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2005/02/27

(世代論)30歳の話

 最近読んだ週刊誌『AERA』(朝日新聞社、2005年2月21日)に「『30歳で成人式』がいい」という記事が載っていました。20歳で成人式をやるよりも、おとなの人生の端っこを知った30歳で「成人式」をやればどうか、とあります。そうすれば市長の訓話をまじめに聞くに違いない、と。たしかに会社に入ればプレゼンテーションくらいはあるので、人前で話すひとの気持ちがよくわかっているはずです(かくいうわたしも大学の授業や市民サークルで、生徒に眠られてガックリ)。
 この『AERA』の記事は1974~75年生まれを扱ったものです。ここでは、ここらへんの世代を、仮に30歳世代と呼びましょう。わたしも1974年2月生まれの31歳でちょうど30歳世代。この記事をみて(ははあ、これは俺のことをいっているのだな)と思い、一読してみました。30歳世代のひとのいろいろな考えが書いてある。資格をとってキャリア・アップを考えるひと、NPO参加を考えるひと。30歳という境目を無感動で通過するひとは稀であるようです。
 もちろん世代論でひとの人格すべてがわかるわけではありません。しかし世代のつくった脳みそは、バームクーヘン状に堆積したいくつかの「人格」のひとつ、とはいえそうです。

 この世代は人口分布グラフでいえば第2次ベビー・ブームの頂上くらいにあたります。思えばこの30歳世代、何かと貧乏籤を引いた世代でした。
 わたしの脳裏にはいくつかの風景があります。初級・中等教育でいうと、1985年頃には校内暴力のピークを過ぎ、校則が厳しくなりはじめました。生徒としてその雰囲気を肌で感じた筈です。そしてつらかった受験。予備校で長い行列をつくって受講受付を待っていました。だから大学卒業後の就職もしんどいのですが、入社後もバブル崩壊の後始末で苦難をうけました。
 山一証券がつぶれるちょっと前、わたしは山一の〝断末魔の声〟をききました。同世代の優秀なある知人は山一証券の社員でした。彼は営業成績のノルマ達成のため、まったく意味のない書類をでっちあげようと、わたしの家に署名を求めてきました。それは利益を追求すべき会社がやるべきではない、生産性のない仕事でした。ノルマに追われる彼に責任はありません。そんな会社はつぶれてよかったかもしれません。いや「つぶれるべくしてつぶれた」というべきでしょう。
 わたしは大学院に進みましたので、この種の苦労を経験していません。しかしみなさんは多かれ少なかれこんな苦労をしていたのだろうと思います。ただ、わたしのやっている歴史学分野でも、不況のあおりをうけて、就職口はめっきり少なくなりました。
 こう考えてくると、30歳世代には、高度経済成長の負の遺産が、常にこびりついているような気がします。もっとも、いままで経済成長の恩恵をうけてきたのだから、しかたなしと引き受けねばなりません。

 「受験でいい学校入れば、いい会社に入れて、幸せな人生をおくれる」。
 みんなそう思っていました。特に、親が団塊の世代であるわたしたち30歳世代も、とりわけ(そんなもんだろう)と漠然と思っていた。しかしそれはとんでもない空手形でした。株価や土地の値段だって空手形なんだから、人生設計の思想が空手形だってなんらおかしくない。
 もちろん、いま「不況だ」といっても、戦後の混乱期や応仁の乱よりはましで、飢えることのない平和な世の中に感謝しなければならないし、価値観の興亡は世の常です。どういう世の中がきても対応できるよう、つよい精神力がなければなりませんね。苦労した分だけいいことあるさ、同世代のみなさん、がんばりましょう。

 何れにせよ、「成人式」です。
 友だちが少ないせいか、「しんどかったなあ」といいあえる同窓生もいないまま、31歳を迎えました。
 あの大学受験のとき、教室を埋め尽くした同世代のみなさん、いったい何処で何をしているのだろう? 最近そんなことを思いながら、夜は家で独りお酒を呑んでいます。

