« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »

2005/04/28

(今も昔も)江戸奉公人立志伝

 雪国から江戸へ出稼ぎに出てくる人たちは、ことのほか多かったようです。甲斐(山梨県)・信濃(長野県)・越後(新潟県)などです。わたしの好きな小林一茶も信濃からの出稼人のひとりで、彼らは特に「信濃者」「椋鳥」の蔑称で呼ばれました。
 菊池貴一郎編『江戸府内 絵本風俗往来』(青蛙房復刻版、1965)を繙いてみましょう。

○甲信のもの江戸に出づ
甲州・信濃辺は雪降りつゞき、寒さも随て烈しく、家業農業の合の間なるより、この頃江戸に出て奉公につくものあり、又商ひをなして、明年の春は利得を懐中して帰国するあり、そのまゝ江戸に永住するもありけるが、十中七八までは帰国するなり、何故江戸に止まらざるやといふに、火事と喧嘩の多きに恐れけるとなんと聞こえし、奉公するは多くは湯屋・米屋に住みこむもの、十に八九なり、永住して江戸に止まる者は、町内の木戸際に番屋といふものありて、其番屋の番太郎といふものになり、又は酒店の傭(やとい)などとなる、然るに末は金を溜て米屋の店を出すものは、甲斐・信濃・越後の出生に限りたり。

 ―甲信地方の出稼ぎ人は湯屋・米屋に住み込んで働く。春になると給金を懐にさっさと帰ってしまう。何故といえば江戸の火事と喧嘩に嫌気がさすからである。まれに江戸に永住するものがあって番屋の番人か酒店の雇い人になる。お金をためると米屋の店を出す。それが甲信越地方の出身者の傾向である。

 唐突ですが、「目白御殿」と通称される旧田中角栄邸宅(現、田中直紀・眞紀子邸宅)が東京都目白にあるそもそもの理由は何でしょうか。
 田中角栄は大正7年(1918)新潟県刈羽郡二田村(かりわぐん・ふただむら)に生まれます。尋常高等小学校を卒業すると科学者・実業家の大河内正敏(旧大多喜藩主大河内家当主、理研コンツェルンの生みの親)を頼って上京します。江戸時代にも越後国からたくさんの百姓が出稼ぎにきたわけですが、それを彷彿とさせるような光景です。行き先が大名家というのも面白い。いわば武家への中間奉公を目指したわけです。このへんあまり江戸時代と変わっていない。
 けっきょく彼は大河内家の門前払いを喰い、その下請の土建会社に就職します。そして勉励刻苦したのちに政治家になり、自由党(現在の自由党とは無関係)総務にまで出世します。そのとき東京都目白の土地16500平方キロメートルを購入します。
 購入の理由はこの土地が故郷二田村旧領主の椎谷藩堀家屋敷跡だったからだそうです(水木楊『田中角栄 その巨善と巨悪』日本経済新聞社)。この話の真偽はわかりません。わたしも調べてみましたが、江戸時代の目白に、堀家の屋敷を確認することはできませんでした。……もしかしたら明治以後に堀家が屋敷をもったということなのかもしれません。
 何れにせよ田中角栄の執念みたいなものを感じさせます。もし誤伝だとしてもそれはそれでおもしろい誤伝です。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005/04/25

(史料)「御国恩」とはなんぞや

 よく「武士は喰わねど高楊枝」といいますが、武士は困窮しても武士としての面目を失うまいとします。それは、時として気高くみえますが、時として滑稽にうつります。
 「花は桜木、人は武士」というように、武士というと美しき日本人の典型とみられていますが、その一方で「泣く子と地頭には勝てぬ」という言葉もあります。忠臣蔵のような忠臣劇は結構ですが、民草に迷惑をかけてもらっては困る。

 「高楊枝」をやっている幕府や藩も、とりわけ江戸時代も後期になると、深刻な経済的逼迫に陥り、そんな暢気なことはいっていられなくなります。そこで商人・百姓から、本来の税とは別に、臨時税である「御用金」を取り立てることが多々ありました。その理屈は

東照神君(家康)以来、殿様が世の中を泰平におさめているからこそ、おまえたち民が安穏に暮らしてゆけるのだ、この無事泰平の『御国恩』に感謝せよ

というものです。「冥加金」と称することもありますが、この「御国恩」の冥加に報謝する、という意味です。とりわけ町人に対する納金要求は激しいものでした。たくさんお金をもっているからでしょうが、取り立ての論理はこうです。

武士は武をもって世の中をおさめる。百姓は力業して農作物をつくる。しかるにおまえたち商人は世の中のために何をした?

