(江戸形成史)殺伐とした江戸
・「刀よこせ棒鑓よ」 江戸時代というと天下泰平のイメージがあります。しかしとりわけ江戸時代初期は島原の乱を過ぎるあたりまで戦国乱世の遺風があり、乱暴沙汰が多く何処も殺伐としていました。将軍のお膝元江戸もその例外ではありません。旗本奴と町奴の喧嘩もちょうどこの頃です。
その参考になるのが「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」 (『日本随筆大成』第2期4、吉川弘文館、1974)の記述です。
むかしは一ヶ年の内に、一度も、三四度も、夫刀よこせ棒鑓よなどというて、下々も刀拵尻からげ騒し事有しゆゑ、ふだん油断せざりし。近年はそれ刀よといふ程のさわぎなき故、今の若い衆は家内にて丸腰などにて随分油断の体なり、
……「むかし」は一ヶ年のうちに三四度も「刀をよこせ、棒・鑓(やり)をよこせ」などという騒ぎがあるため、下々も刀を用意して尻からげて騒ぐことがあった。だから普段は油断することがなかった。しかし「近年」はそういうこともなく、家内では「丸腰」つまり刀をさしていないのだ。
ここでいう「むかし」とは明暦大火前で18世紀中頃以前のことです。その頃は刀・鑓・棒の3点が使われた「騒し事」が年に多いときで4回もあったといい、非常に殺伐としていた様子がわかります。「近年」とは享保初年のことでしょうが、その頃には「それ刀よ」という騒ぎはなく家で刀をささない武家もあったといいます。
・「要らざる金六」 話はかわりますが、徳川家康はよく鷹狩りを好みました。その目的には軍事演習や自分自身の運動のためということもありますが、そとへ出て民情視察をするということもありました。特に家康は鷹狩り以外にもふだんから下々に声をかけるということが時々あったようです。しかし歴代将軍の中で家康だけがヒューマニストであったわけではありません。時代が下ると将軍という地位も制度化・儀礼化・観念化され、庶民の前には出てこなくなって〝雲の上の人〟になります。
三浦浄心「慶長見聞集」という史料にこんな譚があります。
家康存命当時の江戸本町一丁目に益田金六という町人がいました。家康は何故かこの金六がお気に入りでした。家康の外出のとき金六はきまって大手御門外にうずくまっていて、城のそとへ出てくると家康は駕籠をあけて「金六よ」と声をかけて微笑みます。町人とはいえ金六は「大御所様三河岡崎におはします時より御存知の町の者」(史料原文)で家康について三河から出てきた「三河譜代」でした。
金六は家康の行列の先頭にたち竹杖をついて左右の町を見まわし、「拝み奉れ」(史料原文)と町の者にいって歩きます。それをみて駕籠の中の家康は愉しそうです。それで世の人びとは、
扨も金六は果報の者かな、上様の御自愛浅からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者也、
(金六はいいのう、家康様のたいそうなお気に入りだ、侍だったら過分の知行も下されるだろうに)
と噂します。
夕暮れになると金六は帯刀し江戸の町をめぐって辻番を点検してまわります。火の不始末があれば金六は「此町に月行事はなきか、何とて火の番をかたく申付ざるぞ」(史料原文)と叫びます。それで町人たちが驚いて「町奉行のお咎めか」と道に出てきてみれば、金六の姿をみて「なんだ金六の仕業か」と目をまるくします。また夜更に戸のあいた家をみつければ、そこでも金六は「盗人ぞ、町の者ども出会え」と叫び、四方の町を動揺させます。町人たちが「鑓・刀・棒をひきさげ松明(たいまつ)を手毎に持て」、「盗人はいづくに有ぞ」(史料原文)と道に出てきてみれば、金六の姿をみてまた吃驚りする。
江戸の人びとはこんな金六をもてあましました。それで彼らは要らざる世話のことを「要らざる金六」といいました。金六は武士身分の者ではありませんし、ましてや町奉行所の者でもありません。「金六の奴は町人のくせに町奉行所のような世話をしやがる」という皮肉です。しかし家康お気に入りだから誰も文句をいえません。ほかの史料もみてみると、支配制度の未成熟なこの頃、金六のような「お節介者」がひとりやふたりではなかったのではないかと思われます。
ここでふたつのことに注目しましょう。①金六が帯刀していることです。「町人に似合ぬ大かたなを肩に打かたげ」「刀を抜持」(史料原文)っていたとあり、まだこの頃は武士・町人の身分制がしっかりしていなかった様子がわかります。②町人が金六の声に驚いて「鑓・刀・棒をひきさげ」て出てくるというくだりは、江戸の町人も武器をもって戦うことがありうる、ということを意味します。この刀・鑓・棒の3点セットは先にご紹介した「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」の「刀よこせ棒鑓よ」とよく符合しています。
この頃の江戸の角地には何と「三階櫓」という軍事施設のようなものまであったのです。それだけ江戸の町は殺伐としていました。
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