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2005/08/30

(江戸形成史)「浅草砂」とは何か

・「浅草砂」とは? 江戸考古学の研究者にお会いすると、きまってお訊ねすることがあります。

―「浅草砂」ってご存じですか?

 という質問です。ご存じの方はありません。管見の限り江戸考古学の文献にもその名がみえません。わたし自身もつい最近気になったことで、江戸考古学に怠慢の罪があるわけではありません。ところが江戸時代初期の江戸の史料に、「浅草砂」という砂が頻繁に出てきます。
 たとえば、江戸時代初期の正保5年(改元慶安元年、1648)江戸町触にはこう出てきます。

  御請申事
町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
(略)
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 ここでは海道(街道)の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて中高につくことを命じています。「中高」とは中央を高くして左右を低くすることで(つまり蒲鉾の断面のような形になる)、道の中央を乾かすためでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここ以外にも当時の道普請関係の史料に幾度か「浅草砂」が出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。そしてこの〝「浅草砂」に「海砂」をまぜる〟とはどういうことなのでしょうか。

・「浅草砂」は砂利、「海砂」はただの粒子の細かい砂 「浅草砂」は土地の名前が付いていることからもわかるように、何処でも採れるような砂ではないようです。それでは浅草はどのような土壌なのでしょうか。
 江戸時代初期の随筆の「慶長見聞集 巻之九」 (『江戸叢書第二巻』江戸叢書刊行会、1980 P245) 「武蔵と下総國さかひの事」には、浅草特有の土壌について述べている箇所があります。

見しは今、角田川(隅田川)は武蔵と下総のさかひをながれぬ、されば河なかばよりこなた(武蔵側つまり江戸側)には石有、あなた(下総側)はみなぬまなり、爰に浅草の者云けるは、下総の國に石なき事を、浅草の童部共あなどり笑て、五月になればゐんし(印地、石合戦のこと)せんとて、舟に石をひろひ入、河向ひに見えたる牛島の里の汀へ舟をさしよせ、牛島のわらは共をつぶてにて討勝て、利口を云いて年々笑ふ、 (括弧内は高尾の補注)

 武蔵国浅草は石がたくさんあり、ひとつ川向こうの下総国は沼沢地であまり石がない。浅草の童らは自分の地に石が多いことで、下総国牛島の童らに対して石合戦(印地)で有利になる。これに対して著者三浦浄心は「かくのごとくの國境を如何成かよくしりて分けれたる事の不思議さよ」という感想を述べています。『台東区史』には「浅草砂」についての記述はありませんが、浅草一帯の石の多さについての記述はあります。ちかくに「待乳山」という山がありますが、私見ではほんらい「真土山」だったのでしょう。「真土」、つまりその山だけは石がなくて「真土」だったというわけです。
 また喜多村信節「嬉遊笑覧」 (『日本随筆大成』別巻「嬉遊笑覧1」、吉川弘文館、1979 p47) では「浅草砂」のことを「浅草砂利」といっています。

浅草砂利 むかし江戸にては地突に用る砂利は浅草の産を用ゆ 「正保五年日記」子の二月廿一日町触に、町中海道悪敷所へ浅草砂に海砂まぜ、高低なき様に築可申候、ごみ泥にて築申間敷事。又寛文三年卯四月十日町触に、今度日光へ神田橋より本郷通を被為成候云々海道悪敷所は浅草砂にて中高に一両日中急度築立可申事など多数見えたり。浅草には今に砂利場と云処あり、また古へは隅田川の辺をすべて石浜といへり、今もこのあたりの土中に小石多し

 ここでは「浅草砂」=砂利であって、「むかし江戸」で地突に用いる砂利は浅草産のものを用いたとあります。一般的に「砂」という語の範疇には砂利も含みます。だから「浅草砂」は粒子の大きい「砂」、つまり砂利だったと理解していいでしょう。
 それに対して「浅草砂」に混ぜる「海砂」とは何でしょう。「海砂」という言葉は一般的に粒子の大きい海砂利も含みますが、砂利に砂利を混ぜるようなことはないため、この場合は微細な粒=砂であったと理解すべきでしょう。単に「海砂」とあるから、砂浜ならばどこでも採れるふつうの砂をさしたと思われます。
 以上をまとめると先の正保5年(改元慶安元年、1648)町触の文章は、

 道を砂利+砂で築き固めよ

 という意味に解釈できます。

・砂利と砂を混ぜる意味 この砂利と砂とを混ぜる工法はむかしからふつうにあるもので珍しいものではありません。その参考に大手建築会社某社技術企画センター企画部から頂いたご回答をもとにしてわたしの文責でその理由をまとめます。

(1)砂利道とは……砂利とか砂を道路の土(路床といいます)の上に撒いて固めた層を路盤とか路盤工と言い、このような道路は砂利道と呼ばれおります、現在でもよく見かける道路構造です。 日本では都市の一部を除いては、モータリゼーションが発達する以前の昭和20年代までは砂利道が主流でした。
(2)砂利と砂……現在では砂利・砂は大きな石を砕いて作られた道路用砕石砂利(粒の大きさが5mm~40mm程度) と砕石砂(粒の大きさが5mm以下)を混ぜて道路用砕石が用いられています。日本でも上記(1)で説明した時代までは、海とか川より採取した丸みのある天然砂利、天然砂が主流として使われていました。(今でもコンクリートに使うケースは多い)
(3)砂利と砂を混ぜる効果……砂利と砂を混ぜるのは(1)で説明した路盤の安定と強度を確保する為です。砂利のみを使用したのでは、砂利と砂利の間の隙間が多く路盤が安定しません。この砂利と砂利の間の隙間に粒の小さい砂が入り込み隙間の無い路盤を造る事によって路盤の安定と強度を確保することが可能となります。現在では道路用の砕石は事前に砂利と砂を理想的に配合(ブレンド)した材料が一般的に用いられています。

 粒子の大きさの違う砂で土地を築く理由は、粒度分布のいい砂、つまりまちまちな粒の砂をつかうとよく地面が締まるからです。たとえば箱にパチンコ玉ばかりを敷き詰めた場合指で押せば容易にへこみますが、それは玉と玉の間に隙間があるからです。その隙間をさらに小さな粒で埋めれば安定します。それと理屈は同じです。また海砂を使うのは水はけをよくするためでしょう。泥を使うと粒子が細かすぎて排水を妨げてぬかるみをつくるので不都合なのです。

・浅草の「砂利場」 先の喜多村の「嬉遊笑覧」にみえる通り、浅草には「砂利場」という里俗町名が何箇所かあって、切絵図などにもその名がみえます。「御府内備考」「浅草志」 (三田村鳶魚『未刊随筆百種』第2巻、中央公論社、1976) などの諸書にもあります。特に「浅草志」が記された当時(近世後期か)でも「元砂利場にて今も下を掘に砂利多く出るよし」(同書)とあります。
 それらは何れも江戸城修理に使う砂利をボーリング採取した所で、使われた後は埋め戻されています。その後何れも町場化して「砂利場」という里俗名だけが残りました。ちなみに浅草以外にも「砂利場」はあります。
 あたらしい都市江戸の造成に浅草の砂利が活躍したものと思われます。都市造成の基礎条件みたいなものに目をむける必要があるのではないかと感じます。

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