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2005/07/12

(見学)江戸考古学は夜ひらく

 「圭子の夢は夜ひらく」(藤圭子)らしいが、東京都区部の江戸考古学も夜ひらくらしい。
 去年の夏、わたしは豊島区の遺跡報告書を執筆するため、同区の考古発掘現場に週一回ていど見学に足を運んでいました。といっても発掘時間はなんと夜10時以降の深夜である。わたしは職場が6時におわるから(わたしは東京都公文書館非常勤職員)、レストランにでも入って、その10時まで適当に時間を潰さなくてはいけなかったのです。
 それにしても何故わざわざ深夜に考古発掘なのでしょうか。

 ―東京都豊島区巣鴨。
 ひっきりなしに車が行き交うひろい国道(白山通り)の片側がその発掘現場です。
 もちろん昼間や夕方は発掘しません。発掘現場はあつい鉄板に覆われたままでその上を乗用車がうなりをあげて通っています。しかし夜10時以降になると道の片側が通行止めになって、焼けんばかりの白熱燈に照らされながら重い鉄板がクレーンによっておもむろにとりあげられる。そうすると凸凹した茶色の発掘現場、つまり江戸時代の地表が姿をみせる。そのさまたるや「壮観」の一言に尽きる。この感動をどうお伝えすればよいのか。わたしにはうまく表現することはできません。白熱燈・クレーン・様々な計測機器という<浮世>に囲まれながら、<浮世離れ>した江戸時代がたいせつに扱われている。もっともこの遺跡は地下鉄のエスカレーター工事にともなう発掘で、しょうらい工事のためこの遺跡を毀さなくてはいけないのです。遺跡を〝成仏〟させるための発掘であり、発掘する側はとても複雑な心境です。

 この感動を先日東京大学の院生に話したら、わたしの話し方がわるかったせいもあるのか、怪訝なかおをされてしまった。やはりここらへんの感動は写真でも見ないと伝わりません。あるいはフランス料理の会食中に言ったからいけなかったのかもしれない。「百聞は一見に如かず」というからみないと感動はわかりません。
 もちろん何でも感動するひとは馬鹿みたいですが、〝当を得た感動〟であればいくら感動をしても差し支えないのではないか。学問はあつい感動からはじまるからです。

 そんなわけでわたしは感動することしきりでした。

 おい、すごいなあ…

 とわたしは大学の後輩であるSくんに話しかける。
 Sくんは豊島区の非常勤身分で、若いながらもこの現場の指揮をとっている。Sくんはわたしにヘルメットをわたすと、毎回いろいろ教えてくれた。これが穴蔵です、これが柱の穴です、これが中山道と住宅地の際です、などなど。
 なるほどこれが江戸時代のひとの歩いていた地表か。

 それで足跡なんかないの?

 の如きアタマのおかしい先輩の質問はSくんを戸惑わせた。時々帰宅途中の赤い顔をしたサラリーマンも「なんだろう?」とフェンス越しに興味深げに覗きにくる。そんなときにきまって出てくる質問が「ねえ、小判出た?」です。一時期の埋蔵金ブームの影響らしい。残念ながら小判は出てこないが銭なら出ました。
 「埋納銭」(まいのうせん)といい、屋敷と屋敷の境と想定されるところから出ています。呪術的な意味合いで埋めたらしい。出土物には「埋めた物」「埋まった物」「捨てた物」の3つがありますが、埋納は「埋めた物」の意です。ていねいに穴窪に何文かが置いてある。だからまさか誰かの財布から落ちてしまったわけではないでしょう。銭をすてる酔狂なひとなど「銭形平次」くらいですから。
 わたしも、①わたしの発見した文久元年(1861)「巣鴨町軒別絵図」によれば、いま発掘している区域の幕末の居住者がわかり、それは植木屋家持弥三郎・弥三郎店車屋勘次郎・植木屋源五郎地借三四郎・髪結源五郎地借市五郎・鍛冶屋家持源五郎であろう、②机上の理論値ではあるが1軒あたりの間口は3間~3間半だろう、という意見を述べておきました。もっともあとの調べによって、幕末の地層は削られており、発掘した地表はもっと前の時期のものだったことがわかりました。

 さて、考古学というと、わたしにはひりひり胸が痛むような想い出がある。
 わたしは変な作図をする天才で、大学の授業でちゃわん (スーパーで買ってきたちゃわんをわざと毀して接合させたもの) の実測図をつくっていたとき、実物とは似ても似つかぬ図ができあがった。
 そんな苦い経験もあって、わたしには考古学はだめだ、と思っていたのです。写真家がカメラをいじくれないと商売できないのと同じように、やはり文献史学は古文書が読めないとだめだし、考古学は図面がひけないとだめだろう。
 わたしが唯一考古学に貢献したことがあるとすれば、わたしが考古学を専攻しなかった、ということでしょう。もしわたしが考古学をやっておれば、めちゃくちゃな報告書を書いて失笑を買うか、考古学諸賢を怒らせていたに相違ない。「それ(作図の話)はね、考古学において本質的なことじゃありません」と橋口定志さん(豊島区教育委員会学芸員)になぐさめて貰ったけれど、苦手意識はきえていない。それでとんでもない考古学音痴になってしまいました。
 だから、さあ、これから考古学を例の豊島区のSくんから教えて貰おうか、と思っていたところ、ことし水戸市の学芸員として就職されてしまい、まんまと逃げられた。
 わたしが「なんだ、オレを置いていくのか」と憤慨したら、こまった顔をしていた。優秀なひとだから、しょうがないのです。

(付記)豊島区遺跡調査会『巣鴨町Ⅵ』はもうすぐ発刊です。「巣鴨町軒別絵図」を紹介・分析した拙稿が掲載されています。また、わたしの発見した史料を契機に、豊島区などのバックアップで、3月にシンポジウムもひらかれました。その報告書もつい最近仕上がりました。この場をかりて関係者各位にお礼申し上げます。

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コメント

私が若かりし頃出ていた現場は、いわゆる緊急調査の行政発掘だったので、最後の方は時間がなくなり、冬の寒い時期にもかかわらず、真っ暗の中ライトを照らして、夜遅くまで掘り続けたこともありましたっけ。もうこの年では、腰に来るので現場には出られませんけど(..;)。

投稿: くま | 2005/07/14 12:21

わたしも機会があれば参加してみたいものです。

投稿: 高尾 | 2005/07/14 21:42

あの厚い鉄板の下のそのようなものがあったとは!
全然知りませんでした。
今度通る時は、心して通りたいと思います。

投稿: ししまる | 2005/07/18 23:37

去年の話なのでもう埋め戻していると思うんですが、都内の道の部分の発掘となると、このようにやらざるを得ないわけです。ロマンチックな感じがしますね。

投稿: 高尾 | 2005/07/19 00:54

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