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2005/07/31

(教育)学力崩壊

 学力崩壊の論議が喧しい昨今ですが、かくまでに暇人が多いものかと驚きを隠せません。
 むろん暇が多いということ自体は慶賀すべきことかもしれませんが、学力崩壊を嘆く暇があったら、道路におちているたばこの吸い殻一本でもひろって頂きたい。「学力をもっている」良識ある大人が道路にたばこの吸い殻を落とすなど、学力崩壊よりもよほどゆゆしき問題ではないか。
 おとな諸君。
 「暇人」とよばれて悔しかったら中学校のテストでも解いてみなさい。

 世の中はおとなが支配しているのだから、おとなの学力崩壊が社会問題になる筈がありません。おとなになったらおとなであるが故にテストされる機会なんかありません。試しに中学校のテスト用紙をおとなの前にもっていってご覧なさい。きっとそのおとなに「失礼だろう、キミ!」と一喝されることでしょう。実はこの世で一番謎なのはおとなのアタマの中なのではないでしょうか。おとなが自分自身のアタマの中を点検しようとするのはおとなにとって自殺行為にも等しいことでしょう。
 学力崩壊ということを言い出したのはどうせ先生連中でしょう。もっと大きな問題が転がっていないだろうか。そもそもおとなはむかしは子どもだったくせに生意気じゃないか。

 義務教育の知識といっても記憶の彼方にいっていることが多いでしょう。人間は動物の中でいちばん頭がいいといっても、たいていはすぐに忘れてしまう。先日も妻と以下のような会話。

○妻「地震って最初に小さく揺れるわよね」
○わたし「そう。地震にはP波とS波っていうのがあって、最初にP波っていうのがくるんだよ。P波とS波っていうのは……」(と、いろいろ説明する)
○妻「また難しそうなことをいって!」(と、怒る)
○わたし「い、いや別に……、難しそうなじゃなくて……、中学校でふつうに習ったヨ???」

 おそらくこういうことはふつうにあるのではないでしょうか。中学校で習う知識はすでにおとな社会においては珍奇な知識として扱われています。先日も市役所の役人の方が「非常勤」の「勤」の漢字が書けずに往生していらっしゃったのをみました。子どもの学力崩壊以上に問題なことは、おとなになってから急に勉強を放棄するひとが多いことでしょう。勿論かくいうわたし自身だって、(常人以上に)忘却することが多いから、日々勉強しなければならないわけです。
 ちょっと横道に逸れますが、文部科学省の義務教育の定義というのも、よくわかりませんね。そこでの議論は、円周率を何処まで教えるかなど、変に些細なことばかりで、おおきなコンセプト(概念)についてあまり問題になっている形跡がない。たとえば実際社会に出てみると学校で習わない大事な知識が沢山ある。わたしなぞは「これを学校で教えて欲しかったのに」、そう慨嘆する場面が数限りなくありますが、それでほんとうにいいのでしょうか。

 さて、学校で「異様に」(とわたしはみえる)お勉強ができたあのクラスの仲間たちは、いまどうしていることやら。
 わたしは勉強ができませんでした。どういうわけか先生に黒板にかいて説明してもらってもさっぱり理解できず、先生にも仲間にも嘲笑されていました。だから中学校までは母親に勉強の多くを教わっていたのですが、しかしそのおかげで(?)、岩波ジュニア新書やら学習漫画やらで一生懸命いまだに勉強しています。むしろ子どもの頃勉強ができなかったほうが、勉強にたいする恐怖心が植え付けられているから、勉強にたいするやる気が長続きするのではないかと思っています(これはわたしだけに通用する理屈でしょうか)。 

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2005/07/28

(古文書入門⑦)昨今古文書講座事情

・中高年組の古文書学習 わたしは古文書講座の講師をやってだいぶ長いのですが(大学院生時代からですから7~8年でしょうか)、受講いただく方々は所謂「団塊の世代」以上です。最近は若い方もちらほらみえますが、おおむね中高年組です。
 わたしが「昭和49年(1974)生まれだ」というとたいてい驚かれます。壇に登っている先生と机に座っている受講生で、年齢は後者のほうが圧倒的に上である。この逆転現象は学校教育にはあまりみられません。「失礼ながら、どうも生徒であるみなさんのほうが、江戸時代に近いようで」と頭を掻くとどっと笑う。滑稽な風景です。当方が「むかしは数え年ですから」というと、あちらは「そりゃそうですよ」というし、当方が「むかしは路にアスファルトなんてありません」というと、あちらは「そういえばそうでございましたね」と頷く。これにはもうかないません。
 たしかに懇意にして頂いている北原進先生(元・江戸東京博物館都市歴史研究室長)も「わたしだって高尾くんみたいな若い時分に、講義で日露戦争の話をしたとき、受講生に出役したひとがいて」と仰って苦笑なさっていたから、だいたいいつの時代も似たような現象があるのかもしれません。であるにしても、ここ戦後60年の社会の変わりようはどうでしょう。時の流れに緩急のむらがあるとして、戦後から現代の時の流れは途方もない急であって、この先生と受講生のあいだの断絶はどうにも埋めようがありません。

・人生経験の重み そんな受講生の方々は自分というものをしっかりともっていらっしゃる。
 たとえばわたしが「これこれという字典がいいですよ」とお薦めしても「いや、わたしはこれを使う」と頑固に仰る。それはそれで結構なことで、その〝信念〟の固さに驚かされます。むろんわたしにもお薦めする合理的な根拠があるわけですが、60年以上生きてきた人生自体もしっかりとした根拠です。〝ながく生きた〟という事実自体におおきな説得力があって「わたしはこれを」と仰るときに人生経験の重みを感じます。
 そういう人間のおもしろさを感じることができるのも古文書講座講師の余禄といえるでしょう。

