふが、今では、甲武の博徒で其筋でも困つて居る様だ」と又太白 (高尾註、「大きな盃」) を挙げられる。私は恐ろしい旅の空であるわいと思うた。

 このあとに菅原は旅館志村屋に帰って寝についたが、郡長の小川のどろぼう宿の話が脳裏に焼き付いて残り、隣の話し声に「私を襲ふのでは無いか」(同書)と気が気でなく、なかなか熟睡できなかった。そのことをあとで郡長砂川にいうと、彼は「小川の事で脅して置いたから其心配は尤である。然し志村の事は下女と料理番との媾引 (高尾註、あいびき) である、とんだ事で校長先生を驚かしたものだ」(同書)と大きなくちをあけてわらった。

・博徒「小川の幸蔵」とは 偶々菅原道明というひとの自伝の筆にとめられた、この「小川のどろぼう宿」に関わる「博徒の親分某」こそ、旧幕時代から明治はじめにかけて多摩一帯に縄張りをはった博徒「小川の幸蔵」そのひとである。本名を小山幸蔵といい、旧幕時代には子分五十人をひきつれて暴れまわった名物博徒である。
 それにしても、商人を取り込んで殺してしまう、悪夢のような〝蟻地獄〟旅館はいったい何故街道沿いに堂々と構えていられるのであろうか。そこで、博徒「小川の幸蔵」は地域社会や支配権力にとって、どのような存在なのだろうかという疑問がわく。たとえば、郡長砂川源五右衛門の語る宿の残虐性、宿の公然とした犯罪のやり方、警察や郡長の諦めにも似た博徒との距離のとりかたなどは、現在ではちょっと想像し難いことばかりである。これらはどう理解したらよいのだろうか。
 それには博徒「小川の幸蔵」そのひと自身の履歴を知らねばならない。しかし、それを語り尽くすには、多摩地域の社会状況の根の部分にまで掘り進めなければならないし、時間軸のうえでも、旧幕時代、おそらく天保の頃までは遡らなければならないだろう。
 これから、博徒「小川の幸蔵」の栄光と屈折と挫折の人生を、武州多摩地域の歴史と地域性の中において、なぞってみたいと思うのである。

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2005/10/04

(大学)史学科大学生の素朴な疑問

・アンケート 立正大学でわたしの授業がはじまりました(わたしの担当授業は後期授業です)。そこではいくつかの設問をのせたアンケートを配りました。その回答を匿名でみなさんにご紹介することにしましょう (学生にはそのことは了解を得ています) 。設問中「歴史のことでふだん疑問に思っていることはありますか?」という欄に対し、主に6つのすばらしい回答を得ました。やってみるものですね。

①なぜ私の友達に歴史嫌いが多いのか。
②昔の失敗を知っているはずなのに同じ失敗をしていることがあるような気がするところ。
③江戸時代の天ぷらについての技術。
④幕末の志士は会合で、どのような酒(どこの産の)を飲み、どのような料理を食べていたのか。姉小路公知卿を暗殺したのは本当は誰か。
⑤個人的なんですが、祖母の家に「浅間神社もどき」があって碑文もあったんですが、何故農家のうちが、それを管理しているのかが不思議です。疑問です。
⑥歴史はどこで始まりどこで終わるのか。

 個人的なふとした疑問でも、そこからおおきな論文に仕立てることは可能です。研究者の方々でもそんなことをしてきました。論文をよむことも大切ですが、まずは自分本位で考えることが大切です。

・歴史を学ぶ意味 「①なぜ私の友達に歴史嫌いが多いのか」「②昔の失敗を知っているはずなのに同じ失敗をしていることがあるような気がするところ」の2回答は、ふかいところで繋がっています。実はわたしも同じようなことを考えていました。
 現在の世の中というのは「過去を喪失した世の中」であって、つまり常にイマという点のうえに立っていて、そこから未来という〝空白〟に生きているのが現代人の特徴です。たとえばこれからの国政・これからの外交・これからの教育・これからの株価など……。あまり過去を振り返ろうとはしていません。従来の日本が「右大将頼朝公以来」や「東照宮以来」や「明治大帝以来」や「先祖伝来の田畑」などと、様々な過去に縛られてきたことを考えてみるに、これはかなり風変わりなことではないでしょうか。
 しかしその反面、「日本人の誇り」をもつことを主張し、アジア・太平洋戦争の日本をいちぶ肯定するような議論もでてきました。これは、先ほど述べた「過去を喪失した世の中」とは関連性のある現象で、「歴史をもういちど作りなおそう」という動きだといえます。もちろん「日本人の誇り」自体がわるいわけではありません。しかし、それによって①さんの友達が「歴史好き」になったとしても、もし夜郎自大で自分勝手な歴史観がすこしでも含まれれば、②さんのいう「昔の失敗」は頭の中から消えてしまうから、そこはおおきな落とし穴です。また試しに戦前・戦中のむかしの歴史教科書を読んでみて下さい。大河ドラマ調というか、劇画調というか、講談調というか、けっこう面白い本なのです。ところが吹き出したくなるようなばかみたいなウソばかりです。だから面白けりゃいいというわけではありません。歴史はマンガじゃないんだから。

