« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »

2005/05/30

(機器)プリンターが動かない

 先日1万円なにがしでプリンターを買いました。といってもプリンター・コピー・スキャナーの複合機だから、驚くべき廉価でした。
 講演用のレジュメをつくらなければならないので、さっそく使ってみました。一太郎のデータを打ち出して、家にある資料をコピーして貼り付ける。泣きたくなるくらいに便利でした。もうコンビニエンス・ストアでコピーに行かなくてもよい。むかし「千歯こき」を「後家たおし」とよんだのにならえば、これは「研究室たおし」とでもよぶべきか。とてもいいものを買ったと喜んでいた。
 ところが、9割近く仕上がったところで、プリンターの調子がわるくなった。印刷に時間がかかるし色にもむらがある。
 困ったので会社のサービス・センターに電話をかけてみました。これが大変でサービス・センターに繋がりにくい。何度かかけたが「しばらくお待ち下さい」というメッセージが流れて待たされる。やっと繋がったオペレーターの女性は、ご親切でしたが、話し方がえらい早口で横文字も多く、こちらにはわかりづらい。

(オペレーターの女性) 「××の○○がカラになっていますか?」(横文字が多くてすごい早口)
(わたし) 「なに? カラ? 『color』(カラー)?」(ちょっと聞き取りにくいぞ、もしかしたらまた難しい横文字かもしれないぞ、と身構えている)
(オペレーターの女性) 「カラでございます。カ・ラ。『empty』のカラでございます」
(わたし) 「なんだ、カラですか……」(『color』(カラー)でも『唐』(から)でもないらしい、こんどは日本語を横文字で説明されちゃったぞ!)

 こんなふうに会話がときどき喰い違う。
 プリンタの小さな扉にまで大層な横文字の名前がついているのには閉口したし、そのうえ先方に「返答マニュアル」があるのか、それを使ってベラベラと一方的に早口に話しかけてくる。それでは一体何をいっているのかさっぱり理解できない。ふだんは古文書みたいなものを読んでいる人間なので勘弁してもらいたいのですが。それで、「鉄道」を「くろがねのみち」とよむ本居宣長みたいな人間と、株価ディーラーのキャリア・ウーマンみたいな人間との、異次元対決とあいなった。
 といっても、わたしは人間ができているから、これしきのことで喧嘩はしません。また、「そんなことも知らないのか」といわんばかりに教えられても、購入して2日のこちらは手も足も出ないから、とにかく我慢しておきました。これではお店もお客もない。ひさしぶりに生徒の気持ちが少しわかったような気がしました。機械や機械のような人間との交渉事においては、〝辛抱〟の二文字が必要なようです。
 そんなことで一日潰れました。いったい何をしたのか。ブログに話題を提供できたくらいのことでしょうか。このプリンター問題はいまもって解決していません。

 そういえば、いつか大手銀行のATM(銀行の自動受払機)が誤作動して社会問題になったとき、ある政治家が「こんな機械化された時代にありえない事件だ」と論評していました。しかしそれをいうなら「機械化された時代だからこそおこる事件」というべきでしょう。
 テレビ・電子レンジ・洗濯機はボタンが幾つもありますが、説明書なしでも動かすことができるし、あまり故障はない。ところがパソコンやその周辺機器とくると、高いお金を支払ったわりには機械がいうことをきいてくれない。これでは家庭用品としては失格ではないか。マイクロソフトのひとり勝ちで企業側の自浄作用が働かないのか、機械が精密すぎるせいか、わたしのような素人には事情がまったくわからない。
 何れにせよ、便利だからパソコンを買わないわけにはいきません。文句をいってはいけないのでしょうか。こう考えるわたしがわがままなのか。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/05/26

(古文書入門⑥)むかしのひとは何故くずし字を書くのか?

 何故むかしのひとはくずし字を書くのでしょう。グニャグニャとしたくずし字は一見して非機能的な文字に映りますが、実際はどうなのでしょう。そして、そもそもくずし字とはどのような文字なのでしょうか。今回はその問題について逍遙してみたいと思います。

・文字の書き方 まず、文字の書き方の文化としては、主に、①楷書文化と②くずし字文化のふたつがあります。現在くずし字を書く(書くことのできる)ひとは稀ですから、歴史的には②から①へと変遷していったことになります。
 現在では、筆の達者なひと以外、くずし字を認めることはありません。学校では「書道」の授業時間以外はくずし字を習うことはないし、お役所でも原則的には楷書のみの使用で、「くずし字で書かないで下さい」という注意書きがされていることもある。結婚届・出生届提出の時にも、窓口の役所のかたは書類の字が正しく書かれているかどうか(はねる・はらうなど)、字典をひきながらいちいち確認しています。

