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2005/06/29

(江戸と東京)都市の作法

 江戸時代の話。江戸では混雑している風呂の湯船に入るとき、隣の人にお湯が撥ねることをおそれて、

 田舎者でござい

 と、声をかけるのだそうです。
 むろん、そのひとが本当に田舎者であるか否かということは、たいした問題にはならず、気軽な「失礼します」というほどの声かけに過ぎません。ただ、「失礼」を「田舎者」に代表させているあたり、江戸っ子の子どもじみた威張り方が表現されていて、わたしのような田舎者にとって、奇妙な可笑しさを感じさせます。

 ある日の夕方、東京近郊の混みあった電車の中。熊本弁を丸出しにして携帯電話で大声で喋っているおじさんがいました。
 すると、隣に立っていたおじさんが、堪えきれなくなったのか、その熊本おじさんを、もっていた週刊誌でぽかりと殴った。それに「なんだ、この野郎」と熊本おじさんも怒って、大喧嘩になりました。
 しかし、車内で「携帯電話で喋っていて何だ」というやじが何処からか聞こえてきて、あきらかに熊本おじさんの方にぶがわるい。それで、熊本おじさんも折れてしまい「わるかったよ」と謝ったが、いっぽう殴ったほうも「いや、殴ったおれもわるかったんだ、実は会社でいやなことがあってさ」と謝って、どういうわけか彼らは仲直りしてしまった。最後は両者で世間話をするようになりました。このおじさん2人は、団塊の世代くらいでしたが、やはりこの世代の連帯感は不思議なところがあります。
 それはさておき。
 東京の電車では「携帯電話のご使用はご遠慮ください」というアナウンスが流れますが、熊本地方にはあるのでしょうか。あったとしても、熊本は東京ほどに人口が過密ではないから、ナイーブな問題にならないのかもしれません。もしもそうなら、偶々東京に出てきた熊本おじさんにとって、予期せぬ災難だったわけです。先の「田舎者でござい」を思い出し、たいへん可笑しかった。

 さて、先日の東京山の手線の車中、やはり、席に座って大声で携帯電話で喋っている茶髪の若者と遭遇しました。ただ、しばらくしてその若者、突然バッタのように立ち上がった。どうしたことかと思ってみていると、

 どうぞ

 といって、何と目の前の老人に席を譲ったのです。
 これなんぞはどうでしょうか。
 車内で携帯電話を使えば、週刊誌で殴られるほどの極悪人らしいのですが、老人を目の前にして席を譲らない若者が殴られた、という話を寡聞にして知りません。エロ雑誌を読むおじさんや、大声で喋りあうご婦人方も、どうやら無罪(?)らしい。よく「携帯電話の電波が心臓のペースメーカーにわるい」といいますが、それなら車内で携帯電話のメールをみてみるひとはどうなるのでしょうか。
 そういうわけでわたしには世間の作法がさっぱりわかりません。とりわけ都市の作法というのは難しいことが多くて困ります。

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2005/06/22

(子ども)身体髪膚これを父母に受く

 あまり浮き世のことは存ぜぬで暮らしてきたわたしも、子どもができると、身辺家事のことで忙殺され、かえって研究の世界から遠のくことが多くなりました。
 これではいけないと思うものの、子どもと一緒に遊んだ休日など、夕方になればぐったりで、すぐに寝入ってしまいます。

 昨日は仕事を休んで幼稚園の授業参観にゆきました。家庭ではみることのできない長男の横顔をみてきて、心底おもしろかった。
 自由時間では、みんながブランコや滑り台で遊んでいるのに、長男だけはダンゴムシをみつけようと、あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶら、しゃがんで独り遊びに熱中している。しかし、格別寂しそうでもないし、友だちがいないわけでもなさそうで、彼の興味関心はよほどユニークにできあがっているらしい。
 授業がはじまったときも、みんながうたをうたって随分たつというのに、「ひよこ1組」のクラス部屋になかなか姿を現さない。どうしたことかと周囲をみまわすと、隣の部屋で長男がゆっくりと手をあらっているではないか。その後ろ姿は、慌てているふうでもない。浮き世のことはどうあれ、自分のペースを後生大事にしているようで、その様たるや、何ともいえずに可笑い。
 お遊戯でも、ひとりだけテンポがおくれるから、先生が長男につきっきりで、先生は侍女のように甲斐甲斐しくお世話をしてくれる。おどりの動きが複雑で嫌気がさしたのか、泣きそうでいると、すかさず先生がはげましてくれます。
 総じて、わたしの長男は変わり者であるらしい。そして、そんな長男の何から何までが、幼いときのわたしに酷似していて、親子はこれだけ似てしまうものなのかと、驚きを禁じ得なかったのです。たしかに「身体髪膚これを父母に受く」というから、当然といえば当然なのですが、かほどまでとは思わなかった。

