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2005/09/19

(生涯教育)「ワン・コイン古文書講座」は如何ですか? ―安価でたのしく、くずし字を学ぼう―

・ちょっとお高い古文書講座 世の中は古文書解読の講座が流行りです。趣味をはじめるとき、誰しも「フラメンコやろうか」「英会話やろうか」「お料理やろうか」などといろいろ思案することでしょう。そのなかで遠い昔にロマンをもとめ、「古文書やろうか」と考える方々が増えてきたというのは、歴史研究に携わる者としてこんなに喜ばしいことはありません。古文書解読がふつうの趣味としての〝市民権〟を得たのです。それであちこちで古文書講座の案内のちらしをみることができます。
 一般的にくずし字の多い古文書は難しいと思われています。年賀状に筆でくずし字がしたためてあれば、モウ、それだけで恐れ入ってしまう、という方がほとんどでしょう。しかし実際はくずし字といっても一般庶民までもが日常的に使っていた簡便な書体に過ぎず、意外なほどに単純で覚えやすいものです (よく考えれば、むかしの寺子屋では子どもさえもくずし字の読み書きを習っていたのです)。これは世間であまり知られていることではありません。「ホントに?」と思われる方は「百聞は一見に如かず」といいますから、いちどこの古文書講座にチャレンジされてみては如何でしょう。
 ただ、この古文書講座で気になることは、たかい受講料で売っているところがあることです。参加しているひとから聞いたところによると、何と入会金が1万円、そのうえ一講座2000円~3000円とる教室があるといいます。実際わたしもそのパンフレットを拝見したことがありますが、なるほど面白そうな講座ではありました。この高いお金の対価として質の高い講座が受けられることは間違いなく (営業妨害をしようというつもりはありませんのであしからず)、もちろん「よし、これから古文書を学ぶぞ!」と最初から意気盛んな方の場合なら、これでも満足でしょう。
 しかし実のところ、”古文書入門層”といってもいろいろで、「ちょっと試しに学んでみたい…」という方の場合でいえば、1万円以上のお金を支払うのはとても勇気の要ることで、躊躇してしまうひとは多いことでしょう (大学のコマの単位認定があるなら話は別ですが)
 また、博物館などの主催する講座になると、やすい受講料であっても定員があって抽選をするところも少なくないようですから、講座数の多いわりには学習希望者の欲求を満たしているとは言い難いのが現状です。それでたかい受講料の講座でもそれなりの需要があるのでしょう。

・「ワン・コイン500円」宣言、「来る者拒まず」宣言 そこでわたしは最近になって古文書講座を開設したいと思うようになりました。もしわたしがそれをやるなら、会場さえ確保できれば、講座受講料は一講座(2時間)500円玉ワン・コインでけっこうだと思います(資料代含む)。入会金もありませんし出入りは自由です。いっさい「来る者拒まず」で定員制(抽選制)をとりません。1万人希望者が来たら来たで東京ドームでやりましょう。20人しか来なかったら小さな教室で事足ります。
 もちろん質を落とすつもりはありません。しっかりじっくり親切にやって500円です。……思えば500円なんてすぐになくなってしまいますね。煙草2箱で500円、ガム5個買って500円、1リットル250円のジュース2本買って500円です。古文書講座もその程度ではないでしょうか。古文書を学んでみたいという方、お友達をみつけてみたいという方、煙草1日2箱は健康にいけないと反省している方、インターネット上だけでなくわたしという人間を実際観察してみたいという方 (そんなひといるかな?) は、是非いらっしゃいませ。このようなやすい受講料では、立派な機材をそろえることもおおきな宣伝もおこなうこともできませんが、みなさんに満足頂けるよう努力したいと思います。
 ただし500円という格安の受講料なので、参加者が集まらないと採算がとれず、実現することはできません。それにはみなさまのご協力が必要です。もしこの趣旨にご賛同の方は下記のメールでその旨をお寄せ下さい。

