« (騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談― | トップページ | (大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」― »

2005/08/11

(名前と人格)名前を変えるということ

 インターネットでは実名・仮名の論議が盛んですが、そもそも名前を変えるとはどんな意味があるのでしょう。
 大入りだった宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』では、「千尋」という女の子が「千」というなまえにかわったとたん「千尋」だったころの記憶をなくしてしまう、という場面がありました。これは日本人の命名観をよく反映した興味深い場面です。
 日本人はむかし名前を変えるという風習をもっていました。商家に奉公した場合名前を変えることがあります。仕事場には自由な日常と一線を画す別人格があるという理解でしょう。そして主人から〝命名〟されれば、文字通り命が与えられて主人の支配下に入るという意味もあるでしょう(もっともほんらい「命名」の「命」とは戸籍のことをさします)。
 いっぽうひとりの人生にも人格の変化があります。幼年のころと壮年のころと老年のころでは人格の雰囲気が違います。したがって、幼いころには幼名を、元服や家督を継げばその名前を、隠居したら隠居名を名乗る場合もあります。それだけ人生の節目を意識したということでしょう。それからすれば、佐原村村役人伊能三郎右衛門忠敬のように、隠居してからあたらしい人生をあゆみだすひとがいることもおおいに頷けます。彼の隠居名を「勘解由」といいますが、「三郎右衛門」には「三郎右衛門」の、「勘解由」には「勘解由」の人生が待っていたわけです。
 
 江戸時代の戯作者や現代の作家でも同じです。
 武士で偉そうに「秋田藩江戸留守居役平沢常富」と名乗っていたとしても、ある一面では「朋誠堂喜三二」と名乗って戯作を書いているということもある。四角四面の世の中でまじめくさって藩に仕える身でも家に帰ればくだけた一面がある。「産経新聞記者福田定一」と「作家司馬遼太郎」のあいだも大きい。このような変身をとげるにはやはり名前を変えねばならない。
 勿論本名で書くには憚りがあるということもあるでしょうが、人格を変えようというメンタリティの側面も無視はできません。

 ブログ上で名前を変えることもこれとよく似ています。インターネット上の仮名で所謂「ハンドル・ネーム」とよばれるものです。
 たとえばわたしが仮に「コモンジョクン」というハンドル・ネームで文章を書いたとしても、読むひとによっては書いてある内容から推測して「コモンジョクン」=「高尾某」だとわかることもあるかもしれない。しかし世の中のひとは心得たもので、よほど問題発言や過激発言をしない限り、いちおう「コモンジョクン」と「高尾某」とは別人格と解釈され、「コモンジョクン」としてのインターネットでの〝おふざけ発言〟はとりあえず大目にみられる場合が多いようです(もっとも実際わたしは実名で書いていますがそのてんでどうのかよくわかりません)。
 ハンドル・ネームを使う意義には、身元がばれるかどうかは別として一応「<浮き世のわたし>とは別人格ですよ」という何気ない主張をすることができる、ということもあるのではないでしょうか。

 であるにしてもやはり発言に気をつけなければなりません。
 ハンドル・ネームだからといってもすまされない場合もある。インターネット社会においては、政治家などの言論人以外の一般市民であってもちょっと気がゆるめば大変なことになりかねない。政治家の軽々とした発言を揶揄するわたし自身、たくさんの発言の機会を与えられればそれなりにヒヤリとする発言をしてしまうことだってないことはありません。
 ところでわたしたちの日本社会には、一言でいって、〝内側〟にむかって「正義」(クサイ言葉です)が閉じこもる、という特徴があります。自分の所属する社会、たとえば自分の大学・自分の会社・自分の部署に近ければ近いほど、自分にとっての「正義」になってゆき、遠ざかれば遠ざかるほどその「正義」から遠ざかる。たとえば電車の中で或る人と口論になる。知らないひとだからこそ高飛車になれる。しかし相手が自分の会社の上司のお婿さんだとわかれば急に卑しいほどに低姿勢になる。現在の道路公団談合事件がおこった原因も実はこれと同じ理屈であって、自分の会社の「正義」と法律の「正義」とは別物である。つまりは社会人類学者中根千枝さん『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)にあるような社会のことです。インターネットにおけるハンドル・ネームもこの日本人社会の息苦しさをガス抜きするような役割を果たしているのかもしれません。匿名で野放図な発言をすればいろいろな日本的共同体社会から解き放たれて、自分が巨人にでもなったようなおおきい気分がするのかもしれません。むろんそれはそれで結構なことだけれども(しかしチンケだなあ)繰り返すようですがやりすぎはよくない。ハンドル・ネームだからといって安心することなかれ。あまり調子にのっていると今後「別人格だから」という言い訳が通用しないような雰囲気がつくられるかもしれません。
 ハンドル・ネームの方々に老婆心ながら一言。

|

« (騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談― | トップページ | (大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」― »

コメント

大変ご無沙汰しております、HNギエぽんこと柳衛悠平です。今回の記事に関して、成る程と思う点がありましたので、久々に書き込みをさせて頂きます。
名前と社会との関係について。僕は詳しくないのですが、現在も芸能人の方の「芸名」やホストの方などがつけている「源氏名」についても、今回高尾さんが提示された事例と同じ系譜で捉えられるのではないか、と考てみたり…。妄言を連ねれば、網野喜彦のいう世俗の論理とは離れた「無縁」の世界なんかがそうした源泉として想起されるのですが…いや、多分違いますね(笑)
HNについて。最初に成る程、と思いました。変な事例で恐縮ですが、最近読んだ漫画のなかで、普段は大人しく他人と上手くコミュニケーションがとれない女の子が、携帯のメール上で毒づいている、という話を思い出しました。顔が見えていない電子の世界ではあっても、基本はヒトとヒトですから僕自身も(自身のブログで「毒づく」と名言していても)最低限のモラルは守らなければいけない、と自省を促されました。
また、HNや所謂「名無し」で毒づく人が多いことの背景には、「僕がボクであること」に対する難しさがあるのではないか、と考えています。僕なんかは、先輩からすれば「空気を読まずに」好き勝手ギャアギャア喚いていますが、普通は属する社会が複数である以上、TPOに応じて様々な態度を取らざるを得ません。周囲に合わせよう、と努力するあまり、いつのまにか「アレ、ボクはどういうニンゲンだっけ?」となってしまうのかもしれません。気が付いたらコアが無くなっている…想像するだけで怖い事態です。
長々と駄文にて失礼致します。

投稿: ギエぽん | 2005/08/13 20:46

…網野さんの名前が違っている…(滝汗)

投稿: ギエぽん | 2005/08/13 20:50

柳衛くんお久しぶりです。なるほど網野善彦さんの無縁論に繋がるのでしょうかね。網野さんの厖大な議論のなかでそんなことが書いたあったような書いてなかったような…ちょっと記憶が定かじゃありませんが、網野さんの言いそうなことではあります。何れにせよおもしろい考えです。
それと、ご指摘の、「『僕がボクであること』に対する難しさ」、これは現代社会論ですが、それはあるでしょうね。癒しブームといいますが、疲れているひとが多いのでしょうか。

投稿: 高尾 | 2005/08/13 21:02

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/56058/5403600

この記事へのトラックバック一覧です: (名前と人格)名前を変えるということ:

« (騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談― | トップページ | (大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」― »