« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »

2005/08/30

(江戸形成史)「浅草砂」とは何か

・「浅草砂」とは? 江戸考古学の研究者にお会いすると、きまってお訊ねすることがあります。

―「浅草砂」ってご存じですか?

 という質問です。ご存じの方はありません。管見の限り江戸考古学の文献にもその名がみえません。わたし自身もつい最近気になったことで、江戸考古学に怠慢の罪があるわけではありません。ところが江戸時代初期の江戸の史料に、「浅草砂」という砂が頻繁に出てきます。
 たとえば、江戸時代初期の正保5年(改元慶安元年、1648)江戸町触にはこう出てきます。

  御請申事
町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
(略)
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 ここでは海道(街道)の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて中高につくことを命じています。「中高」とは中央を高くして左右を低くすることで(つまり蒲鉾の断面のような形になる)、道の中央を乾かすためでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここ以外にも当時の道普請関係の史料に幾度か「浅草砂」が出てきます。これは何を意味しているのでしょうか。そしてこの〝「浅草砂」に「海砂」をまぜる〟とはどういうことなのでしょうか。

・「浅草砂」は砂利、「海砂」はただの粒子の細かい砂 「浅草砂」は土地の名前が付いていることからもわかるように、何処でも採れるような砂ではないようです。それでは浅草はどのような土壌なのでしょうか。
 江戸時代初期の随筆の「慶長見聞集 巻之九」 (『江戸叢書第二巻』江戸叢書刊行会、1980 P245) 「武蔵と下総國さかひの事」には、浅草特有の土壌について述べている箇所があります。

見しは今、角田川(隅田川)は武蔵と下総のさかひをながれぬ、されば河なかばよりこなた(武蔵側つまり江戸側)には石有、あなた(下総側)はみなぬまなり、爰に浅草の者云けるは、下総の國に石なき事を、浅草の童部共あなどり笑て、五月になればゐんし(印地、石合戦のこと)せんとて、舟に石をひろひ入、河向ひに見えたる牛島の里の汀へ舟をさしよせ、牛島のわらは共をつぶてにて討勝て、利口を云いて年々笑ふ、 (括弧内は高尾の補注)

 武蔵国浅草は石がたくさんあり、ひとつ川向こうの下総国は沼沢地であまり石がない。浅草の童らは自分の地に石が多いことで、下総国牛島の童らに対して石合戦(印地)で有利になる。これに対して著者三浦浄心は「かくのごとくの國境を如何成かよくしりて分けれたる事の不思議さよ」という感想を述べています。『台東区史』には「浅草砂」についての記述はありませんが、浅草一帯の石の多さについての記述はあります。ちかくに「待乳山」という山がありますが、私見ではほんらい「真土山」だったのでしょう。「真土」、つまりその山だけは石がなくて「真土」だったというわけです。
 また喜多村信節「嬉遊笑覧」 (『日本随筆大成』別巻「嬉遊笑覧1」、吉川弘文館、1979 p47) では「浅草砂」のことを「浅草砂利」といっています。

浅草砂利 むかし江戸にては地突に用る砂利は浅草の産を用ゆ 「正保五年日記」子の二月廿一日町触に、町中海道悪敷所へ浅草砂に海砂まぜ、高低なき様に築可申候、ごみ泥にて築申間敷事。又寛文三年卯四月十日町触に、今度日光へ神田橋より本郷通を被為成候云々海道悪敷所は浅草砂にて中高に一両日中急度築立可申事など多数見えたり。浅草には今に砂利場と云処あり、また古へは隅田川の辺をすべて石浜といへり、今もこのあたりの土中に小石多し

 ここでは「浅草砂」=砂利であって、「むかし江戸」で地突に用いる砂利は浅草産のものを用いたとあります。一般的に「砂」という語の範疇には砂利も含みます。だから「浅草砂」は粒子の大きい「砂」、つまり砂利だったと理解していいでしょう。
 それに対して「浅草砂」に混ぜる「海砂」とは何でしょう。「海砂」という言葉は一般的に粒子の大きい海砂利も含みますが、砂利に砂利を混ぜるようなことはないため、この場合は微細な粒=砂であったと理解すべきでしょう。単に「海砂」とあるから、砂浜ならばどこでも採れるふつうの砂をさしたと思われます。
 以上をまとめると先の正保5年(改元慶安元年、1648)町触の文章は、

 道を砂利+砂で築き固めよ

 という意味に解釈できます。

・砂利と砂を混ぜる意味 この砂利と砂とを混ぜる工法はむかしからふつうにあるもので珍しいものではありません。その参考に大手建築会社某社技術企画センター企画部から頂いたご回答をもとにしてわたしの文責でその理由をまとめます。

(1)砂利道とは……砂利とか砂を道路の土(路床といいます)の上に撒いて固めた層を路盤とか路盤工と言い、このような道路は砂利道と呼ばれおります、現在でもよく見かける道路構造です。 日本では都市の一部を除いては、モータリゼーションが発達する以前の昭和20年代までは砂利道が主流でした。
(2)砂利と砂……現在では砂利・砂は大きな石を砕いて作られた道路用砕石砂利(粒の大きさが5mm~40mm程度) と砕石砂(粒の大きさが5mm以下)を混ぜて道路用砕石が用いられています。日本でも上記(1)で説明した時代までは、海とか川より採取した丸みのある天然砂利、天然砂が主流として使われていました。(今でもコンクリートに使うケースは多い)
(3)砂利と砂を混ぜる効果……砂利と砂を混ぜるのは(1)で説明した路盤の安定と強度を確保する為です。砂利のみを使用したのでは、砂利と砂利の間の隙間が多く路盤が安定しません。この砂利と砂利の間の隙間に粒の小さい砂が入り込み隙間の無い路盤を造る事によって路盤の安定と強度を確保することが可能となります。現在では道路用の砕石は事前に砂利と砂を理想的に配合(ブレンド)した材料が一般的に用いられています。

 粒子の大きさの違う砂で土地を築く理由は、粒度分布のいい砂、つまりまちまちな粒の砂をつかうとよく地面が締まるからです。たとえば箱にパチンコ玉ばかりを敷き詰めた場合指で押せば容易にへこみますが、それは玉と玉の間に隙間があるからです。その隙間をさらに小さな粒で埋めれば安定します。それと理屈は同じです。また海砂を使うのは水はけをよくするためでしょう。泥を使うと粒子が細かすぎて排水を妨げてぬかるみをつくるので不都合なのです。