・おかあさん方はすごい さて受講いただく方々の中をみわたすと、男性と女性とでは顕著なちがいがあって、意欲的な反応をしめすのは圧倒的に女性です。
 この女性の方々、―わたしの母親の年齢層以上の方が多いので「おかあさん」とよびますが―、おかあさん方はわからないなら「わからない」と仰るし、感心するなら正直に声をあげて感心する。わたしがすこし意外なことを発言すれば、おかあさん方はわたしに「うそォ」と声をかける。わたしも負けじと苦笑して「それはですネ」と答える。これは聴衆100人くらいいても同じです。
 このように黙って聞かれるよりもわかりやすく反応して頂ければ、話しているこちらも幾分か楽なのです。あまりやられると閉口しますが時々なら大歓迎です。この反応をするということはもの学びにとってとても重要な要素です。古文書に限った話ではありません。
 世のおしゃべり好きのおかあさん方は「今更もの学びなんて」と仰るかもしれませんが、このような意味でとてももの学びに向いていらっしゃると思いますけれども如何でしょうか。

・もっとひろい世代に このように古文書講座は何故中高年の方々ばかりなのでしょうか。
 いつかの新聞記事によれば、古文書講座に参加するあるご老人は「私たちの青春時代は戦争だったので楽しみがありませんでした」と仰っている。しかしそれにしても何故外国語・陶芸教室・料理教室ではなく古文書なのか。単純に考えれば「古文書=古い=ノスタルジー」という発想でしょうが、もしそうだとすれば若いひとも取り込む作戦を考えなければなりません。
 中高年の方々だけでなくわかいひとにも親しめるようにしたい。その意図で、わたしの講師の経験から、いつか自分なりの古文書入門書を出してみたい、と思うようになりました。英語・フランス語・韓国語を学ぶのと同じような気持ちで、「古文書を勉強してみたい」というひとたちを増やすためです。
 たしかに字典類を含めて従来多くの古文書入門書が出版されてきました。しかしわたしを満足させる本はあまり多くはありません。それは「なぜ古文書を読むのか」「どういうメリットがあるのか」「古文書を読むときの気持ちはどうか」など、古文書を学ぶ本質にふれた本があまりないと思うからです。より正確に表現するならば「古文書入門<一歩手前>入門書」が必要であるということでしょうか。
 古文書の知識がひろまることによって文化財理解の一助にもなります。そんな歴史研究人としての〝下心〟はさておき、世代をこえてみんなが抵抗感なしに古文書講座に足がはこべるような環境をつくることがまず大事ではないでしょうか。
 昨今の古文書講座事情から最近そんなことを考えています。

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2005/07/25

(日常)人生談義逍遥

 たかが31歳で人生談義もあるまいという向きもあるかもしれませんが、人生白紙の若い人だからからこそこの話かもしれません。学会の飲み会に出ると若い人はこの話です。歴史学なんて喰えない学問やってこの先どうするのか。
 わたしの父もわたしをみて「馬鹿なやつだ」というふうにみているようですが、わたしだって自分自身がよくわかっていないから何とも答えようがない。たとえていえば、ひらひら飛んでいる蝶を追っかけていた子どもが、夢中のあまりいつの間にか空き地に放置されている土管の中に入ってしまい、身動きできなくなっているという感じでしょうか。ひとは麺麭のみで生きているわけではないから、非合理的な人生を歩まざるを得ない場合もあります。

 多くのふつうの人たちにとって、日常生活はつまらないことの積み重ねであって、実際に日記を書いてみるとそれがよくわかります。毎日記事を書こうとすればすぐに書くねたがなくなってしまうでしょう。「エッセイなど誰でも書ける、エッセイストなど原稿料泥棒みたいなもんだ」というひともいますが、ほんとうはちょっとした文章でも数多く書きこなすのはとても骨の折れる作業なのです。そのくらいに、ふつうは人生はつまらない。
 それでは劇的な人生はすばらしい人生か。もし毎日映画のような大冒険ばかりというなら、人生に退屈しないかもしれませんし、日記のねたにも困らないかもしれません。けれどもそれでは心臓がもたないかもしれず、健康面の危惧があるし、実際にはそもそも日記などの文章を書いている暇なんてないかもしれない。
 だから結局は平々凡々たる人生が丁度よいのかもしれません。そのてん自分の好きなことばかりやっている起伏の多い人生というのはどうでしょうか。ちょっと疲れないだろうか。

 わたしの大叔父は陸軍士官学校で終戦間際の青春を過ごしました。その大叔父がわたしに「いい人生歩んでいる」という。なぜというなら、

せっかく大企業に勤めたって、その企業が潰れるかもしれん。やっぱりやりたいことをやるのがいい。

 と仰る。奨学金という大借金を抱えていても、非常勤生活が長くても、わたしのような学問人生のほうがいいらしい。いまの世の中餓えることはないから。そういえば昨今、どんな不況になっても餓死というニュースはあまりない。
 大叔父は終戦で世の中がひっくり返って、それで軍人としての自分の価値観まで一緒にひっくり返ってしまった。彼の説の当否は別として、乱世をくぐり抜けてきたひとのいうことは違います。わたしとしては自分の歩んできた途がいいのかわるいのか、さっぱりわからないので、わらって「そうですか」としかいえず、とりあえず大叔父のお言葉をありがたく頂戴しておきました。

