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2005/08/23

(江戸時代後期、むらの記録⑤)江戸時代の百姓は商売上手?―むらの豊かな生活ぶり―

・百姓という言葉の意味 現在では百姓といえば農家のことをさしています。これはあたり前のことです。
 しかし「百姓」という言葉の本来の意味は、「あまた(「百」)の姓をもった人びと」であって、「一般人民」以上の意味はない筈です。したがって百姓の中には、〝農家〟ばかりでなく〝商家〟なども交じっていていい、ということになります。
 この考え方を敷延してみましょう。江戸時代の村の空間には百姓身分のひとが住んでいます。この百姓の中には、社会的実態にそくしていえば、〝武士〟であるひともいれば、〝農家〟であるひともいれば、〝商家〟であるひともいます。村長である名主(庄屋などともいいます)さんの家々には、中世に遡れば武士の系譜をもつ家々も少なくなく、なかには堀をめぐらした城館のような邸宅に住んでいる家もあります。それでも身分は百姓です。新撰組の土方歳三の生家もそのような家のひとつで、遡れば後北条家の武士であり、土方家代々は武士のような邸宅に住み、武士のような名乗りをなのっています。
 そのほか耕している石高がわずかしかなくても、おおきなお金を動かして商売をしている家もあります。このような家は〝農家〟というより〝商家〟というべきですが、それでも身分は百姓です。

・農間渡世の多彩さ それでは江戸時代後期、村にすむ百姓にはどのくらいの〝商家〟が交じっていたのでしょうか。
 百姓で商売をやっていることを「農間渡世」といいます。「農間渡世」とは農業の間で商売をやっているという意味ですが、しかし事実上、商売が主で農業が従であることも多いようです。天保14年(1843)に武蔵国入間郡赤尾村が領主川越藩に提出した農間渡世書上のデータが残っています。以下にそれをみてみましょう。

・天保14年(1843)武蔵国入間郡赤尾村農間渡世表 人名・石高(単位、石)・品物(原文ママ)・品数

善次郎 06.080 線香 抹香 草履 草鞋 菓子 多葉粉 紙類 青物 手拭 砂糖 下駄 足駄 傘類 竹縄 瀬戸物 枡酒 醤油 くつこ 塩 水油 元結 油 柄子類 鰹節 ほくち 羅越沙 扇子類 切昆布 染草類 付木 とうしみ 墨 筆 蝋燭 縫針 針金 足袋 盆用物 (38品)
長造 06.380 豆腐 線香 抹香 草履 菓子 多葉粉 青物 手拭 砂糖 紙 下駄 足駄 笠類 竹縄 枡酒 醤油 くつこ 柄子類 元結 油 ほくち 羅越沙 鰹節 切昆布 付木 染草類 とうしみ 墨 筆 蝋燭 扇子類 足袋 盆用物 (34品)
文造 09.230 枡酒 塩 醤油 菓子 多葉粉 ぞうり 草鞋 元結 油 紙 蝋燭 線香 抹香 砂糖 付け木 売薬類 葬式道具 釘 素麺 墨 筆 (21品)
弥曽吉 05.740 小麦粉取替 紙類 多葉粉 菓子 蝋燭 ぞうり 草鞋 元結 油 付木 線香 ほくち (12品)
磯吉 14.800 飴 菓子 砂糖 するめ こんにゃく 青物 とくさ 羅越沙 蝋燭 線香 付木 紙類 (12品) (出商い)
林八 02.410 するめ こんちゃく 飴 菓子 餅 団子 冷麦 酒 青物類 (9品)(出商い)
民造後家 02.220 枡酒 紙 多葉粉 蝋燭 草履 草鞋 菓子 (7品)
清助 02.720 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
庄吉 00.880 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
藤吉 10.120 濁酒 紙 多葉粉 白米 (4品)
徳右衛門 10.820 釘 多葉粉 針金 豆腐 (4品)
忠次郎 00.550 酒 飯 麺類 (3品) (出商い)
浅吉 00.050 団子 飴 くわし (3品) (出商い)
甚右衛門 48.600 油〆 塩 水油 (3品)
留吉 01.150 菓子 青物類 (2品) (出商い)
喜四郎 01.170 紙屑 古鉄 (2品)
藤左衛門 03.270 塩 水油 (2品)
鷲造 00.970 青物 (1品) (出商い)
久八 09.770 枡酒 (1品)
茂七 05.960 油揚げ (1品)
三之丞 00.550 油揚げ (1品)
浅次 01.410 油揚げ (1品)
庄兵衛 05.870 多葉粉 (1品)
与兵衛 13.480 小麦取替 (1品)
戸右衛門 19.380 小麦取替 (1品)
仙太郎 17.720 木綿 (1品)
豊吉 20.420 馬 (1品)
新六 00.920 金魚 (1品)
勝次郎 13.390 染物類 (1品)
寿五郎 03.540 小間物 (1品)
やす 02.460 小間物 (1品)
縫吉 00.550 小間物 (1品)
金右衛門 17.080 枡酒 (1品)
ゆふ 00.970 髪結
なを 00.420 髪結
総計36軒
※出商いという注記のある家は村のそとへ出稼する家。