※この記事は「ネタ」(ブログの記事を埋めるための冗談)ではありません。
・生徒で参加をご希望の方はこちらまでメールをください。住所・電話番号をお知らせください。ふるってご参加をお願いします。参加希望者が一定数に達しましたらすぐに開講の手続きに入ります。
・もちろんすでに活動されている古文書サークルの出張講師もこれと近い値段でお引き受けします。遠慮なくご連絡ください。条件なども逐一相談させて頂きます。
・「講師をひきうけてもよい」という方もご連絡ください。資格は博士号学位をお持ちの方、あるいは単著(啓蒙書・新書を含む)をお持ちの方に限ります。講師陣にはいまのところわたし高尾善希・小林信也 (博士(文学)(東京大学) 『江戸の民衆世界と近代化』<山川出版社>の著者。小林信也ブログhttp://skumbro.cocolog-nifty.com/edo/「江戸をよむ東京をあるく」)がいます。
・具体的な期日・場所はのちほどお知らせいたします。期日は土曜日か日曜日、場所は東京区部になると思います。
・この記事どうぞ転載ご自由に。

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2005/09/14

(記念)ブログ「江戸時代研究の休み時間」1周年、回顧と展望

・インターネットって? 予備校は不思議な教育施設である。予備校といえば偏差値競争を煽る悪玉のように考えるひともいるが、けっしてそれだけではない。男女関係から天下国家のことまで、人生と世の中の機微をいろいろそこで教わった。予備校時代の先生はこんな衝撃的なことをいった。

―あのパソコン通信というやつね、あれはもっと大きくなるんだ、いまはオタクしかやっておらんがね、みんながパソコン通信をやるようになるんだ

 それはわたしにとってインターネットという世界を知った最初の出来事であった。そのときはそんな世の中が本当にくるのだろうか、正直この〝予言〟に半信半疑だった。
 あれから何年たっただろう。

・ちょうど一年 ちょうどいまから1年前にこの「江戸時代研究の休み時間」というブログをたちあげた。その第1回目の書き込みは次のとおりであった。

 2004/09/29ブログをはじめました
 わたしは江戸時代史の研究人です(研究人と表現するのは「研究者」と名乗るにはまだ駆け出し身分だからです)。主に関東の村落史を研究してきましたが、最近は仕事柄、江戸のことも少し調べています。ここでは、研究の過程で知り得たちょっと興味深い話や、本の紹介(歴史関係本以外も含む)・日常雑感などを、気軽に書き込んでみたいと思います。題して「江戸時代研究の休み時間」。わたしの実名を公開し、かつ詳しいプロフィールも公開しています。実名公開でブログを立ち上げている(歴史)業界の方は、あまりいらっしゃらないかと思いますので、あえて公開してみました。ブログに対するコメントも可能で匿名でも構いません。いろいろご教示をお願いします。ただし、悪質・問題のあるものは、わたしの判断で削除させて頂くことがありますのでご了承ください。また、「史料を読んでほしい」等のご依頼には、おこたえしたいところなのですが、十分な回答を用意するいとまがありませんので、ご遠慮頂くようお願いします。わたし、あまりマメな方ではありません。できるかな? どうかな? ……さてさて。

 最初はこんな短い文章だったのである。このときのブログのデザインはピンク一色、とても閑散としたものだった。うれしいやら恥ずかしいやら、このころのアクセス数は一日僅か30くらいだったと思う。文中「「史料を読んでほしい」等のご依頼には、おこたえしたいところなのですが、十分な回答を用意するいとまがありませんので、ご遠慮頂くようお願いします」とあるが、コメント欄に出されたご質問にはたいていお答えするようにしている。

