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2005/03/31

(享年満31歳)曾祖父のハンガー・ストライキ

 親戚には理系が多いのですが、むかし小学校訓導の職にあり、わたしと同じく日本史を専攻していたひとがいます(ただし当時は日本史とはいわず国史といっていました)。母方の曾祖父で三重県三重郡三重村生桑の地主の息子、加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)です。
 この退祐の祖父も津藩家中に学問を教えたり、維新後は村の学校にオルガンを仕入れさせたりした人物でした。

 父林三郎は息子に自由民権の神様板垣退助に因んだ「退祐」(憚って「助」を「祐」にした)という名をつけたくせに、学問に理解がなく、所謂「精農」タイプのひとでした。大きな地主でしたが、懸命に働いて手の節の皺がきれいになくなってしまったといいます。だから息子退祐の「師範学校に進みたい」という希望に、林三郎は忌々しげに「百姓に学問はいらん」というばかりでした。
 それに腹をたてた退祐は「飯なんかいらん」と屋敷の蔵に籠もってしまう。いまでいうところのハンガー・ストライキです。退祐は何日も蔵の中に閉じこもって出てこない。退祐に同情的な母のよねは、林三郎には内緒で、蔵にいる退祐に食事を差し入れていたそうです。林三郎は察していたのでしょうが、知らぬふりをしていました。
 そのうち「しょうがない」と林三郎は根負けして、退祐の師範学校進学を許したのでした。

 やがて退祐は三重県師範学校に進みます。ときどき東京の師範学校に研修に出かけ、帰ってきたとき「おとうちゃん、東京で本を買ってきた」と林三郎に一冊の本を手渡します。尾崎紅葉「金色夜叉」。林三郎はこれをみてなぜか「これが東京の本か、退祐がすごい本を買ってきた」とたいへん有り難がった。退祐は「毎日これをみんなに読み聞かせる」と夕方になるとちょっとした読書会が始まりました。今でいうところの「連続ドラマ」でしょうか。
 おそらく退祐は声色を使いながら、父母や小作人に「金色夜叉」を読んで聞かせたのでしょう(ちなみに明治期の読書は家庭の中で誰かが読んで聞かせるという形態が珍しくないようです。前田愛『近代読者の成立』<岩波現代文庫、2001>より)。

 教員免許をとった退祐は近所の小学校に赴任します。趣味はボートとトランペット。ボートには沢山のお金が要用だったようで、林三郎への無心の手紙が残っています。
 しかし惜しい哉、教員共用の茶碗から結核菌が感染して風邪を併発、あっという間に満31歳の短い生涯を閉じます。息子の進路に反対だった林三郎は、この息子の悲しい結末にどのような感慨をもったのでしょう。あとには退祐の妻(わたしの曾祖母)と遺児の幼いちづ子(わたしの祖母)が残されました。
 退祐の遺言は、

ちづ子に学問を

 ということでした。これからは女性といえども学問が必要だ。退祐は学問にこだわりました。ちづ子は結局大学にも専門学校にも進学しませんでしたが、娘3人(末娘=わたしの母)に高等教育をうけさせます。退祐の遺言が背景にあったそうです。
 さて、死ぬときの退祐には不思議な話があります。病床にある筈の退祐が元気に歩いているのを目撃したひとがいます。また、訃報を知らせていない筈のひとが退祐の葬式にやってきて、「夢で退祐さんがお別れを言いにきた」といっています。何れも怪談じみた譚ですが、それほどこの世に未練があったのでしょう。

 かつて退祐がハンガー・ストライキをした蔵の横に、ひとつの家屋があります。そこには沢山の書籍が詰まっています。かつて退祐が愛読した本たちです。多くを図書館に寄付してしまいましたが、退祐が買ってきた「金色夜叉」などが残っています。それをみていると何となく人間の情念みたいなものが伝わってくるような気がします。
 わたしの従姉妹が青山学院大学国文科に進んだとき、この書籍群の一冊を大学の先生にみせました。すると「なんでこんな本を持っているの?」と訊かれたそうです。わたしも退祐の本で旧仮名遣いなどを勉強し歴史のみちに進みます。曾祖父には一度もお会いしたことがありませんが、しみじみ宿命的なものを感じています。

(付記)昨年加藤退祐の娘加藤ちづ子(わたしの祖母)は83歳で永眠しました。これによって加藤家は断絶しました。加藤家の明治期建築(おそらく明治10年以前の築でしょう)の屋敷は毀されずに残されます。退祐の曾孫たちはわたしを含めて6人います。ひひ孫4人。

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2005/03/26

(人物史)「巣鴨花太閤」内山長太郎伝―ひとが地域を生み地域がひとを生む―

 江戸時代の巣鴨というのはどんな土地だったのだろう? 最近そんなことばかりぼんやり考えています。巣鴨の家が240軒記されている「巣鴨町軒別絵図」(すがもまちのきべつえず)を発見してしまって以来、気になって仕方ありません。
 江戸という大きな地域をひとつの大きなお盆にたとえるなら、巣鴨はそのお盆の縁(へり)にあたります。もし巣鴨に茶碗を置いたら、ひっくり返ってこぼれ落ちそうです。巣鴨が町奉行支配地に編入されたのは延享2年(1745)、江戸開府から140年もたってからのことでした。御府内とはいえ、お世辞にもお江戸の内とは言い難い。
 お盆の縁(へり)にして新参者。そんなことをいったら、いまの巣鴨のひとに叱られそうですが。しかしそういう巣鴨の地域性はおもしろい人物をうみだしました。