 このように「様々な身分的立場から国家を支えよう」という考えは、江戸時代から一般的に存在した考え方です(「役の論理」)。しかし「商人は著しく国家への貢献度が低い」という考え方は、果たして実態を表現したものでしょうか? 幕府や藩は、この商人からたくさん借金していますし、百姓だって、鍬や衣服が買えるのは商人が存在するからでしょう。理不尽であることこの上もありません。

 この「御国恩」の虚偽を鋭く批判したのが福沢諭吉です。おもしろい文章なので、長文を厭わずここに引用しましょう。

政府は年貢運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと言うべし。 (中略) 然るに幕府のとき、政府のことを御上様(おかみさま)と唱え、御上の御用とあれば馬鹿に威光を振うのみならず、道中の旅籠までもただ喰い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、甚だしきは旦那が人足をゆすりて酒代(さかだい)を取るに至れり。沙汰の限りと言うべし。或いは殿様のものずきにて普請をするか、または役人の取計いにていらざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、色々言葉を飾りて年貢を増し御用金を言い付け、これを御国恩に報いると言う。そもそも御国恩とは何事を指すや。百姓町人らが安穏に家業を営み盗賊ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と言うことなるべし。固(もと)よりかく安穏に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するは、もと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と言うべからず。政府もし人民に対してその保護をもって御恩とせば、百姓町人は政府に対しその年貢運上をもって御恩と言わん。政府もし人民の公事訴訟をもって御上の御約介(厄介)と言わば、人民もまた言うべし、十俵作り出したる米の内より五俵の年貢を取らるるは百姓のために大なる御約介(厄介)なりと。いわゆる売り言葉に買言葉にて、はてしもあらず。兎に角に等しく恩のあるものならば、一方より礼を言いて一方より礼を言わざるの理はなかるべし。
(『学問のすゝめ』岩波文庫、青102―3、1942 同書二編、24頁~25頁)

 福沢の文章はとても易しく明快な文章なので(岩波文庫版なので歴史的仮名遣いなどはいまの仮名遣いに直してあります)、現代語訳は無用でしょう。福沢の文章は現代人にとっても読みやすいのが特徴です。外国語をよく勉強していた彼は、機械仕掛けの論理的で明快な文章を書くことのできる、数少ない日本人でした。ここで福沢は、江戸時代の「御国恩」の馬鹿らしさを痛烈に批判しています。「もともと安穏に人民が渡世できるのは政府の法があるためである。しかし法を設けて人民を保護するはもともと政府の商売柄であって当然の職分である。したがってこれを御恩などといってはいけない」。小学生でもわかる理屈です。
 ところがこの「御国恩」感覚はなにも江戸時代ばかりではありません。なぜなら「御国恩」への「報国」は、アジア・太平洋戦争まで続くのです。日本人は福沢の文章を読んでいながら、何と馬鹿なことをし続けたのでしょうか。

| | コメント (9) | トラックバック (1)

2005/04/22

(都市)「覗く」ということ―高い所からごめんなさい―

 都市という場は、いろいろな身分の者が、ひとつの空間にひしめきあいます。それが故の特別な問題があります。「覗く」という問題もそのひとつです。

 「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館所蔵)・「江戸名所図屏風」(出光博物館所蔵)は、江戸初期頃の江戸の様子を鳥瞰できる、希有な絵画資料です。なかでも目立つのは、町人地の角地に聳える三階建の建物、所謂「三階櫓」です。町人地になぜ城郭施設のようなものがあるのか謎ですが、武士の系譜をひく町人も少なくなかったためかもしれません。後にこの三階櫓は禁止され、建てられなくなります。ですから江戸初期のみにみられる特有の建物です。いまでいうところの高層ビルのイメージでしょうか。
 ……町人地の三階櫓が禁止された理由は「高貴なひとの屋敷が丸見えになってしまうから」なのだそうです(某氏ご教示)。史料にそうしっかり書いてあります。貴重な情報です。