・機能的な違い わたしの考えによると、楷書とくずし字では機能的な面で大きな違いがあります。乱暴にいってしまえば、楷書はおおむね一文字のみで判読できることが多いが、くずし字は一文字のみで判読できないことが多い(もっとも楷書でも、たとえば「一」と書かれていても、「いち」なのか、枯木から落ちた小枝なのか、わからないことがあります)。
 たとえば、「候」(そうろう、「です・ます」表現にあたる)という字があります。この「候」のくずし字は、いちばん簡略化されると単なる「ヽ」になる。白紙にただ「ヽ」と書くだけでは、何が書いてあるのかさっぱりわかりませんが、「御座」の下に「ヽ」があると「ああ、『御座候』(ござそうろう)と書いてあるんだな」と、そこではじめて判読することができます。
 また、「深」と「源」のくずし字の場合を考えてみましょう。このふたつのくずし字はよく形が似通っています。くずし字は形を極端に簡略化しますから、ほんらいは違う字同士であっても、形が似通ってしまうことが多いのです。すると、一字だけでは、「深」なのか「源」なのか、判別することができない。しかし、もしも「源氏物語」とあれば、「『深』でなくて『源』と書いてあるのだな」とわかり、もしも「深浅」とあれば、「『源』でなくて『深』なのだな」とわかる。
 つまり、くずし字の読解では、文字のかたちと意味の流れの両方を考えなければいけません。そのてん、固有名詞は大変です。先ほどの「深」と「源」の例でいえば、くずし字で書かれると、場合によっては「深田村」なのか「源田村」なのかわからない。その場合は地名辞典をひかないといけません。
 地名は地名辞典がありますが、人名になると辞典が使えないから更にやっかいです。赤穂浪士の「赤埴源蔵」(あかばね・げんぞう)が「赤垣源蔵」(あかがき・げんぞう)と誤って伝えられたのは、「埴」と「垣」のくずし字が似ていたからだといいます(福本日南『元禄快挙禄』)。固有名詞はどの字でもあてはまる可能性があるから誤読されやすいのです。博物館の展示の翻刻文でも、空欄になっていることが多いのは固有名詞です。

・くずし字の利点 こう考えてみると、くずし字は不便なように思えます。しかし、便利なことがないかというと、そうでもありません。くずし字は画数という概念がないほどに形を簡略化しますから、最初に字を覚えるときは覚えやすいかもしれません。
 勿論むかしの漢字は所謂「旧漢字」で、楷書で書くと画数が多い。むかしの「恋」だって大変で、「いとしいとしと言う心」で「戀」でした。しかし、むかしのひとは楷書よりもくずし字から先に字を覚えることが多かったようで、その証拠に寺子屋の教材をみてもみんなくずし字で書かれています。
 江戸時代の随筆にこんな話があります。

……楷書で「言」と「水」という字が書かれていた。こんな字は存在しない。これはおそらく「路」という字の誤りであろう。なぜなら、「足」と「言」、「各」と「水」は、各々くずし字がよく似ているからである。

 かえって楷書で書くと字を誤ってしまうのは、むかしのひとがくずし字から先に覚えていたことの証左でしょう。現在はワープロで書くと字を誤ってしまう(わたしもよくやります)。これが所謂「誤変換」ですが、それでもくずし字が不便だといえますか?

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2005/05/20

(出版)同じ本が多くはないか

 「最近、歴史と旅がブームなのか」と気がついたのは、世界文化社の『週刊 日本の伝説を旅する』シリーズのモニターをしていたときでした。もしこのお仕事がなければ気がつかなかったでしょう。

 特に、体裁も内容も酷似した傾向の本が、さきの『週刊 日本の伝説を旅する』を含めて、4つも出ています(これ以外にもあります)。すなわち、①週刊である・②大判である・③薄手である・④定価560円である・⑤内容は「歴史と旅」である・⑥カラーである(写真をふんだんに使う)、これら6つのてんにおいて、すべて同じです。何れも大手出版社で、順不同で挙げると以下のようになります。

 ①『週刊百科 司馬遼太郎 街道をゆく』 朝日新聞社 定価560円(税込)
http://www3.asahi.com/opendoors/hyakka/kaidou/index.html
 ②『学研 グラフィック百科 週刊日本の街なみ』 学研 定価560円(税込)
http://www.gakken.co.jp/gg/mati/
 ③『週刊 日本の伝説を旅する』 世界文化社 定価560円(税込)
http://www.sekaibunka.com/den/
 ④『週刊 四国八十八カ所遍路の旅』 講談社 定価560円(税込)
http://shop.kodansha.jp/bc/henro/

