(騒動)大江戸クライシス
・大江戸クライシス 幕末維新期の江戸社会の大騒動といえば、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
ペリー来航でしょうか、それとも官軍が攻めてきた江戸開城前夜か、あるいは彰義隊の上野山戦争でしょうか。たしかにそれら何れも、上は武士から下は庶民まで上を下への大騒ぎでしたが、これらに勝るとも劣らない大事件がありました。
それは文久3年(1863)3月~4月にかけておきた「英国軍艦江戸湾来航事件」です。この事件は海外からの脅威によっておこった江戸っ子の避難騒動ですが、ペリー来航事件よりも規模の大きな騒動であったと思います。
この事件については特にきまった名称もなく、歴史研究者さえも事件の大きさのわりにはあまり注目していないように思います。たとえば『江戸東京年表』(小学館、1993)にもこの事件についての記述は全くありません。それでこの事件についての史料の誤読や事実関係の誤解が珍しいくらいに数多く散見されます。これは幕末維新史の研究にとってゆゆしき事態だと思っています。
しかし史料は豊富で錦絵・見立番付・落首などが多く出ています。そのことについての一端は『番付で読む江戸時代』(柏書房)所収の拙稿「幕末の激動と人びと」に披露しておきましたので、興味のあるかたはご覧ください。
・生麦事件 文久2年(1862)8月21日、神奈川近い生麦村で、薩摩藩「国父」島津久光の行列が、無礼のかどで通りかかったイギリス人1人を殺害、2人を負傷させるという事件が発生します。これが世にいう「生麦事件」です。薩摩藩にとっては、江戸で幕府に攘夷決行・幕政改革を決意させ、意気揚々の帰国途中でしたから、その勢い余っての事件だったといえます。薩摩藩の行列は幕府の制止にもかかわらず、そのまま東海道を進んでいきました。
この薩摩藩が蒔いていった不測の事件は大きな外交問題にまで発展し、文久3年(1863)2月、イギリスは多数の軍艦を横浜沖に結集させ、幕府に先の生麦事件に対する賠償を求めます。イギリスの態度は強硬で、もしも交渉決裂した場合、江戸や周辺の海岸で兵端が開かれることが予想されました。幕府は次々に防衛や治安維持のための町触を出し臨戦態勢をとりました。このために江戸町中は騒然となりました。
・記録 江戸神田雉子町の名主である斎藤月岑は、「武江年表」文久3年(1863)3月条の中で、このときの騒ぎを次のように述べています(『新訂武江年表』2巻<平凡社、1968>)。
「○三月初旬より横浜に於いて、異国の使船鎖港の御応接激切に及ばんの由、この事に就き閭巷の浮説により実否を弁ぜずして、去る丑年の如く、諸人慴怕のこゝろをいだき、耆嫗婦幼をして遠陬へ去らしめ、資材雑具は郊外の親戚知己の許へ預くるとて、これを運送しけるが、程なく騒屑の噂も止みければ、四月のころより各安堵して本処へ帰れり。此の間、尊卑の家に費す所の金額はいかばかりならむ。又棍賊侯白(ぬすびとかたり)時を得て掠奪せるも多かりしとぞ。此の節、船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)等の賃銭甚だ貴かりし。」(高尾が字を改変した箇所がある)
むつかしい言葉で書いてありますが、要するにこういうことです。このとき江戸やその周辺がパニックに陥ります。さすがに幕府も戦争を半ば覚悟したため、多くの人々が「慴怕のこゝろ」を抱いて江戸から「郊外」へ逃げ出す騒ぎになった。もちろんペリー来航時(「去る丑年の如く」)にも同じような騒ぎはありましたが、現場が江戸から遠い浦賀であるし、戦争目前というわけでもなかったから、この時ほどのパニックにはならなかったと思います。
ここで「耆嫗婦幼」とありますが、一家そろって郊外に逃げ出すことも多かったと思われます。もちろん「資材雑具」も江戸以外の親戚知己のもとへ預けます。その結果、労働者である「船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)」は、運賃が「賃銭甚だ貴」くなったので大もうけしました。普段は肩身の狭い思いをしている彼らですが、この時とばかりは大変な量の「資材雑具」をもつ江戸の富裕層の足下をみたのです。そのうち4月に入り幕府がイギリスに賠償金を支払うことで決着したため、やっと事態が沈静化、避難民は「安堵」して江戸へ帰ってゆきました。
この後に英国軍艦は薩摩にまわり、同じように薩摩藩と賠償金要求をします。そこでは幕府とは違い戦争となりました。これが世にいう「薩英戦争」です。結局幕府は戦争をしませんでしたが、薩摩藩は戦争をしました。このときの違いが幕末維新史の流れにおおきな影響を与えたことはいうまでもありません。
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