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2005/08/08

(騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談―

・『福翁自伝』の「英国軍艦江戸湾来航事件」 いまの世の中地震続きで心配です。そろそろ拙宅のある関東も危ないというので心配です。
 文久3年(1863)春も、江戸は歴史上稀有なクライシスにさらされていました。英国軍艦が横浜沖に集まり、江戸の幕府と戦争をするかもしれないという緊迫した状況があったからです。「英国軍艦江戸湾来航事件」です。このとき江戸は一触即発の戦争勃発の危機にあって、江戸っ子によるおおきな避難騒動がおきました。結局戦争はおきませんでしたが、江戸の人びとがこのときに経験した恐怖はなみなみならぬものがあったようです。
 ことの原因は前年(文久2年)におこった生麦事件です。これは東海道神奈川宿ちかくの生麦という在所で、薩摩藩の行列が英国人たちを殺害・傷害した事件です。それに対して英国は幕府にたいして賠償金要求に出てきました。むろん要求といっても、ふつうにやっては話はまとまりませんから、横浜沖の軍艦という武力を背景に交渉したわけです。アヘン戦争で中国を屈服させた英国ですから、このくらいはお手のものです。それに対して日本の江戸幕府はやはり戸惑うばかりで、会議をしても小田原評定、なかなか結論がでません。そのうち幕府も半ば戦争を覚悟したようです。
 福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂福翁自伝』(岩波文庫)に、福沢諭吉の目からみた「英国軍艦来航事件」が記されています。ちょっと長い引用ですが煩を厭わずご紹介することにしましょう。

それから攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御進発として長州征伐に出掛けるというようなことになって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親をもって交わろうと思うてこれまでも有らん限り柔らかな手段ばかりを執っていた、然るに日本の国民が乱暴をして、あまっさえ人を殺した、如何にしてもその責は日本政府にあって免るべからざる罪であるから、こののち二十日を期して決答せよという次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、なお二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕って眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。……そうするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、ところがもう二十日待ってくれろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやらこうやら待ってもらうことになった。ところでいよいよ償金を払うか払わないかという幕府の評議がなかなか決しない。その時の騒動というものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判、……これはいよいよやるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時までも説が決しない。事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私のところに疵の付いた箪笥がある。いよいよ荷物を片付けようというので箪笥を細引で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣はないからというので、青山の穏田という所に呉黄石という芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私はかねて知っているから、呉の所に行って、どうか暫くここに立退場を頼むと相談もととのい、いよいよ青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。これは今明日の中にいよいよ事は始まると覚悟をきめた。その前に幕府から布令が出てある。いよいよ兵端を開く時には、浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを合図に用意致せという市中に布令が出た。江戸ッ子の口は悪いもので「瓢箪 兵端 の開け初めは冷 火矢 でやる」と川柳があったが、これでも時の事情はわかる。……それからまた可笑しいことがある。私の考えに、これは何でも戦争になるに違いないから、マア米でも買おうと思って、出入の米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋に入れて置いた。ところが期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると言ったところが、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負って駈けることも出来なかろう。これは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜いと言ったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、

 このとき福沢は幕府で翻訳の仕事をしていましたから内部事情がよくわかります。福沢は「事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズ」と幕府内部の無責任体質を浮き彫りにしています。また福沢は戦争のときのために米や味噌を蓄えていましたが、むしろ逃げるときはそれらは不必要だと、苦々しげに書いていておもしろい。
 このときは福沢だけではなく、江戸っ子が大勢「われ先に」と避難してゆきました。その結果草鞋や大八車の運賃なども高騰します。江戸の避難民の記事は驚くべきことに、とおく北関東の村々の日記中にも散見されます。しかし結局幕府は賠償金を支払うこととなり、戦争の危機はなくなったのでした。

・戦争になったとき何処へ逃げるか 『番付で読む江戸時代』(柏書房)の拙稿では、この事件に関する見立番付をすべて読み込んで分析してみました。
 わたしの調べでは、いざ戦争となった場合、大砲玉の飛んできそうな横浜や品川・芝周辺の江戸南部・江戸内湾海岸沿いが危ない、という風評だったようです。見立番付を集めてみますと「横浜の町人」「芝品川の物もち」「海辺の物持」「海辺の四民」「江戸南方四民」などとあります。とりわけお金持ちはまず逃げ出さなければなりません。家財道具などが多かったからです。福沢でさえ米・味噌で難渋するくらいですから、彼らはとても大騒ぎだったことでしょう。
 逃げるといっても何処へ逃げたのでしょう。さきの『福翁自伝』によると、福沢は青山に逃げるつもりだったようですが、見立番付では「場すへの大家さん」「根岸の売家」「千住辺の家主」は避難民をうけいれて儲かった、としています。
 問題は「大店・沢庵屋へ立退」とある見立番付の解釈です。『番付で読む江戸時代』では、練馬は大根の名産地であることから(練馬大根)、この「沢庵屋」を練馬方面と解釈して、わたしはこれを「大店は練馬へ逃げた」と解釈してみました。原稿締め切りに追われていたとはいえ、これでいいのかどうか、正直いってわたしも自信がありませんでした。
 そこで後日、三井文庫の史料をしらべてみることにしました。三井文庫とは大店のひとつ三井越後屋の貴重史料を保存・研究している施設です。三井文庫「安政四年 永書」(文書番号138)文久3年(1863)3月条には、

…店々相談之上、売用之品并諸帳面其外太切(大切)之品追々荷造為致、桐生・藤岡・半能(飯能)・八王子・練馬右五ヶ所え都合克差送り可申…

 とありました。わたしはこれをみてホッとしました。どうやらわたしの考えは間違いではなかったようです。やれやれ。それにしてもこれでにわかに大根流通と大店との関係が気になってきました。こうやって問題がひろがってゆきます。

(付記)この「英国軍艦江戸湾来航事件」のとき、将軍家茂は京都にいました。将軍留守中のこの江戸のクライシスは、幕府にとって衝撃だったらしく、京都にいた浪士隊の新徴組に江戸帰還を命じます。しかし近藤勇らは京都に残留して新撰組を組織します。3月13日には新徴組江戸帰還組が京都を出発しています。また、幕府が賠償金を支払う方針で幕府と英国が和睦したあと、英国軍艦は薩摩藩にも回航して交渉します。その結果、薩英戦争がおきました。この事件のもたらした波紋はおおきかったといえます。

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