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2005/03/26

(人物史)「巣鴨花太閤」内山長太郎伝―ひとが地域を生み地域がひとを生む―

 江戸時代の巣鴨というのはどんな土地だったのだろう? 最近そんなことばかりぼんやり考えています。巣鴨の家が240軒記されている「巣鴨町軒別絵図」(すがもまちのきべつえず)を発見してしまって以来、気になって仕方ありません。
 江戸という大きな地域をひとつの大きなお盆にたとえるなら、巣鴨はそのお盆の縁(へり)にあたります。もし巣鴨に茶碗を置いたら、ひっくり返ってこぼれ落ちそうです。巣鴨が町奉行支配地に編入されたのは延享2年(1745)、江戸開府から140年もたってからのことでした。御府内とはいえ、お世辞にもお江戸の内とは言い難い。
 お盆の縁(へり)にして新参者。そんなことをいったら、いまの巣鴨のひとに叱られそうですが。しかしそういう巣鴨の地域性はおもしろい人物をうみだしました。

・長太郎の夢 内山長太郎は巣鴨の植木屋・花屋です。こんな人生をおくってみたいものです。「長太郎」なんて名前もふるってます。
 文化元年(1804)、巣鴨に笊屋の息子として生まれます。男のくせにずいぶん色が白くて、目は切れ長、摺物でみる女形の役者のようなやさしい顔立ちです。
 当時巣鴨は植木屋・花屋でたいへん賑わい、特に花の技術を各々の家で競い合っていました。そんな空気を吸って彼は少年時代を過ごします。だから、幼いころからよく道ばたに咲く花を愛でて、ちょっとかわった子どもでした。「おれぁ、大人になったら花戸(はなや)になりてえ」が口癖。植木屋・花屋といってもいまのイメージとは随分違います。人集めの興行師でもあり歴とした植物学者です。彼はそんな華々しさに憧れを感じたのでしょう。
 長太郎が15歳になったとき。笊屋の親父は彼を呼びつけて突き放すようにこう言いました。「おめえも15歳だ。15歳といえば大人と同じ働きをしなきゃなんねぇ。おまえ、自分の喰い扶持くらい自分で稼いでこい」。それに対して長太郎は「わかったよ」と素直に頷きますが「でもおれは笊屋は継がねえよ。花戸(はなや)になるんだ」という。

・行商 それで長太郎はちかくの村から唐辛子の苗を仕入れてきます。それを担いで毎日江戸の繁華街に行商に出かけました。唐辛子は当時賞翫用にたいへん人気がありましたから、上野の広小路や吉原など、人通りの激しい所にいって「苗や、苗や」と声をあげれば、飛ぶように売れてしまう。特に吉原にゆけば、美しい容姿と色っぽい売り声の長太郎は大人気、たちまち女性たちが押しかけて、あっという間に売れ切れてしまいます。
 しかし苗ひと束4文ですからたいした儲けになるわけがありません。長太郎は儲けのうちの150文を父親に渡し、あとの残りのお金は自分の懐に大切にしまっておいたのでした。

・大名との交流 そんなある日のこと。いつものように上野で行商をしていると、下僕2人を連れたひとりの若侍に声をかけられます。若侍も花がすきらしく、同好の誼みで話しているうちに話が弾んで意気投合します。そのうち話の成り行きから、若侍が「どうだ、わたしの邸に来ないか?」という。長太郎は「せっかくですから」と招きに応じましたが、若侍の住む邸の広大さをみて驚きます。そこは越中国富山藩邸でした。
 下僕のひとりが、長太郎にそっと耳打ちします。「ここの若様さ」。なんと若侍の正体は富山藩主世子前田利保であるらしい。
 それで長太郎は「これはえらいことになった」と尻込みしますが、利保は「どうしてもきて欲しい」と強いて長太郎を邸に招き入れる。利保は邸内にある花々を長太郎にみせて歩きました。長太郎は悉くその花の名前を答え、知るところをよく弁じ、知らぬことは知らぬと謙虚なふうをみせます。利保はこれにいたく感じ入り、それ以来長太郎を知り合いの大藩の邸にも招くようになりました。博識で謙虚な長太郎は大名からも「先生、先生」と慕われるようになります。