 しかしながらわたしのような似非学問人生をおくっていると、専任になるまえの非常勤生活が長いので、早死をしてしまうかもしれない。独身ならともかく家族持ちはあぶない。実際非常勤身分のままで家族をもち、生活苦から過労死するひともいます。わたしはといえば、ブログを書ける程度に日常生活にゆとりをもたせ、適度にちからを抜いています。あまり無理せぬように。半分あきらめの老荘の境地に入ったつもりでいるしかない。
 ただ人生ちょっとバクチすぎないか。肉体的・精神的につらいわたしも、少なくとも50歳くらいまでは生きたい。子どもが成人するまでということもあるし、自分の研究のこともある。人生は「どれもこれも」というわけにはいかないというのに。

何もやらずに長生きすることは早死にすることと一緒である。逆に早死にしても濃密な人生ならばそれは長生きしたことと同じである。

 というような意味のことを幕末の武雄鍋島家の当主がいっています。すきな言葉なのですが、どこの文献だったか失念しました(それがわたしらしいところですが)。
 時々このことが頭の中をかすめます。そんなとき無意識に未来の愚息たちの成人姿を想像したりします。

(付記)この稿をかいたあと、杉浦日向子さん死去の報に接しました。ご享年は46歳ということで、わたしの目標とする50歳に4歳も足りません。さきの武雄鍋島家の殿様の言からすれば「ご長命」といえなくもないのでしょうが、もっとたくさんの作品を拝見したかったというのが正直なところです。ご冥福をお祈り申し上げます。

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2005/07/22

(社会観)死体なき世の中

 大学院生のとき、板碑研究で有名な千々和到先生の授業をうけました。
 先生は授業の劈頭、「みなさん、人間の死体を何回みたことがありますか」「現代では人間の死体をみなくなりましたね」ときりだした。
 そういえば、人間の命が地球よりも重たくなったのも、つい最近の出来事です。

 むかしの日本の絵葉書にも、中国人(? だったか)の斬首風景を題材にしたものがあります。ある博物館の女性の研究員にそれをちょっとみせたら、―とても申し訳ないことに―、彼女をすっかり怯えさせてしまいました。もちろんわたしに悪気はなく、「世の中はつい最近まで殺人をかるくみていた」ということを指摘したかったに過ぎませんが、わるいことをしました。
 そういえば、ナチス・ドイツのユダヤ人迫害を描いた映画『シンドラーのリスト』も、凄惨なシーンが続くためか、映画の途中から白黒画像に変わっています。こうやって観衆が「みたくない」といえばたちまち白黒映画になってしまう。しかしその時点で真実の幾ばくかは葬られることになります。

 養老孟司さんではありませんが、我々の生きる社会は「人間の死体のない(あるいは「ないことになっている」)社会」でしょう。とりわけこの日本社会は「本人が望まないなら死体をみなくてもいい」というくらいに自由のある社会であって、その社会がイラクに兵隊をおくったわけです。
 イラク派兵の是非は措くとしても、この矛盾関係はいつも国民一人ひとりが念頭にいれておいたほうがいいでしょう。いわば、われわれは決して血しぶきを浴びることのないガンマンである。畳の上から戦争を議論するというてんにおいては、小泉首相をはじめとするほとんどの日本人が同じ穴のむじなでしょう。
 もっともあしたにはアルカイダに東京の山手線を爆破されるかもしれませんが、そのときにはじめて、日本人は自分たちの社会の本当のなりたちを「知る」ことになるのでしょう。
 それに、現在の血なまぐさい中東の国々・民族を「およそ理解できない人びとだ」などと論評するひともありますが、歴史的にみれば(といっても50年~100年たかだかの過去)、何処の国・民族だって似たり寄ったりなのです。それが厳然たる歴史的事実です。

 先日品川区立品川歴史館において、「博徒『小川の幸蔵』とその時代」という講演をおこなってきました。
 2時間講座を隔週2回分で計4時間という、折角の長時間を頂けるということなので、あえて博徒というむつかしい演題を選ぶことにしました。何故むつかしいかといえば、―わたしの話の巧拙は別として―、そもそも博徒のはなし自体が敬遠されることが多いからです。窃盗・脅迫・殺人という生臭い事例が多くて、ひとによって好き嫌いがはっきりわかれます。しかしこれは、幕末つまり100年ちょっとまえくらいの地域社会には、ふつうにあった風景なのです。こういうことに目をそむけてもらっては、歴史をほんとうに理解したことにはなりません。
 それで、そのためにわたしはずいぶん配慮して、博徒という話題をとりあげる理由について、前置きとして30分もかけて大汗かいて説明しました。それほどにこの話題をとりあげるのはやっかいなのです。
 殺人ということなら、新選組だって伊藤博文だってやっていた筈で、それが歴史上の話柄としてふつうにとりあげられています。それなのに何故博徒の殺人だけがアウトなのでしょう。イデオロギーの有無でしょうか。イデオロギーによって殺されたら霊魂は浮かばれるのでしょうか。
 講演の中でふれた、武蔵国多摩郡の博徒「小川の幸蔵」というひとは、彼自身おもしろいエピソードをもっているのですが、彼を囲む地域社会もまたおもしろい。彼の社会的位置はとても複雑で、必要悪というか、彼はとんでもない犯罪をおかす反面で、地域の秩序をたもつ有意義な役割をも担っていましたから、地域社会はなかなか彼を排斥することができないわけです。平気で理由もないような殺人を犯すわけですが、そのくせ地域防衛のために生命を賭して戦ったこともあります。これらすべてを歴史学の問題としてとりあげ、どちらの面をも正面から考えてほしい、と(怠け者のわたしにしては珍しく)力説したのです。
 もちろん殺人は決して許されざる憎むべき犯罪です。われわれはそんな殺人からほど遠いと感じてしまう社会に生きていますが、それはとんでもない誤解・嘘ごとであって、暴力・殺人はわれわれのすぐ隣りにある(あった)。そのことがわたしの伝えたいほのかなメッセージだったわけです。
 もっともわたしのまずい話で、はたしてそこまで伝わったかどうかはわかりません。ただ、あとで聞いた話によれば「好評だった」ということでした。おそらくわたしのひねくれた話に共感してくれた方が、最低でも一人はいらっしゃったであろうことに、安心し満足しました。