・運営 これ以来3日に1回の執筆を心掛けた。1年を経過したいま、現在123個の記事を書きあげたから、3日に1回のペースを若干うわまわった計算になる。その結果ほぼテキスト・データだけで約5.3MB(メガバイト)、フロッピー・ディスク5枚分を喰い散らかしてしまった。400字詰原稿用紙にして500枚ちかくになる。トラックバック数も25個頂き、ブログをみて電話をしてきたテレビ局も3~4局くらいある (ちなみに去年12月の「御用納」に関する記事は、日本テレビ「おもいッきりテレビ」「きょうは何の日」<2004年12月28日放送>に提供した調査記録をもとにしている)
 今後の参考のためにアクセス数増加のきっかけについて書いておく。やはり、①日本振興銀行社長で経済評論家の木村剛さん(「週刊!木村剛」)に3回ほどお取り上げ頂いたこと、②ブログ収集サイト「ウェブログ図書館」におとりあげを頂いたこと、③『「ブログ」入門』(滝田誠一郎著、ベスト新書)というブログ入門書にご紹介を頂いたこと、④niftyココログの紹介ホームページにご紹介頂いたこと、が主なきっかけであったと思う。それらがアクセス数のきっかけになったことは間違いないが、むろん急増とはいえず、ゆるやかな漸増カーブを描いているので、このうちどれがどのくらい貢献したのかはわからない。ちなみに一番アクセス数が多かったのは「週刊!木村剛」からのリンクであった。
 1年前わたしがブログ開設を決めたのは『AERA』(2004.7.12号)「ブログの時代がやって来た」のブログ特集記事を読んだからだった (木村剛さんのお名前を知ったのもこの記事が最初である) 。これを一読して「これはいけるな」と感じた。それで歴史学系ブログなるものが世の中に存在するのかどうか、懸命になって一週間もGoogleで検索してまわってみたが、その結果、2つ・3つほどがみつかっただけで、本格的なものは皆無であることがわかった。そのため「開設しよう」と決心したものの、やはりいままでないものを作ろうとすることはとても勇気の要ることだった。なにしろ論文執筆や研究発表しかやらない人間が、自分から好んで世の中のグジャグジャに身を投じようというのだから世間の反応が気になった。とりわけ研究者仲間の反応が心配だった。わたしのどうしようもないパソコン音痴も大きなネックであった (そこで職場の同僚のTさんには、インターネットの基本、HTML言語の基礎知識について、長時間にわたってレクチャー頂いた。この場で謝意を表したい)
 運営はハンドル・ネームではなく実名でおこなった。匿名では「2ちゃんねる」と変わりがないし、従来の個人紹介用ホームページと同じように、ブログ・ツールを使おうと考えたからである (実は本家版ホームページ「江戸時代研究の窓」を開設予定であったが、ブログの運営に忙しくて中止した) 。ただ開設して半年の間は顔写真や業績をのせたこのブログが恥ずかしくてしょうがなかった。正直いって自分のブログをみるのもイヤだと思う時期もあった。しかしそれから追々歴史学系ブログが増え始め、いまでは実名・仮名とも60以上のサイトが出現し、わたしの恥ずかしさも幾分かやわらいだ (歴史学系ブログの多くを当ブログ右サイドの「歴史系ブログ一覧」というリンク集におさめている) 。なかには「高尾さんのをみてブログを開設した」という方もいて心強くおもった。
 それでわたしはだんだん厚顔無恥になって、最初は敬遠しようと考えていた時事問題・政治問題にまで口を出すようになった。しかし、①画像添付せずテキストのみ、②内容も固めに、③史料をなるべく紹介する、という3方針は堅持しておだやかに一年が過ぎた。このようなおふざけなしの記事執筆はつらくもあり楽しくもあった。
 交流には記事毎のコメント欄が活躍した。間違いについては主にコメント欄に書き込んで頂いたりした(なかにはこっそりメールで指摘してくれる方もいらっしゃる)。リンクの貼り間違えのご指摘、運営に関する有益なご教示、あるいは記事に関連する該博な知識を披露して下さる方もいる。また驚くべきことに記事でとりあげた歴史上の人物の御子孫からコメント欄にお書き込み頂くことも、一回・二回ではなかった。またわたしの指導教授とは同門の、えらい先生からのお書き込み(もちろんハンドル・ネーム)に感激することもあった。

・世の中の広さ それにしても世の中はひろい。歴史学系ブログの中には脱帽の猛者がいて、「歴史と地理な日々」運営者の中村武生さんもそのひとりである。中村さんとは一面識もないが、飯を食うように何事かを発見し続け、その一々をブログにアップされている。その精力ぶりには驚かされた。はるか年上である中村さんには失礼な表現だが、上には上がいるものだと舌を巻くおもいであった。職場の同僚であり先輩でもある小林信也さんの「江戸をよむ東京をあるく」にも、現代の問題において歴史学を考える態度を学ばせて頂いた。趣味の多彩さにも圧倒される。研究には好奇心が欠かせないのである。一読をおすすめしたい。
 この場をかりて、のべアクセス数3万4千の関係者各位にあつくお礼申し上げます。これからもよろしくお願いします。