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2005/02/24

(史料調査)現代の「江戸時代」―「聞き取り調査」あれこれ―

 われわれ古文書読み屋でも、古文書と「にらめっこ」ばかりしているわけではありません。調査対象地に行ってひととお話をし、江戸時代の息吹を感じてくる。それがここでいう「聞き取り調査」です。
 別に気分転換のためにしているわけではありません。むしろ研究のために積極的な意味があります。

 そもそも「この平成の世にブラブラ歩いて、江戸時代のことなんかわかるの?」と思われるかたも多いでことでしょう。
 たしかに、最近は「江戸は遠くなりにけり」という感をつよくします。しかしそれでも、よく探せば、江戸時代の名残りが残っていることもあります。あるお宅に訪問して「あのう、お宅はA家と御姻戚ですね」とお尋ねすると、ふつうに「ええ、そうですよ」とお答え頂く。A家と姻戚関係を結んだのは、みんなが丁髷を結っていた江戸時代のことなのです。また、古文書を指さして「この方は」とお訊きすると、「ああ、このひととても貧乏だったそうよ」とお答え頂く。「この方」は江戸時代のひとです。

 ある由緒ある名家をご訪問したときのこと。
 その家の功績を調べようといろいろ質問させて頂きました。しかしご当主は「やはりそれを調べられては困ります」と困惑気味です。
 何故というと「地域の中で浮かび上がりたくないのです」という。

……当家は地域のひとに支えられて生きてきました、これからもそうです、たしかに当家は地域の中に大きな功績を残してきましたが、しかしそれを公表しては、自慢がましく聞こえ、地域のひとの不評を買ってしまいます……。
 そのようなお答えを頂き、結局わたしはすごすごと引き下がってきたのですが、そのかわり、わたしは大きな勉強をしました。「何故その家が江戸から現在まで地域で存続しえたのか?」という命題の答えが、なんとなくみえてきたような気がしたからです。

 よくテレビなどではお嬢様を紹介する番組があります。そこで拝見するお嬢様はたしかにお金持ちですが、やはりお金を使うのが大好きで、おまけに高学歴、いろんな意味で浮世離れをしています。
 しかし、せまい意味での「お嬢様」、つまり、いまだふるい人脈の中に生きる家の「お嬢様」は、拍子抜けするほどの常識人で、経済観念もふつうで、周囲に気配りのできるひとだったりします。そうでなければ歴史の堆積の中で生きていくことはできないでしょう。家のひとはそれがよくわかっている。もっとも、その種の「お嬢様」はマスコミうけはしませんし、本人だって取材拒否でしょう。ノーブレス・オブリージュ(Noblesse Oblige)、身分に伴う果たすべき社会的義務というべきか、それとも、地域や社会関係に引っ張られながら生きる富裕層というべきか。
 別に、由緒の家やお金持ちの家を礼賛しよう、というのではありません。わたしの場合、むしろそのウラに潜む社会の方に目が向いています。とにかくブルジョアの発展の歴史は一筋縄ではいかないのです。
 このように聞き取り調査をすると、いろんなことが勉強できます。何も勉強机だけではありません。

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2005/02/21

(落語)江戸時代の言葉、わかる?―「恐惶謹言」と「仍(依)て如件」―

 テレビの芸能人の離婚会見では、「価値観の相違で」といっているのをよく目にします。ほんとうは夫婦で唾をとばしあって罵りあったり、鍋や皿を投げあったりして喧嘩したに違いないのだけれど、「価値観の相違」というムツカシイ言葉がいきなり出てきて、なんだか煙に巻かれたような気分にさせられてしまう。しかし、芸能人というイメージが売りの職業ですから、世間体に疵がつかないように、当人同士「ここで手打ちにしましょう」ということなのでしょう。