 とりあえずここでは、どれが〝元祖〟でどういう順番で出版されたかは、気にしないことにしましょう。それにしても、なるべくバラエティに富んだ企画を読んでみたい読者にとって、これは少々残念な傾向かもしれません。
 このような同工異曲の「二番煎じ型」は、出版界ではいまにはじまったことではなく、テレビ番組の世界にも時々みられますが、ちょっと納得がいかない。もちろん、ある程度目論見の立つ〝安全出版〟と、「のるか・そるか」という〝野心出版〟の両方をやっていないと、会社が潰れるのだ、という理屈はわかります。しかしだからといって、体裁から内容まで何から何まで似せなくてもよいような気がするし、差別化をはかる努力がすこしはあってもよいのではないか。
 「出版業が下火だ」と何処かで読んだことがありますが、インターネットに押されるでもなし、テレビに負けるでもなし、寝床で本を読んだり、通勤時間で雑誌をめくったりするひとも少なくないから、余暇と知的関心がある限り、やはりおもしろい本ならどれだけでも売れるのではないか。あまり保守に走りすぎると、出版界全体にとって、かえって望ましくない状況がおきるのではないでしょうか。
 といって、わたしも出版界には無知の素人だから、えらそうなことをいえる立場にはありません。しかしこれは一読者としての偽らざる感想です。

 さて、わたしがある後輩と会ったとき、たまたま「自治体史」(「××県史」「○○市史」などといった自治体がつくる歴史の本)の話になりました。喰えない歴史系大学院生・オーバードクターのひとたちにとって、「自治体史」のアルバイトは貴重な資金源になります。
 その後輩によると、「自治体史」の分担執筆作業で、えらい難しい言葉・文章を書いた原稿をよこす研究者がいるのだといいます。そのひとは一流の研究者ですが、「自治体史」を学術論文執筆と同じ考えで書いているらしい。「いやあ、あれはボクでも(内容が)わかりませんよ、……あれをおじいさん・おばあさんが読むのかと思うと」と笑う。
 そもそも「自治体史」は自治体の公費で編まれています。だから、その土地の歴史愛好家(あるいは夏休みの自由研究に追われる生徒までも含むかもしれない)も読者の射程に入れた、みんなにひらかれた〝土地の歴史書〟であるべきです。したがって、極力専門用語は排すべきだし、表現も易しく親しまれるように書かねばならない筈です。専門家もその知識を上手に披露する技術をもたなければ、もし自治体史で「先生」と呼ばれていたとしても、出版社からはお仕事を頂戴することはできないでしょう。自省の念をもこめて。

 学会の報告を聞くと、おもしろいねたにあふれています。何かかわった出版企画はできませんか。歴史学研究会などの大きな学会で、真面目に討議してもよいくらいだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/17

(お金)九六銭のこと

 ふるぼけた三重県の母の実家の蔵には、江戸時代以来のいろんなものが詰まっています。イエの歴史のタイム・マシンというべきでしょうか。気味が悪いけども遠いおじいさんのデス・マスクもあります。
 なかに江戸時代のお金もありました。天保期に発行された小判(「保字金」といいます)のほかは、豆銀・安政二朱銀など、残っている貨幣はほとんど銀貨です。
 俗に「東の金遣い・西の銀遣い」というように、東日本では金貨を使用し、西日本では銀貨を使用します。ただし「東日本で全く銀貨を使わない、西日本で全く金貨を使わない」という意味ではありません。地域によってだいたいの使用傾向がみえる、というほどの意味とご理解ください。
 そのてん、三重県域はどちらかというと西日本寄りですから、銀貨が多いのかもしれない。

 もちろん銭は、日本全国、何処でもよく使われます。この蔵の中からも、紙縒(こより)とじの銭の固まりが出てきました。これを「さし」といいます。数えてみると百文銭が1枚(100文)と一文銭が48枚(48文)。この「さし」で150文の勘定です。
 え? 2文足りないって? いいご指摘ですね。でもこれでよいのです。むかしのひとは「96文=100文」と計算していたのですから。100文から4文を欠きます。だから48文でも額面は「50文」と考えます。
 この「96文=100文」計算を九六銭(くろくせん)とよびます。もしも一文銭96枚を「さし」で束ねて100文の額面で支払ったとしても、文句はこない。これは当時の慣習なのです。

 なぜ100文から4文を欠く慣習があったのか、その理由は定かではありません。「2や3の倍数で割り切れるから」という説があります。もしもそれが本当だとしたら、お金の多寡よりも計算のしやすさを優先するということですから、何ともまあ、のんびりとした話ではありませんか。
 もちろん、年貢の銭を支払うときは厳密で、「100文=100文」計算です。これを「丁銭」とよびます。年貢の世界ではのんびりは許されず、4文の欠如も許されません。