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2005/09/11

(近況)「江戸東京博物館友の会」講演

・「えど友」講演  江戸東京博物館「友の会」(通称「えど友」)から講演のご依頼があってご承諾しました。日取りは12月なのでまだまだ先です。ネタはわたしの発見した「巣鴨町軒別絵図」をお願いします、とのこと。下世話な話ですがこの「巣鴨町軒別絵図」のおかげでかなりお金を稼ぎました。子どものおむつ代やおやつ代やおもちゃ代に使ってももちろんまだまだ余っている。そのあまりはこつこつ学資保険や貯金にまわしています。
 この講演セミナーのシリーズは、わたしの分はさておいて人選も演目もなかなか魅力的なものが多くて感心させられます。さすがに江戸東京博物館という大手博物館ともなるとスケールがちがう。わたしも「友の会」に入ってみたくなった。興味のある方は「えど友」に入会されては如何でしょう。

「江戸東京博物館友の会」セミナー
4月9日「江戸の犯罪白書」重松一義さん(元中央学院大学教授)
6月26日「武士の家計簿」磯田道史さん(茨城大学人文学助教授)
7月 20日「ホタル帰る 特攻隊物語(知覧)」赤羽礼子さん(富屋食堂主人次女)
9月 23日「旧制高等学校物語」秦郁彦さん(元大蔵省在籍)
12月15日「よみがえる巣鴨の町なみ」高尾善希(東京都公文書館非常勤職員)
「江戸東京博物館 友の会」の「えど友」サイトより
http://www.edo-tomo.jp/nrep01.html

 この江戸東京博物館は建物もべらぼうだしひとも多くて驚きです。つかうお金もふつうの博物館とは桁違いでしょう。この博物館には以前アルバイトに通っていましたが、職員の方々のお名前も覚えられず何処の何方かわからずじまいでした。この博物館の館長は何をかくそうわたしの指導教授なのですが、今回の講演依頼は館長の意向とは関係ないようです。
 さっそく「えど友」広報部におくった講演の概要は以下の通り。

「よみがえる巣鴨の町なみ―皇女和宮のおくりもの―」講師:高尾善希(立正大学文学部非常勤講師)
 みなさんはテレビやテーマパークなどでよく江戸時代の江戸町方の様子をご覧になることと思います。米屋・呉服屋・料理屋・魚屋……、賑やかで活気あふれた町なみ。しかし意外なことにその景観はほとんどがナゾです。わたしは最近、幕府公文書の中に江戸御府内の場末巣鴨の町方絵図を発見しました。これをみると巣鴨の町方約240軒の景観を正確に再現することができます。この絵図をめぐって「おばあちゃんの原宿」豊島区巣鴨でシンポジウムもひらかれました。この絵図が語る江戸町方の様子とは? 江戸時代の巣鴨と現在の巣鴨との関係とは? そしてこれからの巣鴨はどこへゆこうとしているのか? について語ります。
 講師略歴:たかお・よしき 東京家政学院大学人文学部非常勤講師をへて、現在、立正大学文学部非常勤講師・東京都公文書館非常勤職員。共著に『番付で読む江戸時代』など。

 これを書くのに「えいやっ」と消費時間10分くらい。論文とはちがいこういうお仕事はわりあい手際よくパッパッとこなせる。 

・講演といえば… さて別の話題。博物館の講演といえば、以前の品川区立品川歴史館におけるわたしの講演では、何とテレビ・カメラがきていました。講演始まる直前に「きょうはテレビ撮影なので…」と博物館の職員の方にお知らせ頂き少々あたまを掻いた。
 テレビ番組出演は以前頼まれたことがあったけれど、ある事情でお断り申し上げていました。それ以来です。出演すること自体はいやな気持ちはないが、もうちょっときれいに髭を剃っておくべきだったかなという後悔があった。しかしあまりカメラを意識せずに好き勝手なことを喋り続けました。

そういうとき緊張しませんか?

