« (江戸と東京)都市の作法 | トップページ | (思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路― »

2005/07/02

(人物史)川路左衛門尉聖謨

 安政4年(1857)4月21日、老中阿部伊勢守らの行列が、武蔵国多摩郡羽村上水大口見分のため、多摩郡の村々を通行したときのことです。
 沿道の百姓たちはいろいろとそのためのお世話をします。もちろん幕府首脳たちですから、格式とそれにともなう威厳があって、彼ら百姓たちと無駄口をたたくようなことはいたしません。百姓たちにとっても幕府首脳は雲の上のおひとだった。
 ところがそのお歴々の中、ひとりだけ人なつっこいおひとがいたようです。勘定奉行の川路左衛門尉聖謨(としあきら)です。何と彼が百姓に話しかけてきたので、それは「一奇談」として村の記録に残されました。

……爰に一奇談あり、御勘定奉行川路左衛門尉様御立出、御乗馬なされ候間、御馬脇に附添、青梅橋の方え御案内致し候処、種々御咄しの際、是よりサンホク迄何りこれあり候や御尋につき、羽村まで御通行筋ニサンホクと申す村名・地名御座無き旨申上候処、例の扇面(高尾注、地名を印刷した扇をもっていたらしい)御見なされ、是に正に記しこれあり候如何との仰につき、拝見致し候処、三ツ木村の内字サンホリの間違に御座候旨申上候処、成程サンホリのリとクとの書損、筆者の誤りにて発明と、手を打御笑ひなされ……

 つまりはこういうことです。

乗馬した川路が地名の印刷された扇をもちながら、百姓と話しながら歩いている。川路がふと「サンホクまで何里だ?」と百姓に尋ねた。すると百姓は「羽村までの沿道にサンホクなどという地名はございません」と答える。それで川路は不審な顔をして「ここにちゃんと『サンホク』と書いてあるではないか」と百姓に例の扇を差し出した。すると百姓は「三ツ木村の字の『サンホリ』の間違いでございます」と答えた。それで川路は「なるほど、『サンホリ』の『リ』と『ク』の書き損じだな。筆者の誤りということか。わかった」と手をうって笑った。

 実は彼は根っからの御旗本ではありません。日田の地役人の子にうまれ、江戸の幕臣の家に養子に入り、幕府の中枢にまで累進をとげた能吏です。
 もとが地役人の家ですから、百姓に親近感があって、フレンドリーに会話することができたのでしょう。また、現地の百姓と雑談することで、世の中をひろく知ることができるのです。幕府の御用部屋でいくら書類と格闘していても、わからないことは沢山あって、川路はそれを痛いほどよく知っていた筈です。
 ともあれ、村の記録に勘定奉行との雑談が残されるのは極めて珍しい。この記録は武蔵国多摩郡蔵敷村「里正日誌」に書き留められています。

 もうひとつ、川路の能吏としての人物的雰囲気が伝わる文章をご紹介しましょう。ロシア人が川路と接触したときの文章です。

この川路を私達は皆好いていた。筒井老人とは別で、意味も違うが、老人以上でなくとも、少くとも同程度に好きであった。川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法でもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。その一語一語が、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイットと、炯眼と、練達を示していた。……私の気に入ったのは、川路が話しかけると、立派な扇子をついて、じっと見つめて聴く態度である。話の中程まで彼は口を半ば開いて、少し物思わしげな眼付になる。これは注意を集中した証拠である。(ゴンチャロフ著・井上満訳『日本渡航記』岩波文庫)

 交渉事にたけ、ここ一番で静かにふかい思索にふける。そんな川路の姿が目の前に浮かび上がってくるようです。幕府創業の功臣の子孫たち、つまり門閥の家々は、糞の役にも立ちません。かえって川路のような人間の方が役に立ち、胆がすわっていて立派だったのです。
 ちなみにこの川路、戊辰戦争の江戸城開城直前、自宅において、切腹ののちピストルで自分を撃ち抜き、自害しています。惜しい人物を亡くしたものです。彼の合理的思考癖とその最期とは、あまりに不釣り合いな感もありますが、無能な門閥の幕臣よりもはるかによく幕府を支えていた人物ですから、幕府と運命をともにしようと考えるのも、当然といえば当然でしょう。そのてん、越後長岡藩の河井継之助と似ているかもしれません。

| |

« (江戸と東京)都市の作法 | トップページ | (思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路― »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: (人物史)川路左衛門尉聖謨:

« (江戸と東京)都市の作法 | トップページ | (思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路― »