・浅草の「砂利場」 先の喜多村の「嬉遊笑覧」にみえる通り、浅草には「砂利場」という里俗町名が何箇所かあって、切絵図などにもその名がみえます。「御府内備考」「浅草志」 (三田村鳶魚『未刊随筆百種』第2巻、中央公論社、1976) などの諸書にもあります。特に「浅草志」が記された当時(近世後期か)でも「元砂利場にて今も下を掘に砂利多く出るよし」(同書)とあります。
 それらは何れも江戸城修理に使う砂利をボーリング採取した所で、使われた後は埋め戻されています。その後何れも町場化して「砂利場」という里俗名だけが残りました。ちなみに浅草以外にも「砂利場」はあります。
 あたらしい都市江戸の造成に浅草の砂利が活躍したものと思われます。都市造成の基礎条件みたいなものに目をむける必要があるのではないかと感じます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/27

(江戸形成史)泥だらけだった江戸の町―江戸の街路と浅草砂―

・砂がひいてあった街路 江戸という都市は徳川家康が入府してから大規模な発展をとげます。最近中世史研究の側から「家康前の中世江戸もかなり栄えていたのではないか」という指摘がでてきました。けれども現在の東京のもとを形づくったのは、やはり江戸時代の徳川家といっていいでしょう。
 江戸時代初期、とりわけ17世紀中頃以前の江戸は史料が少なくて謎が多いのですが、たとえば江戸時代初期のころの江戸の街路は、どのように整備されて発展していったのでしょうか。
 まず三浦浄心「慶長見聞録 巻之五」 (『江戸叢書第二巻』(江戸叢書刊行会、1980 P137 正しい史料名は「見聞集」(けんもんしゅう)。幾つか活字本あり) 「土風に江戸町さはぐ事」をみてみましょう。

見しは昔、江戸たえず吹たり、されば龍吟ずれは雲をこり、虎うそぶけは風さはぐ、かゝるためしの候ひしに、江戸に土風吹は、町さはがしかりけり、……昔は江戸近邊神田の原より板橋迄見渡、竹木は一本もなく皆野らなりしが、いま江戸さかゆくまゝ、あたりの野原三里四方に家を作りふさぎ、海道には眞砂をしき、土のあきまなければ、土くじりはいづくをか吹からん、町しづかなり。

 江戸開府前の江戸は埋め立て地・ローム土壌であるためか、多くの土埃が舞っていたらしい。そこで「海道」には「眞砂」を敷いて土の空き間を無くしていったため、土埃は舞わず静かになっていったという。
 「眞砂」を敷くことについて、その砂はどのようなもので何を使ったのかなど詳細は不明ですが、当然街路を固めて舗装する目的だったのでしょう。だからわたしはひかくてき粒子の大きい砂利のようなものだったのではないかと想像します。水江漣子さんによれば、「慶長見聞集」における「いま」の時期は、寛永8年(1631)頃まで下るといいますから、この頃までには随分道が整備されていたかのようにも読めます。

・泥深かった江戸の街路 だから少なくとも寛永期までには全面的に何らかの舗装が行われていたことは事実でしょう。しかし同じ「慶長見聞集」には道のぬかるみが多かったはなしも出てきます。

見しは今、江戸町の道、雨少ふりぬれば、どろふかふして往来安からず、去程に、足駄のは(歯)の高きを皆人このめり、猩々は酒履を好み、江戸の人は沼履を好む、人・猩かはれ共、用る所は漢和ことならず、

 この史料によると、江戸の街路が泥深く往来しにくいため人々が歯の高い足駄を利用していたことがわかります。また泥水がはねたりして往来のトラブルにもなることもありました。新しい造成都市であった江戸はこういうところにマイナス面があったのです。
 近世初期における外国人ロドリコの見聞記によると、江戸の街路の美しさについてほめている箇所がありますから、「眞砂」は確かにあっただろうし、実際に整備されていたのかもしれません。しかし「眞砂」のある箇所はまだ完全ではなかったか、一部舗装が壊れていたか、何れかが想像されます。

・道路の舗装と「浅草砂」 『江戸町触集成』によれば、江戸時代初期の荒れた街路の舗装につかう砂として「浅草砂」というのが出てきます。正保5年(改元慶安元年、1648)町触から。

   御請申事
一、町中海道悪敷所江浅草砂ニ海砂ませ、壱町之内高ひきなき様ニ中高ニ築可申事、并こみ又とろにて海道つき申間敷事、
一、下水并表之みぞ滞なき様ニ所々ニ而こみをさらへ上ケ可申候、下水江こみあくた少も入申間敷候、若こみあくた入候ハヽ可為曲事、
右之趣相心得申候、少も違背申間敷候、為後日如件、
   正保五年子二月廿一日 月行事判形
  御奉行所

 この町触2ヶ条はごみ対策と纏めることができますが、街路に関していえば1ヶ条目が注目されます。
 街路の舗装にごみが「使われた」というのは滑稽です。むろん深い考えあってのことでなく、ごみをもてあまして街路へ捨てたというのが実情でしょう。泥とゴミで余計にぬかるみをつくったことも想像されます。そこでここでは街路の舗装として「浅草砂」に「海砂」をまぜて「中高」につくことを命じています。ここでいう「中高」とは中央を高くして左右を低くすることでしょう(つまり蒲鉾の断面のような形になります)。これによって道の中央を乾かすのでしょう。ただしこれらがどれだけ実行されたかはわかりません。
 ここでいう「浅草砂」とは、浅草で掘って採取された小さめの石で、砂利といってもいいようなものだったと思います。海砂は海辺でふつうに採取された、粒子の細かい砂のことだと思います。この町触を信じる限り、江戸時代初期の江戸の街路は、このような砂利と細かい粒子の砂で固められたのでしょう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/08/23