 わたしのちいさな頃は、現在のように「個性」なとどいう物差しはありませんでした。教育といっても、徹底的に管理するだけで、先生も体罰をすることに平気だったし、子どもに対する発言もあまり気にしていませんでした。先生によって才能も人格も様々でしたが、まずは家畜の世話ができる力量さえあれば教師がつとまっているような気分でした。
 その証拠に、小学生のときのわたしは、鈍重だということで「ぶた」と先生から呼ばれていたし、親も先生から「将来ろくな人間に育ちません」と宣告されて、ショックをうけたこともあったようです(半分あたりましたが)。当時通っていた近所の英語塾の先生も哀れみの表情で、

 学校の授業わかる?

 とわたしに聞いてきました。「ううん、わからないよ」と答えると「そうなの」とだけ言い、あとはおし黙ってしまった。勉強ができないということは、ひとをお通夜ほどに暗い気持ちにさせるらしく、―その先生に失礼ですが―、子ども心にたいへん可笑しかった。
 そんなていたらくだったわたしの子どもが上等である筈もなく、今回の授業参観でそれをしっかりと確認してきました。「まあ、そんなもんだろう」と笑って妻に報告しました。
 そんな菲才なわたしであっても、有り難いことに、偶々わたしを必要としてくれる奇特な方々がこの世にあって、そのお陰様でなんとかご飯にありついているし、近頃は何でも個性と評価される結構な世の中になったらしいから、この先、長男も何とかなるのかもしれません。

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2005/06/18

(名前)命名するということ

 わたしの名前は善希といいますが、「善」の字は江戸時代からの世襲です。大した家柄ではありませんが、惰性で同じ字が歴代続いてしまったらしい。
 わたしの長男も「善」の字がつきます。彼の名前を考えたのはわたしですが、名前を決めるのが面倒だったから、とりあえず「善」を冠にし、その後ろにあまり意味のない文字をひとつつけた。あまり子どもの名前にこだわりません。これは子どもへの愛情とは無関係なことです。
 したがって、このような「どうせ名前なんて記号と同じだ」という極めて素っ気ない考え方に立てば、世襲の名前は結構便利かもしれないのです。ちなみに、次男の名前の場合は「善」の字はつきません。女房が考えてくれた名前ですが、どういう由来だったか思い出せません。それは女房もわたしと考え方は似ていて無造作につけてくれたからです。
 しかし昨今では凝った名前をつける親御さんが多くて驚かされます。親の愛情のあまり読ませ字が多く、名前の読み方がわからないものもあります。ただそれらは人知のおよぶ限りに考えに考え尽くしたものらしく、アイデア性に富み、「なるほど」と感心してしまうものばかりです。これは〝命名のプライベート化〟とよぶべきことかもしれません。
 それでもわたしの場合は、息子なんかにいい名前は勿体ないから、新種の昆虫の学名くらいに機械的でわかりやすいものが丁度よいだろう、と考えています。

 そんなわたしでもちょっとこころ動かされる名前がありました。
 それは松尾芭蕉「おくのほそ道」にあります。芭蕉が下野国那須野に通りかかる場面です。

   那須野
……雨降り日暮るる。……野飼の馬あり。草苅るおのこになげきよれば、野夫といへどもさすがに情しらぬには非ず、「いかゞすべきや。されども此の野は縦横にわかれて、うゐうゐ敷き旅人の道ふみたがえん、あやしう侍れば、此の馬のとゞまる所にて馬を返し給へ」と、かし侍りぬ。ちいさき者ふたり、馬の跡したいひてはしる。独りは小姫にて、名をかさねと云ふ。聞きなれぬ名のやさしかりければ、
   かさねとは八重撫子の名成るべし 曽良
頓て人里に至れば、あたひを鞍つぼに結付けて馬を返しぬ。