 北原進さん『百万都市江戸の生活』(角川選書215、1991)にこんなはなしがあります。

数年前に、へび屋がシマヘビなどを箱に仕入れるとき、百匹入とあっても内容は九十六匹であったと教えていただいたことがある。これなどは明らかに九六銭勘定が行われていた名残りである。

 この場合もやはり「4匹足らないじゃないか!」という文句はこないのです。

 しかし現在は九六銭勘定の慣習は消えてしまいました。知っているひとは稀でしょう。わたしの親戚たちは、わたしが何故小判よりも銭の固まりに喜ぶのか、理由を知りません。わたしを不思議そうにみてみるだけでした。
 この、母の実家からでてきた150文の「さし」、わたしの授業のよい教材として使われています。紙縒を切らないようにそっと持ち歩いています。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/05/14

(江戸時代後期、むらの記録②)村の商人

・村の商人の出現  ローラ・インガルス・ワイルダー(Laura Ingalls Wilder, 1867-1957)『大草原の小さな家』(Little House on the Prairie)は、19世紀後半のアメリカのむらを舞台にした自伝家族小説です。NHKでドラマがテレビ放映されましたから、ご存じの方も多いことと思います。
 ローラは1867年生まれで、日本でいえば徳川慶喜による大政奉還があった年です。したがって小説に描かれる時代はちょうど日本の明治初年と思えばよいでしょう。NHKの映像などをみる限り、日本の村とそう違いはないようにみえます。
 そこに雑貨商を営むオルソン(Oleson)一家という家族が出てきます。紳士的なご主人以外、とても意地悪な家族として描かれています。とくにオルソン夫人は見事なくらいに臍が曲がっていて、利にさとく、そろばん勘定で生きているようにみえます。
 なぜこの一家が意地悪に描かれているのかというと、社会学のかたによれば「村社会における『雑貨商』への偏見が働いているのではないか」というそうです。「商売なんてやってるやつにろくなヤツはいない」という見方がむら社会にはあって、それがオルソン一家の描かれ方に影響を与えている、というのです。
 なかなかするどい見方です。

・村の風景のちがい わたしもずいぶん村をうろうろしました。そのなかで印象的なことは、ちょっと環境が違っているだけで、ずいぶん村の雰囲気が違うということです。
 たとえばA村・B村という隣り合った村があります。A村は街道が貫いて道沿いに家が櫛比しています。どちらかというと町風です。B村はその街道からちょっとはずれています。どちらかというと農村風です。
 このA村とB村の両方でお話を伺っていると面白い。B村のかたは声をひそめて「A村は集団暴力的なんだ、人気(じんき)が荒いネ」という。一方A村のかたは「B村はのんびりしてるでしょ」とわらう。隣村同士なのに道が通っているかいないかでこんなにも雰囲気が異なる。B村のA村に対する目はまさにオルソン一家への偏見「商売人に気をつけろ」です。
 いまでもマイナス・イメージで「商売人」という言葉をつかうことがあります。しかしサラリーマンだって広義の「商売人」で、お役人や純然たる農家以外はほとんど「商売人」である筈ですが。

・農業で頑張っている奴は「馬鹿」? それに関して近世後期の村名主(武蔵国入間郡赤尾村名主)林半三郎信海はこんなことをいっています。以下は信海による領主川越藩への意見書の一部です。

村々諸商人……追々新規に商い始め候ものも出来候、この商人共義、村々奢侈に長し衰微の基に候事、右に申し候は物ごと自由にて、御城下同様につき、買わずとも済み候ものまでも買い、銭遣い日々募り行き申し候……

 もちろんこの「村で商売を行う者が多くなるとむらが衰微する」という考え方は一面的な見方でしかありません。半三郎は大地主ですが「村々諸商人」がうとましく思えてしょうがない。みんなが商売をやるおかげで、農業を「馬鹿」にして、自分の家の雇い人が集まりにくくなってしまったからです。

……村々ニ田畑も少々ならては作らず荷商いなどいたし、農業出精いたし候ものをかえって「馬鹿者」など申し、年中ふらふらと暮し居候もの多く候ゆえ、田畑共作り余り、高持の御百姓はよんどころなく高金を出し、奉公人召抱候て手作仕り候ところ、近年は奉公人義殊の外払底につき、召仕候にも勘弁のいたわり自然と過候ゆえか、わがままのみいたし候えば、主人より機嫌をとり年中苦労心配仕り……

 ―田畑も少々では作らず、荷商いなどをして、農業を出精(がんばっている)している者を「馬鹿者」と呼ばわりする者がいる。
 日本の江戸時代版『大草原の小さな家』は充分なりたちえると思います。時代状況が似通っています。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005/05/11