・天保飢饉での機転 長太郎の人生の転機は天保飢饉のときでした。
 野菜が不足し特に江戸市中は野菜の高値がとどまりを知りません。長太郎は「しめた」と今までの行商の儲けをすべて掻き集め、ひとや大八車をたくさん集めます。
 長太郎一行は大急ぎで板橋宿を駈け抜け、川越街道を一目散に北上します。目指したのは親父の故郷川越の白子宿です。彼は白子周辺の親戚・知人から野菜をたくさん買い付けて、往返の沿道でもなるべく野菜を買い付けます。舟運も大いに利用したのではないでしょうか。とにかくその野菜をすべて巣鴨に持ち帰るや、すぐに江戸市中へ売り払いました。野菜不足の江戸市中、面白いように言い値で売れる。たちまち長太郎は途方もない財をなしました。
 その財で長太郎は巣鴨に3000坪の土地を買い入れます。それがもとになり、夢だった花屋を開業します。それが江戸中で大評判をとり、「花屋の長さん」といえば、巣鴨の内山長太郎をさすようになります。ひと呼んで「花戸太閤」。維新後は明治天皇行幸の名誉もうけます。

・ひとが地域を生み地域がひとを生む 内山長太郎は、色男で先見性があって頭もいい、しかも謙虚で努力家、おまけに運もいい。こんな完璧な人物がいるんですね。考えてみれば、彼はいつも都市(江戸)や村を行ったり来たりしながら、人生のジャンプアップをしていくわけです(唐辛子の苗といい、行商といい、野菜の売却話といい)。都市と村との間に位置する巣鴨が生んだ、如何にも巣鴨らしい人物ではないでしょうか? 長太郎の住居地はわたしのみつけた「巣鴨町軒別絵図」によって正確に割り出すことができます。

(付記)本稿は史料の記載に基づいて作成したものですが、わたしの想像も多少入っています。おおかた史実通りでしょう。

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コメント

植木屋の話、面白いですね。花、花やについての史料は残っているのでしょうか。
ご教示ください。

投稿: メドロ先生 | 2005/03/30 01:24

 仕事で出張しておりましたのでお返事が遅れ申し訳ございません。
 この「内山長太郎伝」の史料的根拠は「日本園芸開雑誌」88号・「盆栽雅報」21号で何れも明治時代の回顧録です。内山本人からの伝え聞きをまとめたものと思われます。
 残念ながら植木屋の経営史料などは管見の限りみたことがありません。巣鴨の植木屋や花についての史料は随筆・日記・年代記などに断片的に残っています。それらを網羅的に拾ったものに『駒込・巣鴨の園芸史料』(豊島区郷土資料館、1985)があります(これは便利な史料集です)。
 ただ内山長太郎子孫の内山家に「椿花百種」なる史料があるようです。椿の花を極彩色に描いたもので、「豊島区立郷土博物館常設展示図録」に採録されています。

投稿: 高尾 | 2005/03/31 08:17

長太郎の弟の卯之吉の子孫です。椿花百種は私が持っています。そのほかに、蘭と杜若があります。

投稿: 内山 貴之 | 2005/06/17 00:18

内山さん、コメントをありがとうございます。

ご先祖長太郎のことは、いまとても興味をもっています。内山家、その親戚筋のこと、巣鴨のことなど、古い話(幕末・明治・大正・戦前昭和、何れでも構いません)が残っていましたら、ご教示頂けませんでしょうか。

わたしのみつけた「巣鴨町軒別絵図」では、幕末の巣鴨の240軒分についてのくわしい記載があります。もしよろしければ、拙稿をお送り致しますが、如何でしょう。

投稿: 高尾 | 2005/06/17 08:36

私は、福岡市で理科教員をしている者です。玄海灘の小呂島に勤務していたことがあります。そのとき、オロシマチクという日本で最小のササが小呂島原産ではないかということを調べていると、「嘉永年間に江戸巣鴨の長太郎が筑前の殿様と小呂島に訪れ、珍しい笹があったので世に広めた」と竹笹類の図鑑に紹介してあるのを知りました。
これを確かめたものはいないとあるのですが、このことを何か確かめることはできますか?
何か小呂島のためになることはないかと調べています。よろしくお願いいたします。

投稿: 山口哲也 | 2015/12/23 23:38

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