 とよくいわれますが、あまり緊張はしません。「一人の人間に話すことは苦ではないのだから、100人や200人が束になってきたってどうということはない」と思えば緊張はしないものです(しかしプロ連中を前にしての学会研究発表などは別です、わたしは未だにそういう場に不慣れです)。
 どこのテレビ局かはわすれました。地元のケーブルテレビ局だそうです。

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2005/09/08

(論文)わたしの処女作と『麻雀放浪記』

・処女論文 わたしの処女論文は学部卒業論文ではありません。
 わたしは大学時代「立正大学古文書研究会」という学部サークルに所属していました。「ひとのいやがるコモンジョに入っていくよな馬鹿もいる」というひともいたくらい、立正大学では怪しげでつらいといわれたサークルでした。
 毎年茨城県筑波郡谷和原村川崎(江戸時代は下総国相馬郡川崎村、常陸国土浦藩領)という在所をたずねて史料をお借りし、ちかくの合宿所にそれを車で持ち込んで共同調査をしていました。米や野菜を持ち込む自炊です。夏は暑くて冬は寒く、遅寝・早起きを義務づけられた過酷な合宿でした。毎日女子部員の誰かが病気でたおれるということもありました(現在の古文書研究会はそんな活動はしていないと思います)。
 この研究会で大学3年生のときに書いた調査報告書がわたしの処女論文。平成七年度調査報告書『文化文政期における村方騒動と村入用―下総国相馬郡川崎村の事例―』(立正大学古文書研究会)です。仲間4人での分担執筆でした。わたしの執筆分担は第1章で24頁分でした。―慢性的困窮にある川崎村が膨らみつつある村入用費管理の改革をしていくという話でした。このときの研究成果は茨城県谷和原村の村史『谷和原村の歴史』にも多く引用されることになります。
 同報告書の「編集後記」にはこうあります(この箇所もわたしの筆による)。

北風の冷たい二月となった。拙い報告書ではあるが、我々なりに頑張ってきたと思う。はじめのうちで一番苦労したことは、史料が少ないということだった。年六回ある限られた合宿のうちに、使用すべき史料を見つけて、それを筆写しなくてはならない。史料が少ない分だけゆっくりもしていられなかった。夏の第三回合宿の頃からだんだん史料が揃い始め、一応報告書としてカタチにはなりそうな状況となった。最初は見通しのきかない活動だったので、先輩方々にはいろいろと御心配をおかけしてしまった。御詫び申し上げたい。今年度は、阪神大震災やオウム事件と重大な事件が多かったけれども、われわれは大学時代のいい想い出をつくることができた。(後略) 

 この文章にあるようにこの年度は阪神大震災・オウム事件の年度だったのです。そうするといまから10年くらい前になるのでしょうか。先輩や仲間と喧嘩しながらつくった青春の証であり、研究人としての第一歩をしるした報告書です(懐かしいのですが、しかし大学を卒業してまだ7年しかたっていないことがわかって、今更ながら驚きです)。

・村入用用途への疑念 文化11年(1814)、この川崎村の百姓たちが、村入用費の管理維持について、名主(村長)にたいして疑いをもちかけます。村入用とは村運営に関する諸費のことで、当時何処の村でも膨らんでいく村入用の処置が問題になっていました。
 百姓たちは「名主が村入用を横領しているんじゃないか」(「村方見掠不実」)といいます。名主は疑いをかけられたまま文政4年(1821)に名主を退役しますが、ほんとうに横領したのかどうかまではわかりません。しかし名主がそんな酷いことをしていたとは思えませんから、名主の既得権益を奪おうとする百姓たちの駆け引きだった可能性もあります。何処の村でも「村方見掠不実」というのがキャッチフレーズのようによく使われていたのです。たとえば百姓からの訴状の条文にこういうものがあります。

土浦町色川屋三郎兵衛方ニて筆紙代として壱ヶ年ニ金弐両つゝ割合取立候得共、年々弐両つゝ定式ニ相懸り義難心得奉存候……
「土浦町色川屋三郎兵衛にて、村の公用で使う筆紙代を1ヶ年に金2両も取り立てているけれど、年々きまって2両もかかるなんて、おかしいんじゃないの?」