・長太郎の夢 内山長太郎は巣鴨の植木屋・花屋です。こんな人生をおくってみたいものです。「長太郎」なんて名前もふるってます。
 文化元年(1804)、巣鴨に笊屋の息子として生まれます。男のくせにずいぶん色が白くて、目は切れ長、摺物でみる女形の役者のようなやさしい顔立ちです。
 当時巣鴨は植木屋・花屋でたいへん賑わい、特に花の技術を各々の家で競い合っていました。そんな空気を吸って彼は少年時代を過ごします。だから、幼いころからよく道ばたに咲く花を愛でて、ちょっとかわった子どもでした。「おれぁ、大人になったら花戸(はなや)になりてえ」が口癖。植木屋・花屋といってもいまのイメージとは随分違います。人集めの興行師でもあり歴とした植物学者です。彼はそんな華々しさに憧れを感じたのでしょう。
 長太郎が15歳になったとき。笊屋の親父は彼を呼びつけて突き放すようにこう言いました。「おめえも15歳だ。15歳といえば大人と同じ働きをしなきゃなんねぇ。おまえ、自分の喰い扶持くらい自分で稼いでこい」。それに対して長太郎は「わかったよ」と素直に頷きますが「でもおれは笊屋は継がねえよ。花戸(はなや)になるんだ」という。

・行商 それで長太郎はちかくの村から唐辛子の苗を仕入れてきます。それを担いで毎日江戸の繁華街に行商に出かけました。唐辛子は当時賞翫用にたいへん人気がありましたから、上野の広小路や吉原など、人通りの激しい所にいって「苗や、苗や」と声をあげれば、飛ぶように売れてしまう。特に吉原にゆけば、美しい容姿と色っぽい売り声の長太郎は大人気、たちまち女性たちが押しかけて、あっという間に売れ切れてしまいます。
 しかし苗ひと束4文ですからたいした儲けになるわけがありません。長太郎は儲けのうちの150文を父親に渡し、あとの残りのお金は自分の懐に大切にしまっておいたのでした。

・大名との交流 そんなある日のこと。いつものように上野で行商をしていると、下僕2人を連れたひとりの若侍に声をかけられます。若侍も花がすきらしく、同好の誼みで話しているうちに話が弾んで意気投合します。そのうち話の成り行きから、若侍が「どうだ、わたしの邸に来ないか?」という。長太郎は「せっかくですから」と招きに応じましたが、若侍の住む邸の広大さをみて驚きます。そこは越中国富山藩邸でした。
 下僕のひとりが、長太郎にそっと耳打ちします。「ここの若様さ」。なんと若侍の正体は富山藩主世子前田利保であるらしい。
 それで長太郎は「これはえらいことになった」と尻込みしますが、利保は「どうしてもきて欲しい」と強いて長太郎を邸に招き入れる。利保は邸内にある花々を長太郎にみせて歩きました。長太郎は悉くその花の名前を答え、知るところをよく弁じ、知らぬことは知らぬと謙虚なふうをみせます。利保はこれにいたく感じ入り、それ以来長太郎を知り合いの大藩の邸にも招くようになりました。博識で謙虚な長太郎は大名からも「先生、先生」と慕われるようになります。

・天保飢饉での機転 長太郎の人生の転機は天保飢饉のときでした。
 野菜が不足し特に江戸市中は野菜の高値がとどまりを知りません。長太郎は「しめた」と今までの行商の儲けをすべて掻き集め、ひとや大八車をたくさん集めます。
 長太郎一行は大急ぎで板橋宿を駈け抜け、川越街道を一目散に北上します。目指したのは親父の故郷川越の白子宿です。彼は白子周辺の親戚・知人から野菜をたくさん買い付けて、往返の沿道でもなるべく野菜を買い付けます。舟運も大いに利用したのではないでしょうか。とにかくその野菜をすべて巣鴨に持ち帰るや、すぐに江戸市中へ売り払いました。野菜不足の江戸市中、面白いように言い値で売れる。たちまち長太郎は途方もない財をなしました。
 その財で長太郎は巣鴨に3000坪の土地を買い入れます。それがもとになり、夢だった花屋を開業します。それが江戸中で大評判をとり、「花屋の長さん」といえば、巣鴨の内山長太郎をさすようになります。ひと呼んで「花戸太閤」。維新後は明治天皇行幸の名誉もうけます。

・ひとが地域を生み地域がひとを生む 内山長太郎は、色男で先見性があって頭もいい、しかも謙虚で努力家、おまけに運もいい。こんな完璧な人物がいるんですね。考えてみれば、彼はいつも都市(江戸)や村を行ったり来たりしながら、人生のジャンプアップをしていくわけです(唐辛子の苗といい、行商といい、野菜の売却話といい)。都市と村との間に位置する巣鴨が生んだ、如何にも巣鴨らしい人物ではないでしょうか? 長太郎の住居地はわたしのみつけた「巣鴨町軒別絵図」によって正確に割り出すことができます。

(付記)本稿は史料の記載に基づいて作成したものですが、わたしの想像も多少入っています。おおかた史実通りでしょう。

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2005/03/23

(息子)おとうさんのうそ

 ぼくのおとうさんは「たかおよしき」っていうんだ。歴史研究人(れきしけんきゅうにん)っていうのをやっているらしい。
 ぼくが寝ている朝早くに会社(?)に出かけ、ぼくが寝てしまっている夜に帰ってくる。なんだかオバケみたいなんだ。だからあんまり「いってらっしゃい」「おかえりなさい」をいったことはない。休みの日もお昼からお仕事。まるでゼンマイじかけのオモチャみたい。たまたま家にいるときも、
「おれは忙しいんだ」
 っていつも部屋で探し物。おかあさんは「整理がわるいだけネ」といっている。
 おとうさんは「おれは整理がよければ今ごろは大学者だ」「おれの部屋にはすごい史料がある、しかし何処にあるのかわからない」って威張っているけどそんなの自慢になるの?