 真ん中にあるのが三階櫓です。『江戸名所図屏風』(国立歴史民俗博物館蔵)同館ホームページより。
http://www.rekihaku.ac.jp/gallery/edozu/layer4/pl343.html

 そういえば、現在の皇居前の東京海上火災ビルも、設計された当初より低めに建てられました。それは皇居が覗けてしまうからです(猪野直樹『ミカドの肖像』、小学館、猪瀬直樹著作集、2002)。いわば現代の「三階櫓」です。

 将軍の行列や朝鮮の使節が江戸のまちを通るとき「二階から覗き見をするな」という町触がよく出ます。
 行列を誰かが狙撃するのを防ぐ等、警備の対策もあるのでしょうが「高い位置から見下ろすのは失礼だ」という発想ではないかと思います(失礼といえば「朝鮮の使節に指を指して大声で笑うな」という町触もあります)。
 つまり「身分と物理的高さはなるべく一致させるべき」という考え方です。例えば、千利休が切腹を命じられた理由のひとつに、秀吉の行列の上に利休の木像を建てた、ということがある。その真否は措くとしても、むかしのひとの観念を窺い知ることができます。
 このあいだ、関東大震災をご記憶のおじいさんに、こういわれました。

「……そういえばね、むかし、お神輿を二階から覗くなって、よく云われたもんですよ。神様ですからね、あれは」。

(お知らせ)当ブログが、新書のブログ入門書、滝田誠一郎著『50代にもよくわかる「ブログ」入門』で紹介されています。本の中では20くらいのブログが載っていますが、当ブログは「学習型ブログ」として写真付きで1頁割いて紹介を頂きました。この場をかりて著者の滝田さんにお礼申し上げます。KKベストセラーズ・ベスト新書、全国書店にて発売中です(なお当ブログの商業的利用については必ずわたしの許可を得て下さい<niftyココログ編集部は除く>。滝田さんには前もって使用の許可を出しています)。

 滝田誠一郎著『50代にもよくわかる「ブログ」入門』(KKベストセラーズ・ベスト新書、定価800円+税)
http://www.kk-bestsellers.com/cgi-bin/detail.cgi?isbn=4-584-12088-9
 お金も時間もかけず、世界中に発信できる便利な道具「ブログ」のユーザーが急上昇中です。そこで、今すぐはじめてみたい方に超やさしい入門書をつくりました。パソコン初心者も中高年も大丈夫。話題のツールで人生をもっと楽しんで下さい!本書では、ブログの立ち上げ方をイチから解説。パソコン初心者や中高年の方でも気軽にブログを始められるようにしました。もちろん!既にブログを始めている人にも役立つ、「目立つ」「ウケる」ためのテクニックや、デザインのカスタマイズ方法も満載!

 滝田誠一郎(たきた せいいちろう)
ノンフィクション作家/ジャーナリスト。1955年東京生まれ。青山学院大学法学部卒。様々な分野で活躍する起業家、ビジネスマン、クリエイターらを主人公にしたヒューマン・ドキュメンタリーを数多く執筆。雇用人権問題・人事問題にも精通し、ビジネス評論にも定評がある。著書に『会社ニモ負ケズ人生ニモ負ケズ』(講談社)、『電脳のサムライたち』『孫正義/インターネット財閥経営』(以上、実業之日本社)などがある。現在、小学館の月刊誌『ラピタ』い《長靴を履いた開高健》を連載中。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/16