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2005/07/19

(歴史観)勤労者の歴史

 「ハナ金」の風景ほどみていて気持のいいものはありません。
 金曜日の夕方の電車の中。サラリーマンたちが、暖かい夕焼けの薄日に包まれて、休みを迎える安堵感と労働のあとの心地よさを噛みしめつつ、家庭の話か今夜のナイターの話か麻雀の話か、とりとめのない話題をたのしんでいる。そんなとき、何気ない日常がこのうえもなく愛おしく思える。きっと人間はこのような日常に何百年、何千年と暮らしてきたに相違ありません。
 そう思うと、今日の文明社会の累積がべつの印象でみえてきます。

 ずいぶん前、当時マルキスト大学生だった親戚と一緒に奈良旅行をしました。彼はおもしろいひとで、奈良の神社仏閣の文化財をみてさかんに、

 こんなん、権力者がつくったもんや

 といって貶(けな)すのです。わたしは彼の性格と思想を好ましく思っていましたから、その言葉を何とも微笑ましく聞いていました。
 たしかに彼のいうことは間違いではありません。それら文化財はまさに権力者による構造物に過ぎません。しかしそれだけを指摘するのみならば、鉛筆を指さして「これは鉛筆です」といっているようなもので、何の面白みも発展性もありません。

 たとえば大仏ひとつ造営するにしても、誰が造営の命令者であるにせよ、造営に際しての幾万人の血と汗と涙があった筈でしょう。設計図をひいてその通りに造る技師集団の存在、土を掘り出し木を切り出す集団の存在、それを運ぶ集団の存在、直接造営の労働に従事する集団の存在等々、権力者の命令者を下支えする諸集団があったことを想像する必要があります。
 それに、権力者の命令に従う百姓(おほみたから)の側も、権力者からの「搾取」ということ以外に、御仏に何か期待をしたのかもしれない。その百姓たちの心理の問題は当時の社会状況の問題に繋がります。史料にないのでそこらへんはよくわかりませんが、どうなのでしょうか。とりあえずいろいろ考えてみる態度も必要なのではないか。

 さて、彼は現在優秀なサラリーマンになっています。
 時々仕事上での愚痴を聞かされます。かつてのマルキストも、冒頭に記した風景の中の、平坦な日常に生きる勤労者のひとりになった。それは彼の権力観・社会観にどのような影響を与えたのでしょうか。
 後学のため是非それを質問してみたいと思っています。「マルクスは何処へ行ったのか?」と。むろん揶揄するつもりはありません。むしろ転向というのは、高次元な人間の営みのひとつであって、とても神々しいものだと思います。

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2005/07/15

(町なみ)そうだ、川越へいこう

 歴史(歴史学)オタク諸君。
 カノジョができたら、川越城下につれていこう。
 何故と聞かなくてもよろしい。とにかくいけばわかる。真偽定かならざる風聞によれば、江戸時代村落史の研究者で、カノジョを自分の調査村落につれていったひとがいるらしい。熱心な村落史研究信徒であったこのわたしも、いちどそれをやろうと思ったが、それは絶対よしたほうがいい。自分の視野の狭さを告白するようなもので気持ちのいいものではないからです。もちろん村落史研究=視野の狭い研究といいたいわけではない。カノジョとのデートなら、たとえば遊園地とか高級レストランでお食事とか、いろいろあるじゃないですか、といいたいのです。
 しかし川越城下ならばセーフです。

 その川越城下とはどういうところか。
 川越藩は、江戸近辺という地理的環境もあってか、親藩・譜代藩・将軍に信任のある家が襲封し、酒井家(酒井重忠)・酒井家(酒井忠利・忠勝)・堀田家・松平家(長沢松平家)・柳沢家・秋元家・松平家(越前松平家)・松平家(松井松平家)というぐあいに次々と領主がかわりました。とりわけ明和期から幕末のながきにわたって封じられた越前松平家支流の松平大和守家は、天保期以降17万石もの領地をかかえ、代々従四位をもらうほどの格式をもっていた。江戸近辺にしては大きい大名家のひとつだったのです。
 川越はその城下町であった。いま江戸情緒が残っていてよく「小江戸」と呼ばれますが、江戸時代からの呼称であったかどうかはわかりません。しかし何れにせよ、江戸文化の影響を色濃くうけた江戸の衛星都市であったことは間違いありません。
 太平洋戦争ではいろいろな都市が空襲で烏有に帰しましたが、川越だけは何故か爆弾を落とされずにすんだ。それで江戸・明治のふるい町なみが残されることになりました。
 現在、川越城下の蔵造りの町なみは、景観を美しくするために電線を地中に通しています。だからカノジョと歩くにはいいところでしょう。

 さてよく「蓼喰う虫も好き好き」というけれど、なんとわたしのカノジョになってくれるという、とても奇特なお嬢さんが現れた。わたしが大学院博士後期課程のときです。
 わたしなんか研究ばかりしていたので、髪もボサボサ、服もヨレヨレ、いま流行りの「電車男」も真っ青である。それで何故カノジョができたのか、その詳しい経緯については恥ずかしいから書かない。読者のご想像にお任せしましょう。とにかくカノジョができたのです。
 わたしが川越藩領の村の研究していたこともあるが、まずそのカノジョを川越へ連れていった。川越城下が如何なるところなのかを説明しながらあるく。それはまあまあ本格的なもので、川越藩領村の名主の日記「林信海日記」に川越城下の記事が多いから、そのコピーを参考資料としてカバンの中に入れてあったわけです。