 おとうさんは相当なうそつきらしい。
 このあいだ夕飯のとき、おばあちゃんが「ヨシキさん××って何?」とおとうさんに聞いた。するとおとうさんは得意気に「ああ、××とは△△ですね」と説明する。
 するとおかあさんは新聞なんかを取り出してきて「それ、違うわよ」っていうんだ。おとうさんは缶の穴みたいにくちをポカンとさせてから、ちょっと照れ笑いして「あれ、すみません」とおばあちゃんにぺこりと謝る。
 おかあさんは「あんた馬鹿なんだから、そとであんまりベラベラ喋らない方がいいわ」って助言するんだ。でもおとうさんは「俺が喋らなかったら商売あがったりだ」ってションボリ。「歴史講座」で2時間も喋らなきゃいけないんだって。2時間も間違いだらけの話をするんだろうか? それはそれですごい才能だ。

 そういえば、ドライブのとき「雲はなんでできてるの?」っておとうさんに聞いたら、おとうさんはくそ真面目な顔で、
「綿飴」
 っていうんだ。おかあさんは「ちゃんと説明してあげなさいよ」っておとうさんにいうけど、おとうさんは「綿飴だ」って頑として譲らない。
「綿飴の上には鬼がいて、太鼓を叩いてカミナリを出して悪い子のヘソをとる。それにおとうさんは雲を食べたことがある。確かに甘かった」
「どうやって食べたの?」
「神社のお祭りの出店で食べた」

 そもそもぼくには歴史研究人っていうのがよくわからない。ひょっとして何かいけない仕事でもしているんじゃないか。
 お風呂に入っているとき、ぼくは思い切って、おとうさんに「お仕事って何やっているの?」って聞いてみたんだ。
 すると「夢を売ってる」と答えてくれた。「夢って何?」って聞いたら「歴史っていうのはね」っていろいろ答えてくれたけど、よくわかんなかった。もしかしたらいつものうそかもしれない。

 それでもこの間おとうさんは、お仕事の帰りぼくの大好きな電車を買ってきてくれた。小田急の新しいロマンスカーのNゲージ。とってもうれしかった。おとうさんは、
「限定品だぞ」
「2000円もしたんだ」
「俺のお小遣いから出したよ」
 という3つを何度も繰り返す。するとおかあさんは「あら恩着せがましいのね」。
 どうやらこれはうその話じゃないらしい。

(付記)……あれほどパソコンに触るなっていったのに。悪戯書きしやがって。(父より)

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2005/03/20

(番付)江戸の自慢って何?

 江戸の人びとは何を自慢に思っていたのでしょうか? その答えのひとつとなる摺物が「江都自慢」(えどじまん)という「見立番付」(相撲・芝居等の番付を見立てたもの)です。
 まず中央柱の太字に「行事」として「御大名之軒並」「通用宝仕立」「御上水掛樋」「山王神田両社御祭礼」、「勧進元」として「四十八組大纏」「四十七騎石つへ」があります。つまり大名屋敷・通貨製造・上水施設・火消・赤穂義士というのが、江戸のメインの特色としてあげられています。
 東の方には大関に「日千金 日本橋魚山」、関脇に「四季もん付 五丁全盛」、小結に「千両役者 三芝居櫓幕」、前頭に「千波 高輪ノ牛車」「日々こんさつ 諸国より之開帳」「あかばね 山ヲ見越火ノ見」(有馬藩邸の火の見櫓)「入ふね沢山 新川酒樽」「節句 十軒店二階雛」「三ツ井 富士ノ看板呉服や」(富士・三井の看板・江戸城は本町通りの定番の眺め)「佃じま 御紋附白魚」等が居並びます。一方、西の方には大関に「蔵前米粒」、関脇に「江戸中こみあふ 浅草市入込」、小結に「深川 木場材木」、前頭に「大湊 千石船すきなし」「両国 百両花火ノ一時」「今戸 瓦師朝煙」「はしり 初松魚先陣」「としまや 鎌倉河岸白酒」「江戸の花 大門通出来合鐘」「佃じま 御墨附四ツ手船」等が居並びます。ここでは著名な大名屋敷・社寺・商業地・産地・風景などが江戸の名所としてアピールされています。
 ほかに食べ物は「るいなし 江戸大蒲焼」(東の方)と「ちんミ 浅草海苔風味」(西の方)を筆頭に、その他は「大師道 大森梅ひしほ」「神田 須田町水菓子」「深川 江戸前小魚」「長命寺 桜もち」(東の方)、「新ぎり 四日市塩物」「朝市 千菜場青物」「淀ばし 弁慶水あめ」「両国 与兵衛すし」(西の方)などと、名所の周囲に名物の食べ物が目白押しであったことがわかります。
 ついでにちょっと江戸の町中の音に耳を傾けてみましょう。「江戸計 大八車ノ掛こへ」(東の方)、「江戸かぎり 祭礼馬鹿囃」、「わけなし 洗場の鼻うた」、「風流 根きしのほとゝきす」、「かさなし 定斉や(暑気除けの薬売り)かんの音」(抽斗の環がカチャカチャと音がなった)(西の方)などとあって、江戸の町中はいろいろな音に満ちていたことがわかり、賑やかな様子を彷彿とさせます。しかも風情があります。
 ところで、いまの東京の自慢ってどんなでしょうね。たれか奇特なひとが見立番付で表現してくれませんか? 残念ながら、わたしにはその才能がありません。