 夫婦にもいろいろあります。
 たとえば古典落語の「たらちね」。身分違いで結婚した夫婦があって、「京都のお屋敷者」で由緒ある武家に生まれたのが奥さん、しがない長屋暮らしの「八つあん」が旦那さん、という設定です。奥さんが難しい言葉をつかって旦那さんを困らせます。両者のミスマッチが笑いを誘います。
 ここでは、育ちのよい奥さんがムツカシイ言葉ばかり使います。ここでは「価値観の相違」ではなく「言葉の相違」が問題になります。でも、この夫婦、不思議なことに何だかうまくいきそうな雰囲気です。

「あーら、わが君、あーら、わが君」
「へえ、あっしをよんだんでござんすかい? あらたまってなんでござんす? なにか気にいらないことでもできだんで?」
「いったん偕老同穴のちぎりをむすぶからは、百歳(ももとせ)、千歳(ちとせ)を経るといえども、かならず変ずることなかれ」
「へー、どうもむずかしいことになっちまったなあ。あっしゃあ、職人のことでござんすから、そういう他人行儀のことでなくて、ざっくばらんにもうすこしわかるようにいっておもらい申してえもので……まあ、とにかくもおやすみなさい」
興津要編『古典落語』上(講談社文庫、1972)

 奥さんのいう「百歳(ももとせ)、千歳(ちとせ)を経るといえども、かならず変ずることなかれ」というような言葉使いは文語体であって、話し言葉にはふつうは使わないでしょう。あくまで落語の〝ねた〟です。
 またこんなやりとりもあります。

「もはや日も東天に出現ましまさば、御衣(ぎょい)になって、うがい手洗(ちょうず)に身をきよめ、神前仏前にみあかしをささげられ、看経(かんきん)ののち、ごはんめしあがって、しかるべく存じたてまつる、恐惶謹言(きょうこうきんげん)」
「おい、おどかしちゃいけないよ。めしを食うのが恐惶謹言なら、酒を飲むのは、よってくだんのごとしか」
前掲同書より

 この会話が最後で「たらちね」は終わります。ここは落語で一番大事な〝おち〟の部分ですが、いまのひとには、いまひとつわかりにくいでしょう。
 「恐惶謹言」(きょうこうきんげん)は手紙の書留文言で、「仍(依)て如件」(よってくだんのごとし)は証文の書留文言です。これを知っているひとはここで笑います。しかし知らないひとは笑えない。いまではすっかり使われなくなりましたから、落語として成立しえなくなったようです。これに関して興津要さんの文章から。

   たらちね
別名を「たらちめ」ともいい、江戸時代のおわりごろに、大坂落語「延陽伯」(えんようはく)を江戸に移入したもの。無骨な職人と優雅な嫁との夫婦の対照的なおかしさをえがいた滑稽噺で、笑いが多いところから若い落語家がよく口演する。ただし、「恐惶謹言(きょうこうきんげん)、依てくだんのごとし」などという文章が、書類や手紙などにもちいられなくなった現在は、この噺のおちがわかりにくくなってしまった。
前掲同書、興津要さんの解説より

 ただ、わたしの授業(史料講読)ではこの話をよく学生さんにご紹介しました。落語の〝ねた〟に使われるくらい、「恐惶謹言」「仍(依)て如件」は、むかしはよく使われる言葉だったのですよ、というふうに。なかなかいいアイデアでしょう?

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2005/02/18

(人生の岐路)国家公務員「日本史を研究したい」、どうする?

 ひとから「こんなのがあるよ」と、インターネットの某匿名掲示板を教えてもらいました。
 この掲示板では、あるひとが質問文を書き、それに対して多くのひとが返事を書く、というシステムをとっています。もちろん双方匿名。本で調べることができない性質の疑問、いまさら恥ずかしくてひとに聞けない疑問は、誰しもあるものです。その場合にはとても便利な掲示板です。
 さて、その掲示板にこんな質問が出されていました。25歳、女性の方(全文を引用しますので掲示板名・ハンドルネームも伏せておきましょう)。