(江戸時代後期、むらの記録①)庶民の日記のおもしろさ

・日記研究のおもしろさ ドナルド・キーン(Donald Keene コロンビア大学名誉教授)さんはすぐれた日本文学研究者で、主に日記研究で著名です。彼と日本とのつながりはアジア・太平洋戦争のときでした。コロンビア大学在学中に戦争が勃発、海軍の日本語学校に入って情報関係の軍務につきます。
 日本が「鬼畜米英」を叫んでいるとき、アメリカは戦争相手である日本人を冷静に研究しようと努めました。なぜなら、戦争遂行のために必要であることは勿論、戦争に勝った後の占領支配のため、日本人の心理を知ることは重要だったからです。キーンさんはそのための仕事に従事しました。
 当時の日本人は特殊な国家体制・異常な戦法によって「国家に盲目的に追従する非人間的な国民」だと思われてきました。しかし、そうではないことがわかったのは、捕虜にたいする尋問のときの情報と、死んだ日本兵が書き残した日記でした。特にその文章にあったのは戦争への嫌悪感や故郷や家族に対する想いでした。キーンさんはこの日記の魅力にひきつけられたといいます。
 日記を書く動機は様々ですが、特に個人的な想いを書きつけるための日記には、世間体や国家権力のプレッシャーでは押さつけることのできない、にんげん本来の正直な心情が表現されています。特に建前・本音を分けたがる日本人にとって、日記は格好の鬱憤晴らしの場、本音吐露の場になっていたと考えられます。そういえば現在のブログ流行もそういう観点から考察されると面白いかもしれません。

・日記を書かせる動機 わたしは日記史料の研究が好きで、長い間打ち込んできました。わたし個人はというと、日記を書き続けた経験がありません(このブログは日記ではありません)。ただ「書こう」と志を立てたことは幾度となくあります。しかしいつもむなしく「三日坊主」で終わってしまいます。
 やはり、日記を書き続けるには、<動機>という、自分の内側から沸々とわきあがってくる、処理しようもないような大きなエネルギーが必要なようです。「まめなひと」はエネルギーがなくても書けてしまうのですが、ふつうはエネルギーがないと書けません。わたしに日記が書けなかったのは、そのエネルギーがなかったせいかもしれません。しかし今後、たとえば地震などの天変災厄や個人的な大きな不幸に直面したとき、わたしはどうなるでしょう? わたしの心の何処かが変化して、ながく日記を書き続けるかもしれません。
 したがって、史料としての日記を読むとき、動機をつよく意識する必要があります。〝覗き見趣味〟的な興味がないわけではありませんが、そうやって行間まで読み込めば、まるで隣に歴史上の人物が座っているかのような気分になります。

・「日常生活の天才」が織りなす歴史ドラマ わたしが本格的に村落史研究をはじめたのは、武蔵国入間郡赤尾村名主、林半三郎信海(はやし・はんざぶろう・のぶみ)日記との出会いからです(埼玉県立文書館蔵)。彼の日記を一見して「これは分析してみたい」と思いました。
 一見してわたしが興味をもったのは、書いてある内容ではありません。その日記の途方もない量でした。
 横帳にびっしりと埋め尽くされた3ミリ程度(!)の蟻の行列。目をこすってよくみれば、全て信海の手によるくずし字です。「人間はこれだけマメになり得るのか」と仰天しました。「日常生活の天才」といっていいでしょう。毎日つけたその日記群は途方もない量で、主に、

 ①家にいるときの日記、
 ②外出したときの日記、
 ③地域社会(村)の主な出来事を記した日記、
 ④金銭出納のありさまを記した日記、

 の4種類があるのです。これには参りました。
 この日記を書き記す主な理由は、

役に立つかどうかはわからぬが、とにかく子孫の参考のために書き残す。

 というものでした。
 信海はもともとが几帳面な人物です。しかし、彼が直面した当時の激動のむら社会に対する驚愕こそが、この長い日記を書かせたといえるでしょう。むしろ、信海という人物への興味が、わたしを近世後期の村社会の世界へと誘ったのです。
 この日記についてはこれから何度か述べることになると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

2005/05/08

(無名人の歴史)曾祖父小学校教員加藤退祐、青雲の志を抱く

 大学浪人時代、明治・大正期の本をよくよみました。なかでも赤穂浪士関係の本は面白く、47士の姓・通称・諱などを暗誦するほどでした(勿論もう忘れてしまいましたが)。信夫恕軒『赤穂義士実談』・福本日南『元禄快挙録』です。
 わたしの母方の曾祖父、三重県三重郡三重村生桑の地主の息、加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)は小学校訓導をつとめ読書家でした。専門は地理歴史科。わたしは彼の所蔵本を愛読したのです。