(江戸時代後期、むらの記録⑤)江戸時代の百姓は商売上手?―むらの豊かな生活ぶり―

・百姓という言葉の意味 現在では百姓といえば農家のことをさしています。これはあたり前のことです。
 しかし「百姓」という言葉の本来の意味は、「あまた(「百」)の姓をもった人びと」であって、「一般人民」以上の意味はない筈です。したがって百姓の中には、〝農家〟ばかりでなく〝商家〟なども交じっていていい、ということになります。
 この考え方を敷延してみましょう。江戸時代の村の空間には百姓身分のひとが住んでいます。この百姓の中には、社会的実態にそくしていえば、〝武士〟であるひともいれば、〝農家〟であるひともいれば、〝商家〟であるひともいます。村長である名主(庄屋などともいいます)さんの家々には、中世に遡れば武士の系譜をもつ家々も少なくなく、なかには堀をめぐらした城館のような邸宅に住んでいる家もあります。それでも身分は百姓です。新撰組の土方歳三の生家もそのような家のひとつで、遡れば後北条家の武士であり、土方家代々は武士のような邸宅に住み、武士のような名乗りをなのっています。
 そのほか耕している石高がわずかしかなくても、おおきなお金を動かして商売をしている家もあります。このような家は〝農家〟というより〝商家〟というべきですが、それでも身分は百姓です。

・農間渡世の多彩さ それでは江戸時代後期、村にすむ百姓にはどのくらいの〝商家〟が交じっていたのでしょうか。
 百姓で商売をやっていることを「農間渡世」といいます。「農間渡世」とは農業の間で商売をやっているという意味ですが、しかし事実上、商売が主で農業が従であることも多いようです。天保14年(1843)に武蔵国入間郡赤尾村が領主川越藩に提出した農間渡世書上のデータが残っています。以下にそれをみてみましょう。

・天保14年(1843)武蔵国入間郡赤尾村農間渡世表 人名・石高(単位、石)・品物(原文ママ)・品数

善次郎 06.080 線香 抹香 草履 草鞋 菓子 多葉粉 紙類 青物 手拭 砂糖 下駄 足駄 傘類 竹縄 瀬戸物 枡酒 醤油 くつこ 塩 水油 元結 油 柄子類 鰹節 ほくち 羅越沙 扇子類 切昆布 染草類 付木 とうしみ 墨 筆 蝋燭 縫針 針金 足袋 盆用物 (38品)
長造 06.380 豆腐 線香 抹香 草履 菓子 多葉粉 青物 手拭 砂糖 紙 下駄 足駄 笠類 竹縄 枡酒 醤油 くつこ 柄子類 元結 油 ほくち 羅越沙 鰹節 切昆布 付木 染草類 とうしみ 墨 筆 蝋燭 扇子類 足袋 盆用物 (34品)
文造 09.230 枡酒 塩 醤油 菓子 多葉粉 ぞうり 草鞋 元結 油 紙 蝋燭 線香 抹香 砂糖 付け木 売薬類 葬式道具 釘 素麺 墨 筆 (21品)
弥曽吉 05.740 小麦粉取替 紙類 多葉粉 菓子 蝋燭 ぞうり 草鞋 元結 油 付木 線香 ほくち (12品)
磯吉 14.800 飴 菓子 砂糖 するめ こんにゃく 青物 とくさ 羅越沙 蝋燭 線香 付木 紙類 (12品) (出商い)
林八 02.410 するめ こんちゃく 飴 菓子 餅 団子 冷麦 酒 青物類 (9品)(出商い)
民造後家 02.220 枡酒 紙 多葉粉 蝋燭 草履 草鞋 菓子 (7品)
清助 02.720 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
庄吉 00.880 餅 団子 多葉粉 紙類 草履 草鞋 (6品) (出商い)
藤吉 10.120 濁酒 紙 多葉粉 白米 (4品)
徳右衛門 10.820 釘 多葉粉 針金 豆腐 (4品)
忠次郎 00.550 酒 飯 麺類 (3品) (出商い)
浅吉 00.050 団子 飴 くわし (3品) (出商い)
甚右衛門 48.600 油〆 塩 水油 (3品)
留吉 01.150 菓子 青物類 (2品) (出商い)
喜四郎 01.170 紙屑 古鉄 (2品)
藤左衛門 03.270 塩 水油 (2品)
鷲造 00.970 青物 (1品) (出商い)
久八 09.770 枡酒 (1品)
茂七 05.960 油揚げ (1品)
三之丞 00.550 油揚げ (1品)
浅次 01.410 油揚げ (1品)
庄兵衛 05.870 多葉粉 (1品)
与兵衛 13.480 小麦取替 (1品)
戸右衛門 19.380 小麦取替 (1品)
仙太郎 17.720 木綿 (1品)
豊吉 20.420 馬 (1品)
新六 00.920 金魚 (1品)
勝次郎 13.390 染物類 (1品)
寿五郎 03.540 小間物 (1品)
やす 02.460 小間物 (1品)
縫吉 00.550 小間物 (1品)
金右衛門 17.080 枡酒 (1品)
ゆふ 00.970 髪結
なを 00.420 髪結
総計36軒
※出商いという注記のある家は村のそとへ出稼する家。

 赤尾村の総軒数は約150軒ですから、この総計36軒という数字は総軒数に対して約24%という数字です。これは領主に報告された分のみなので、あるいはもっと多く存在した可能性もあります。石高でみると10石以下の階層が多く1石未満の階層もみられます。全体としては5石以下の零細農が多い(零細農といっても「貧乏」という意味ではありません)。石高と取り扱い品目との比例関係は特にみられません。
 取り扱い品目でみてみましょう。一番多いのは善次郎 (石高6.080)で38品目を数えます。また取り扱い品目の種類は家によって偏りがあって、たとえば林八(石高 02.410)は飲食品目ばかりだから飲食業者でしょうし、忠次郎(石高00.550)も酒・飯・麺類でこれも同じく飲食業者です。また喜四郎(石高01.170)は紙屑・古鉄だからリサイクル業者でしょう。出商いの家も多いことが注目されます。おそらくほかの村々・城下町などに動いて利益を得ていたのでしょう。
 以上の史料でみえる品目(髪結も1品と数えた)は全てで 186品目です。品種の数の多い順に並べてみると(カッコの中は品目数)、

