(享年満31歳)曾祖父のハンガー・ストライキ
親戚には理系が多いのですが、むかし小学校訓導の職にあり、わたしと同じく日本史を専攻していたひとがいます(ただし当時は日本史とはいわず国史といっていました)。母方の曾祖父で三重県三重郡三重村生桑の地主の息子、加藤退祐(かとう・たいすけ 1893~1924)です。
この退祐の祖父も津藩家中に学問を教えたり、維新後は村の学校にオルガンを仕入れさせたりした人物でした。
父林三郎は息子に自由民権の神様板垣退助に因んだ「退祐」(憚って「助」を「祐」にした)という名をつけたくせに、学問に理解がなく、所謂「精農」タイプのひとでした。大きな地主でしたが、懸命に働いて手の節の皺がきれいになくなってしまったといいます。だから息子退祐の「師範学校に進みたい」という希望に、林三郎は忌々しげに「百姓に学問はいらん」というばかりでした。
それに腹をたてた退祐は「飯なんかいらん」と屋敷の蔵に籠もってしまう。いまでいうところのハンガー・ストライキです。退祐は何日も蔵の中に閉じこもって出てこない。退祐に同情的な母のよねは、林三郎には内緒で、蔵にいる退祐に食事を差し入れていたそうです。林三郎は察していたのでしょうが、知らぬふりをしていました。
そのうち「しょうがない」と林三郎は根負けして、退祐の師範学校進学を許したのでした。
やがて退祐は三重県師範学校に進みます。ときどき東京の師範学校に研修に出かけ、帰ってきたとき「おとうちゃん、東京で本を買ってきた」と林三郎に一冊の本を手渡します。尾崎紅葉「金色夜叉」。林三郎はこれをみてなぜか「これが東京の本か、退祐がすごい本を買ってきた」とたいへん有り難がった。退祐は「毎日これをみんなに読み聞かせる」と夕方になるとちょっとした読書会が始まりました。今でいうところの「連続ドラマ」でしょうか。
おそらく退祐は声色を使いながら、父母や小作人に「金色夜叉」を読んで聞かせたのでしょう(ちなみに明治期の読書は家庭の中で誰かが読んで聞かせるという形態が珍しくないようです。前田愛『近代読者の成立』<岩波現代文庫、2001>より)。
教員免許をとった退祐は近所の小学校に赴任します。趣味はボートとトランペット。ボートには沢山のお金が要用だったようで、林三郎への無心の手紙が残っています。
しかし惜しい哉、教員共用の茶碗から結核菌が感染して風邪を併発、あっという間に満31歳の短い生涯を閉じます。息子の進路に反対だった林三郎は、この息子の悲しい結末にどのような感慨をもったのでしょう。あとには退祐の妻(わたしの曾祖母)と遺児の幼いちづ子(わたしの祖母)が残されました。
退祐の遺言は、
ちづ子に学問を
ということでした。これからは女性といえども学問が必要だ。退祐は学問にこだわりました。ちづ子は結局大学にも専門学校にも進学しませんでしたが、娘3人(末娘=わたしの母)に高等教育をうけさせます。退祐の遺言が背景にあったそうです。
さて、死ぬときの退祐には不思議な話があります。病床にある筈の退祐が元気に歩いているのを目撃したひとがいます。また、訃報を知らせていない筈のひとが退祐の葬式にやってきて、「夢で退祐さんがお別れを言いにきた」といっています。何れも怪談じみた譚ですが、それほどこの世に未練があったのでしょう。
かつて退祐がハンガー・ストライキをした蔵の横に、ひとつの家屋があります。そこには沢山の書籍が詰まっています。かつて退祐が愛読した本たちです。多くを図書館に寄付してしまいましたが、退祐が買ってきた「金色夜叉」などが残っています。それをみていると何となく人間の情念みたいなものが伝わってくるような気がします。
わたしの従姉妹が青山学院大学国文科に進んだとき、この書籍群の一冊を大学の先生にみせました。すると「なんでこんな本を持っているの?」と訊かれたそうです。わたしも退祐の本で旧仮名遣いなどを勉強し歴史のみちに進みます。曾祖父には一度もお会いしたことがありませんが、しみじみ宿命的なものを感じています。
(付記)昨年加藤退祐の娘加藤ちづ子(わたしの祖母)は83歳で永眠しました。これによって加藤家は断絶しました。加藤家の明治期建築(おそらく明治10年以前の築でしょう)の屋敷は毀されずに残されます。退祐の曾孫たちはわたしを含めて6人います。ひひ孫4人。
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コメント
お話の舞台が三重県ということで、じっくりと読んでしまいました。私は三重県鈴鹿郡(今は亀山市になってしまいましたが・・・)なので、生桑にはほとんど行く機会はありませんが、生桑は街道沿いで、郊外型店舗が多く、そのこともあるのでしょうか、北勢(北伊勢地方のことです)では著名な地名です。
「生桑へ行くわ・・・などというしょうもないダじゃれもあります」
生桑には小学校がなかったと思うので、この辺の子供は、三重小学校にいくのでしょうか。三重小学校周辺は、四日市の市街地に近い割に、町屋が残り昔のただずまいが残っているところです。(道がとても狭く、対向車が来たら泣きます)
すると、退祐さんは、三重小学校にかよったのかしら、などと思いを馳せながら、拝読した次第です。
投稿: 寺嶋 吉明 | 2005/04/02 22:35
寺嶋さま、コメントありがとうございます。
「生桑へ行くわ」はわたしも使います(笑)。生桑は条里制の「五鍬」に由来するといわれ、おそらく歴史的にふるい土地なのだろうと推測されています(『三重県の地名』平凡社 参照)。いまは生桑も開発がすすんでいて、いろんな店がたち並ぶようになりましたね。わたしの子どもの頃は、凧あげができたほど、田畑が広がっていました…。
生桑の長松神社の下の屋敷が退祐の生家です。
投稿: 高尾 | 2005/04/02 22:51