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2005/08/27

(江戸形成史)泥だらけだった江戸の町―江戸の街路と浅草砂―

・砂がひいてあった街路 江戸という都市は徳川家康が入府してから大規模な発展をとげます。最近中世史研究の側から「家康前の中世江戸もかなり栄えていたのではないか」という指摘がでてきました。けれども現在の東京のもとを形づくったのは、やはり江戸時代の徳川家といっていいでしょう。
 江戸時代初期、とりわけ17世紀中頃以前の江戸は史料が少なくて謎が多いのですが、たとえば江戸時代初期のころの江戸の街路は、どのように整備されて発展していったのでしょうか。
 まず三浦浄心「慶長見聞録 巻之五」 (『江戸叢書第二巻』(江戸叢書刊行会、1980 P137 正しい史料名は「見聞集」(けんもんしゅう)。幾つか活字本あり) 「土風に江戸町さはぐ事」をみてみましょう。

見しは昔、江戸たえず吹たり、されば龍吟ずれは雲をこり、虎うそぶけは風さはぐ、かゝるためしの候ひしに、江戸に土風吹は、町さはがしかりけり、……昔は江戸近邊神田の原より板橋迄見渡、竹木は一本もなく皆野らなりしが、いま江戸さかゆくまゝ、あたりの野原三里四方に家を作りふさぎ、海道には眞砂をしき、土のあきまなければ、土くじりはいづくをか吹からん、町しづかなり。

 江戸開府前の江戸は埋め立て地・ローム土壌であるためか、多くの土埃が舞っていたらしい。そこで「海道」には「眞砂」を敷いて土の空き間を無くしていったため、土埃は舞わず静かになっていったという。
 「眞砂」を敷くことについて、その砂はどのようなもので何を使ったのかなど詳細は不明ですが、当然街路を固めて舗装する目的だったのでしょう。だからわたしはひかくてき粒子の大きい砂利のようなものだったのではないかと想像します。水江漣子さんによれば、「慶長見聞集」における「いま」の時期は、寛永8年(1631)頃まで下るといいますから、この頃までには随分道が整備されていたかのようにも読めます。

・泥深かった江戸の街路 だから少なくとも寛永期までには全面的に何らかの舗装が行われていたことは事実でしょう。しかし同じ「慶長見聞集」には道のぬかるみが多かったはなしも出てきます。

見しは今、江戸町の道、雨少ふりぬれば、どろふかふして往来安からず、去程に、足駄のは(歯)の高きを皆人このめり、猩々は酒履を好み、江戸の人は沼履を好む、人・猩かはれ共、用る所は漢和ことならず、

 この史料によると、江戸の街路が泥深く往来しにくいため人々が歯の高い足駄を利用していたことがわかります。また泥水がはねたりして往来のトラブルにもなることもありました。新しい造成都市であった江戸はこういうところにマイナス面があったのです。
 近世初期における外国人ロドリコの見聞記によると、江戸の街路の美しさについてほめている箇所がありますから、「眞砂」は確かにあっただろうし、実際に整備されていたのかもしれません。しかし「眞砂」のある箇所はまだ完全ではなかったか、一部舗装が壊れていたか、何れかが想像されます。

・道路の舗装と「浅草砂」 『江戸町触集成』によれば、江戸時代初期の荒れた街路の舗装につかう砂として「浅草砂」というのが出てきます。正保5年(改元慶安元年、1648)町触から。

   御請申事
一、町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
一、下水并表之みぞ滞なき様ニ所々ニ而こみをさらへ上ケ可申候、下水江こみあくた少も入申間敷候、若こみあくた入候ハヽ可為曲事、
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 この町触2ヶ条はごみ対策と纏めることができますが、街路に関していえば1ヶ条目が注目されます。
 街路の舗装にごみが「使われた」というのは滑稽です。むろん深い考えあってのことでなく、ごみをもてあまして街路へ捨てたというのが実情でしょう。泥とゴミで余計にぬかるみをつくったことも想像されます。そこでここでは街路の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて「中高」につくことを命じています。ここでいう「中高」とは中央を高くして左右を低くすることでしょう(つまり蒲鉾の断面のような形になります)。これによって道の中央を乾かすのでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここでいう「浅草砂」とは、浅草で掘って採取された小さめの石で、砂利といってもいいようなものだったと思います。海砂は海辺でふつうに採取された、粒子の細かい砂のことだと思います。この町触を信じる限り、江戸時代初期の江戸の街路は、このような砂利と細かい粒子の砂で固められたのでしょう。