多葉粉(10)・紙類(9)・菓子(8)・草履(7)・草鞋(6)・青物(6)・枡酒(6)・蝋燭(6)・線香(5)・付木(5)・砂糖(5)・塩(4)・元結(4)・油(4)・団子(4)・ほくち(3)・羅越沙(3)・水油(3)・醤油(3)・油揚(3)・飴(3)・小麦粉取替(3)・餅(3)・墨(3)・筆(3)・小間物(3)・抹香(3)・酒(2)・髪結(2)・こんにゃく(2)・するめ(2)・くつこ(2)・下駄(2)・足駄(2)・傘類(2)・竹縄(2)・針金(2)・足袋(2)・盆用物(2)・豆腐(2)・扇子類(2)・切昆布(2)・染草類(2)・手拭(2)・釘(2)・とうしみ(2)・柄子類(2)・鰹節(2)・素麺(1)・くわし(1)・飯(1)・染物類(1)・白米(1)・木綿(1)・濁酒(1)・油〆(1)・とくさ(1)・古鉄(1)・紙屑(1)・葬式道具(1)・売薬類(1)・縫針(1)・冷麦(1)・馬(1)・麺類(1)・金魚(1)・瀬戸物(1)

 となります。比較的品目数の多いものは日常生活での必要不可欠な道具(草履・草鞋・蝋燭・紙類など)や安価な馴染み深い嗜好品(多葉粉・菓子など)です。
 むらの豊かな生活ぶりがここからうかがえます。

・民造後家のお酒の仕入値、3年間で52両・銭136貫! では一体彼らの商業はどのくらいの規模だったのでしょうか。すべてのひとについてのデータはありませんが、すこしだけそれをうかがい知ることのできる史料があります。
 赤尾村は酒商売人の仕入金高も領主川越藩に報告しています(弘化2年「御用向書付留帳」、林家文書191)。天保12年(1841)・天保13年(1842)・天保14年(1843)3年間にわたる酒の仕入金に関するものでした。その中の民造後家(持高2石2斗2升)は、3年間の酒仕入金として、金52両と銭 136貫も消費しています(銭7000文(7貫文)=金1両)。彼女は石高からみれば2石余りと随分零細であるにも関わらず、その反面商業経営は小さいものではありませんでした。彼女は升酒のほかに6品目を扱っていますから、家全体としての総仕入値はもっと多かったに違いありません。
 どうでしょう。みなさんのむらのイメージは変わりましたか?

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/08/19

(戦後60年)〝凡下〟ということ

 小泉総理の靖国神社参拝問題については、総理が参拝しなかったということもあってか、国内ではいちぶの騒ぎを除いては(ほかの閣僚などが参拝しましたが)空蝉(うつせみ)のように静かに過ぎてゆきました。
 日本という国はおもしろくて、政府は「靖国の英霊」というわりには何故だか各地で戦没された兵士の方々のお骨も拾わないし、拾ってきてもDNA鑑定すら積極的にやろうともしません。したがって政府の本音としては案外英霊はどうでもよいのかもしれず、靖国神社はたぶんに政争の具として扱われているに過ぎないのでしょう。総理が選挙対策のために参拝しなかったということもそのことを裏付けています。
 それはさておき、靖国神社自体は日本特有のひとつの価値観のかたまりに過ぎません。世界で通用する普遍的なものではありませんから、たとえば中国は怒っています。こういう問題に接していると、人間の命の重たさというのはどれも平等ではないのだという平凡な事実について再認識せざるを得ません。

 ひとつには、自分自身に近しければ近しいほど、人間の命は重たくなっていく筈でしょう。たとえば海外で何か事故がおきると、テレビのニュースはきまって「日本人の乗客にけがはありませんでした」というコメントをつけます。もしも不幸にして海外で日本人が亡くなれば、漠然とおおごとだと感じるでしょう。さらにそれが自分の属している町内会の住人なら「香典でももっていこうか」という気持ちになるし、はたまた死人が自分の親戚ともなれば、なおのこと悲嘆にくれることでしょう。ところが自分にまったくかかわりあいのない、名前もきいたことのない国々の方々が亡くなっても、「お気の毒に」と思うこそすれ、それ以上の感慨はどうしてもおきないかもしれない。
 もうひとつには、お金の多寡も人間の命の軽重をきめます。アメリカでの9・11同時多発テロでの犠牲者は、アメリカ人およびアメリカに繋がる富裕な資本主義国で働く人たちでした。いわばお金持ちが死んだわけですが、資本主義社会にとってお金持ちが死ぬことほど理不尽な事態はない。なぜなら資本主義社会のルールではお金は命さえ買えるからです。医者に大金をもってゆけば癌でも適切な治療をしてくれますが、いっぽうお金のないひとたちは適切な治療もないままに路傍に死んでゆくだけです。このルールを打ち崩したテロはけっして許せないということになるから、やはり同じようにお金をつかってテロを支援する国家を潰さねばならないという理屈になる。いっぽうお金持ちでない国々のひとは、いくら死んでもあまり問題視されないから、アメリカ軍の誤爆での犠牲者のお名前は9・11の犠牲者ほどには記憶されることはないでしょう。
 何処の国にうまれたか、あるいは貧富何れかというのは、偶然のいたずらにすぎないことが多いので、その意味では地球上何処に生きている人間も命の軽重に大差はない筈ですが、しかし実際にはそうはなっておりません。悲しいかな、わたしたちはかくも矛盾したこの現実に生きていて、かつ生きざるを得ないわけです。

 この命の軽重の矛盾についてみなさんは口に出しませんけども(わたしは馬鹿正直だからいってしまうけれども)、たいへん愚かなことだとは気づいています。その意味で根源的に人間は愚かな動物である。もっともここでいう「愚か」とはバカの意ではありません。仏教で〝凡下〟という便利な言葉があるから、そこから借用してそう言い換えたほうがいいかもしれません。
 しかし一般的に人間はその〝凡下〟のままでいいとは考えていません。ナショナリズムや経済格差を克服して〝凡下〟をのりこえようという試みがあるし、使い古された言葉ですがおもいやりや礼譲ということによっても〝凡下〟を包み込もうとしています。その努力や考えがあったればこそ人間は人間たりうる存在になるのでしょうし、それが人間のこれからの歴史の趨勢でしょう。
 しかし残念ながら人間はときどき「〝凡下〟のままでいい」と頑固にあぐらをかいて動かない場合があるらしい。そこで冒頭の靖国神社のはなしにもどりますが、この問題についてもそれと同じにおいがする。誤解がないようにいっておきますが、わたしは死者をいたみ戦争の犠牲者の方々をとむらうこと自体を否定しているわけではありません。ただ、弔いが国単位で閉じこもっているのは、先に述べた「日本人の乗客にけがはありませんでした」というふうな〝凡下〟さがある、ということを表現したいに過ぎません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/14