 25歳の国家公務員です。最近、子どものときから興味のあった日本史を専門的に学びたいという気持ちが強くなり、退職を考えています。いずれは研究職に就きたいというのが希望です。18歳の大学受験の際は恥ずかしながら「いい大学」に受かることに必死で、学部よりも大学名で選んだ結果、卒業したのは経済学部です。そのため、まずは史学科の3年次に編入する予定です。不安はただひとつ、研究職に就ける可能性はあるのか、ということです。人文系の研究職といえば大学の教員くらいですが、18歳からその分野を学んでストレートに博士課程までいった方でも採用されるのは難しいと聞いています。わたしのように研究分野に関係ない回り道をしている場合は年齢的な面からもさらに不利になることもあるかと思います。研究職に就く方法を自分なりに調べてはみたのですが、情報自体が少なく実態が掴めません。可能性がゼロでなければ突っ走るつもりですが、それでも実情がわからないままでは不安で、つい質問してしまいました。20代半ば以降から研究職を目指された方がいらっしゃいましたら、体験談などぜひお聞かせください。宜しくお願いします。
 大学は「大学名で選んだ」というから、おそらく偏差値の高い高名な大学を卒業された方でしょう。大学では経済学を学ばれ、現在は職業は国家公務員。本人はどういうかわかりませんが、絵に描いたようなエリート・コースを歩まれている、といっても過言ではありません。それが「子どものときから興味のあった日本史を専門的に学びたいという気持ちが強くなり、退職を考えています」とまで思い詰めてしまった。
 ご本人は年齢のことを気にされているようですが、現在25歳というからまだまだお若い。わたしは、史学科に学士入学なぞせずに、いきなり大学院史学専攻に受験されることをおすすめしますが、その場合、計5年間(修士課程2年・博士課程3年)の大学院全課程をおえる頃には、彼女は30歳です。概ね35歳が就職のリミットとされていますから(といっても34・35歳で就職される方も多い)、それにはまだ5年も余裕があるわけです(!)。まだまだです。
 それより問題は「研究職につけるかどうか」でしょう。かなり困難な道だといわざるを得ません。若くして良質の論文を出し、単著を出したりしている方でも、就職できていない方はゴマンといます。もちろんこの菲才なわたしも現在31歳、妻持ち子持ちの非常勤身分です。
 けれども、学問は研究職につくためにするわけではありません。お金儲けをするためでもない。「研究をするぞ」という信念が自分を支えます。もちろんそれで一生安泰に飯が食えれば文句はありませんが、せめて非常勤身分でも、世の中の片隅に置いて頂ければ有り難いと思わねばならない。あるひとが「筆は1本、箸は2本、〝衆寡敵せず〟と知るべし」といいましたが、まさにそのとおりです。この相談者の方も、エリート・コースを捨ててまで学問の世界に身を投じようと考えるほどですから、漠然と覚悟はされていることと思います。わたし個人的には、是非そんな方に我々の仲間になって欲しい、と思っています。
 それにしても、寄せられた返事コメント中に、「絶対無理だ」などという否定的見解が多いことに驚かされます(匿名掲示板の情報は玉石混淆です)。もし彼女が天才だったら、どうするつもりなのでしょう? 彼女もまだ自分がわかっていないということもありえます。
 また、もし彼女が不幸にして夢敗れたとしても、彼女自身、悔いのない人生を歩んだことに満足して一生をおえれば、それはそれで価値のあることです。これから先は彼女の人生観に属することですから、他人がどうこういう話ではありません。

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2005/02/15

(史料)司馬遼太郎『俄』と江戸時代の「戸籍」―「宗門人別帳」について―

 江戸時代にも所謂「戸籍」があります。「宗門人別帳」というもので毎年村ごとに作成されていました。悪事などで「宗門人別帳」から人別記載を抜くことを「帳外」(ちょうがい・ちょうはずれ)といい、この「帳外」処分になったひとは「無宿」になります。
 たとえば、日常行状のよろしくない者が、行方不明になったりする場合、彼が何処かで犯罪を犯すと家族に迷惑がかかります。むかしは連座制で家族も罪を蒙るからです。それには、家族はまえもって彼を勘当処分にしてしまえばよい。縁を切れば、彼と家族とは無縁の関係になるからです。やくざ者に無宿が多いのはそのためです。
 これに関連する記述のある小説として、大坂の侠客小林佐兵衛こと明石屋万吉を扱った、司馬遼太郎『俄―浪華遊侠伝―』(講談社文庫、1972)があります。
 万吉は少年のころ、父が逐電してしまい、「泥棒」になろうと、そのむらの庄屋に自分の帳外処分を出願します。以下は万吉と庄屋とのやりとりです。