(講演・発表)自意識過剰

 最近は講演や研究発表をさせて頂く機会が多いのですが、苦慮するのが時間制限内で話を終わらせることです。
 「2時間喋れ」といわれれば2時間の内容を、「1時間半喋れ」といわれれば1時間半の内容を、「30分喋れ」といわれれば30分の内容を、それぞれ用意して喋ります。したがってそれぞれ喋るペースも違います。時間がなければテンポをはやくし内容も濃くします。逆に時間があればテンポをゆっくりにし無駄話をすることもできます。
 以前は発表時間を守らず(守れず)、時間オーバーしてしまうこともしばしばでした。しかしあるとき「それは自意識過剰ではないか」と反省し、時間をきっちり守ることにしました。
 この「自意識過剰」とはこういうことです。時間を守らないことは「時間なんていいから俺の話を聞け」と主張していることと同じで、折角話を聞いて頂いている方々に傲慢・失礼ではないか。当然のことです。またある先生からこんなこともいわれました。「短い時間で纏められないのは頭の悪い証拠」。

 さて、わたしの学会デビューは、大学院修士課程1年生のときでした。日本史関係卒業論文発表会、大学を代表しての登壇です。会場は駒沢大学でした。
 まえの発表者の報告が終わり、いよいよ次は自分の報告の番です。緊張して動悸がします。掌にもじっとり汗がでてきます。
 するとどうでしょう、わたしの報告がはじまるまえに、大勢の観客がわらわらと退席し始めたではありませんか! ありゃ、まあ……。無言のうちに(次の報告なんかツマランぞ)といわれているような気がする。
 その直後の登壇。咄嗟に「これは何かをいわねばならない」と思いました。男がすたるではないか。それで開口一番、

 まあ、ひとがいないほうが、緊張しなくていいんです

 会場に笑い声が広がりました。これがわたしの学会デビューの第一声です。この周辺の騒ぎはちゃんと『地方史研究』268号に載っています。
 へんなところで評判になりました。ある方から「高尾さんのご報告の内容は覚えていませんが、しかしこの一件には吃驚りして、いまでもはっきり覚えています」といわれました。しかしわたしはあとで「要らんことをいった」と後悔しました。

 つまり研究なんていうものは「自分が面白いと思うほどには、他人は面白いとは思わない」のです。もちろん自分で面白いと感じる研究をし、同じように聴衆に面白いと頷いて頂くべく精一杯に努力をしています。しかしその自分の思いは、まあ、伝わって60%ぐらいが関の山じゃないですか。
 みなさんにせっかく自分の「つまらない」話を聞いて頂くのだから、せめて時間制限を守ろう。わたしはそういう発想でいつも登壇します。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005/04/13

(戒名の意味)忘れ得ぬ史料―わたしの発掘した義民―

 時としてひととの邂逅が劇的であるのと同じように、史料との邂逅も劇的なことがあります。
 いままで様々な史料をみてきましたが、どうしても忘れられない史料があります。それは、卒業論文のときに取り組んだ、川越藩領・武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市赤尾)の日記史料です。
 この村では、天保2年(1831)から天保6年(1835)もの間、名主(なぬし、村長)の座をめぐって、長い内輪もめがありました。
 結局、天保6年、ある百姓Aが川越藩の代官と賄賂で癒着、惣百姓の意志を飛び越えて、代官の特別任命によって名主の座を獲得しました(水戸黄門のドラマに出てきそうな話ですが)。
 そのため村中が大騒ぎをし、反対派が「名主は村の総意で選ぶべきだ」と郡奉行所へ押しかけ、Aの名主就任の取り消しを求めました。しかし奉行所では「お上の決めたことに異論を唱えるとは」と激怒、この申し出を却下するばかりか、百姓数人を牢に押し込めてしまいます。
 のちに代官の汚職が露見し、百姓たちは出牢を許されますが、そのうちの権蔵という百姓が牢生活の疲れで落命します。