(大学)ハッピーキャンパス ―「レポートの心配はもういらない」―

 ハッピーキャンパスというホームページがある。
 これは大学の授業に提出するレポートにつかうねたを紹介しあうホームページで、これをみたとき「なるほど」と唸った。これはいいアイデアじゃないか。大学ではよく友達同士でノートの貸し借りなどがあるが、ここではそれをもっと大きくして、大学をこえて学生間で知的相互扶助組織をつくろうという意図をもっている。キャッチフレーズはずばり「レポートの心配はもういらない」。大学生時分にレポート大好き人間であったわたしにいわせれば、レポート如きが何故人間の頭を苦しめるのか理解に苦しむけれど、世の大学生にとってはとても難物であるらしい。
 このホームページはどうやらポイント制をとっているらしい。ねたを紹介するとポイントをもらえ、そのポイントを消費することによって、ほかのひとが提供したねたを使うことができる、というもの。レポートを登録すると図書券がもらえるというキャンペーンも期限付きでやっている。わたしにはこんなホームページでどのように儲けを出すのかわからないが、ハッピーキャンパスとはよくいったものだ。いまの〝大学=遊園地化〟論とうまく平仄(ひょうそく)があっていて何となく可笑しい。なるほど遊園地たるキャンパス・ライフにとって、後顧の憂いはレポートで、レポートをさっさと片付けて完全に「ハッピー」になりたいということだろう。そのうえ大学入学まえの偏差値ゲームでは、如何に少ない労力で効率的な学習効果が得られるかが重要だが、その発想の延長線上にこそハッピーキャンパスがある。
 ただ大学の先生が眉をひそめそうなホームページではある。実際に苦情のメールを出す先生もいるらしく、わたしもその気持ちがわからないではない。しかしその苦情の理屈をたてるのは難しい。その難しさを以下具体的に言葉にしてみたい。 

 ちなみにわたしの非常勤講師としての授業では、このハッピーキャンパスは糞の役にもたたない。そもそもわたしの課すレポートは授業に出ないとわからないし、何処かのホームページから剽窃することもできない。だからわたしの授業をうける学生にとってハッピーキャンパスなんかあってもなくてもどちらでもいいシロモノである。要は学生が容易につくれるようなレポート論題を出題しなければよいだけのはなしではないだろうか。
 しかし依然として大学の授業には安易なレポート論題がたくさんあるから、インターネット画面でコピー・アンド・ペースト(所謂「コピペ」)してレポートおわり、ということも可能であって、だからハッピーキャンパスにもそれなりの需要がある。それに、このハッピーキャンパスをもちだすまえに、わたしのブログだって大学生のレポートねたの喰い物にされていないとも限らない(アクセス解析記録にはそれとおぼしき検索ワードがある)。ハッピーキャンパスがあろうがなかろうが、インターネットで検索すればレポートのねたくらいはいくらでもみつけることができる。そのくらいの狡賢い知恵は昨今の大学生諸君ならもっているにちがいない。問題はそんな状況に対して大学の先生がどう対応するかではないかと思う。

 そもそもの問題の根本は大学の授業の無気力にある。
 無気力は大学の先生・学生の両方にある。学生は平気で授業中に私語をしていて怠学のムードが蔓延っているし、先生のほうもそれにたいして無関心な方々が多い。これについては大学関係者ならずとも誰でも知っていて、周知の事実と化しているが、この無気力さはいったい何処からきているのか。……結局ここには、「自分の研究をやらせてくれよ」という大学の先生側と、「怠けさせてくれ」という大学の学生との、きわどい暗黙の了解、もっというなれば暗黙の共謀関係が成立しているのではないだろうか。このようなレポートねた紹介業はその両者の間隙に偶々現れたに過ぎず、いまの大学の問題にたいする強烈なアイロニー(皮肉)、あるいはブラック・ユーモアに思えてならない(もっともハッピーキャンパスの作成者がそこまで考えているかどうかはしらない)。この両者のうち、どちらかといえば教育者の立場である先生の責任は重いのではなかろうか。
 ハッピーキャンパスを非難するまえに、そういった大学の根っこにある問題そのものからじっくり考え直さねばならない。でないと目の前の「大学全入時代」に大学という業界自体が生き残ってゆけないだろう。このハッピーキャンパスの出現によって、大学生側の問題というよりもむしろ、大学側の問題を垣間みたような思いがする。

 ところでハッピーキャンパスの画面をよくみてみよう。意外なことにこのハッピーキャンパスにはなかなか殊勝な面もあって、当を得た指摘も多いことは見逃せない。たとえば「レポート作成法」というPDFファイルがあってA4で5枚の長文にわたるものである。その一部にはこういう文章がある。

1)誠実性 まず誠実性について考えてみると、[誠実]という言葉は[一所懸命]という言葉と相通するといえます。つまり先生たちが期待するのは該当課題に対し一所懸命に調査して勉強することです。誠実性に高い評価をおくレポートの課題は[~について調査]が多いです。先生の方はすでに知っている内容で学生たちにそれを直接調査するようにすることで学生たちが情報を収集して整理し、分析する力を育つため(原文ママ)のことです。
(中略)
2)独自性 次は独自性に対して考えて見ましょう。すでに述べたように先生たちは当該分野の専門家です。したがって当該分野の専攻書籍及び関連資料をずっと読んできたのでもう出されたものと変わりないもののレポートを読み興味を引き出すことはできません。また新鮮感をもたらせない資料を読むということは100回以上も同じ映画を見ることと違いありません。すなわち先生たちは学生の考え方が知りたいこと(原文ママ)であり、今まで出された数え切れないほどの既存の知識を繰り返したいわけではありません。

