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2005/04/25

(史料)「御国恩」とはなんぞや

 よく「武士は喰わねど高楊枝」といいますが、武士は困窮しても武士としての面目を失うまいとします。それは、時として気高くみえますが、時として滑稽にうつります。
 「花は桜木、人は武士」というように、武士というと美しき日本人の典型とみられていますが、その一方で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉もあります。忠臣蔵のような忠臣劇は結構ですが、民草に迷惑をかけてもらっては困る。

 「高楊枝」をやっている幕府や藩も、とりわけ江戸時代も後期になると、深刻な経済的逼迫に陥り、そんな暢気なことはいっていられなくなります。そこで商人・百姓から、本来の税とは別に、臨時税である「御用金」を取り立てることが多々ありました。その理屈は

東照神君(家康)以来、殿様が世の中を泰平におさめているからこそ、おまえたち民が安穏に暮らしてゆけるのだ、この無事泰平の『御国恩』に感謝せよ

というものです。「冥加金」と称することもありますが、この「御国恩」の冥加に報謝する、という意味です。とりわけ町人に対する納金要求は激しいものでした。たくさんお金をもっているからでしょうが、取り立ての論理はこうです。

武士は武をもって世の中をおさめる。百姓は力業して農作物をつくる。しかるにおまえたち商人は世の中のために何をした?

 このように「様々な身分的立場から国家を支えよう」という考えは、江戸時代から一般的に存在した考え方です(「役の論理」)。しかし「商人は著しく国家への貢献度が低い」という考え方は、果たして実態を表現したものでしょうか? 幕府や藩は、この商人からたくさん借金していますし、百姓だって、鍬や衣服が買えるのは商人が存在するからでしょう。理不尽であることこの上もありません。

 この「御国恩」の虚偽を鋭く批判したのが福沢諭吉です。おもしろい文章なので、長文を厭わずここに引用しましょう。

政府は年貢運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと言うべし。 (中略) 然るに幕府のとき、政府のことを御上様(おかみさま)と唱え、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅籠までもただ喰い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、甚だしきは旦那が人足をゆすりて酒代(さかだい)を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。或いは殿様のものずきにて普請をするか、または役人の取計いにていらざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、色々言葉を飾りて年貢を増し御用金を言い付け、これを御国恩に報いると言う。そもそも御国恩とは何事を指すや。百姓町人らが安穏に家業を営み盗賊ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と言うことなるべし。固(もと)よりかく安穏に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言うべからず。政府もし人民に対してその保護をもって御恩とせば、百姓町人は政府に対しその年貢運上をもって御恩と言わん。政府もし人民の公事訴訟をもって御上の御約介(厄介)と言わば、人民もまた言うべし、十俵作り出したる米の内より五俵の年貢を取らるるは百姓のために大なる御約介(厄介)なりと。いわゆる売り言葉に買言葉にて、はてしもあらず。兎に角に等しく恩のあるものならば、一方より礼を言いて一方より礼を言わざるの理はなかるべし。
(『学問のすゝめ』岩波文庫、青102―3、1942 同書二編、24頁~25頁)

 福沢の文章はとても易しく明快な文章なので(岩波文庫版なので歴史的仮名遣いなどはいまの仮名遣いに直してあります)、現代語訳は無用でしょう。福沢の文章は現代人にとっても読みやすいのが特徴です。外国語をよく勉強していた彼は、機械仕掛けの論理的で明快な文章を書くことのできる、数少ない日本人でした。ここで福沢は、江戸時代の「御国恩」の馬鹿らしさを痛烈に批判しています。「もともと安穏に人民が渡世できるのは政府の法があるためである。しかし法を設けて人民を保護するはもともと政府の商売柄であって当然の職分である。したがってこれを御恩などといってはいけない」。小学生でもわかる理屈です。
 ところがこの「御国恩」感覚はなにも江戸時代ばかりではありません。なぜなら「御国恩」への「報国」は、アジア・太平洋戦争まで続くのです。日本人は福沢の文章を読んでいながら、何と馬鹿なことをし続けたのでしょうか。

