(江戸時代後期、むらの記録④)江戸への羨望
あるサイトに「巨人の清原和博(きよはらかずひろ)選手が入場するときに何故『とんぼ』(長渕剛)が流れるのでしょうか?」という質問がありました。その返答として、
そのことについて、本人がテレビで言っているのをみました。「死にたいくらい憧れた花の都大東京」という歌詞がトンボの中にありますが、この「花の都大東京」を「巨人軍」とダブらせているそうです。
という旨の文章があり、「なるほど」と感じ入りました。
武蔵国幡羅郡中奈良村(現、埼玉県熊谷市)名主野中家文書では、名主の隠居野中休意の作った天保8年(1837)「凶年知世補苦連」という文章があります。これは当時の関東村落を風刺したうたです。
田舎の奢りは、山でも里でも、湯屋が建やら、髪結所や、菓子や茶・烟草江戸より取寄、日雇取迄銀の煙管に、股引・脚絆も御鷹野仕裁の江戸向よいのと、三枚雪駄を常に履やら
とあります。これによって江戸の商品はむらではちょっとしたブランドとして受け入れられたことがわかります。それを休意は皮肉をもって「田舎の奢り」と表現し、後の文章では「それだから天保飢饉の災禍に陥ったのだ」と指摘しています。
また、彼は「俗語仮名交百姓要用教喩書」という書物の中でも、田舎とは異なる江戸の気風に対して戸惑いの気持ちを吐露しています。
なかんずく江戸者をうらやむ人多し、さりながら江戸の事を知らぬ故なり、おかしななはなしなれども、江戸町抔にては不如意なるものは女房・娘を人の囲者に出し、又は酒の酌抔となづけ銭次第・金次第にて自由に成るとかや、其いやしき事恥しき事どもなり、在郷もの・田舎ものと百姓の事をいやしみいへども、田舎などの人々は、女房・娘をたとえ小判を山に積むとも、人の慰みものなどには何ほど貧乏するとも左様の事は決てなし、
むらに江戸者をうらやむ傾向があることに対し、休意は江戸を拝金主義の蔓延る土地と指摘して、むらのひとに注意を促しています。「江戸のひとは不如意になると、すぐ女房・娘を囲者に出してしまうが、田舎の人は小判を山に積まれてもそんなことはしない」といい、江戸への羨望は幻想であると主張します。
江戸時代後期はむらから都市へとひとが流れ出ることの多かった時期です。それを阻止しようとしたむらの名主の立場からの発言です。それにしても清原選手にとっての「江戸」はどうだったのでしょうか?
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コメント
区別はつけにくいかもしれませんが。全国的に江戸への羨望があったのか、あるいは江戸に限らない近隣の大都市への羨望だったのでしょうか。
私の住む関西の某市では東京への憧れというようなものはあまり感じられず、漠然とした反感すら感じられる土地柄ですので...。
投稿: 傘屋 | 2005/06/06 12:53
たとえば、江戸からちょっと離れた関東出身のひとでも、関西地方に行って、自慢気に江戸っ子ぶってみせるというようなことがあったみたいです。いまは「東京出身だぞ」という自慢はありません。むしろ大阪気質のほうがもてはやされていますが……。
投稿: 高尾 | 2005/06/06 13:10