 『元禄快挙禄』は岩波文庫に入っていますから(青159-1、1998)容易に入手できます。曾祖父の明治時代本を大切に保存するため、先日、あらたに岩波文庫版の『元禄快挙禄』を入手しました。浪人時代を思い出しながら頁をめくりました。とても懐かしかった。『赤穂義士実談』は『元禄快挙録』ほど有名な本ではありません。しかし講談をそのまま筆写したものらしく、その意味で興味深い本です。語り口の歯切れよさ・軽妙さに感心しました。いま手に入るのでしょうか。古本屋にいけばあるかもしれません。
 これらでわたしは旧漢字・旧仮名遣いに慣れ親しみました。顔もみたことがない曾祖父と同様に、日本史を専らに勉強しているのは何かの縁でしょう。

 先日母方の実家に祖母の法事に行って参りました。そのとき曾祖父退祐の蔵書目録をみつけました。
 それには蔵書の値段や入手年などが記されており、入手年は大正3年頃が最新でしょうか。記録されている本は約500冊です(これらの大半は加藤家に現存しておらず、図書館に寄贈してあります)。
 蔵書目録には「読書論」という巻頭言がついています。これを読むことによって、曾祖父の読書に対する想いを知ることができます。彼は結核を煩い満31歳でこの世を去るわけですが、存命中は明治人らしい青雲の志をもっていたことがわかりました。「読書論」の内容は、我が家の秘密といいたいところなのですが、明治・大正期における村のインテリ層の志向がわかる好史料なので、みなさんにご紹介致します。曾祖父の蔵書で勉強したわたしにとってはとりわけ貴重な史料です。

   読書論
身ハ一室ニアリテ内外ノ事情ニ通ジ古今ノ英雄ニ接シ得ルハ読書ニアラズヤ、世人読書ヲ以テ人生最大且ツ高貴ナル楽トナス、故ナキニアラズ、
河水流レテヤマズ、日月シバラクモ休マズ、世ハ浸々トシテ文明ニ進ム、今日我等ハ世ト歩ヲ共ニセント欲シテ、タマタマコヽニ激甚ナル生存競争ヲ現出シヌ、ソノ勝利者トシテ名誉ヲニナヒ月桂冠ノ捧ゲウル身ヲ誰カ望マザラン、アヽ我等ノ理想コソ其ノ勝利者ニアラズヤ、而ラバ勝利者タルハ天授ナルカ、否々、真実ノ誠アルニ外ナラズ、人ト生レテ誠ヲ有セザルナシ、誠ハ実ニ諸徳ノ根底ニシテ、忠トイヒ孝トイヒ、其他一トシテ誠ノ変形ナラザルハナシ、依テ修養鍛錬如何ニヨリテ玉トモ甍トモナル、古人曰ク「丈夫玉砕ストモ甍全ヲ恥ズ」ト、而ハ世ハ変レドモ、誠ハ千古不変ナリ、豈男子タルモノ誠ヲ理想ノマトニ掲ゲ邁進セザルベケンヤ、邁進々々、聞クダニ勇マシキ語ニアラズヤ、而レドモ顧ミヨ、戦闘準備確実ナラザル邁進ハ邁進ニアラズ、盲進ナリ、スベカラク盲進ハ排セヨ、而シテ準備ヲ整ヘ余裕綽々イザ鎌倉トキカバ、駿馬ニ鞭ケ功名一番槍何ゾ難カラン、コレ所謂邁進ナリ、
コノ準備コソ読書ニアリ、他ニ求ムルヲ得ズ、刻苦勉励不断ノ努力ヲ以テ常ニ書ニ親シマンカ、必ス誠ハ其内ニ萌芽シ、必ズ成功ノ彼岸ニ達スルヲ得ン、

   蔵書目録ニツイテ
年ト共ニ蔵書増加シテ誠ニ記憶ニ苦シム、ヨツテコヽニ蔵書目録ヲ編シ、数多ノ部類ニ分チ、蔵書ノ整理ヲナス

   部類一覧
一修身部(9項目) 二教育部(25項目) 三国文部(65項目) 四書方部(5項目) 五小説部(24項目) 六漢文部(23項目) 七数学部(23項目) 八歴史部(25項目) 九伝記部(25項目) 一〇地理部(36項目) 一一語学部(59項目) 一二博物部(21項目) 一三理化部(13項目) 一四政法部(6項目) 一五商業部(22項目) 一六経済部(5項目) 一七工業部(12項目) 一八農業部(10項目) 一九図画部(14項目) 二〇手芸部(1項目) 二一体育部(11項目) 二二辞書部(21項目) 二三修養部(26項目) 二四楽典部(13項目) 二五雑誌部(23項目) (計517項目) (括弧内は高尾の注記)