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コメント

残念ながら、現在も連綿と継承されていると思います。

投稿: 並木 | 2005/04/25 09:27

だとすれば、いまだ福沢を見習わなければなりませんね。

投稿: 高尾 | 2005/04/25 22:26

お久しぶりです、弓木です。
僕は、「江戸時代には町人は原則として無税だった」と読んだことがありますが、どうなのでしょう? 「年貢」がかかるのは農民だけ。ただし町人は、自分たちの住む地域で、自治的に負担を求められるのだ…と。
たとえば、道路・橋などのインフラ整備は地域の互助組織でまかなわれ、大店ほど応分の負担を求められる-というのです。大阪などはまるまるそのようにして運営されていたのだと。
また百姓の税率も、当初は五割ほどだったのがだんだん崩れて、後期には二割ばかりだったと読みました。それでずいぶん余裕があって、明治-戦前の方がよほど苛政であったのだと。
この「御用金」ってのは一時の特別税ですよね? 町人には他の税形式もあったのでしょうか? シロートな疑問ですいませんが…。

投稿: 弓木 | 2005/04/26 01:22

 江戸の町人には「公役(くやく)・国役(くにやく)」という税があります。
 ①公役は幕府の御用を勤める人足役で、家持層が間口に応じて負担します。町料理人足・砂利人足・御畳人足・御小納戸人足など多様です。京橋松川町の事例では13種類があったようです。享保7年(1722)11月から人足徴発から銀納化されます。
 ②国役は家持層の中でも町の職人が負担し、生産物や労働力を提供します。運送をとりしきる大伝馬町・南伝馬町・小伝馬町は伝馬役をつとめていました。近世初期、吉原の遊女などは奉行所へお酌をしにゆく「国役」があった、と聞いたことがあります(ちょっと未確認ですが)。これも一部金納になる。
 ①・②ともに家持層のみの負担ですが、人口の大半をしめるその下の家守(管理人)・地借・店借層は、地代・店賃を負担することによって、間接的にこれらの税を負担しているということになると思います。その意味で「江戸時代には町人は原則として無税」という表現になるのでしょう。そのほか、税ではありませんが、町を自治的に運営していくための出費もあります。

 一方、百姓の税は年貢といわれます。年貢は検地による石高で決まります。面積×石盛<土地の生産率>=石高です。したがって石高1石だと一年1石の米がとれる計算になります。畑は米を生産しませんが、米の価値に置き換え、やはり同じように、石高の計算をします。
 ただ、検地によって打ち出された石高が、正確にその土地の生産高を把握したものかどうかは、保証の限りではありません。検地は何回もなされるものではありません。たとえば、江戸時代初期に検地した数値をずっと使い続けた場合、江戸時代中期には、普通に考えて、ずいぶん生産力が伸びてしまっているでしょうから、齟齬をきたします。つまり、事実は石高が増えているのですが、それが年貢納めのときの公称石高に反映されていないわけです。その場合、年貢の額面が「5公5民」であっても、事実上は「3公7民」だったりすることも、ありえるわけです。百姓は商売もやり、商売を経営の中心にする家もけっこうありますから、年貢何%は結構複雑です。
 場所や支配領域にもよるでしょうが、江戸時代の百姓は、我々が想像する以上に豊かだったのではないかと思っています。

投稿: 高尾 | 2005/04/26 09:18

上記コメント、小林さんからのご教示をうけ、一部改変しました。この場をかりてお礼申し上げます。

投稿: 高尾 | 2005/04/26 23:02

高尾先生、懇切なお答えをありがとうございます。「公役」「国役」は勉強になりました。

投稿: 弓木 | 2005/04/27 00:50

こちらこそいろいろご教示ください。

投稿: 高尾 | 2005/04/27 17:31

はじめまして!
ぱんだといいます。
歴史を勉強にやってきました!!
すごく深い内容を扱っておられるのですね。
大変な力作です。
これからも寄せていただきますね。
よろしければこちらにもお寄りください。
トラック・バックもさせて頂きましたので。

ランキング投票もさせて頂きましたよ!!
頑張ってください。

投稿: ぱんだ | 2005/04/27 20:33

ぱんださん、ありがとうございます。よろしくお願いします。

投稿: 高尾 | 2005/04/28 09:19

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