   (久富哲雄訳)
……雨が降り出し、日も暮れてしまった。……野飼いの馬がいた。そばで草を刈っている男に近寄って嘆願したところ、田舎者ではあるけれども、やはり人情を知らないわけではなく、「どうしたらよいかなあ。案内してあげるわけにもいきませんが、とは言っても、この那須野は道がむやみやたらに分かれていて、この土地に慣れない旅人はきっと道をまちがえるでしょう。それが心配ですから、この馬に乗って行って、馬が止まった所で、馬を帰してください」と言って、馬を貸してくれた。小さい子供が二人、馬の跡について走って来る。一人は小娘で、聞いてみると、名前を「かさね」という。聞きなれない名前が、いかにも優雅に感じられたので、 「かわいらしい子供はよくなでしこにたとえられるが、この小娘は「かさね」という名前だそうだから、なでしこならば花びらの重なり合った八重撫子の名であろう。曽良」 まもなく人家のある村里に着いたので、馬の借り賃を鞍壺に結びつけて、馬を帰した。(久富哲雄全訳注『おくのほそ道』講談社学術文庫452、1980)

 わたしはこの文章が何処となくゆかしく思えて、「女の子がうまれたら『かさね』にしよう」と考えていました。
 ところが「『かさね』とは怪談の幽霊の名前ではないか」とひとから指摘され、それもそうかと急に熱がさめてしまった。しかも結局女の子もうまれなかったのです。
 それで「世の中はうまくはいかないもんだ」とこちらが「恨めしく」思ったものです。

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2005/06/15

(史料)居眠りの愉楽

 いよいよまた暑い季節がやってきます。その風物詩(?)ともいえそうな習慣が昼寝です。最近では昼寝の効果が見直されてきたようで、社員みんなで昼寝をする会社もあるそうです。
 こういうことは今昔同じで、「こう暑いんじゃ、やってられないよ」といわんばかりに江戸っ子も昼寝をしていたようです。菊池貴一郎編『江戸府内 絵本風俗往来』(青蛙房復刻版、1965)を繙いてみましょう。

○午睡(ひるね)
真夏の頃は、午飯(ひるめし)終るや、睡気頻りに催し、市中道路の往来も日光のつよさに堪へかねて、一時は絶て止ぬるまゝ、自然近隣何等の響も聞へず、諸職人は午飯休(ひるやすみ)の肱枕(ひじまくら)、諸商店は算盤にもたれる手代あれば、硯箱へ肱(ひじ)をつきたる老番頭も見へ、船漕よする小僧さんもあり、勝手の方に女中方思ひ思ひの忍眠り、奥にて子供を寝しながら、母親さへもへの字の形、去れば此時いづれも同じ鼾睡(いびき)の声、……午飯終れば睡(ねむ)るものと眼が覚て又ひるね、気楽な世代と笑はれるが、昔の江戸の習慣とは扨お恥かしいことなりける、

 「日光のつよさ」で町中がしいんと静かになって、諸職人・手代・老番頭・小僧・女中、そして子どもを寝かす母親まで、枕をならべて討ち死にしている。いまにも目に浮かんでくるような風景です。

うつぶいて筆で艫を押す夜手習 「もみち笠」

 とくに小僧は夜しか勉強する時間がありません。時間とあぶらを惜しまず手習いをする。それで昼間も居眠りしてしまうのかもしれません。

 さきに「昼寝は江戸っ子の恥ずかしい習慣」というふうに書いてありますが、世界的にみて日本人は居眠りをする民族なのだ、という意見もあるようです。考古学者の故・佐原真さんによるエッセイ集『考古学千夜一夜』(小学館ライブラリー88、小学館、1996)「居眠りも日本文化」に教えられました。