 川崎村の筆紙代は土浦町色川屋三郎兵衛が用立てていたことがわかります (たぶんここでいう筆紙代とは単に筆紙のお金だけでなく、土浦城下での公用でかかる諸費用あわせてのことでしょう)。ここでつかうお金の多さを百姓たちは問題にしています。江戸時代の会計監査といったところでしょうか。

・色川屋三郎兵衛と『麻雀放浪記』 さて話はかわりますが、この常陸国土浦城下にすむ色川屋三郎兵衛家は、このように訴状に出てくるので、学生時代にちょっと調べたのですが、けっこう著名な家であることがわかりました。幕末になると色川三中(みなか)・色川御蔭(おかげ)と兄弟で学者を輩出します。三中は国史・古典研究に秀でて本草学者としても著名。中井信彦『色川三中の研究』という研究書もあってときどき古本屋に出ます。御蔭は国学・蘭学・和歌に秀でていました。この御蔭のひ孫さんが色川武大(たけひろ)さんです。既に故人ですがそんな先祖からの血をうけてか小説家でした。純文学を書くときは本名で、麻雀小説を書くときは「阿佐田哲也」というペンネームです。『麻雀放浪記』などの著作があります。
 下手な麻雀をうっていた学生時代のわたしは、たまたま古文書から出てきた『麻雀放浪記』のご先祖さまに、ちょっと不思議な感じをうけたのでした。

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2005/09/05

(江戸形成史)殺伐とした江戸

・「刀よこせ棒鑓よ」 江戸時代というと天下泰平のイメージがあります。しかしとりわけ江戸時代初期は島原の乱を過ぎるあたりまで戦国乱世の遺風があり、乱暴沙汰が多く何処も殺伐としていました。将軍のお膝元江戸もその例外ではありません。旗本奴と町奴の喧嘩もちょうどこの頃です。
 その参考になるのが「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」 (『日本随筆大成』第2期4、吉川弘文館、1974)の記述です。

むかしは一ヶ年の内に、一度も、三四度も、夫刀よこせ棒鑓よなどというて、下々も刀拵尻からげ騒し事有しゆゑ、ふだん油断せざりし。近年はそれ刀よといふ程のさわぎなき故、今の若い衆は家内にて丸腰などにて随分油断の体なり、

 ……「むかし」は一ヶ年のうちに三四度も「刀をよこせ、棒・鑓(やり)をよこせ」などという騒ぎがあるため、下々も刀を用意して尻からげて騒ぐことがあった。だから普段は油断することがなかった。しかし「近年」はそういうこともなく、家内では「丸腰」つまり刀をさしていないのだ。
 ここでいう「むかし」とは明暦大火前で18世紀中頃以前のことです。その頃は刀・鑓・棒の3点が使われた「騒し事」が年に多いときで4回もあったといい、非常に殺伐としていた様子がわかります。「近年」とは享保初年のことでしょうが、その頃には「それ刀よ」という騒ぎはなく家で刀をささない武家もあったといいます。

・「要らざる金六」 話はかわりますが、徳川家康はよく鷹狩りを好みました。その目的には軍事演習や自分自身の運動のためということもありますが、そとへ出て民情視察をするということもありました。特に家康は鷹狩り以外にもふだんから下々に声をかけるということが時々あったようです。しかし歴代将軍の中で家康だけがヒューマニストであったわけではありません。時代が下ると将軍という地位も制度化・儀礼化・観念化され、庶民の前には出てこなくなって〝雲の上の人〟になります。
 三浦浄心「慶長見聞集」という史料にこんな譚があります。
 家康存命当時の江戸本町一丁目に益田金六という町人がいました。家康は何故かこの金六がお気に入りでした。家康の外出のとき金六はきまって大手御門外にうずくまっていて、城のそとへ出てくると家康は駕籠をあけて「金六よ」と声をかけて微笑みます。町人とはいえ金六は「大御所様三河岡崎におはします時より御存知の町の者」(史料原文)で家康について三河から出てきた「三河譜代」でした。
 金六は家康の行列の先頭にたち竹杖をついて左右の町を見まわし、「拝み奉れ」(史料原文)と町の者にいって歩きます。それをみて駕籠の中の家康は愉しそうです。それで世の人びとは、