この権蔵に関わる興味深い史料があります。赤尾村村人の日記、天保6年9月14日条に彼の葬式の記述があります。

同十四日、(略)今日権蔵葬式ニ付拾人は直ニ帰村有之、夕方葬式済ム、戒名金剛斎虚空生執清士と云、此戒名之文字可考思

 筆者は、権蔵の戒名「金剛斎虚空生執清士」(コンゴウサイ・コクウショウシュウ・セイシ)の文字には「意味がある」と記しています。しかし一体どういう意味なのか、わたしには長らく見当もつきませんでした。「コンゴウサイ」で仏教辞典で引いてみても、当該する事項は一切見あたりません。
 そこで、いろんな仏教辞典を頭から片っ端に引いてみることにしました。といってもこれはたいへんな作業です。……汗をかきかき調べたところ、やっと中村元『佛教語大辞典』(東京書籍、1983)に、参考になる事項をみつけました。

虚空生執金剛 (略) 金剛が植物の成長をさまたげないように、どんな人びとのために尽くしても無所得である、そのような菩提心を有する菩薩の意 (略)」

 おそらくこれが権蔵の戒名の由来でしょう。「虚空生執」と「金剛」がひっくりかえっていたので、「コンゴウサイ」で引いてもわからなかったのです。
 これによって、領主から死後も罪人とされた筈の権蔵が、村では密かに慈悲の菩薩として祭り上げられていたことがわかりました。村のために死んだ権蔵への想いを、密かに戒名にこめたのです。まさに権蔵が「生き返り」ました。震えるほどに感動的な出来事でした。
 これはわたしの発見した義民です。権蔵の墓はみつかっていません。

※拙稿「村役人の選出と村の自治―武蔵国入間郡赤尾村の事例―」『立正史学』96号(2004)より。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005/04/09

(俳句)芭蕉と一茶、ふたつの天の川―元禄文化と化政文化―

 松尾芭蕉の俳句も小林一茶の俳句も魅力的ですが、しかしそれぞれに理由は異なります。
 芭蕉と一茶とでは生きていた時代も作風もまったく違います。いや「生きていた時代が違うから作風も違う」といったほうが正確でしょうか。
 芭蕉の生きていた時代は江戸時代中期の元禄文化の時代です。上方を中心とし富裕層の支える豪奢な文化でした。いっぽう一茶の生きていた時代は江戸時代後期の化政文化の時代です。江戸を中心とし庶民の支える生活感あふれる文化でした。

 芭蕉は天の川をこうみています。

 荒海や 佐渡に横たふ 天の川  芭蕉

 なんだかアメリカのスピルバーグの映画に出てきそうな雄大な風景です。芭蕉はつくってきたような「わざとらしい」風景を詠みます。
 実際芭蕉の句にはフィクションが交ざっているといわれます。天文学者は「芭蕉が天の川をみたと思われる新暦8月18日には、天の川は海に対して垂直に立っていた筈ではないか」と指摘します。それでも美しい風景であるには違いありません。文学的レトリックに優れた作品です。

 いっぽう一茶はどうでしょうか。

 うつくしや 障子の穴の 天の川  一茶

 一茶は「障子の穴」から天の川をみます。芭蕉の天の川のようなダイナミックな感じはありませんが、そのかわり「わざとらしい」印象はなく、ふとした卑近な場面でみつける美しさがあります。とても素直な表現で、われわれも同じような風景をみることができそうな気がします。
 実際、一茶は江戸に出てきて、貧しい長屋暮らしの中で障子の穴から天の川を眺めたに相違ありません。彼は「障子の穴」という日常生活の中に天の川を発見したのです。また一茶は芭蕉と違い、比較的無造作な表現の俳句をたくさん残します。化政期の大量商品生産を象徴するかのようです。

 芭蕉は広大な海の中に天の川を眺め、一茶は障子の穴から天の川を眺める。みなさんはどちらの天の川がお好みでしょうか? わたしはどちらかというと一茶の方が好きかもしれません。
 好き嫌いはあると思います。この芭蕉と一茶の天の川の表現の違いこそが、元禄文化と化政文化の違いなのだと思います。

| | コメント (3) | トラックバック (1)