・日常への視点 「③江戸時代の天ぷらについての技術」「④幕末の志士は会合で、どのような酒(どこの産の)を飲み、どのような料理を食べていたのか」という疑問は、むかしの日常生活に関するものです。こういった日常生活を明らかにすることも、歴史学での重要なテーマです。徳川家康が天ぷらをたべて腹痛をおこしたというのは有名な譚ですが、歴史はふるい筈です。江戸の出店でも売っていて絵ものこっています。幕末の志士が集う京都ではどのような食事が出たのでしょうか。もし「幕末の志士」で史料がなければ、もし興味があれば「料理」というところに重点をおいて、「幕末京都における○○の料理」という課題でもいいわけです。京都の庶民の日記でもみれば何かわかるかもしれません。京都のお酒ならばちかくの池田・伊丹・灘などが名酒を産する土地です。伊丹は京都の近衛家領でした。近衛家は酒造業を積極的に保護し、近衛家が鑑札などに使用した合印文は、いまも伊丹市章として使われています。近衛家出入りの志士ならば伊丹の酒かもしれません。
 これは自分の家に関する疑問。「⑤個人的なんですが、祖母の家に「浅間神社もどき」があって碑文もあったんですが、何故農家のうちが、それを管理しているのかが不思議です。疑問です」。そうですね、これも不思議です。まず石碑に何が書いているのかを調べてみて下さい。その石碑に富士山のマークは入っていませんか。大きさを測って様子を写真におさめてみましょう。つぎにむらにふるい書き物はのこっていませんか。むらのご老人や旧村役人家などの旧家を訪ねれば、何かわかるかもしれません。文字だけではなくむらにふるい言い伝えなどはのこっていませんでしょうか。大学にはたくさんの本があって、民俗学や歴史学などの書棚に浅間神社や富士信仰や屋敷神に関する本がありますから、それを繙いてみてください。このようなふとした日常の疑問は大切にしてください。是非レポート提出はこの事例でお願いします。

・歴史のはじまりとおわり 「⑥歴史はどこで始まりどこで終わるのか」。これはなかなか深い疑問です。
 歴史には必ず文脈があります。「歴史」と2文字でおわる歴史はありえません。つまり「○○の歴史」とか「××の歴史」とか、必ず枕詞がつくわけですが、たとえば「日本の歴史」はいつからなのでしょうか。
 さきほど亡くなった網野善彦というひとは、このことにたいへん疑問をもった歴史家です。「日本」という国号や「天皇」という称号は7世紀になってつくられました。「日本」がつくられた当初は列島全部が「日本」の支配下ではなくて、東北などは「日本」の範囲の外にありますね。そのうえ「日本」成立以前の聖徳太子は当然「日本人」ではありません。⑥さんが「どこで終わるのか」と「終わる」という視点もいれたことはすごいことです。「『日本』だけではなく別の国号もあってもいい」というのが網野さんの議論だったからです。この世の中すべからく未来永劫という事柄はありません。必ずどれにもはじまりとおわりがあります。それを意識することも歴史学の目的のひとつです。

・大学生の問題意識 このように大学生の問題意識はなかなか先鋭的です。たぶん自分はあまり先鋭的だと意識しておらず〝天然的先鋭〟なのかもしれません。しかしもしそうであったとしても、先鋭的だと教えてあげることは必要です。「勉強してないネ」ということは簡単ですがそれだけでは何の問題の解決にもなりません。
 以下は「抗体の多様性生成の遺伝学的原理の解明」でノーベル生理学医学賞をとった利根川進さんと立花隆さんとの対談集『精神と物質』(文春文庫)から (わたしの愛読している本です、遺伝子の知識がないと内容はかなり難解ですが) 。利根川さんは大学生の頃生物の細胞を知りませんでした (質問者は立花さん、返答者は利根川さん)

―理学部の化学科の出身でしたね。もともと生物に対する興味から分子生物学に入っていかれたわけじゃないんですか。
「ぼくは高校で生物をとってないんです。だから生物学の知識なんて、はじめは何もなかったですね。たとえばね、この人間の体がみんな細胞でできてるなんてことは、大学に入って一般教養の生物をとるまで知らなかったくらいなんですよ。それを聞いたとき、へえーって思ってね、すぐ友達にその話をしたら、お前そんなことも知らなかったのかって、すごくバカにされましたけどね(笑)。こんな話書かないでくださいよ」
―いやあ、その話いいですね。ノーベル賞の利根川さんが細胞を知らなかったなんて傑作ですよ。ぜひ書かせてください。 (第1章「安保反対」からノーベル賞へ)

 ノーベル生理学医学賞研究者が、大学生時代に細胞を「知らなかった」ということもさることながら、同時に「へえーって思ってね、すぐ友達にその話をした」というところも重要です。こう考えると昨今喧しい大学生の学力低下問題って何なのでしょうか。

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