 そこでちょっとした〝事件〟がありました。町なみに「A」という表札のかかった経師屋がありました。ここでは「A」と仮に伏せ字にしておきますが、姓氏辞典に載っているかどうか心配するほどに、なかなか世間ではみかけない珍姓である。その他は現代風の造作のお店であって、一見して何の特徴もありません。
 しかしわたしは思いあたる節があって、咄嗟に持参していた「林信海日記」のコピーをひらき、あっと驚きました。そこには「A八郎右衛門」なる人物が登場して、それも職業が同じ経師屋なのです。これはおおごとだと思い、早速A家のサッシを開いて「ごめんなさい」と声をかけた。……そのときカノジョはそとで待たせておいた。
 すぐにご主人が出てきました。わたしはご主人に「林信海日記」をおみせして「これはお宅のご先祖ではありませんか」とお尋ねした。するとご主人は首をひねりつつ「わからんけど」と呟き、やがて奥から掛軸でつかったらしい古い一本の白木をもってきた。そこにはなんと

 A八郎右衛門

 と、墨痕生々しくはっきりと書いてあるではないか。突然のご先祖探訪でご主人も吃驚り。A家を辞してわたしは、

 どうだ、これが川越なんだ

 とカノジョに一言。カノジョもわたしのいきなりの行動とその顛末にあんぐり。カノジョと町を逍遥していて、いきなり調査するのはわたしくらいでしょうか。
 このカノジョは、いまわたしの女房になっています。

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2005/07/12

(見学)江戸考古学は夜ひらく

 「圭子の夢は夜ひらく」(藤圭子)らしいが、東京都区部の江戸考古学も夜ひらくらしい。
 去年の夏、わたしは豊島区の遺跡報告書を執筆するため、同区の考古発掘現場に週一回ていど見学に足を運んでいました。といっても発掘時間はなんと夜10時以降の深夜である。わたしは職場が6時におわるから(わたしは東京都公文書館非常勤職員)、レストランにでも入って、その10時まで適当に時間を潰さなくてはいけなかったのです。
 それにしても何故わざわざ深夜に考古発掘なのでしょうか。

 ―東京都豊島区巣鴨。
 ひっきりなしに車が行き交うひろい国道(白山通り)の片側がその発掘現場です。
 もちろん昼間や夕方は発掘しません。発掘現場はあつい鉄板に覆われたままでその上を乗用車がうなりをあげて通っています。しかし夜10時以降になると道の片側が通行止めになって、焼けんばかりの白熱燈に照らされながら重い鉄板がクレーンによっておもむろにとりあげられる。そうすると凸凹した茶色の発掘現場、つまり江戸時代の地表が姿をみせる。そのさまたるや「壮観」の一言に尽きる。この感動をどうお伝えすればよいのか。わたしにはうまく表現することはできません。白熱燈・クレーン・様々な計測機器という<浮世>に囲まれながら、<浮世離れ>した江戸時代がたいせつに扱われている。もっともこの遺跡は地下鉄のエスカレーター工事にともなう発掘で、しょうらい工事のためこの遺跡を毀さなくてはいけないのです。遺跡を〝成仏〟させるための発掘であり、発掘する側はとても複雑な心境です。

 この感動を先日東京大学の院生に話したら、わたしの話し方がわるかったせいもあるのか、怪訝なかおをされてしまった。やはりここらへんの感動は写真でも見ないと伝わりません。あるいはフランス料理の会食中に言ったからいけなかったのかもしれない。「百聞は一見に如かず」というからみないと感動はわかりません。
 もちろん何でも感動するひとは馬鹿みたいですが、〝当を得た感動〟であればいくら感動をしても差し支えないのではないか。学問はあつい感動からはじまるからです。

 そんなわけでわたしは感動することしきりでした。

 おい、すごいなあ…

 とわたしは大学の後輩であるSくんに話しかける。
 Sくんは豊島区の非常勤身分で、若いながらもこの現場の指揮をとっている。Sくんはわたしにヘルメットをわたすと、毎回いろいろ教えてくれた。これが穴蔵です、これが柱の穴です、これが中山道と住宅地の際です、などなど。
 なるほどこれが江戸時代のひとの歩いていた地表か。

 それで足跡なんかないの?

 の如きアタマのおかしい先輩の質問はSくんを戸惑わせた。時々帰宅途中の赤い顔をしたサラリーマンも「なんだろう?」とフェンス越しに興味深げに覗きにくる。そんなときにきまって出てくる質問が「ねえ、小判出た?」です。一時期の埋蔵金ブームの影響らしい。残念ながら小判は出てこないが銭なら出ました。
 「埋納銭」(まいのうせん)といい、屋敷と屋敷の境と想定されるところから出ています。呪術的な意味合いで埋めたらしい。出土物には「埋めた物」「埋まった物」「捨てた物」の3つがありますが、埋納は「埋めた物」の意です。ていねいに穴窪に何文かが置いてある。だからまさか誰かの財布から落ちてしまったわけではないでしょう。銭をすてる酔狂なひとなど「銭形平次」くらいですから。
 わたしも、①わたしの発見した文久元年(1861)「巣鴨町軒別絵図」によれば、いま発掘している区域の幕末の居住者がわかり、それは植木屋家持弥三郎・弥三郎店車屋勘次郎・植木屋源五郎地借三四郎・髪結源五郎地借市五郎・鍛冶屋家持源五郎であろう、②机上の理論値ではあるが1軒あたりの間口は3間~3間半だろう、という意見を述べておきました。もっともあとの調べによって、幕末の地層は削られており、発掘した地表はもっと前の時期のものだったことがわかりました。