2005/04/06

(シンポジウム)地域をどう考えるか

 江戸御府内の巣鴨は町方の具体的な様子(巣鴨町)がわかります。わたしが旧幕府引継書という古文書群を閲覧していたとき、「巣鴨町軒別絵図」という絵図の存在に気付いたからです。
 『巣鴨百選』というタウン誌で、それを地元の方々にご紹介させて頂きました。また、絵図を学問的に分析した原稿、豊島区遺跡発掘調査報告書『巣鴨町Ⅵ』掲載、拙稿「『巣鴨町軒別絵図』と近世巣鴨町の諸相」は、先日ゲラがあがってきましたから、もうすぐ刊行されます。

 さて、先日は地元の巣鴨でこの絵図についての基調講演を行い、街づくりのシンポジウムにも参加してきました。シンポジウムのパネリストとして、豊島区商工部長さん、福祉・建築・都市計画の研究者、歴史学分野ではわたしが参加しました(当日豊島区長さんもおみえでした)。非常に活気あふれるシンポジウムでした。わたしも街づくりについて発言を求められたので、そこで喋ったことを以下に掲載します。
 わたしは現在の巣鴨については何も知らないし、江戸時代の絵図をみつけてきたということ以外に何の因果もないわけですから、「何か一言…」といわれて、何も戸惑いを覚えないことはありません。ただ「歴史学というちょっと変わったことをやっている人間の目からみて、現在の地域がどう映るのか」というのが趣旨でしょうから、その考えに従って発言しました。
 巣鴨だけでなく他の土地にもあてはまることが多いかもしれません。そういう目でお読み頂ければと思います。

―以下、シンポジウムでの高尾発言(当日の発言をもとに再構成した)

・未来志向性の現代社会 わたしはさきほど50分ばかりお時間を頂いてお話させて頂きましたし、都市計画についてはまったく素人ですから、ここではわたしの思う街づくりについての雑感を、2つ・3つくらいお話するにとどめたいと思います。
 みなさんもご記憶に新しいと思いますが、「南セントレア市」騒動というのがありました。愛知県のある自治体で、「南セントレア」という、まあ、その土地の由来には何の関係もない自治体名がつけられそうになりました。これは「これから新しい自治体をつくっていこう」という意識のあらわれなんだと思います。この未来志向な考え自体については一概に否定するつもりはございません。なぜなら、そもそも地域というのは、常に新しい要素を絶えず受け入れつつ、新陳代謝していかねばならないからです。ただ、「南セントレア」でおかしいなあと感じることは、未来志向性ばかりに偏向していることですね。いままで地域に堆積した文化を一切顧慮していません。考えてみれば、いまの世の中「これからどうなるのか」という話題ばかりです。占い・株価・国際関係の未来などなど。現在という〝点〟から常に未来へ顔が向いています。それが現代社会のひとつの特徴だと思っています。未来志向自体は結構ですが、しかしそればかりではいけません。
 それでは逆に過去志向ではどうか。わたしは過去を扱う歴史学をやっておりますが、その立場からあえていわせて頂くと、過去志向ばかりでもだめだと思います。「むかしからAなんだから、Aじゃないとだめなんだ」という発想では発展性がありません。
 したがって街づくりでは、未来志向・過去志向の両方をうまく混ぜて考えることが大事ではないかと思うわけです。