 文意のとりずらいところはあるものの、概ねこれらのいっていることに間違いはない。たしかに「レポートの心配はもういらない」というキャッチ・フーズからは一見いやな印象をうけるが、しかしながらよくよく内容を読んでみると、ちゃんとレポート作成の自助努力や作法を教えている部分もある。特に「一番良くないレポートはあっちこっちでコピーしてそのまま張り付けただけのもの」という一文さえもある。ただし利用者が実際どう利用するかは別問題であって、これがみそかもしれない。しかしハッピーキャンパスにはこのような主張があることもここで確認しておきたい。
 それにしてもこれらレポート作成の基本は、ほんらい大学の先生が教えるべき仕事ではないのか。もし大学の先生がこの種のことを教えていないのであれば、ハッピーキャンパスの是非論よりもむしろ、「大学の先生方がもっとしっかりしなさいよ」ということになりはしないだろうか。むろん非常勤講師たる自分も肝に銘じたい。何れにせよ大学はもっと変わらなければならない。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/08/11

(名前と人格)名前を変えるということ

 インターネットでは実名・仮名の論議が盛んですが、そもそも名前を変えるとはどんな意味があるのでしょう。
 大入りだった宮崎駿の映画『千と千尋の神隠し』では、「千尋」という女の子が「千」というなまえにかわったとたん「千尋」だったころの記憶をなくしてしまう、という場面がありました。これは日本人の命名観をよく反映した興味深い場面です。
 日本人はむかし名前を変えるという風習をもっていました。商家に奉公した場合名前を変えることがあります。仕事場には自由な日常と一線を画す別人格があるという理解でしょう。そして主人から〝命名〟されれば、文字通り命が与えられて主人の支配下に入るという意味もあるでしょう(もっともほんらい「命名」の「命」とは戸籍のことをさします)。
 いっぽうひとりの人生にも人格の変化があります。幼年のころと壮年のころと老年のころでは人格の雰囲気が違います。したがって、幼いころには幼名を、元服や家督を継げばその名前を、隠居したら隠居名を名乗る場合もあります。それだけ人生の節目を意識したということでしょう。それからすれば、佐原村村役人伊能三郎右衛門忠敬のように、隠居してからあたらしい人生をあゆみだすひとがいることもおおいに頷けます。彼の隠居名を「勘解由」といいますが、「三郎右衛門」には「三郎右衛門」の、「勘解由」には「勘解由」の人生が待っていたわけです。
 
 江戸時代の戯作者や現代の作家でも同じです。
 武士で偉そうに「秋田藩江戸留守居役平沢常富」と名乗っていたとしても、ある一面では「朋誠堂喜三二」と名乗って戯作を書いているということもある。四角四面の世の中でまじめくさって藩に仕える身でも家に帰ればくだけた一面がある。「産経新聞記者福田定一」と「作家司馬遼太郎」のあいだも大きい。このような変身をとげるにはやはり名前を変えねばならない。
 勿論本名で書くには憚りがあるということもあるでしょうが、人格を変えようというメンタリティの側面も無視はできません。

 ブログ上で名前を変えることもこれとよく似ています。インターネット上の仮名で所謂「ハンドル・ネーム」とよばれるものです。
 たとえばわたしが仮に「コモンジョクン」というハンドル・ネームで文章を書いたとしても、読むひとによっては書いてある内容から推測して「コモンジョクン」=「高尾某」だとわかることもあるかもしれない。しかし世の中のひとは心得たもので、よほど問題発言や過激発言をしない限り、いちおう「コモンジョクン」と「高尾某」とは別人格と解釈され、「コモンジョクン」としてのインターネットでの〝おふざけ発言〟はとりあえず大目にみられる場合が多いようです(もっとも実際わたしは実名で書いていますがそのてんでどうのかよくわかりません)。
 ハンドル・ネームを使う意義には、身元がばれるかどうかは別として一応「<浮き世のわたし>とは別人格ですよ」という何気ない主張をすることができる、ということもあるのではないでしょうか。

 であるにしてもやはり発言に気をつけなければなりません。
 ハンドル・ネームだからといってもすまされない場合もある。インターネット社会においては、政治家などの言論人以外の一般市民であってもちょっと気がゆるめば大変なことになりかねない。政治家の軽々とした発言を揶揄するわたし自身、たくさんの発言の機会を与えられればそれなりにヒヤリとする発言をしてしまうことだってないことはありません。
 ところでわたしたちの日本社会には、一言でいって、〝内側〟にむかって「正義」(クサイ言葉です)が閉じこもる、という特徴があります。自分の所属する社会、たとえば自分の大学・自分の会社・自分の部署に近ければ近いほど、自分にとっての「正義」になってゆき、遠ざかれば遠ざかるほどその「正義」から遠ざかる。たとえば電車の中で或る人と口論になる。知らないひとだからこそ高飛車になれる。しかし相手が自分の会社の上司のお婿さんだとわかれば急に卑しいほどに低姿勢になる。現在の道路公団談合事件がおこった原因も実はこれと同じ理屈であって、自分の会社の「正義」と法律の「正義」とは別物である。つまりは社会人類学者中根千枝さん『タテ社会の人間関係』(講談社現代新書)にあるような社会のことです。インターネットにおけるハンドル・ネームもこの日本人社会の息苦しさをガス抜きするような役割を果たしているのかもしれません。匿名で野放図な発言をすればいろいろな日本的共同体社会から解き放たれて、自分が巨人にでもなったようなおおきい気分がするのかもしれません。むろんそれはそれで結構なことだけれども(しかしチンケだなあ)繰り返すようですがやりすぎはよくない。ハンドル・ネームだからといって安心することなかれ。あまり調子にのっていると今後「別人格だから」という言い訳が通用しないような雰囲気がつくられるかもしれません。
 ハンドル・ネームの方々に老婆心ながら一言。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005/08/08

