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2005/05/02

(専門書拾い読み③)大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)

 ある就職試験で「あなたは仏教系の大学を出ていらっしゃいますが、日本人の宗教観についてどういうお考えをおもちですか」という質問をされたことがあります。
 内心「アッ」と思いました。なぜなら出身の立正大学では仏教についての授業をひとコマもとらずに卒業してしまったからです。うちの大学は宗教にとても寛容な大学ですが、それにしても勿体ないことをしました。わたしの怠惰について叱責されたような気がしました。

 日本人は宗教についてあまり深くは考えない民族だといわれてきました。なるほど「お葬式は仏教だが、結婚式はキリスト教」という場合も少なくありません。江戸時代も似たようなもので、原則的に人びとは特定の宗教・宗派に拘らず、寺でも神社にでも参ります。
 ただ、生活道徳・規律にまできびしく影響を及ぼす、重みのある宗教を「宗教」と呼ぶのならば、たとえば浄土真宗のようなものがありますし、イエ信仰みたいなものも「宗教」の中に入れてよいかもしれません。
 イエには「御先祖様」がいます。5~6代以内の近い先祖なら固有名詞で把握できますが、もっと遠くの、名前も知らぬご先祖さえも、一緒くたにして「御先祖様」と把握して仏壇で拝む。子どもの時にわるさをして親から「御先祖様にお詫びなさい」と詰め寄られるのも「宗教」だし、「田地を売り払ってはご先祖様に申し訳がない」と思うのも「宗教」である。生きているひとも死後もまつられると思えばこそ、何の心配もなく家業に精を出せる。しかし現在ではそのような「宗教」も弱体化して、会社などの〝世間様〟だけが「宗教」になってしまったから、「それでは本人が救いようがない」と、ひとの世界に疲れたときのために、新興宗教や心理学が用意されている。
 ―咄嗟のこともあって、そんな気合いの入らない返答をした気がします。宗教系大学の出身らしくもっと勉強すべきでしょう。

 イエ観念といえば大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)にこうあります。

田畑の単独相続制が定着した近世中期以降、田畑を付けて嫁にやることは原則的に否定されたものの、明治初年に全国各地の習俗を調査して集成した『全国民事慣習類集』の「婚資」の項には、入嫁の際に田畑も持参する例も稀であったことが報告されている。注目すべきは、それは「身体不具面貌醜悪ノ償料ニ宛ル」もので、世間体を憚って内密に行っているとされていることである。この事例は未婚女性をめぐる当時の社会通念とその境涯を背景としていたことは疑いなく、そこには、なんとかして娘を正規の人生コースに乗せてやり、世間から後指をさされないようにしてやりたいという親心が働いていたのだろう。(p155~156)

 結婚せずに家の厄介になると、子孫からの祭祀をうけられず、「無縁仏」になる可能性があるようです。そうすると「御先祖様」の列に加われないわけです。それで「身体不具面貌醜悪ノ償料」ということになります。イエというものの性格を窺わせる興味深い事例といえます。

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