……「人別帳から、この万吉の名を抜いていただきたいのでございます」「えっ、もう一度言え」「勘当してくだされ」庄屋はおどろいた。勘当というのは、戸籍(人別帳)から名を抜いて無宿人になるという意味である。親が放蕩息子をこらしめるために勘当するというのは、よくある。が、多くはお上には内証のことで無宿人にするわけではない。万吉のいう勘当は法律上の正式の勘当で、庄屋を通じて町奉行所にねがい出、良民の籍からぬいてしまうことである。「おまえ正気か」「いかにも正気でござりまする」……「これ万吉、勘当は悪いやつが受ける罰やがそれを知っての上か。おまえは、どんなわるいことをした」「いままでは悪事を働いたことはございませんが、これからは泥棒もするかもしれませぬ」「けっ、されてたまるか」(14頁~16頁)

 万吉自身は勝手に逐電したわけではありません。このように、逐電する前に、自分からノコノコと庄屋に出かけていって「『帳外』にしてくれ」などと願うのは、あまり例のないことです。史実かどうかは知りません。
 ただ、わたしはこれと同様の事例を知っています。武蔵国入間郡赤尾村名主林家文書でみた事例をご紹介しましょう(拙稿「村の中の『江戸』―都市・村落の社会関係―」 竹内誠編『徳川幕府と巨大都市江戸』東京堂出版、2003.10)。

……名主林家日記にみえる四郎兵衛の風与出のはなしを紹介しておきたい。天保五年(一八三四)の赤尾村では、安野源右衛門という百姓が、惣百姓の意志を飛び越えて、領主川越藩の代官と癒着して強引に名主任命を獲得するという事件がおきている。そのとき村では大変な内訌があるのだが、翌年四郎兵衛と金右衛門という二人の源右衛門名主反対派の百姓は、名主林家を訪れ、「去年之一件之儀ニ付含有之候ニ付除帳ニ致し貰度」(去年の一件には腹が立ったから除帳にしてほしい)と言い出す。その妙な主張に名主は戸惑い気味に「除帳は何か悪事之ヶ条無之候ては如何」(除帳は何か悪事のことがないと無理だ)と答えた。すると二人は「右之趣出来兼候ハヽ風与出ニ相成可申、何レ我等事生男子此侭ニては差置かたく」(それが駄目ならば風与出する、男に生まれてこのままには出来ぬ)と言い返した。のちに四郎兵衛は再度「除帳」を願い出たので、当惑したであろう名主は「風与出」として処理をし、藩への報告は「悪事ニ携候趣之風聞有之」となった。四郎兵衛は江戸浅草田原町三丁目遠州屋林蔵を頼ったのち帰村している。……

 赤尾村百姓四郎兵衛は、むらで意見があわなかったことがあり、腹に据えかねて「男子の意地で『風与出』(ふとで)をする」、つまりむらを出奔して「帳外」処分になる、と自ら申し出ました。これに対して名主は当惑気味に「何か悪事がないと」と答えますが、結局名主側で「悪事に携わっている風聞がある」ということをでっち上げて、それを領主に報告して「帳外」処分にしました。そのあいだ彼は江戸浅草田原町遠州屋を頼って落ちていきました。
 これは以上にみた万吉のはなしと同様の事例です。