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コメント

高尾先生。ご無沙汰しております。

暑さにバテていませんか。かくいう私は、いま夏風邪をひいて咳がとまりません。

今日の史料はなかなかおもしろい内容でしたね。
実は、私は、戦国史のほかにも、「トイレからみた日本史」という講義をしています。
トイレや糞尿といった身近な問題から、都市の環境問題や農村部とのつながりを理解させようとはじめた講義なのですが、後期は、江戸時代からのスタートです。

幕府は江戸の町に対し、17世紀の中ごろまで、川端・河岸に雪隠を作るな、と繰り返し命じていますね。
江戸の前半、江戸の町は、道路は泥まみれ、河川は糞尿まみれと、相当汚かったのではないかと考えています。
ロドリコの感想も、あくまで糞尿まみれのヨーロッパと比較しての話でしょう。
高下駄も、泥だけではなく、糞尿よけだったのかもしれませんね(実際、餓鬼草子などには高下駄をはいて糞尿するるシーンがよく描かれています)。

ちなみにこの講義、内容にひかれてか、はじめた頃は600名以上もの学生が集まり抽選をしていました。
それでも300名以上も受講するため、学部指定に切り替え、さらに出欠を厳しくとって一定以上の日数に達しないと試験を受けさせない、厳しく採点するということを進めた結果、いまはなんとか200名ほどにおさまりました。
それでもほかにも講義がありますから、採点の時期は、一苦労です。
昨年は、それで腱鞘炎になりました。

投稿: 舘鼻 | 2005/08/28 00:18

 舘鼻先生(とはいえ、これから「先生」というのはやめにしましょう)お風邪のよし、お大事にしてください。そういえば、わたしもすこし前まで咳がとまらずに難渋しました。小生は幼少の頃より蒲柳の質で体がよわく、ことに気管支はデリケートです。夏の冷房は冬の木枯らしよりも恐ろしく、そのため夏の酷暑でも上着を持ち歩いています。
 たしかに、仰るように街路のごみは糞尿も交じっていたかもしれません。むろんあとになると都市と農村の間に糞尿によるエネルギー・リサイクルの関係ができ、金銭で糞尿が取引されるようになりました。しかしここでのはなしは、江戸周辺村々の未発達な時期、17世紀前半のはなしです。そのころにもリサイクルはあったかもしれませんが、どれだけしっかりとしたものだったか、ちょっとわかりません。
 それから、町触の文中に「海道」(街道)とあることにも注意すべきでしょうか。「海道」(街道)と「海道」(街道)からのびる「細い道」(?…何といっていいのかわかりませんがとりあえず〝生活道路〟でしょうか)とでは扱いが違った、という予想もありえます。「海道」(街道)の方は将軍や大名が通る儀礼空間にもなりますから、公儀でも美観には気をつかったでしょう。したがってロドリコが感嘆しているのは、もっぱら「海道」(街道)の方だったかもしれません。

投稿: 高尾 | 2005/08/28 11:57

高尾さん。わざわざ私のブログにまでおいでいただいたうえ書き込みまでしていただきありがとうございます(お返事書いておきました)。

海道と生活道路では、たしかに扱いは異なるでしょうね。
両者はきちんとわけて考えたほうがよさそうです。

それにしても江戸市中の海道でさえこの程度の整備なのですから、一般道の様相はどうだったのでしょうか。
やはり17世紀前半の江戸は、綺麗とは言いがたい状況だったようです。

ちなみに私は、前記の町触などの存在から、17世紀前半の江戸は、糞尿リサイクルシステムが未確立だったと考えています。
このことに関連してなにかおもしろい史料があれば、ご教示ください。

投稿: 舘鼻 | 2005/08/28 16:11

「一般道の様相はどうだったの」か、難しいのですが、公儀が比較的に気を遣っていたであろう海道(街道)ですら、さきの町触の文章にあるようなていたらくだったわけですから、あとは推して知るべし、というふうに考えてもいいのではないかと思います。いえるのはそのくらいでしょうか。ロドリコの感慨も、御説のように、「あくまで糞尿まみれのヨーロッパと比較しての話」という注釈が必要なのでしょう。ただ、史料があまりにも少ないので、くわしくは何ともいえないわけですが。これからちょっと気をつけて史料をながめてみることにしましょう。

投稿: 高尾 | 2005/08/28 20:56

江戸時代には、砂埃が着物や帯に付着することがよくあったのでしょうか。

投稿: 山田隆 | 2021/03/08 00:05

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