 以下は曾孫である小生の意訳文です。

   読書論
 部屋に居ながらにして、内外の事情に通じ、古今の英雄と接することができる方法こそ、読書ではないだろうか。世の人は読書をもって人生最大かつ高貴な楽しみとしてきた。理由なきことではない。
 河の水は流れてやまず、太陽や月はしばらくも休むことはない。世はますます文明社会となった。今日の我等は世の中と歩みをあわせようとして、たまたまここに激甚なる生存競争社会を現出した。その勝利者として、名誉を担って月桂冠を捧げ得る身を、誰もが望むことだろう。ああ、我等の理想こそはその勝利者となることである。
 それでは、その勝利者となるのは単なる天の恵みの結果かといえばそうではない。それは真実の「誠」の結果にほかならない。ひととして生まれて「誠」をもたない者はいない。「誠」は実に諸徳の根元であって、忠といい孝といい、そのほかひとつとして「誠」の変形でないものはない。したがって「誠」の修養・鍛錬の成果いかんによって、人間の質が玉ともなるし甍ともなる。いにしえのひとは「丈夫玉砕すとも甍全を恥ず」という。だから世は変わっても「誠」は千古不変である。男子たる者はその「誠」の理想を目標にして邁進しなければならない。邁進、邁進……、聞くだに勇ましい言葉ではないか。しかし顧みよ、戦闘準備の確実ではない「邁進」は、邁進でなく単なる盲進にすぎない。すべからく盲進は排しなければならない。それで、もしも準備を整えて余裕綽々という状態であれば、「いざ鎌倉」と聞いて駿馬に鞭うち、功名一番槍の勲功をあげるのも、そう難しいことではないだろう。これがいわゆる「邁進」ということでなのである。
 この準備こそが読書である。他に手段を求めることはできない。刻苦勉励のたゆまぬ努力をもって、常に書に親しめば、必ずや「誠」はその身の内に芽ばえ、成功の岸に達することができるだろう。

   蔵書目録について
年とともに蔵書が増加してまことに記憶に苦しむことになった。よってここに蔵書目録を編んで、あまたの部類に分かち、蔵書の整理をした。

 彼はこの青雲の志を抱いたまま、若くして生涯を閉じますが、この蔵書目録は残りました。これを今後分析してどこかで史料紹介できればと思っています。

(付記)曾祖父加藤退祐のくわしい履歴書もみつかりました。それによると高等小学校訓導とあり中学校教員は誤りだったことがわかりました(三重県三重郡海蔵尋常高等小学校訓導・三重県三重郡神前尋常高等小学校訓導・三重県三重郡神前村立農業補習学校訓導などを歴任)。ほかにも新たにわかったことがあり、それらと適合するようにいままでの記事を訂正しておきました(祖母のふるい聞き取りなどに頼っていたため間違いが多かったのです)。なお履歴書によれば、退祐の生まれたのは明治26年(1893)5月8日で、奇しくも今日です。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/05/05

(史料)武士が犬の糞を踏む―酒井伴四郎日記―

 旅ゆけば心浮き立つのは今も昔もかわりません。
 紀州藩衣紋方(衣服担当部局)の下級武士酒井伴四郎は、万延元年紀州から江戸に公用でやってきます。彼にとって江戸の様子は見るもの聞くもの驚きの連続で、その感想を細かに日記に書き記しています。ここではその一部をご紹介することにしましょう。

六月朔日……大名小路え行、諸大名之屋敷一見致、余り暑き故照り降り傘壱本叔父様と買、又大名登城下り見物ニ参り、幸上之帰御拝し、其勢飛鳥之落る計り也、諸大名小名之下り誠ニ目を驚ス……。

 大名屋敷や大名行列は見物の対象でした。江戸は諸大名が集まる唯一の土地でした。

廿五日……直助ニ髪結い貰、叔父様・予・為吉同道ニて、赤羽根之有馬之屋敷見物、薩摩ノ屋敷見物、其所予犬之くそふむ、夫ヨリ芝田丁高輪泉覚(岳)寺へ参り、赤穂家臣四十七人之墓へ詣り、為吉ハ品川之問屋へ行、其間ニ茶屋へ這入一盃呑、大ニ高し、夫ヨリ日影丁へ行、着物壱枚買、又芝へ行、小道具帰り懸岩水屋ニてどぜう鍋・すし抔買、帰着……。