欧米の人びとは、日本人の居眠りを異常視する。「交通機関の中では、彼らはものを読んでいなければ眠っている。やむなく乗客のまんなかに立ったままで……。なにしろ日本人は、こうこうと明かりがついていようと、ひどい喧騒の中であろうと、どんな人込みの中であろうと、いつでもどこでも眠ることができる」(P=ランディ著 林瑞枝訳『ニッポン人の生活』文庫クセジュ 白水社 一九七五年)。……学生時代、樋口隆康さんの古鏡の講義を一人だけで受けたとき、私は睡魔におそわれた。一対一なんだからおきていなければと理性がよびかけたけれど無駄。その心地よかったこと。目を覚ますと、講義は、淡々と続いていた。何たる寛容さ。いま、教壇に立って居眠り学生を決してとがめだてしないのは、その思い出ゆえと、日本文化を大切にしたい精神からである。

 先生ひとりと学生ひとりとはこれ如何に? 怪しむことなかれ、大学院生の授業では、こういうことも珍しくないのです。わたしも先生ひとりに生徒3人の授業をうけていました。欠席したらたいへんですが、居眠りもまずい。
 それでも居眠りをしてしまった。佐原真さんという大物も睡魔には勝てなかったということでしょう。睡魔に弱い怠惰なわたしも励まされるような(?)エピソードです。

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2005/06/12

(学問)役に立つか、立たぬか

 マイケル・ファラデー(Michael Faraday)は、いまわれわれが生きている電気文明の源泉をつくった、お釈迦様かキリスト様くらいに有り難いおひとです。鉄線コイルの中で磁石を動かすと電気が発生する、所謂「電磁誘導」というおもしろい現象を発見したひとです。貧しい家庭に生れて、14歳から製本屋で働きながら独学で科学を勉強、イギリスの王立研究所の助手に採用され、立派な科学者になっていった、立志伝中の人物です。なかなかのアイデアマンだったらしい。この「電磁誘導」によって、ひとは「運動」を「磁力」の変化によって「電力」に変換することを知ったから、彼を「電気の父」とたたえて感謝しています。
 しかし、発見の当時は、周囲のひともそしてファラデー自身も、それがほんとうに役に立つ知識なのかどうか、判然としなかったらしい。
 それを示すこんな逸話があります。

……ある日、ファラデーが群衆の中で電磁誘導を実験してみせた。そのとき、その中にいたおばさんがファラデーに「そんなの何の役にたつのさ?」と問いつめた。するとファラデーは「それをいうなら、生まれたばかりの赤ん坊も、何の役にたつのかわからない」と言い返した、という。

 とりあえず、この話の真偽は問わないこととしましょう。何れにせよ、この話は、おばさんの「不明」ぶりを対照しつつ、ファラデーの賢明さをたたえる逸話として紹介されています。しかしわたしはこのおばさんの疑問も正面からうけとめたい。
 もちろんファラデーの発見は「偉大」でした。しかし何故「偉大」かといえば、たまたまファラデーの発見が後世に有益であったからでしょう。もし無益な発見であったのなら、「偉大」ではなかった。つまり「偉大」か否かは「結果論」にすぎない。たとえば、現代社会におけるニュートリノの発見にしても、将来に役立つのかどうか、さっぱりわからないけれど、とにかく「ノーベル賞」ものらしい。
 すぐに役立つ知識を貴重とする、ふつうの日常生活に生きる、話の中の「おばさん」のような人たちにとって、ファラデーの発見がすぐに自分たちの生活を救ってくれるわけではない。したがって、「そんなの何の役にたつのさ?」という質問も、ある種の正当性をもっているわけです。

 そう考えれば、研究者感覚(ファラデー)に軍配をあげるか、生活者感覚(おばさん)に軍配をあげるか、なかなか難しいところではないでしょうか。まずは、この両者の価値観のバランスを保ちながら、知的レベルを支えることが肝要、ということでしょうか。
 現在の日本では、生活者感覚(おばさん)のほうの価値観が、もっぱらに認められています。したがって、理系でも基礎研究分野には税金が配分されず、その分野の大学研究室などは貧乏しています。「役に立たぬ」最右翼たる文系諸学、たとえば歴史学なども苦しいこと限りない。
 いったい何がいけなかったか。「役に立たぬ」と偉そうにあぐらを掻く学問がいい学問なのだろうか。そして「役に立て」とばかりいう世の中もいい世の中なのだろうか。