 さて、考古学というと、わたしにはひりひり胸が痛むような想い出がある。
 わたしは変な作図をする天才で、大学の授業でちゃわん (スーパーで買ってきたちゃわんをわざと毀して接合させたもの) の実測図をつくっていたとき、実物とは似ても似つかぬ図ができあがった。
 そんな苦い経験もあって、わたしには考古学はだめだ、と思っていたのです。写真家がカメラをいじくれないと商売できないのと同じように、やはり文献史学は古文書が読めないとだめだし、考古学は図面がひけないとだめだろう。
 わたしが唯一考古学に貢献したことがあるとすれば、わたしが考古学を専攻しなかった、ということでしょう。もしわたしが考古学をやっておれば、めちゃくちゃな報告書を書いて失笑を買うか、考古学諸賢を怒らせていたに相違ない。「それ(作図の話)はね、考古学において本質的なことじゃありません」と橋口定志さん(豊島区教育委員会学芸員)になぐさめて貰ったけれど、苦手意識はきえていない。それでとんでもない考古学音痴になってしまいました。
 だから、さあ、これから考古学を例の豊島区のSくんから教えて貰おうか、と思っていたところ、ことし水戸市の学芸員として就職されてしまい、まんまと逃げられた。
 わたしが「なんだ、オレを置いていくのか」と憤慨したら、こまった顔をしていた。優秀なひとだから、しょうがないのです。

(付記)豊島区遺跡調査会『巣鴨町Ⅵ』はもうすぐ発刊です。「巣鴨町軒別絵図」を紹介・分析した拙稿が掲載されています。また、わたしの発見した史料を契機に、豊島区などのバックアップで、3月にシンポジウムもひらかれました。その報告書もつい最近仕上がりました。この場をかりて関係者各位にお礼申し上げます。

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2005/07/05

(思い出)忘れ残りの記 ―わたしと囲碁棋士高尾紳路―

 きょうはわたしの生い立ちについて、家族のことも絡めながら少々書いてみたいと思います。しかしきわめて私事に属することですから、おそらくひとさまに何の感興もおこさないでしょう。また平凡な生い立ちですから、とくにお話することはありません。
 しかし少々かわった環境で育ちましたから、それについてお話する価値は若干あるかもしれません。そんなわけできょうはわたしのつまらない私事で埋めます。

・「囲碁一家」? わたしのうまれ育った家は父・母・わたし・わたしの弟の4人暮らし。千葉県千葉市にある平凡なサラリーマン家庭ですが、囲碁を中心にまわっていた家でした。実際「囲碁一家」というねたで雑誌の取材を受けたことがあります。ただ母とわたしのふたりは囲碁をうちませんから、「囲碁一家」は〝そと向け〟にやや誇張された表現だといえます。
 父とわたしの弟のふたりはとても囲碁に熱心でした。
 父は有段者でわかい頃は碁会所通いばかりしていました。大学時代は囲碁のおかげであやうく単位を落とし損ねたらしい。家庭でも囲碁をうちたくて、気まぐれにわたしの弟に囲碁を教え込んでしまった。
 弟の高尾紳路は、「熱心」というもおろか、囲碁棋士として囲碁でめしを食っています。かれは最近テレビ・新聞・雑誌などによく出てきますからご存じの方も多いことでしょう。かれの履歴に関しては、囲碁の世界に疎いわたしよりも、むしろ囲碁ファンの方々のほうがずっとご存じでしょう。わたしの研究仲間でも、わたしの弟が誰なのかを知っているひとはそう多くありません。
 女性である母は格別、我が家の男性陣の中で、この囲碁好きの父・弟ふたりと、そうでないわたしとでは、同じ家族のうちであるのに象ときりんくらいに人種が違う。囲碁ばかりではなく、父・弟が理系的で勝負事好き、わたしは文系的で勝負事がきらい、などなど。これは不思議なことです。
 わたしの人生はこの父・弟の属する「囲碁の世界」から落ちこぼれることに始まり、それからコロリコロリとゴルフボールのように転がって、なぜだか歴史学にすっぽり嵌ってしまったのでした。

・囲碁のわからぬ兄、囲碁のわかる弟 わたしは高尾紳路の兄ですが囲碁はうてません。知っているのはうろ覚えな基本ルールだけで(アタリとかコウとか)、まともにうったことはなく、うとうと思ったこともありません。よくひとから「お兄さんもうたれるんでしょう?」と聞かれますが、うたない理由をいうのが面倒なせいで、いつも曖昧な返事をして適当にお茶を濁すことにしています。
 わたしは紳路とは3つ違いの兄で、昭和49年(1974)の生まれです。わたしは幼い頃から体が弱く愚鈍の評もありました。学校ではどういうわけか忘れ物が多く、宿題はやらないしテストもできない、散々たるていでした。それで先生には叱られてばかりでよく懲罰をうけていたように記憶しています。いっぽう弟は勉強がよくできていたようです。
 父から囲碁を教わったのはたしか小学校低学年の頃だったように思います。テキストは日本棋院発行の「囲碁は楽しい」という本。しかし父のげんこつがあまりに多かったためか、楽しいと思ったことはなく、子ども心に「テキストはうそつきだ」と思ったものです(テキストに責任はありません)。だからテキスト名だけはいまでもよく覚えているわけです。
 わたしはまったく囲碁を理解せず、―げんこつが多くてアタマが壊れてしまったのかもしれません―、かえって弟の方が横からわたしよりも先に正解を指摘していました。「岡目(傍目)八目」といいますが、それよりもわたしには才能がなかったのでしょう。それで弟に気をよくした父はやがてわたしと弟とを一緒に教えはじめます。弟は囲碁を理解しない兄を出し抜くことで何がしかの満足を覚えていたようで、それが弟のやる気を高めていったのではないか。
 当時のわたしもそれに薄々は気づいていたものの、生来闘争心が薄く格別悔しいとは思いませんでした。結果弟に負けるに任せ、わたしはそれで囲碁を覚えようとする気力も失せて、その後2度と石を握ることはなかった。