 赤尾村の総軒数は約150軒ですから、この総計36軒という数字は総軒数に対して約24%という数字です。これは領主に報告された分のみなので、あるいはもっと多く存在した可能性もあります。石高でみると10石以下の階層が多く1石未満の階層もみられます。全体としては5石以下の零細農が多い(零細農といっても「貧乏」という意味ではありません)。石高と取り扱い品目との比例関係は特にみられません。
 取り扱い品目でみてみましょう。一番多いのは善次郎 (石高6.080)で38品目を数えます。また取り扱い品目の種類は家によって偏りがあって、たとえば林八(石高 02.410)は飲食品目ばかりだから飲食業者でしょうし、忠次郎(石高00.550)も酒・飯・麺類でこれも同じく飲食業者です。また喜四郎(石高01.170)は紙屑・古鉄だからリサイクル業者でしょう。出商いの家も多いことが注目されます。おそらくほかの村々・城下町などに動いて利益を得ていたのでしょう。
 以上の史料でみえる品目(髪結も1品と数えた)は全てで 186品目です。品種の数の多い順に並べてみると(カッコの中は品目数)、

多葉粉(10)・紙類(9)・菓子(8)・草履(7)・草鞋(6)・青物(6)・枡酒(6)・蝋燭(6)・線香(5)・付木(5)・砂糖(5)・塩(4)・元結(4)・油(4)・団子(4)・ほくち(3)・羅越沙(3)・水油(3)・醤油(3)・油揚(3)・飴(3)・小麦粉取替(3)・餅(3)・墨(3)・筆(3)・小間物(3)・抹香(3)・酒(2)・髪結(2)・こんにゃく(2)・するめ(2)・くつこ(2)・下駄(2)・足駄(2)・傘類(2)・竹縄(2)・針金(2)・足袋(2)・盆用物(2)・豆腐(2)・扇子類(2)・切昆布(2)・染草類(2)・手拭(2)・釘(2)・とうしみ(2)・柄子類(2)・鰹節(2)・素麺(1)・くわし(1)・飯(1)・染物類(1)・白米(1)・木綿(1)・濁酒(1)・油〆(1)・とくさ(1)・古鉄(1)・紙屑(1)・葬式道具(1)・売薬類(1)・縫針(1)・冷麦(1)・馬(1)・麺類(1)・金魚(1)・瀬戸物(1)

 となります。比較的品目数の多いものは日常生活での必要不可欠な道具(草履・草鞋・蝋燭・紙類など)や安価な馴染み深い嗜好品(多葉粉・菓子など)です。
 むらの豊かな生活ぶりがここからうかがえます。

・民造後家のお酒の仕入値、3年間で52両・銭136貫! では一体彼らの商業はどのくらいの規模だったのでしょうか。すべてのひとについてのデータはありませんが、すこしだけそれをうかがい知ることのできる史料があります。
 赤尾村は酒商売人の仕入金高も領主川越藩に報告しています(弘化2年「御用向書付留帳」、林家文書191)。天保12年(1841)・天保13年(1842)・天保14年(1843)3年間にわたる酒の仕入金に関するものでした。その中の民造後家(持高2石2斗2升)は、3年間の酒仕入金として、金52両と銭 136貫も消費しています(銭7000文(7貫文)=金1両)。彼女は石高からみれば2石余りと随分零細であるにも関わらず、その反面商業経営は小さいものではありませんでした。彼女は升酒のほかに6品目を扱っていますから、家全体としての総仕入値はもっと多かったに違いありません。
 どうでしょう。みなさんのむらのイメージは変わりましたか?

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コメント

> どうでしょう。みなさんのむらのイメージは変わりましたか?

 的をはずした反応なのかもしれませんが、現代の都市近郊の農村と同じじゃないかというような判断は間違っているのでしょうか?
 つまり、結果として同じように見えるけれど成立の過程が違うんだとか...。

投稿: 傘屋 | 2005/08/27 14:14

 村のマチといっても、いろいろあるでしょうが、少なくとも江戸周辺の村々と今回例として出した村(赤尾村)とでは、地理的状況と時期的状況の2つの面で、経済事情がずいぶん異なっているのではないかと思います。
 たとえば、江戸周辺の村々でいえば、ずいぶんはやく、18世紀頃から町場化しているところもあるようですね。日常的に其処の百姓が江戸に商売に出向き、村の景観も江戸に出入りするひとを目当てにしてか、江戸同様に道沿いに見世を出しています。其処はほとんど「江戸」といっても差し支えありません。
 いっぽう文章中に例として出した川越藩領赤尾村の場合は、とおくに川越城下がありますけれども、川越城下から連続的に伸びてきた「川越」の内ではありません。供給はどうなっていたかはわかりませんが、需要はまちがいなく川越城下ではなくて其処の村々自体によるものが大であったと思います。また農間渡世者が24%を占めるようになったのは、はやくても文化文政期以降、つまり江戸時代も後期になってからで、ずいぶんおそくになってからだと思います。
 ただ、冒頭「いろいろ」といったうち、在郷町(もともと町場化している村)という形態の村もあったり、また宿場町近くではやくから繁華な村々もあったでしょう。それから、ものが動きやすい海辺(漁村)や、おおきな寺を中心とする門前町(村)は、はやくから村の中にマチを抱え込んでいたのではないかと思います。百姓というと自給自足のイメージがありますが、そういうものでもありません。そのくわしくは網野善彦『日本の歴史を読み直す』(ちくま文庫、最近文庫化されました)をご参照ください。

投稿: 高尾 | 2005/08/27 20:55

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