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2005/06/09

(子ども)「お茶の水」の災難

 先日、「歴史学研究会」という名前の大きな学会を見学するため、ひさしぶりに3歳の長男をともなって遠出をしました。学会の場所は東京のお茶の水にある明治大学リバティ・タワー(東京都千代田区神田駿河台。地上23階・地下3階・高さ119mの巨大な大学校舎)です。
 むろん「見学」といっても、子ども連れの状態で学会報告をきけるわけがなく、出版社の出店くらいを「見学」するのが関の山で、とにかく長男とぶらぶらする口実として学会という場を使ったわけです。長男は電車が好きだし、明治大学リバティ・タワーは途方もなく高いから、子どもの目にも面白かろう、という考えもありました。その学会には臨時託児所もあるようでしたが、申し込みに事前連絡が必要で面倒くさいし、子どもを押し込めておいても意味がありません。

 何故だか知らないけれど、長男にはガラスに透けてみえるエレベータの昇降が面白いらしい。飽きもせず大人しくずっと見物しているから、その間にわたしはちょっと出版社の出店にならぶ新刊書をながめることができた。そうかと思うと、まじめに雑誌を読んでいる研究者にアッカンベエをしてまわり、げらげら笑って喜んでいる(被害にあわれた方、申し訳ございません)。
 ただ、学会であったみなさんも子どもがたいそう珍しかったらしく、随分かわいがってくださいました(ありがとうございました)。長男にとっても学会は物珍しかったらしく、始終上機嫌でした。いい社会勉強にもなりました。

 ところが帰りの電車がいけなかった。通常より多く駅をとばす特別快速電車にのって、「これではやく帰れるぞ」と安心してくつろいでいたところ、長男が地獄の一言。

 おしっこ…

 おしっこ? あれま、彼は目に涙を浮かべて尿意を訴えているではないか。きょう一日、何度も彼の大便・小便に気をつけていたつもりでしたが、昼間にお茶を多く飲ませたのがいけなかったらしい。車内にトイレはないし、特別快速だからしばらく駅にはとまらない。本人は絶体絶命ですが、車内は大笑いです。

 がんばれ、坊や

 と、周囲のおばさん・おねえちゃんに励まされながら彼は必死にこらえた。そしてようやくついた駅のトイレに長男を担ぎ込むと、急いでパンツを脱がせて、何とか用事を済ませることができました。よかった、よかった。
 とめどもなく流れるおしっこの色は、面白いくらいに黄色くて、昼間にのませたお茶がそのまま出てきたようでした。
 とんだ「お茶の水」の災難でした。
 そのあとは長男と歌をうたいながら帰りました。

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2005/06/06

(江戸時代後期、むらの記録④)江戸への羨望

 あるサイトに「巨人の清原和博(きよはらかずひろ)選手が入場するときに何故『とんぼ』(長渕剛)が流れるのでしょうか?」という質問がありました。その返答として、

そのことについて、本人がテレビで言っているのをみました。「死にたいくらい憧れた花の都大東京」という歌詞がトンボの中にありますが、この「花の都大東京」を「巨人軍」とダブらせているそうです。

という旨の文章があり、「なるほど」と感じ入りました。

 武蔵国幡羅郡中奈良村(現、埼玉県熊谷市)名主野中家文書では、名主の隠居野中休意の作った天保8年(1837)「凶年知世補苦連」という文章があります。これは当時の関東村落を風刺したうたです。

田舎の奢りは、山でも里でも、湯屋が建やら、髪結所や、菓子や茶・烟草江戸より取寄、日雇取迄銀の煙管に、股引・脚絆も御鷹野仕裁の江戸向よいのと、三枚雪駄を常に履やら

 とあります。これによって江戸の商品はむらではちょっとしたブランドとして受け入れられたことがわかります。それを休意は皮肉をもって「田舎の奢り」と表現し、後の文章では「それだから天保飢饉の災禍に陥ったのだ」と指摘しています。
 また、彼は「俗語仮名交百姓要用教喩書」という書物の中でも、田舎とは異なる江戸の気風に対して戸惑いの気持ちを吐露しています。

なかんずく江戸者をうらやむ人多し、さりながら江戸の事を知らぬ故なり、おかしななはなしなれども、江戸町抔にては不如意なるものは女房・娘を人の囲者に出し、又は酒の酌抔となづけ銭次第・金次第にて自由に成るとかや、其いやしき事恥しき事どもなり、在郷もの・田舎ものと百姓の事をいやしみいへども、田舎などの人々は、女房・娘をたとえ小判を山に積むとも、人の慰みものなどには何ほど貧乏するとも左様の事は決てなし、