・「しんねこ」こと高尾紳路 紳路は昭和51年(1976)年生まれ。彼は父によく似て囲碁と相性がよかったらしい。
 紳路はかわった子どもでした。囲碁以外の勝負事も好きで、負けん気がつよかった。トランプで負けても泣いておこっていました。わたしからみて何処がくやしいのかわからないけれど、とにかくムシャクシャするらしい。そんなとき白い顔のこめかみにうっすら青い筋がたっていた。武器は爪。幼い頃の彼は爪が薄くて引っ掻かれるととても痛かった。おこらせたらこれでガリガリやられる。だから家族は紳路を、

しんねこ

 と呼んでいました。
 とりわけ囲碁に勤勉でした。小学生のときは学校の宿題は学校で済ませ、家では囲碁の勉強に専念する。ランドセルをおろすとすぐに碁盤に向かっていました。江戸時代の棋譜を並べるのが好きで、誕生日プレゼント(クリスマス?)が『本因坊秀策全集』という本だった。和装仕立の美しい装幀の本で、小学生のプレゼントにしては途方もなく高価だったでしょう。こんな子ども何処探したっていやしません。江戸時代の棋譜だから、親から「廿」が二十、「卅」が三十であることを教えて貰って、ならべていました。それで将来自分が「本因坊」(第60期)になってしまった。
 おさない弟にも囲碁のお師匠さんがいました。田岡敬一さんというひとです。田岡さんは、高尾紳路をはじめ、三村智保さん・森田道博さんを発掘し育てたことで、死後に「名伯楽」とよばれたひとです。囲碁のアマチュア強豪で、囲碁の観戦記を書いたり、小説を書いたり、テレビのプロデューサーをやったりする、かわったおじいさんでした。子ども好きで、紳路めあてによく高尾家に遊びに来ていました。そのもとで随分しごかれたようです。
 田岡さんの死後、その3人ともが田岡さんの親友だった名誉棋聖藤沢秀行さんの門下に移籍します。その経緯は藤沢秀行さんの『勝負と芸』(岩波新書)だったかに載っている筈です。この藤沢秀行さんはたいへんな奇人ですが、ここでは割愛します。
 紳路は中学校2年生のときプロ棋士になっています。これら紳路の成長の記録は、彼の囲碁を覚えたころから、父が克明に書き留めてありますから、将来父が彼の伝記を書くときに貴重な史料になるでしょう。問題は父に文章上で人間紳路を浮き立たせる力量があるかどうかだけです。
 ちなみにいま世間では子どもに英才教育を施すのが流行りです。しかし英才教育というのは「英才のための教育」であって、「凡人を英才にするための教育」ではありません。(うちの子、ひょっとして…)という考えはやめましょう。子どもに無用なストレスをかけることはありません。

・わたしは歴史小説で空想、そして古文書… さて、いっぽうのわたしはというと、さっぱりうだつがあがらなかった。わたしの青春時代は濃い霧のなかにあります。
 父はわたしのことを「できが悪い」「失敗作だ」と、ほうぼうでこぼしていました。なるほど、学校の成績はよかったときも悪かったときもありますが、概ね低調、高校のときには成績はどん底まで落ち、落第しかかったことさえあって、親が高校に呼び出しをうけるというひとこまもありました。わたしの愚鈍さは教員の職員室でも話題になっていた。
 元来わたしは勝負ごとが嫌いで、野球やサッカーの観戦にも熱中することはありませんから、囲碁にも受験戦争にも不熱心でした。おまけに歴史小説などの読書で独り空想を膨らます癖があって、ぼんやりとした恍惚のうちに青春を過ごし、父に「病院へ入れ」などとよく怒られたものです。歴史というのは浮世とは切り離された離れ座敷のようなもので、空想のよい種だと思っていました。浮世の煩雑なことを忘れるため歴史はわたしにとっていい〝隠れ家〟だったのです。
 やっとのことで高校を卒業、一年浪人の後、立正大学史学科に何とか入学します。「何とか」というのは、この年の立正大学は受験制度の変更にともない、例年よりも偶々合格者を多く出し過ぎるというミスをやらかした。それでわたしも何とかその合格枠のなかに紛れ込むことができたのです。だから合格したと知ったとき、嬉しかったというより「夢じゃないか」と思った。父はというとわたしの大学入学に不満でした。もっと偏差値の高い大学をと考えていたのでしょう。しかしわたしは唯一得意だった歴史を勉強できるということで、それを大して気にもかけず、受験という煩わしい用事からの開放感をのんきに味わっているだけでした。
 この大学入学が転機になって、それから純粋に自分と向き合い出したように思います。生物学・物理学・化学・文学・社会学・経済学など、あらゆる分野の本を精読して(いまはもう多くを忘れてしまいましたがいい経験です)、その傍ら、本業の歴史学を勉強しました。特に面白かったのは、江戸時代の古文書の解読で、歴史小説とは違った次元で、わたしお得意の空想は広がって興味がもてた。偶然に入った立正大学ですが、古文書で著名な大学でしたのでよい環境でした。非力ながら、独り暗い洞窟で錐をもむような気持ちで、落ちこぼれのわたしはわたしなりに、将来を模索しようと考えていたのです。