・文化財を「地域財」に それでは具体的にどうするか。この巣鴨には川越みたいな古い町並みこそ残っておりませんが、地域づくりにとても恵まれた土地です。先ほどもお話したように、「巣鴨町軒別絵図」が存在することによって、江戸時代の町並みがくわしくわかる旧・御府内でもまれな土地になりました。また幸運なことに考古学発掘が盛んです。巣鴨遺跡という埋蔵文化財指定地域になっていますから、旧・武家屋敷には武家屋敷の遺跡が、旧・町方には町方の遺跡が出てくる。建物の建て替えをすれば何かしら出てくるのです。
 それに関して、地元の方とお話致しますと「いやあ、困ったなあ、お金はかかるし、工期は遅れるから」って仰るんです(笑)。でもよく考えれば、これは調査する側にとっても地元住民にとっても、不幸なことですね。「ここ掘れワンワン」じゅありませんが、本来は宝物である筈の文化財発掘です。「困ったなあ」と思ってしまうのは「文化財がちゃんと〝地域財〟として意識されていないから」ではないでしょうか。地域の財産として位置付ければどうでしょう。
 たとえば町に出土したお皿や徳利を展示するスペースでも設ければどうか(ヨーロッパではお馴染みの光景だそうですが日本にはありません)。さらに「巣鴨町軒別絵図」の情報を歩道プレートに埋め込んで町並みを再現してはどうか。絵図と考古遺物でちょっとした町並み博物館ができます。
 巣鴨を掘っていらっしゃる豊島区遺跡調査会さんは、『巣鴨百選』というタウン誌を使って発掘の報告を盛んにしていらっしゃいます。学問成果の地域還元という意味ですばらしい試みだと思います。みなさんにも是非読んで頂きたいのですが、わたしもそのご努力を学びたいと思います。
 よく「文化財を大切にしましょう」といいますが、わたしはあまりこの言い方が好きじゃありません。なんだかお説教に聞こえてしまうからです。文化財を大切にしなければならないのは当然ですが、むしろ「地域のために文化財をどう利用できるのか」という議論から、文化財の大切さを説きおこすほうが、説得力があるんじゃないかと思うのです。
 特にこの巣鴨では「巣鴨町軒別絵図」と考古学発掘の2つをもっておもしろいことができるのではないでしょうか。楽しみにしております。

・町並みにいろんな要素を わたしは江戸時代の研究をしておりますので、「いっそのこと、江戸時代の町並みらしく建物も改装したらどうか」と考えますが、地元の方々は昭和レトロで売り出したいそうです。
 巣鴨に限った話ではありませんが、土地にはいろんな時代の要素がバームクーヘンのように折り重なっているのです。したがいまして、巣鴨の町の風景にも江戸・明治・大正・昭和・平成・未来の6つの要素を混ぜるようにして、彩りのある町にしてはどうかと思います。
 ただ、江戸時代研究の観点から申し上げますと、「昭和レトロ」っていうのは、明治・大正時代の産物を受け継いでいる文化です。もちろんその背後には江戸時代がちゃんとあります。だから、われわれが「昭和レトロ」だと思い込んでいる文化の中には、実は江戸時代の文化が入り込んでいる場合が多いんじゃないだろうか、と思うわけです。
 たとえば先ほどお話ししたように、「巣鴨町軒別絵図」から推測した軒別の間口平均値が、いまのビルの幅とほぼ一致していたり、江戸時代の巣鴨町の住人の御子孫がお住まいになっていたり、江戸時代からお客さんをもてなす「もてなしの街」であることも、一切変わっておりません。
 ……といろいろ申し上げましたが、何分わたしは現在の巣鴨をあまり知りませんし、都市計画についても素人ですから、きょうご出席の先生方のご意見やみなさんのお知恵なども一緒にあわせまして、いい街をつくって頂きたいと思っています。

(付記)「週刊! 木村剛」 第43回「BLOG of the Week」「実名で書くなんて勇気がありますね?!」 「週刊! 木村剛」の「BLOG of the Week」に選んで頂きました。これで木村さんに選んで頂くのは3回目になりました。アクセスも多く頂きました。この場をかりてお礼申し上げたいと思います。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005/04/03

(恐れながら)100年前のテスト答案、曾孫が採点

 わたしの母方の曾祖父、三重県三重郡三重村生桑の地主の息子加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)は小学校訓導でした。結核を煩い満31歳でこの世を去りました。この退祐が生徒時代に記したテスト答案用紙が加藤家の蔵の中に残っていました。みつけたときは吃驚りでした。
 曾祖父の100年前のテスト答案をみているとなんだか不思議な感じがします。答案の中の曾祖父はわたしよりはるかに年下なのです(!)。予科2年とは四日市商業学校予科2年生のことで15歳になります。明治41年(1908)。退祐公には失礼ながら不肖の曾孫善希がこれを批評し奉らんと存じます。なんだかわたしの方が緊張します。