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2005/03/17

(雑感)ブログをやってみて

 ひとから「ブログって何?」と聞かれるのですが、やっているわたし自身、よくわかっていません。いい加減なもので最初に「ブログとは何か」と考えるより、やっているうちにわかるだろうと思っています。
 ブログにはHTML・RSS・トラックバックなどに技術的な諸側面があるのでしょうが、とにかくどういうかたちであれ、最低でも自分の考えた徒然草をテキスト・データでネットに流せればよろしい。

 そんなわたしのこだわりは実名主義です(これについては前にも触れました)。実名を明らかにすることによって、情報ソースを明らかにして生産的な話をしよう、という意図です。端的にいえば、①「題名(副題も含む)」・②「筆者のプロフィール」・③「1つの記事」の3つで、ほとんどすべてがわかってしまう、というブログ作りを目指しています。また単なる日記にはしないことにしています。日常生活を書くにしても何かしらを論じることにしています。ひとのウケもあまり気にせず、あくまで自分本位で淡々と書き続けます。
 いま歴史研究者共同執筆ブログ「歴史文化村」どっとこむも試験運行しております。いまわたしと小林信也さんしかおりませんが、そのうち名のあるひとをお呼びして、実名で文章を書いていってもらおうと考えています。

 さてこのブログ運営によって、研究や仕事の環境はどうかわるのでしょうか。マスコミや世論との関係、研究をめぐる情報収集に影響を与えるかなどは興味があります。くわしくは秘密で申せませんが、いまのところ、これに関してはかなりいい影響を与えていると思っています。
 さらにこれからどうなるかは、やっている本人にも具体的なところはよくわからない。ちょうど釣りみたいなもので、海に餌を投げ入れても、どんな魚がかかるかわからないというのと同じです。とにかく魚らしきものがかかることだけはわかる。魚が喰えるか喰えないかはそれも釣ってからのお楽しみ。世の中の広さに期待しましょう。
 いままでいろんな方々の反応を頂きました。いまのところ、経済評論家(木村剛さん)・大学教員・大学院生・テレビ局・テレビ番組製作会社・大手出版社広告部・史学科の学生・主婦・歴史史料集本の校正に追われる方・定年でサラリーマン人生を終えた方……などなどです。こんな地味なブログですが最近は1日100アクセス以上を頂くようになりました(最近150アクセス・200アクセスくらいまで上昇することがあります)。
 ジャーナリスト木村太郎さんによる発言。わたしもこれと同じようなことを考えていました。

―匿名と実名の問題がありますが、木村さんは、実名でやるブロガーが増えると思いますか?
 現在匿名でブログを書いている一般の人たちが、実名に転向してやるようになるという動きよりも、既に他のメディアや学会、業界団体などで実名活動している専門家がブログにどんどん作家してくる動きのほうに注目しています。ここでいう専門家というのは、プロのジャーナリストという意味ではないです。さまざまな分野のプロがブログを利用して、自分たちはこういう情報をもっているとか、こう思うんだ、という指摘をするようになると、世の中に流通する情報が分厚くなる。(164頁―165頁)
須田伸『時代はブログる!』(Ameba Books、2005)

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2005/03/14

(思い出)ひとと出会う・本と出会う

 わたしが小学生の頃、ミムラクンという青年がよく我が家に遊びにきていました。彼は千葉の薬屋の息で囲碁棋士を志して勉強中でした。そのわりには面長色白で面皰も目立ち、体も細くて何処となく気弱そうにみえる。けれども目つきだけはするどくて、そこは勝負師の卵を思わせる。

 そのミムラクンはとても気さくなひとでした。我が家での対局がおわったとき、彼は疲れたのか、居間にふとんを敷いて寝っ転がっていました。当時小学生だったわたしも、そこへ寝っ転がって、―何がきっかけだったか忘れましたが―、彼と歴史についての雑談をしはじめました。
 当時「歴史マンガ」が好きだったわたしは、マンガ仕込みの日本の戦国武将や合戦の譚を披露していたのですが、それに対してミムラクンは「でも中国史も面白いぞ。一度合戦に負けた武将も、広い大陸を逃げまわってまた勢力を盛り返すことができるんだ。それが中国史の特徴だ」という。それは司馬遷「史記」の項羽と劉邦の譚で「劉邦は合戦に負けに負けたけど、最後の一戦に勝って天下をとったんだ。日本史ではありえない」という説を述べていました。わたしは小学生ながらも面白い着眼だと思い「確かにないかもしれないね。楠木正成ぐらいかな」と答えたら、また「中国ってのは広いからな。逃げれればどんだけでも逃げられる。それが政治にも影響を与える。中国ってのは面白い国だ」とミムラクンはいうのです(たしかに楚漢興亡のみならず、近代の日中戦争の展開も同じでした)。