(騒動)続・大江戸クライシス―『番付で読む江戸時代』(柏書房)後日談―

・『福翁自伝』の「英国軍艦江戸湾来航事件」 いまの世の中地震続きで心配です。そろそろ拙宅のある関東も危ないというので心配です。
 文久3年(1863)春も、江戸は歴史上稀有なクライシスにさらされていました。英国軍艦が横浜沖に集まり、江戸の幕府と戦争をするかもしれないという緊迫した状況があったからです。「英国軍艦江戸湾来航事件」です。このとき江戸は一触即発の戦争勃発の危機にあって、江戸っ子によるおおきな避難騒動がおきました。結局戦争はおきませんでしたが、江戸の人びとがこのときに経験した恐怖はなみなみならぬものがあったようです。
 ことの原因は前年(文久2年)におこった生麦事件です。これは東海道神奈川宿ちかくの生麦という在所で、薩摩藩の行列が英国人たちを殺害・傷害した事件です。それに対して英国は幕府にたいして賠償金要求に出てきました。むろん要求といっても、ふつうにやっては話はまとまりませんから、横浜沖の軍艦という武力を背景に交渉したわけです。アヘン戦争で中国を屈服させた英国ですから、このくらいはお手のものです。それに対して日本の江戸幕府はやはり戸惑うばかりで、会議をしても小田原評定、なかなか結論がでません。そのうち幕府も半ば戦争を覚悟したようです。
 福沢諭吉著・富田正文校訂『新訂福翁自伝』(岩波文庫)に、福沢諭吉の目からみた「英国軍艦来航事件」が記されています。ちょっと長い引用ですが煩を厭わずご紹介することにしましょう。

それから攘夷論というものは次第々々に増長して、徳川将軍家茂公の上洛となり、続いて御進発として長州征伐に出掛けるというようなことになって、全く攘夷一偏の世の中となった。ソコで文久三年の春、イギリスの軍艦が来て、去年生麦にて日本の薩摩の侍が英人を殺したその罪は全く日本政府にある、英人はただ懇親をもって交わろうと思うてこれまでも有らん限り柔らかな手段ばかりを執っていた、然るに日本の国民が乱暴をして、あまっさえ人を殺した、如何にしてもその責は日本政府にあって免るべからざる罪であるから、こののち二十日を期して決答せよという次第は、政府から十万ポンドの償金を取り、なお二万五千ポンドは薩摩の大名から取り、その上、罪人を召捕って眼の前で刑に処せよとの要求、その手紙の来たのがその歳の二月十九日、長々とした公使の公文が来た。……そうするとサア二十日の期限がチャント来た。十九日に手紙が来たのだから丁度翌月十日、ところがもう二十日待ってくれろ、ソレは待つの待たないのと捫着の末、どうやらこうやら待ってもらうことになった。ところでいよいよ償金を払うか払わないかという幕府の評議がなかなか決しない。その時の騒動というものは、江戸市中そりゃモウ今に戦争が始まるに違いない、何日に戦争があるなどという評判、……これはいよいよやるに違いないと鑑定して、内の方の政府を見れば何時までも説が決しない。事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズで、いよいよ期日が明後日というような日になって、サア荷物を片付けなければならぬ。今でも私のところに疵の付いた箪笥がある。いよいよ荷物を片付けようというので箪笥を細引で縛って、青山の方へ持って行けば大丈夫だろう、何もただの人間を害する気遣はないからというので、青山の穏田という所に呉黄石という芸州の医者があって、その人は箕作の親類で、私はかねて知っているから、呉の所に行って、どうか暫くここに立退場を頼むと相談もととのい、いよいよ青山の方と思うて荷物は一切こしらえて名札を付けて担ぎ出すばかりにして、そうして新銭座の海浜にある江川の調練場に行って見れば、大砲の口を海の方に向けて撃つような構えにしてある。これは今明日の中にいよいよ事は始まると覚悟をきめた。その前に幕府から布令が出てある。いよいよ兵端を開く時には、浜御殿、今の延遼館で、火矢を挙げるから、ソレを合図に用意致せという市中に布令が出た。江戸ッ子の口は悪いもので「瓢箪 兵端 の開け初めは冷 火矢 でやる」と川柳があったが、これでも時の事情はわかる。……それからまた可笑しいことがある。私の考えに、これは何でも戦争になるに違いないから、マア米でも買おうと思って、出入の米屋に申し付けて米を三十俵買って米屋に預け、仙台味噌を一樽買って納屋に入れて置いた。ところが期日が切迫するに従って、切迫すればするほど役に立たないものは米と味噌、その三十俵の米を如何すると言ったところが、担いで行かれるものでもなければ、味噌樽を背負って駈けることも出来なかろう。これは可笑しい、昔は戦争のとき米と味噌があれば宜いと言ったが、戦争の時ぐらい米と味噌の邪魔になるものはない、

 このとき福沢は幕府で翻訳の仕事をしていましたから内部事情がよくわかります。福沢は「事が喧しくなれば閣老はみな病気と称して出仕する者がないから、政府の中心はどこになるか訳けがわからず、ただ役人たちが思い思いに小田原評議のグズグズ」と幕府内部の無責任体質を浮き彫りにしています。また福沢は戦争のときのために米や味噌を蓄えていましたが、むしろ逃げるときはそれらは不必要だと、苦々しげに書いていておもしろい。
 このときは福沢だけではなく、江戸っ子が大勢「われ先に」と避難してゆきました。その結果草鞋や大八車の運賃なども高騰します。江戸の避難民の記事は驚くべきことに、とおく北関東の村々の日記中にも散見されます。しかし結局幕府は賠償金を支払うこととなり、戦争の危機はなくなったのでした。

・戦争になったとき何処へ逃げるか 『番付で読む江戸時代』(柏書房)の拙稿では、この事件に関する見立番付をすべて読み込んで分析してみました。
 わたしの調べでは、いざ戦争となった場合、大砲玉の飛んできそうな横浜や品川・芝周辺の江戸南部・江戸内湾海岸沿いが危ない、という風評だったようです。見立番付を集めてみますと「横浜の町人」「芝品川の物もち」「海辺の物持」「海辺の四民」「江戸南方四民」などとあります。とりわけお金持ちはまず逃げ出さなければなりません。家財道具などが多かったからです。福沢でさえ米・味噌で難渋するくらいですから、彼らはとても大騒ぎだったことでしょう。
 逃げるといっても何処へ逃げたのでしょう。さきの『福翁自伝』によると、福沢は青山に逃げるつもりだったようですが、見立番付では「場すへの大家さん」「根岸の売家」「千住辺の家主」は避難民をうけいれて儲かった、としています。
 問題は「大店・沢庵屋へ立退」とある見立番付の解釈です。『番付で読む江戸時代』では、練馬は大根の名産地であることから(練馬大根)、この「沢庵屋」を練馬方面と解釈して、わたしはこれを「大店は練馬へ逃げた」と解釈してみました。原稿締め切りに追われていたとはいえ、これでいいのかどうか、正直いってわたしも自信がありませんでした。
 そこで後日、三井文庫の史料をしらべてみることにしました。三井文庫とは大店のひとつ三井越後屋の貴重史料を保存・研究している施設です。三井文庫「安政四年 永書」(文書番号138)文久3年(1863)3月条には、

