« (名前と人格)名前を変えるということ | トップページ | (戦後60年)〝凡下〟ということ »

2005/08/14

(大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」―

 ハッピーキャンパスというホームページがある。
 これは大学の授業に提出するレポートにつかうねたを紹介しあうホームページで、これをみたとき「なるほど」と唸った。これはいいアイデアじゃないか。大学ではよく友達同士でノートの貸し借りなどがあるが、ここではそれをもっと大きくして、大学をこえて学生間で知的相互扶助組織をつくろうという意図をもっている。キャッチフレーズはずばり「レポートの心配はもういらない」。大学生時分にレポート大好き人間であったわたしにいわせれば、レポート如きが何故人間の頭を苦しめるのか理解に苦しむけれど、世の大学生にとってはとても難物であるらしい。
 このホームページはどうやらポイント制をとっているらしい。ねたを紹介するとポイントをもらえ、そのポイントを消費することによって、ほかのひとが提供したねたを使うことができる、というもの。レポートを登録すると図書券がもらえるというキャンペーンも期限付きでやっている。わたしにはこんなホームページでどのように儲けを出すのかわからないが、ハッピーキャンパスとはよくいったものだ。いまの〝大学=遊園地化〟論とうまく平仄(ひょうそく)があっていて何となく可笑しい。なるほど遊園地たるキャンパス・ライフにとって、後顧の憂いはレポートで、レポートをさっさと片付けて完全に「ハッピー」になりたいということだろう。そのうえ大学入学まえの偏差値ゲームでは、如何に少ない労力で効率的な学習効果が得られるかが重要だが、その発想の延長線上にこそハッピーキャンパスがある。
 ただ大学の先生が眉をひそめそうなホームページではある。実際に苦情のメールを出す先生もいるらしく、わたしもその気持ちがわからないではない。しかしその苦情の理屈をたてるのは難しい。その難しさを以下具体的に言葉にしてみたい。 

 ちなみにわたしの非常勤講師としての授業では、このハッピーキャンパスは糞の役にもたたない。そもそもわたしの課すレポートは授業に出ないとわからないし、何処かのホームページから剽窃することもできない。だからわたしの授業をうける学生にとってハッピーキャンパスなんかあってもなくてもどちらでもいいシロモノである。要は学生が容易につくれるようなレポート論題を出題しなければよいだけのはなしではないだろうか。
 しかし依然として大学の授業には安易なレポート論題がたくさんあるから、インターネット画面でコピー・アンド・ペースト(所謂「コピペ」)してレポートおわり、ということも可能であって、だからハッピーキャンパスにもそれなりの需要がある。それに、このハッピーキャンパスをもちだすまえに、わたしのブログだって大学生のレポートねたの喰い物にされていないとも限らない(アクセス解析記録にはそれとおぼしき検索ワードがある)。ハッピーキャンパスがあろうがなかろうが、インターネットで検索すればレポートのねたくらいはいくらでもみつけることができる。そのくらいの狡賢い知恵は昨今の大学生諸君ならもっているにちがいない。問題はそんな状況に対して大学の先生がどう対応するかではないかと思う。

 そもそもの問題の根本は大学の授業の無気力にある。
 無気力は大学の先生・学生の両方にある。学生は平気で授業中に私語をしていて怠学のムードが蔓延っているし、先生のほうもそれにたいして無関心な方々が多い。これについては大学関係者ならずとも誰でも知っていて、周知の事実と化しているが、この無気力さはいったい何処からきているのか。……結局ここには、「自分の研究をやらせてくれよ」という大学の先生側と、「怠けさせてくれ」という大学の学生との、きわどい暗黙の了解、もっというなれば暗黙の共謀関係が成立しているのではないだろうか。このようなレポートねた紹介業はその両者の間隙に偶々現れたに過ぎず、いまの大学の問題にたいする強烈なアイロニー(皮肉)、あるいはブラック・ユーモアに思えてならない(もっともハッピーキャンパスの作成者がそこまで考えているかどうかはしらない)。この両者のうち、どちらかといえば教育者の立場である先生の責任は重いのではなかろうか。
 ハッピーキャンパスを非難するまえに、そういった大学の根っこにある問題そのものからじっくり考え直さねばならない。でないと目の前の「大学全入時代」に大学という業界自体が生き残ってゆけないだろう。このハッピーキャンパスの出現によって、大学生側の問題というよりもむしろ、大学側の問題を垣間みたような思いがする。

 ところでハッピーキャンパスの画面をよくみてみよう。意外なことにこのハッピーキャンパスにはなかなか殊勝な面もあって、当を得た指摘も多いことは見逃せない。たとえば「レポート作成法」というPDFファイルがあってA4で5枚の長文にわたるものである。その一部にはこういう文章がある。

1)誠実性 まず誠実性について考えてみると、[誠実]という言葉は[一所懸命]という言葉と相通するといえます。つまり先生たちが期待するのは該当課題に対し一所懸命に調査して勉強することです。誠実性に高い評価をおくレポートの課題は[~について調査]が多いです。先生の方はすでに知っている内容で学生たちにそれを直接調査するようにすることで学生たちが情報を収集して整理し、分析する力を育つため(原文ママ)のことです。
(中略)
2)独自性 次は独自性に対して考えて見ましょう。すでに述べたように先生たちは当該分野の専門家です。したがって当該分野の専攻書籍及び関連資料をずっと読んできたのでもう出されたものと変わりないもののレポートを読み興味を引き出すことはできません。また新鮮感をもたらせない資料を読むということは100回以上も同じ映画を見ることと違いありません。すなわち先生たちは学生の考え方が知りたいこと(原文ママ)であり、今まで出された数え切れないほどの既存の知識を繰り返したいわけではありません。

 文意のとりずらいところはあるものの、概ねこれらのいっていることに間違いはない。たしかに「レポートの心配はもういらない」というキャッチ・フーズからは一見いやな印象をうけるが、しかしながらよくよく内容を読んでみると、ちゃんとレポート作成の自助努力や作法を教えている部分もある。特に「一番良くないレポートはあっちこっちでコピーしてそのまま張り付けただけのもの」という一文さえもある。ただし利用者が実際どう利用するかは別問題であって、これがみそかもしれない。しかしハッピーキャンパスにはこのような主張があることもここで確認しておきたい。
 それにしてもこれらレポート作成の基本は、ほんらい大学の先生が教えるべき仕事ではないのか。もし大学の先生がこの種のことを教えていないのであれば、ハッピーキャンパスの是非論よりもむしろ、「大学の先生方がもっとしっかりしなさいよ」ということになりはしないだろうか。むろん非常勤講師たる自分も肝に銘じたい。何れにせよ大学はもっと変わらなければならない。

| |

« (名前と人格)名前を変えるということ | トップページ | (戦後60年)〝凡下〟ということ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: (大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」―:

» [一般]丸写しレポートとの戦い [ARTIFACT@ハテナ系]
アクセスログから知った記事。 大学教員の日常・非日常:レポート丸うつしを見破る方法 http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/30818023.html 「フォント等、書式が変わる」ってのはワープロ特有の現象かー。アンダーラインが入る理由もよくわかった(笑)。 他の関連記事も面白い。 大学教員の日常・非日常:丸うつしレポート http://blog.livedoor.jp/yahata127/archives/14773942.html 大量のレポートがあ... [続きを読む]

受信: 2005/08/31 03:23

« (名前と人格)名前を変えるということ | トップページ | (戦後60年)〝凡下〟ということ »