・「兄弟は他人の始まり」? よく「兄弟は他人の始まり」といいますが、最初から見事に兄弟は「他人」で、恐らくほとんどの部分で違う性格を持っているのではないかと思います。ただいまにして思えば、ふつうのサラリーマンにならなかったところは共通していて、全く似ていなくもないような気がしています。
 また、父に関していえば、こうやって書いていると何か酷い父のようにみえますが、ちゃんと大学の学費などを出してくれました。そんな父もむかしと変わらぬ鬼瓦の貌のまま、ことしようやく還暦を迎えます。いまだに「はやくちゃんと就職せい」と口うるさいのですが、この口うるささがなくなったら、おそらく死期が近いということなのでしょう。還暦の祝いをやります。
 こんなわたしも、いまは結婚をし2児の父になり、あんなにいやだったお勉強が世の片隅においてもらえる唯一の術となった。そんな我が身の不思議さに首を傾げる毎日です。

(付記) 弟高尾紳路本因坊についてのご質問を頂いても、何もお答えすることはありません。書いたように、囲碁のことも知らないし、それにまつわる人間関係もよく知りません。囲碁ファンのかたの方が、むしろよくご存じの筈です。

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2005/07/02

(人物史)川路左衛門尉聖謨

 安政4年(1857)4月21日、老中阿部伊勢守らの行列が、武蔵国多摩郡羽村上水大口見分のため、多摩郡の村々を通行したときのことです。
 沿道の百姓たちはいろいろとそのためのお世話をします。もちろん幕府首脳たちですから、格式とそれにともなう威厳があって、彼ら百姓たちと無駄口をたたくようなことはいたしません。百姓たちにとっても幕府首脳は雲の上のおひとだった。
 ところがそのお歴々の中、ひとりだけ人なつっこいおひとがいたようです。勘定奉行の川路左衛門尉聖謨(としあきら)です。何と彼が百姓に話しかけてきたので、それは「一奇談」として村の記録に残されました。

……爰に一奇談あり、御勘定奉行川路左衛門尉様御立出、御乗馬なされ候間、御馬脇に附添、青梅橋の方え御案内致し候処、種々御咄しの際、是よりサンホク迄何りこれあり候や御尋につき、羽村まで御通行筋ニサンホクと申す村名・地名御座無き旨申上候処、例の扇面(高尾注、地名を印刷した扇をもっていたらしい)御見なされ、是に正に記しこれあり候如何との仰につき、拝見致し候処、三ツ木村の内字サンホリの間違に御座候旨申上候処、成程サンホリのリとクとの書損、筆者の誤りにて発明と、手を打御笑ひなされ……

 つまりはこういうことです。

乗馬した川路が地名の印刷された扇をもちながら、百姓と話しながら歩いている。川路がふと「サンホクまで何里だ?」と百姓に尋ねた。すると百姓は「羽村までの沿道にサンホクなどという地名はございません」と答える。それで川路は不審な顔をして「ここにちゃんと『サンホク』と書いてあるではないか」と百姓に例の扇を差し出した。すると百姓は「三ツ木村の字の『サンホリ』の間違いでございます」と答えた。それで川路は「なるほど、『サンホリ』の『リ』と『ク』の書き損じだな。筆者の誤りということか。わかった」と手をうって笑った。

 実は彼は根っからの御旗本ではありません。日田の地役人の子にうまれ、江戸の幕臣の家に養子に入り、幕府の中枢にまで累進をとげた能吏です。
 もとが地役人の家ですから、百姓に親近感があって、フレンドリーに会話することができたのでしょう。また、現地の百姓と雑談することで、世の中をひろく知ることができるのです。幕府の御用部屋でいくら書類と格闘していても、わからないことは沢山あって、川路はそれを痛いほどよく知っていた筈です。
 ともあれ、村の記録に勘定奉行との雑談が残されるのは極めて珍しい。この記録は武蔵国多摩郡蔵敷村「里正日誌」に書き留められています。

 もうひとつ、川路の能吏としての人物的雰囲気が伝わる文章をご紹介しましょう。ロシア人が川路と接触したときの文章です。

この川路を私達は皆好いていた。筒井老人とは別で、意味も違うが、老人以上でなくとも、少くとも同程度に好きであった。川路は非常に聡明であった。彼は私達自身を反駁する巧妙な論法でもって、その知力を示すのであったが、それでもこの人を尊敬しない訳には行かなかった。その一語一語が、そして身振りまでが、すべて常識と、ウイットと、炯眼と、練達を示していた。……私の気に入ったのは、川路が話しかけると、立派な扇子をついて、じっと見つめて聴く態度である。話の中程まで彼は口を半ば開いて、少し物思わしげな眼付になる。これは注意を集中した証拠である。(ゴンチャロフ著・井上満訳『日本渡航記』岩波文庫)

 交渉事にたけ、ここ一番で静かにふかい思索にふける。そんな川路の姿が目の前に浮かび上がってくるようです。幕府創業の功臣の子孫たち、つまり門閥の家々は、糞の役にも立ちません。かえって川路のような人間の方が役に立ち、胆がすわっていて立派だったのです。
 ちなみにこの川路、戊辰戦争の江戸城開城直前、自宅において、切腹ののちピストルで自分を撃ち抜き、自害しています。惜しい人物を亡くしたものです。彼の合理的思考癖とその最期とは、あまりに不釣り合いな感もありますが、無能な門閥の幕臣よりもはるかによく幕府を支えていた人物ですから、幕府と運命をともにしようと考えるのも、当然といえば当然でしょう。そのてん、越後長岡藩の河井継之助と似ているかもしれません。

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