…店々相談之上、売用之品并諸帳面其外太切(大切)之品追々荷造為致、桐生・藤岡・半能(飯能)・八王子・練馬右五ヶ所え都合克差送り可申…

 とありました。わたしはこれをみてホッとしました。どうやらわたしの考えは間違いではなかったようです。やれやれ。それにしてもこれでにわかに大根流通と大店との関係が気になってきました。こうやって問題がひろがってゆきます。

(付記)この「英国軍艦江戸湾来航事件」のとき、将軍家茂は京都にいました。将軍留守中のこの江戸のクライシスは、幕府にとって衝撃だったらしく、京都にいた浪士隊の新徴組に江戸帰還を命じます。しかし近藤勇らは京都に残留して新撰組を組織します。3月13日には新徴組江戸帰還組が京都を出発しています。また、幕府が賠償金を支払う方針で幕府と英国が和睦したあと、英国軍艦は薩摩藩にも回航して交渉します。その結果、薩英戦争がおきました。この事件のもたらした波紋はおおきかったといえます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/08/05

(騒動)大江戸クライシス

・大江戸クライシス 幕末維新期の江戸社会の大騒動といえば、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。
 ペリー来航でしょうか、それとも官軍が攻めてきた江戸開城前夜か、あるいは彰義隊の上野山戦争でしょうか。たしかにそれら何れも、上は武士から下は庶民まで上を下への大騒ぎでしたが、これらに勝るとも劣らない大事件がありました。
 それは文久3年(1863)3月~4月にかけておきた「英国軍艦江戸湾来航事件」です。この事件は海外からの脅威によっておこった江戸っ子の避難騒動ですが、ペリー来航事件よりも規模の大きな騒動であったと思います。
 この事件については特にきまった名称もなく、歴史研究者さえも事件の大きさのわりにはあまり注目していないように思います。たとえば『江戸東京年表』(小学館、1993)にもこの事件についての記述は全くありません。それでこの事件についての史料の誤読や事実関係の誤解が珍しいくらいに数多く散見されます。これは幕末維新史の研究にとってゆゆしき事態だと思っています。
 しかし史料は豊富で錦絵・見立番付・落首などが多く出ています。そのことについての一端は『番付で読む江戸時代』(柏書房)所収の拙稿「幕末の激動と人びと」に披露しておきましたので、興味のあるかたはご覧ください。

・生麦事件 文久2年(1862)8月21日、神奈川近い生麦村で、薩摩藩「国父」島津久光の行列が、無礼のかどで通りかかったイギリス人1人を殺害、2人を負傷させるという事件が発生します。これが世にいう「生麦事件」です。薩摩藩にとっては、江戸で幕府に攘夷決行・幕政改革を決意させ、意気揚々の帰国途中でしたから、その勢い余っての事件だったといえます。薩摩藩の行列は幕府の制止にもかかわらず、そのまま東海道を進んでいきました。
 この薩摩藩が蒔いていった不測の事件は大きな外交問題にまで発展し、文久3年(1863)2月、イギリスは多数の軍艦を横浜沖に結集させ、幕府に先の生麦事件に対する賠償を求めます。イギリスの態度は強硬で、もしも交渉決裂した場合、江戸や周辺の海岸で兵端が開かれることが予想されました。幕府は次々に防衛や治安維持のための町触を出し臨戦態勢をとりました。このために江戸町中は騒然となりました。

・記録 江戸神田雉子町の名主である斎藤月岑は、「武江年表」文久3年(1863)3月条の中で、このときの騒ぎを次のように述べています(『新訂武江年表』2巻<平凡社、1968>)。

「○三月初旬より横浜に於いて、異国の使船鎖港の御応接激切に及ばんの由、この事に就き閭巷の浮説により実否を弁ぜずして、去る丑年の如く、諸人慴怕のこゝろをいだき、耆嫗婦幼をして遠陬へ去らしめ、資材雑具は郊外の親戚知己の許へ預くるとて、これを運送しけるが、程なく騒屑の噂も止みければ、四月のころより各安堵して本処へ帰れり。此の間、尊卑の家に費す所の金額はいかばかりならむ。又棍賊侯白(ぬすびとかたり)時を得て掠奪せるも多かりしとぞ。此の節、船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)等の賃銭甚だ貴かりし。」(高尾が字を改変した箇所がある)

 むつかしい言葉で書いてありますが、要するにこういうことです。このとき江戸やその周辺がパニックに陥ります。さすがに幕府も戦争を半ば覚悟したため、多くの人々が「慴怕のこゝろ」を抱いて江戸から「郊外」へ逃げ出す騒ぎになった。もちろんペリー来航時(「去る丑年の如く」)にも同じような騒ぎはありましたが、現場が江戸から遠い浦賀であるし、戦争目前というわけでもなかったから、この時ほどのパニックにはならなかったと思います。
 ここで「耆嫗婦幼」とありますが、一家そろって郊外に逃げ出すことも多かったと思われます。もちろん「資材雑具」も江戸以外の親戚知己のもとへ預けます。その結果、労働者である「船頭(せんどう)、車夫(しゃふ)、傭夫(ひやとい)」は、運賃が「賃銭甚だ貴」くなったので大もうけしました。普段は肩身の狭い思いをしている彼らですが、この時とばかりは大変な量の「資材雑具」をもつ江戸の富裕層の足下をみたのです。そのうち4月に入り幕府がイギリスに賠償金を支払うことで決着したため、やっと事態が沈静化、避難民は「安堵」して江戸へ帰ってゆきました。
 この後に英国軍艦は薩摩にまわり、同じように薩摩藩と賠償金要求をします。そこでは幕府とは違い戦争となりました。これが世にいう「薩英戦争」です。結局幕府は戦争をしませんでしたが、薩摩藩は戦争をしました。このときの違いが幕末維新史の流れにおおきな影響を与えたことはいうまでもありません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年7月 | トップページ | 2005年9月 »