扨も金六は果報の者かな、上様の御自愛浅からず、侍たらば過分の知行をも下さるべき者也、
(金六はいいのう、家康様のたいそうなお気に入りだ、侍だったら過分の知行も下されるだろうに)

 と噂します。
 夕暮れになると金六は帯刀し江戸の町をめぐって辻番を点検してまわります。火の不始末があれば金六は「此町に月行事はなきか、何とて火の番をかたく申付ざるぞ」(史料原文)と叫びます。それで町人たちが驚いて「町奉行のお咎めか」と道に出てきてみれば、金六の姿をみて「なんだ金六の仕業か」と目をまるくします。また夜更に戸のあいた家をみつければ、そこでも金六は「盗人ぞ、町の者ども出会え」と叫び、四方の町を動揺させます。町人たちが「鑓・刀・棒をひきさげ松明(たいまつ)を手毎に持て」、「盗人はいづくに有ぞ」(史料原文)と道に出てきてみれば、金六の姿をみてまた吃驚りする。
 江戸の人びとはこんな金六をもてあましました。それで彼らは要らざる世話のことを「要らざる金六」といいました。金六は武士身分の者ではありませんし、ましてや町奉行所の者でもありません。「金六の奴は町人のくせに町奉行所のような世話をしやがる」という皮肉です。しかし家康お気に入りだから誰も文句をいえません。ほかの史料もみてみると、支配制度の未成熟なこの頃、金六のような「お節介者」がひとりやふたりではなかったのではないかと思われます。
 ここでふたつのことに注目しましょう。①金六が帯刀していることです。「町人に似合ぬ大かたなを肩に打かたげ」「刀を抜持」(史料原文)っていたとあり、まだこの頃は武士・町人の身分制がしっかりしていなかった様子がわかります。②町人が金六の声に驚いて「鑓・刀・棒をひきさげ」て出てくるというくだりは、江戸の町人も武器をもって戦うことがありうる、ということを意味します。この刀・鑓・棒の3点セットは先にご紹介した「八十翁疇昔話(むかしむかし物語)」の「刀よこせ棒鑓よ」とよく符合しています。
 この頃の江戸の角地には何と「三階櫓」という軍事施設のようなものまであったのです。それだけ江戸の町は殺伐としていました。

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2005/09/02

(世相)「クールビズは子どもの教育に有害です」?

・意気盛んな広告 先日の新聞の朝刊をひらいてみたら、大見出し格くらいの大文字でこんな文章が派手におどっていた。そこにはこうある。

 クールビズは子どもの教育に有害です。

 選挙がちかいから政見広告なのかと思ったが、公示前であるからそうではない。この文字に続いて「全寮制の××は、日本の歴史と伝統を踏まえ、「形・姿を正した」教育を行います」とある。はたして××中学校の新聞広告であった。
 それにしても、……上は内閣総理大臣から下はわたしのような小役人まで、世の中はクールビズ一色である。そんな世を〝転覆〟せんと「有害です」とあっけなく断言しきるその意気たるや、頼朝の蛭ヶ小島の旗にも似ていて壮たるものがある。その意気のまえには最早説の当否なぞ小事であって、ここはひとまず拍手をおくるのが礼儀ではなかろうか。だからこの説の是非については触れないことにする。別に中学校の固有名詞はどうでもいいからいちおう伏せ字にしておく。この校は東京大学に進学するほどの優秀な人材を輩出していて、まことにけっこうな学校なのである。