 その日ミムラクンは「おもしろい本があるから今度貸してやるよ」と言い残して帰りました。それであとで彼に貸してもらった本が司馬遼太郎『項羽と劉邦』(新潮文庫)。それまでマンガしか読んだことがないから読むのに四苦八苦し、やっとのことで全3巻を読了しました。
 だから本をお返しするまで随分時間がかかり失礼をしました。借り物ですから本にカバーをつけて読んだのですが、すこし汚してしまったかもしれません。これがわたしの歴史本読書「ことはじめ」でした。

 さて、ミムラクンこと三村智保(みむら・ともやす)さんのその後。
 一時期はたいへんなスランプだったと聞いています。しかし彼が興味をもった百敗して天下をとった劉邦よろしく、危機を乗り越えてみごと囲碁棋士となり(現在九段)、NHK囲碁トーナメント(NHK教育テレビ)で優勝、国際棋戦でも活躍する等、とてもがんばっています。
 いまテレビや雑誌で拝見するとあの時のことを思い出します。いまから思えばあのときの彼の劉邦・中国史の解釈こそ、彼の人生観そのものの表現だったように思えます。
 今後のご活躍をお祈り申し上げます。ご参考に彼に関する読売新聞の記事を掲げておきます。

三村智保九段は2003年3月、NHK杯戦で優勝。過去に新人王戦(2度)と新鋭トーナメント戦という若手棋戦での戴冠はあったが、一般棋戦においてはこれが初のタイトル獲得となった。この優勝によって日本代表権を得たテレビアジア選手権戦でも準優勝。さらには本因坊戦リーグの初参加も決め、十代の頃から将来を嘱望されていた大器が、ついにその持てる能力を発揮し始めた感がある。突然のブレークに何か理由があるのかと聞いてみたところ、「気持ちにゆとりが出てきたことが大きい」という答えが返ってきた。「以前は"勝ちたい"というより"負けるのが怖い"、"失敗するのが怖い"という考え方をしていましたから…。僕は21歳の時に初めて名人戦リーグに入ったんですが、そんなに喜んでなかったんです。名人戦リーグ入りが決まった瞬間に、負けることを心配しているんですよ。こんなメンバーの中に入って打ったらボロボロになるとか、みっともない姿をさらしてしまうのではとか、ずいぶん馬鹿なことを考えていたんです。しかし最近は失敗を恐れず、楽しんで打てるようになってきたということでしょう。すると結果もついてくるようになりました」。三村にとって2003年は充実した年だった。「3月にNHK杯で優勝したことで、皆さんから声をかけてもらえるようになりました。それが僕の運を上げてくれているようです。」 囲碁棋士三村智保九段に関する新聞記事(2003年12月10・11日読売新聞「囲碁欄」)

(付記)今日niftyの「ココログ」ホームページ「週刊ココログ・ガイド」で過分のご紹介を頂きました。ここにて謝意を表したいと思います。「若き歴史研究人・高尾善希さんの江戸時代専門ブログ。現在と地続きな庶民の生活や習慣など、ちょっとした雑学を読む気分で楽しめます。さまざまな文献からの引用も多く、読み応えバッチリ。「歴史」というとまるで受験勉強のようなつまらなさを想定する方も多いと思いますが、ここを読むことでもっと面白く、身近に感じられることうけあいです。」

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2005/03/11

(大河ドラマ)「義経本」は「つまらない」?

 今年の大河ドラマは源義経が主人公ですが、わたしはいまだ一度もみておりません。歴史を研究する者として一度はみなければと思っているのですが、子どもふたりにチャンネル権を奪われ、いつも子ども向け番組のビデオばかりみています。

 それでも、書店に源義経関係の本が数多く居並ぶ光景をみて、ついつい手をのばしてしまいます。力のある歴史研究者が筆をとったものもあり、それらはどれも興味深いものばかりです。
 たとえば、①保立道久さん『義経の登場 王権論の視座から』(NHKブックス)・②五味文彦さん『源義経』(岩波新書)・③角川源義さん・高田実さん『源義経』(講談社学術文庫)の3冊があります(③のみ古い本の復刊です)。しっかりとした義経の本をよみたければこの3冊で充分でしょう。
 しかしそれでも、一般読者(ふだんは歴史に馴染みのないひと)にとっては「つまらない」だろうなあ、という感じがします。それは本の作者の責任ではなく史料の責任です。
 源義経というのは日本人にとって格別な存在です。戦の天才だが、意外に美男子で純情、同時に悲劇の人物で、霧の中の幻影のように数多くの伝説に包まれている。日本人の好きそうな人物像でしょう。しかしそれらのほとんどは後世の作り話であって、彼について確実に判明している部分はとても少ない。一般読者にとって源義経という人物への期待が大きい分だけ、歴史研究者による「本当の話」は、とても興ざめに感じられるのではないでしょうか。
 繰り返しますが、これは本の作者の責任ではなく史料の責任です。