 赤羽の有馬家屋敷(火の見櫓が有名)・島津家屋敷を見物します。
 しかしそこで彼は犬の糞を踏んでいます(「犬之くそふむ」)。「江戸に多きもの、伊勢屋、稲荷に犬の糞」という言葉があり、屋号に伊勢屋、祠に稲荷、動物に犬というのが江戸の定番でした。伴四郎もここで江戸の〝手痛い洗礼〟を受けたようです。
 気を取り直して赤穂浪士の墓に参詣。茶屋に入って一杯飲んだが「高し」と不満、しかしその後どじょう鍋・すしを買います。

十七日……両人(伴四郎・為吉)ニて芝へ行、愛宕山へ参詣いたし、世間を見渡し、江戸三分一ハ爰ヨリ見ゆる、其広サは中々詞ニも筆ニも尽しがたく候、夫ヨリ増上寺え参詣いたし、其寺内之広さ、寺之内とハ不被思候、通り抜ケ、扨諸道具・錦絵・其外細工物、諸事何やかや商店之賑ひ驚目候……。

 愛宕山は江戸を見渡すのに絶好の場所でした。「江戸は三分の一しかみえないが、その広さは言葉にも筆にもならない」と語っています。増上寺を通り商店の賑わいをみて目を驚かします。
 有馬家屋敷・赤穂浪士の墓・どじょう鍋・愛宕山などなど、伴四郎の見物先は江戸見物の定番でした。ほかにも美人の常磐津師匠のもとに通ったり、開帳や見せ物を見物したりと、武士のわりにはユーモラスな行動をみせています。
 この伴四郎の日記は林英夫「単身赴任下級武士の幕末『江戸日記』」(『地図で見る新宿区の移り変わり―四谷編―』新宿区教育委員会、1983)で翻刻紹介されています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/05/02

(専門書拾い読み③)大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)

 ある就職試験で「あなたは仏教系の大学を出ていらっしゃいますが、日本人の宗教観についてどういうお考えをおもちですか」という質問をされたことがあります。
 内心「アッ」と思いました。なぜなら出身の立正大学では仏教についての授業をひとコマもとらずに卒業してしまったからです。うちの大学は宗教にとても寛容な大学ですが、それにしても勿体ないことをしました。わたしの怠惰について叱責されたような気がしました。

 日本人は宗教についてあまり深くは考えない民族だといわれてきました。なるほど「お葬式は仏教だが、結婚式はキリスト教」という場合も少なくありません。江戸時代も似たようなもので、原則的に人びとは特定の宗教・宗派に拘らず、寺でも神社にでも参ります。
 ただ、生活道徳・規律にまできびしく影響を及ぼす、重みのある宗教を「宗教」と呼ぶのならば、たとえば浄土真宗のようなものがありますし、イエ信仰みたいなものも「宗教」の中に入れてよいかもしれません。
 イエには「御先祖様」がいます。5~6代以内の近い先祖なら固有名詞で把握できますが、もっと遠くの、名前も知らぬご先祖さえも、一緒くたにして「御先祖様」と把握して仏壇で拝む。子どもの時にわるさをして親から「御先祖様にお詫びなさい」と詰め寄られるのも「宗教」だし、「田地を売り払ってはご先祖様に申し訳がない」と思うのも「宗教」である。生きているひとも死後もまつられると思えばこそ、何の心配もなく家業に精を出せる。しかし現在ではそのような「宗教」も弱体化して、会社などの〝世間様〟だけが「宗教」になってしまったから、「それでは本人が救いようがない」と、ひとの世界に疲れたときのために、新興宗教や心理学が用意されている。
 ―咄嗟のこともあって、そんな気合いの入らない返答をした気がします。宗教系大学の出身らしくもっと勉強すべきでしょう。

 イエ観念といえば大藤修さん『近世農民と家・村・国家』(吉川弘文館)にこうあります。

田畑の単独相続制が定着した近世中期以降、田畑を付けて嫁にやることは原則的に否定されたものの、明治初年に全国各地の習俗を調査して集成した『全国民事慣習類集』の「婚資」の項には、入嫁の際に田畑も持参する例も稀であったことが報告されている。注目すべきは、それは「身体不具面貌醜悪ノ償料ニ宛ル」もので、世間体を憚って内密に行っているとされていることである。この事例は未婚女性をめぐる当時の社会通念とその境涯を背景としていたことは疑いなく、そこには、なんとかして娘を正規の人生コースに乗せてやり、世間から後指をさされないようにしてやりたいという親心が働いていたのだろう。(p155~156)

 結婚せずに家の厄介になると、子孫からの祭祀をうけられず、「無縁仏」になる可能性があるようです。そうすると「御先祖様」の列に加われないわけです。それで「身体不具面貌醜悪ノ償料」ということになります。イエというものの性格を窺わせる興味深い事例といえます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年4月 | トップページ | 2005年6月 »