 さて答案は「山吹」と「我が元旦」の2枚です。重複する無用な表現があるところなどに、多少の未熟さを感じるものの、構成としてはよくまとまっています。
 「山吹」は現代と同じ言文一致体(「である」調)で、「我が元旦」は文語体(「なり・たり」調)で書かれています。当時の学校では両様の書き方を習ったようです。教師側の評価は朱筆でもって「山吹」に「能し」(よし)、「我か元旦」に「善し」(よし)とあります。どちらもまず合格だったようです。

 まず「山吹」。引用されている「七重八重」という歌は「後拾遺和歌集」にあるもので、太田道灌の故事でも有名です(太田道灌の故事は当時の教科書に載っていたものでしょうか)。むかし「山吹は実を結ばない」という俗信があったことの証拠として、効果的に引用しています。

   山吹 予科第二学年甲 加藤退祐
山吹の花は夏の始めに開き、葉は深緑色で花は黄金色である。この黄金色の花と深緑色の葉との配合色がいかにも華美で、下品といふ人もあれど、そこになんとなく赴き(「趣き」の誤字)があるように思はれる。山吹の実を結ぶといふことは、博物の本にかいてあるが、諸種の本を見れば、実を結ぶとも結ばないともかいてある。古き歌に「七重八重 花はさけども 山吹の 実の一つだに なきぞかなしき」といふ歌もある。この歌によれば実(は)ないようである。しかし植物の本にはまさかうそはかくまい。それで実を結ぶに相違あるまい。古人は自分が見ないから、実を結ばぬものと心得違いをしたのであらう。そうはいふものゝ、われもまだ実を見ないから、たしかな判断はできないのである。
(句読点・括弧等はわたしが補った。旧漢字は新漢字に直した。)

 「我が元旦」。元旦の雰囲気がよく出ています。元旦一日の気象の転変が、まるで一年間の転変を象徴しているかのようです。締めの言葉「まちにまちたる元日も夢の間に過ぎたり」という文句が明治人らしい。また「ころころ」「ばらばら」という擬声音語が多用されているところは一見幼くみえますが、明治時代の文章に一般的にみられる傾向でした(前田愛『近代読者の成立』<岩波現代文庫、2001>)。

   我が元旦 予科第二学年甲組 加藤退祐
新玉の、年たちかへりてさしのぼる、朝日のかげうらゝかに、戸毎にたてた日の御旗を、そよく風に翻へり、老も若きも満面に、あふるゝばかりの笑をふくむ。早朝より雪は降り出して、身を切るばかりの北風は、細い悲い声をして、雨戸へあたる雪の音は、物凄く聞ゆ。外套(コート)にて全身を覆ひて、一人の友と共に拙宅を出発し、此烈風と戦ひて遂に当校に着し、新年拝賀式をゝへて帰らむとす。雪はますますはげしく降りて、面をも向けがたし。はや積雪五・六寸に及びて歩行に困難し、漸くにして帰宅せり。午後風なぎたれば、小供は竹馬に乗つて走り、小犬はころころ転びまはり、雀がそこらの枝で羽叩きする度毎に、ばらばら、ばらばら、其の花の散るのもおもしろし。午前は粉雪、午後は綿雪、終日間断なく降りたり。まちにまちたる元日も、夢の間に過ぎたり。
(句読点・括弧等はわたしが補った。旧漢字は新漢字に直した。)

 音読してみると気持ちよく、文章のリズムによく配慮してあることがわかります。やはり昔のひとは文章を音読したのではないかと思います。今のわたしにこんな文章を作れといわれても、「うーん」というところでしょう。曾祖父退祐公はすごい。脱帽でございます。採点なんてとてもとても。曾祖父退祐公に両方とも100点を奉ります。曾孫は恐れ入りました。

(付記)このテスト答案の公表の是非をめぐってわたしの母親(退祐孫)と相談しました。「もう加藤の家も断絶したし100年前のことだから差し支えなし」という結論になりました。曾祖父にあったひともこの世にもういないかもしれません。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年5月 »