 したがって、源義経ひとりの事績を、信頼できる史料に従って律儀に叙述しようとすれば、おそらく新書の字割りでわずか50頁くらいが関の山ではないでしょうか。これでは本になりません。それではどうするかというと(というと語弊がありますが)ふたつの書き方があります。
 ひとつめは、義経の事績に触れつつ、同時にその歴史的背景、義経をとりまく人物などを数多く取り上げることによって、義経を浮き彫りにしてみよう、という書き方(特に保立さんの本)。ふたつめは、同じように義経の事績に触れつつ、そのうえで、その義経から離れ、鎌倉時代以降「義経像」がいかに形つくられていったかを追求する書き方(特に五味さんの本)でしょう。角川・高田さんの本は、共著というかたちでうまく両者のバランスをとっています。共著というかたちをとらざるをえないこと自体、義経という人物の難しさを象徴しています。
 そうやって書くのはいいけれど、やはり「義経と弁慶の五条橋の出会いを出してくれ」という読者にとっては失望の念を隠しきれないようです。現にそういう読後感を記したブログを読むことができます。

 しかし義経を語るに「義経ひとりのことばかりを語ればよろしい」というのは、とても勿体ないことで、せまい論じ方です。
 義経はあの時代にしかも源氏の貴種として生まれてこその義経です。もしも平安時代や江戸時代に生まれたらどうだったか。違った階層社会の中に生まれればどうだったか。現代にサラリーマンの息子として生まれたらどうか。当然違った人生が待っていたでしょう。したがって義経の周囲の人間(社会)についての考察も、読者には煩瑣に思われるかもしれませんが、義経の研究にとってとても大事なことです。現代の我々にしても、まさに現代のこの社会に生きているからこそ〝我々〟たりえるのであって、人体の生理だけがひとの性格を決定しているわけではありません。「当たり前じゃないか」といわれるかも知れませんが、普段の生活でそんなことは意識しません。それを浮かび上がらせるのが歴史学だと思っています。
 また実態としての義経だけが義経ではありません。ふだん我々も日常的に感じているように、自分のイメージする自分と、他人がイメージする「自分」とが、食い違うことはよくあります。他人から誤解されて受けとめられる「自分」も、不本意ながら自分の一部として認めざるを得ません。よって誤解される「義経」(物語上の義経)も大事な義経の一部には違いない。これも「当たり前」のことですが、そんな哲学的なことは普段考えないでしょう。
 歴史学はいろんなことを教えてくれそうです。

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2005/03/08

(映画)映画「草の乱」をみて―困民党総理田代栄助はどう描かれたか?―

 去年公開されていた映画「草の乱」は、埼玉県民のみなさんの募金によって作られた映画です(主演は「井上伝蔵」役の緒方直人さん)。明治17年、松方デフレに喘ぐ秩父の民衆が蜂起した事件、秩父事件を扱ったものです。「江戸時代研究の休み時間」を標榜している以上、この映画には言及しなければならないでしょう。
 この農民一揆をおこしたのは「秩父困民党」です。彼らはながらく天皇制に歯向かう「暴徒」という烙印が押され、歴史の闇に葬り去られたままでした。今回、県民の方々の手によって、映画のかたちで復権されました。その意味で貴重な映画といえます。映画を支える人びとの情熱が伝わってきました。

 この「秩父困民党」の総理(頭取)は田代栄助という人物です。映画では林隆三さんが演じていました。この人物、実は歴とした「博徒」です。しかし研究者は「単なる『博徒』ではなく『侠客』であった(つまりヤクザではない)」と〝注釈〟をつけて説明します。彼の尋問調書にこうあります。

……自分ハ性来強ヲ挫キ弱ヲ扶クルヲ好ミ、貧弱ノ者頼リ来ルトキハ附籍為致、其他人ノ困難ニ際シ、中間ニ立チ仲裁等ヲ為ス事、実ニ十八年間、子分ト称スル者二百有余人、……
 なるほどこれを信じれば「侠客」であったことになります。秩父は養蚕地帯です。金銭トラブルなどが頻発したに違いないのですが、そういうとき、彼が仲裁してことをおさめてくる。頼りになる親分だった。その延長線上に一揆の総理職があるわけです。
 もっとも、幕末から明治にかけての「博徒」は、一般的にも我々のイメージする現代の暴力団とは違うものだと思います(勿論いろんな側面はあります)。たとえば、百姓一揆の頭取に「博徒」がおさまることは全く珍しいことではありません。したがって「博徒」田代が総理でもおかしくはない。このことひとつとっても、「博徒」が地域社会からどのような目で見られていたかがわかります。むかしの「博徒」は地域社会から乖離した存在ではなかったのです。

 さて、映画「草の乱」において、栄助の身の上が窺えるシーンは、以下の3箇所があります。加藤伸代さんのシナリオ「草の乱」から引用します(『シネ・フロント』2004年8月号。番号はシーン番号)。

(A)16「演説会会場」(高尾注、大井憲太郎の演説会) 織平「おい! ありゃ、大宮郷の田代栄助じゃねぇかい」 威風堂々とした年配の男・田代栄助が、入ってくるのが見える。栄助、座る。 善吉「間違いねぇ」 織平「田代さんが、自由党の演説聞きにくるたあな……」

(B)114「皆野の旅館『角屋』・表」 ……栄助、胸を押さえて、玄関の上りかまちに倒れ込む。出迎えた、菊池、善吉が驚く。 善吉「総理!」 伝蔵「胸痛でがんす。持病らしい……」 熊吉「親分、しっかりしとくんな!」

(C)40「織平宅・座敷」 ……善吉「党には頭がいる。引き受けちゃあもらえますめいか」 宗作「引き受けておくんない」 寅一「親分!」 織平「おれが頭じゃ、博徒の集りだと勘繰られやしねえか」 小柏「誰かお心当たりは、ござんせんか」 織平「……大宮郷の、田代栄助はどうだい」