・不思議な説明不足 しかしこの××中学校のために惜しむらくは、新聞片側紙面の全部を派手に使って多額の広告費を散財したわりには、クールビズが何故有害なのか、前述の「日本の歴史と伝統」云々という説明以外はまったく理由が示されていないことである。
 周知のように日本におけるネクタイ文化の歴史はあさく、それ自体が「日本の歴史と伝統」を有しているわけではない。ネクタイの紐というカタチは措くとして、「形・姿を正し」て礼節を弁えるということが「日本の歴史と伝統」であるという主張なのだろう。そうであるにしても、クールビズは「部屋の温度を下げるかわりにノー・ネクタイにしましょう」という趣旨のものである。その効果のほどは疑問だが、環境問題の宣伝ということに一役買っているのは事実である。まさか××中学校は「環境への配慮はわが校の教育の範疇に非ず」といいたいわけではないだろう。しかし説明不足である以上、そう勘ぐられても仕方のない広告であって、教育施設なのだから、とりわけ言葉を尽すべきであろう。そしてもし仮にクールビズが教育に「有害」だったとしても、ほかにもっと「有害」なことがこの世の中にたくさんある。それなのに何故ここでクールビズだけが標的になるのか、それも不可解である。
 広告に過剰な説明はむしろ宣伝に邪魔であることくらい、わたしにもわかる。しかし過激な広告を出したのだから、それだけにその理由を説明するのがふつうではなかろうか。繰り返すが、ここでわたしが問題にしたいのはあくまで校の説の是非でなく、①大きな広告なのに説明不足、②過激な内容なのに説明不足、③教育施設なのに説明不足、という不思議なアンバランスについてである。何か深淵な考えがあるのかどうなのかも窺うことすら許されず、いきなり戸をぴしゃりと閉められたような感じがした。これは昨今の生徒が「あの先公(先生)、ムカツクから」と一言で「説明」(?)を終わりにすることと同じである。
 何故「クールビズは子どもの教育に有害」か、その理由をくわしく拝聴してからでないと、その是非を考えることはできない。教育はあくまでコトバであると信じたい。犬養毅も「話せばわかる」と遺言したが、それも確かに「日本の歴史と伝統」のうちではないだろうか。

・「日本の歴史と伝統」とは さて、わたしはかくも聖人君子な××中学校の先生方とは正反対な性格で、恥ずかしいばかりの俗悪だから、何故男の頸にネクタイなる紐がぶら下がっておるのか常々疑問であった。
 ―ジタバタせずに女房に従容として差し出す首輪のつもりか、くちのまわりのケチャップを拭うハンカチの代用品のつもりか、将又(はたまた)酒席で鉢巻きにする紐か。偶然通りかかった百貨店のネクタイ売り場では必死に「ネクタイは男の唯一のおしゃれです」と連呼していた。そのような光景をみると、女性の服のおしゃれとくらべ、男性のネクタイの寂しさは隠すべくもないように思える。
 そこで、先の××中学校の「日本の歴史と伝統」でいえば、いっそのこと和服で会社や学校に通うというのはどうだろうか。とりわけ裃という着物がある。「遠山の金さん」が着ているあれである。幸いなことに我が家には江戸時代の先祖がつかったとされる裃が所蔵されているから、これを着てゆけば××中学校の先生にお褒めにあずかるかもしれない。ネクタイなんかよりよほどかっこいいだろう。べつに××中学校を揶揄しているわけではない。夏の銀行窓口の女性も浴衣で応対しているくらいだから突飛な考えつきでもない。むしろ和服出勤は新鮮で、外国人と応対するときも「samurai!」と案外相手から喜ばれることがあるかもしれない。
 「日本の歴史」専攻であるわたしの考える「日本の歴史と伝統」とは、××中学校の説のような意気盛んなものではなく、あくまでこのような軽い考えのものである。

(追記) 「クールビズは「部屋の温度を下げるかわりにノー・ネクタイにしましょう」という趣旨のものである。その効果のほどは疑問だが、環境問題の宣伝ということに一役買っているのは事実である」とかきましたが、そののちこんな記事。

クールビズ成果、東電で7000万kw時の電力減
 東京電力は8日、夏の軽装化運動「クールビズ」で、6~8月の販売電力量が計7000万キロ・ワット時減り、発電時などに発生する二酸化炭素(CO2)の排出を約2万7000トン削減できたと発表した。東電にとっては、7億円の減収になったが、地球環境に配慮する狙いで始まった軽装化運動が一応の成果を収めたことを裏付けた。……
(2005年9月8日19時44分  読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/news/20050908i412.htm

 無駄ではなかったのです。「環境問題には有益であった」わけです。(2005.9.9追記)

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