 むらに江戸者をうらやむ傾向があることに対し、休意は江戸を拝金主義の蔓延る土地と指摘して、むらのひとに注意を促しています。「江戸のひとは不如意になると、すぐ女房・娘を囲者に出してしまうが、田舎の人は小判を山に積まれてもそんなことはしない」といい、江戸への羨望は幻想であると主張します。
 江戸時代後期はむらから都市へとひとが流れ出ることの多かった時期です。それを阻止しようとしたむらの名主の立場からの発言です。それにしても清原選手にとっての「江戸」はどうだったのでしょうか?

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2005/06/02

(江戸時代後期、むらの記録③)時の移ろい―文化から天保へ―

 江戸時代後期、時の移ろいは激しさを増します。関東村落ではどのように記録されているのでしょうか。

 武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)では、主に19世紀から百姓の銭遣いが流行って、農業経営より商売経営に力を入れる家が増えました。そのあまり「農作業をやる奴は馬鹿だ」とまで口走る百姓が出てきます。
 むらには「虫送り」という行事があります。「田に虫がつかないように」という祈願を含めて、たいまつを灯して賑やかにかねを叩きながら、みんなで行列を組んで練り歩きます。
 さきに述べた百姓の銭遣いは、この「虫送り」の行事に大きな影響を与えます。

 名主林信海日記、天保13年(1843)7月4日条(林家文書1357)に、「虫送り」の行事についての記述があります。

例年のごとく、たいまつ・鉦(かね)など持ち出し鳴し歩行(ある)く、己(おのれ)子供連れて、高尾山祠脇に出て見るところ、たいまつようやく二十八出る、鉦(かね)などは我家より出候ほかは聞かず、これと云うも農業一統精入らず候ゆえなり、己(おのれ)幼年の頃は、耕作中に万燈のごとく多分出て、鉦・太鼓所々て打鳴し候事を思出し、歎息し帰宅す、

 信海は子どもをつれて林家屋敷脇の「高尾山祠」で虫送りを見物した。すると虫送りのたいまつの灯火が28箇が出てきただけ。鉦(かね)の音は林家の家人が打ち鳴らす以外にない。彼の脳裏にある「幼年の頃」の虫送りの風景では、「万燈」のようなたいまつと、所々にて聞こえる「鉦・太鼓」の音であった。それを「思出し歎息し帰宅」する。
 信海はこの変化の原因として「農業一統精入らず候ゆえ」、つまり「むらが農作業に精を出さなくなったから」と考えました。
 信海の「幼年の頃」というのは、彼の生年が文化元年(1804)ですから、文化年間前半期のことでしょう。したがって、虫送りにみるむらの変化は、19世紀初頭~1840年頃の間、約30年の間でおこったといえます。

 また、旗本の稲垣家にも、関東村落の概況を説明した報告書が残されています。天保13年(1842)付の文書。関東村落を旅するときの弁当についての話題です。

已前ハ小麦餅を弁当に持参し候ところ、文化度米価下落の頃より小麦餅相止め、一同握り飯と相成り、今ハ握飯も大方相止め、多くは行掛りの酒食、終には遊興沙汰に流れ、往古は勿論三十年程已前までは酒食商いたって稀に候ゆえ往来必ず弁当に候処、近年は貧地・孤村にも酒屋の二三軒ずつはこれあり……

 以前は弁当として小麦餅を持参していた。しかし文化年間(19世紀初頭)の米価下落の頃から、小麦餅はやめになり、米の握り飯となった。いまでは握り飯も持ち歩かない。なぜならむらに酒食商があるからである。この酒食店は30年以前(文化7年(1810)年頃)までは稀であった。しかし、「近年」つまり天保13年(1842)頃には、貧村・孤村にさえ酒食店が2~3軒はあるようになった。
 やはりここにも19世紀初頭~19世紀中頃という区切れ目が出てきます。

 幕府財政悪化による度重なる貨幣改鋳は、民間の貨幣経済を活性化させました。この頃でいえば文政・天保の改鋳の影響が大きかったようです。

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