 この(A)と(B)によって、田代が「博徒」の親分であることを、何となく観客ににおわせています。ところが(C)では、加藤織平が「博徒」(事実加藤も「博徒」でしたが)であり田代は違う、という設定になっています。ちょっと不鮮明な構成です。つまり(C)では、田代の「博徒」の役回りを、加藤織平が代わりに背負ったかたちになっています。

 「秩父困民党」の名誉回復は大事な仕事ですが、映画で史実を全てそのままに切り取ることは困難だったようです。秩父事件顕彰の経緯からして、映画で田代を「博徒」と表現することは不可能だったのでしょう。もしも一度「博徒」と表現してしまえば、観客に必ず誤解を与えることでしょう。
 わたしが映画「草の乱」を観覧した理由は、「いったい田代はどう描かれているだろうか?」というマニアックな関心があったからですが、映画製作サイドのご苦悩の痕跡にため息が出ました。<歴史ドラマ表現>と<歴史の実在>とのズレはなかなか難問なのです。映画製作サイドには、是非このことをお訊きしてみたいと感じました。

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2005/03/05

(大学)女子大学、いまはむかし

 林真理子さん『本を読む女』(新潮社)は、山梨県の菓子屋「小川屋」令嬢小川万亀(大正4年生まれ)の、大正から昭和(終戦まで)の体験を綴ったものです。万亀は林さんのお母さんがモデルになっています。これはNHK月曜ドラマ『夢みる葡萄』(主演、菊川怜)として放映されていました。
 小川万亀は親から「アカになるから」といわれて女子大を諦め、東京のお嬢様教育学校である「女子専門学校」に通います。学校生活の描写は、大正期東京におけるお嬢さま生活の一端がうかがえ、興味深いものです。特に院長先生がおもしろい。夏休みを迎える前、女生徒たちに訓辞を与える場面。この場面は林さんの創作なのかどうなのか。

「みなさん、ようございますか。夏休みにご郷里に帰られる方も多いと思いますが、どんな時にもわが校の学生だという誇りを忘れないでくださいまし」(中略)「たとえばお友だちとご一緒に汽車に乗ったといたします。窓から綺麗な風景が見えます。けれども『まあ、ちょっと見て、見て、素敵じゃなァい』などとは、絶対におっしゃってはいけません。こうやってですねぇ……(中略)『何々さま、まあ、ご覧あそばせよ。綺麗な景色じゃこざいませんこと』『まあ、本当。見ていて心がせいせいいたしますわねぇ……』こういう会話が望ましいのでございます」(中略)「それから環境が変わりますと、健康ということがとても大切になってまいります。健康を害するものは、まず便秘でございますよ。女性の大半は便秘に苦しんでおりますが、これは自分の力で克服しなければなりません。このようにして、両手を握り……」〝うん〟と大きな声を出した。「頑張れ、頑張れと、自分を励ますのでございます(略)」
(『本を読む女』「放浪記」より)
 この「女子専門学校」が現在の東京家政学院大学。創設者は大江スミ先生です。ここでの「院長先生」とは大江先生のことでしょうか。もしもこの場面が本当だとすると、大江先生はとても親切でおもしろい方だったことになります。
 それは措くとして、この大学の非常勤講師を勤めていたことがあります。そこの授業でこの話を話したのですが、いまの学生たち、なんと『本を読む女』も『夢みる葡萄』も知らない。自分の母校のことなのに! もうちょっと誇っていいんじゃないだろうか! 大学の図書館では『夢みる葡萄』のチラシが置いてありましたが、学生のみなさんはみていないのでしょう。宣伝に使えるものはなるべく使って宣伝したほうがいいように思います。
 現代の「小川万亀」たちは興味深げに聞いていました。いまの学生さんも比較的おっとりした方が多いようでした。特に女性の先生方がお上品で驚きました。わたしの講師も2年で無事終えました。わたしの通っていたキャンパスは町田市相原の山中にあり、雰囲気がのんびりしていて実にいい大学した。

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2005/03/03

(お祭り)いま、明らかになる幕末の巣鴨とその将来像(第9回「中山道すがもまつり」)

 またまた巣鴨でお仕事が入りました。興味のある方は是非どうぞ。原稿も書かねばならないしブログも更新しなければいけない。最近とても忙しいです。以下は巣鴨地蔵通り商店街公式ホームページより。

「第九回中山道すがもまつり 講演とシンポジウム『いま、明らかになる幕末の巣鴨とその将来像』」
(主催)中山道すがもまつり実行委員会(特別共催)巣鴨地区街づくり委員会(共催)巣鴨地蔵通り商店街・巣鴨駅前商店街振興組合・巣一商店会・巣鴨信用金庫(後援)豊島区・豊島区商店街連合会・豊島区観光協会・とげぬき地蔵尊高岩寺・江戸六地蔵尊眞性寺
(月日)3月27日(日)巣鴨信用金庫メモリアルホール 3:00 開場
3:30 実行委員長挨拶
3:35~4:25 基調講演(1):「巣鴨町軒別絵図」にみる巣鴨の街並み 講師:高尾善希(東京都公文書館非常勤職員)
4:25~5:15 基調講演(2).:巣鴨街並みの変遷と今 講師:辻野五郎丸((株)修景社)
5:15~5:30 休憩
5:30~7:00 シンポジューム:「巣鴨の将来像」(中心市街地活性化事業と街づくりの方向)
コーディネーター: 辻野五郎丸
パネラー: 内田雄造(東洋大学教授)・宮崎牧子(大正大学助教授)・斎藤賢司(豊島区商工部長)・チームオキラマン(ワークショップ参加チーム)
7:00 準備
7:10~7:30 セレモニー
7:30~8:30 懇親会
 今回、「巣鴨の街並み」の新資料の発見と共に、千川上水道の役割を通して、江戸時代より行われてきた社会基盤整備の実態を、その時期の世界の都市と比べつつ、当時の都市計画を知ることを主題に、また活力のある町づくりを目指して、現在計画されている「中心市街地活性化事業」に期待するところを、講演会とシンポジュームを通して、地域住民に喚起し、一層の地域の活性化と個性ある地域の発展を目指す事、並びに全国へ街づくりの情報発信を事業の主たる目的とします。
 講演というから「はい、いいですよ」とお答えしましたが、こんなおおごとだったとは知らず、吃驚りしました。それにしても巣鴨地蔵通り商店街のみなさんのパワーには驚かされます。歴史などの文化遺産をうまく利用して町を盛り上げているなあと感じます。偶然はじめた自分の研究と町おこしがタイアップしてくるのははじめての経験で、大学のゼミや学会ではありえない状況でしょう(もっとも社会学や建築学などならありえそうですが)。研究上の目的は町おこしはもちろんですが、今回見出した「巣鴨町軒別絵図」に出てくる人名のご子孫を探すことです。そのためには労を惜しみません。どこへだって飛んでゆきましょう。

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2005/03/02

(古文書入門⑤)文書館で江戸時代に出会う

 「まだ古文書を触ったことがない」という方は、なるべく本物の古文書をご覧になるのがよいでしょう。
 もちろん、本の図版をみるのもいいのでしょうし、精巧につくられたコピーでも結構ですが、やはり古文書はなるべく本物をみるのがよろしい。そちらの方が感情移入できて、古文書の勉学へのモチベーションがあがりますし、和紙の様子・帳面の仕立て方・筆の流れなどがよく観察できて、とても勉強になる筈です。
 わたし自身、江戸時代の研究をするようになってから既に久しいのですが(といっても10年ちょっとですが)、やはり本物の古文書を手にとって触れると、タイム・スリップしたような気分になって、とても楽しいものです。そういう気持ちを、いつまでも持ち続けていたいと思っています。歴史はロマンですよ。
 わたしがまだ大学院生のとき、国重要文化財の指定のため院政期の史料の整理をお手伝いしたことがありました。そこでわたしが先生に「あっ、先生。紙に指紋がついてますよ!」といったところ、その先生「あたりまえだろ、むかしのひとにだって指紋があるんだよ」。
……トホホ、先生。わたしはそんなことをいいたいんじゃありません。先生もわたしみたいに一緒になって驚いてほしかったのになあ。

 しかしこのような史料整理は大学で勉強しているからこそ経験できることです。「本物の古文書なんてどうやってみるんだ?」という方も多いことでしょう。
 もちろん博物館に行けばみることができますが、ガラス・ケースの中にあるだけで、みているだけで疲れてしまう。実際に手にとってみられるわけではありませんから〝ガラス・ケース越しの恋〟というべきか。
 ところが本物の古文書を手にとってみられる所はあるのです。それは通称「文書館」(モンジョカン・ブンショカン)という施設です。
 市民に情報提供をする主な施設としては、博物館・図書館・文書館の3つをあげることができます。博物館・図書館はよく知られていますが、それらに較べて文書館の社会的認知はあまり高くはありません。「なに、それ?」というかたも多いことでしょう。呼称はまちまちで、場合によっては「史料館」などと称していることもあり、博物館・図書館が文書館的機能を併せ持っている場合もあります。
 文書館では、歴史的文化財である古文書や、最近の公文書等までを閲覧に供します。だからいらっしゃるお客さんは多様で、土地の権利関係調査のため区画整理関係資料をみる土木関係者のかたから、ご先祖調べのかた、あるいは、わたしのような歴史学研究をするひとまでいます。「文書の図書館」といえばよいのでしょうか? けれども図書館の本の貸し出しのようなことはしていません。ふつうは文書を写真撮影したりすることだけが許されます。

 文書館では、古文書の保護のため、古文書を写したマイクロ・フィルムや紙焼き本で閲覧する場合も多く、わたしの勤務する東京都公文書館でも、古いものは原則的にはマイクロ・フィルムでの閲覧です。しかし現物の古文書を出す館も多く、その場合は古文書を触ってみることができます。たとえば、東京都だと国文学研究資料館史料館(アーカイブス研究系)や、わたしもよく研究でお世話になった埼玉県立文書館でも、本物の文書を閲覧することが可能です(一部紙焼き本などでの閲覧)。
 しかし現物の古文書を閲覧する場合、いくつかの作法があります。それを知らないといけません。たとえばマジック・ボールペンなどインクの出る筆記用具は厳禁。和紙はインクを吸い込みやすいからです。また指輪やネックレスといった装飾品も、古文書をひっかけてしまう可能性があるのでいけません。もちろん古文書を読むときはよく手を洗ってから。……このような作法は古文書の入門書にも書いてありますから、よく御覧になってください。不安なひとは慣れているひとに一緒についていくのがよいでしょう。
 大切なのは、古文書を守ってきたひとたちへの感謝の気持ちをもって、閲覧することです。

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