(付記)ちなみに、万吉が賭場で喧嘩をする場面で、再び宗門人別帳の話がでてきます。

「汝(われ)」と、親分株の中僧がいった。「どこの子じゃい」「天涯の無宿じゃ」「むしゅく?」「無宿人よ」子供に無宿人があろうか。「うそやと思うたら、北野村の庄屋へ入って人別帳をしらべてこい。御府内浪人明井采女のせがれ万吉という名に朱の棒がひかれているはずじゃ」(22頁~23頁)

 万吉のように「帳外」になったり、死亡したり、婚姻・養子等の事情でむらのそとへ出たりすると、宗門人別帳からはずされます。そのときその年の宗門人別帳に、その旨の注記が朱筆で入ります。さきの万吉の科白(せりふ)はそのことを示しています。何気ない科白ですが手が込んでいます。

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2005/02/10

(講座)豊島区文化財講座「江戸の町の発掘調査~日本橋から巣鴨まで」(『広報としま』1308号、平成17年2月5日発行)

 豊島区教育委員会では、2月から3月にかけて、考古学に関する講座を開催します。わたしも講師になっています。
 わたしは、発見・分析した幕末巣鴨町の町なみ絵図「巣鴨町軒別絵図」について、ご紹介する予定になっています。くわしくは『広報としま』1308号をご覧ください。
 話すことは『巣鴨百選』2月号で書いたものとほぼ同じですが、ここでは、そこに書き漏らした考古学(モノ資料)と文献史学(文字史料)との関係、発見の裏話などを披露します。興味のあるかたはぜひどうぞ。

豊島区文化財講座「江戸の町の発掘調査~日本橋から巣鴨まで」
平成17年2月24日~3月17日 木曜日(全4回) 午後7~9時
会場「生活産業プラザ」(豊島区東池袋1-20-15)
「お江戸、日本橋の町屋!」講師・仲光克顕(中央区教育委員会)
「加賀藩邸内の長屋」講師・堀内秀樹(東京大学埋蔵文化財調査室)
「巣鴨町町家の発掘調査」講師・成田涼子(豊島区教育委員会)
「よみがえる巣鴨の町なみ~皇女和宮のおくりもの~」講師・高尾善希(東京都公文書館)
○定員50名…全回出席できる方。 ○申し込み方法…往復はがき(『広報としま』のはがき記入例参照)で2月15日(消印有効)までに「生涯学習課文化財係」(〒170―8422 豊島区東池袋1―18―1 豊島区教育委員会生涯学習課文化財係)。 ○一人1通…応募者多数の場合は抽選。 ○文化財係…℡3981―1190。
※念のため『広報としま』1308号で実際にお確かめください。 『広報としま』
 わたしの演題だけ浮いているような……? まあ、いいか。性格なんです。

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2005/02/09

(専門書拾い読み②)清水邦夫さん「新史料至上主義に疑問」 西海賢二さん「悲しい現実」 『地方史研究』310・311

 歴史研究の論文の世界では、興味深い史料を探してきて翻刻(くずし字を楷書<活字>に直すこと)し紹介するという、所謂「史料紹介」という付加価値を意識することがあります。史料の多い江戸時代史ならなおさらです。論旨はさることながら、史料を紹介すること自体にも価値が発生するのです。英訳すること自体に意味があるのと同じです。
 わたしは「おまえは相変わらずおもしろい史料を探してくるなあ」と先輩から感心されたことがあります。もちろん「宝探し」が悪いわけではありません。あたらしい史料を探るのは結構なことです。しかしそればかりではいけない。みんなが知っている、すでに紹介されている史料を使って、独自の視点でそれに切り込み論じる能力がなければいけない……。それに関して清水邦夫さんの論考から。

小稿は新史料至上主義に疑問を呈する立場から一度は研究に用いられた史料に基づき考察する。論文掲載・言及なしという意味で新史料といえるのは史料⑥・⑦・⑧、および史料③・⑨の一部である。
(清水邦夫「地誌調についての一考察―武蔵国埼玉郡騎西領・忍領・八条領の事例を中心に―」『地方史研究』310、2004.8)

 また、同じ『地方史研究』誌上から、西海賢二さんの文章もご紹介しましょう。これは行政の世界ではよくある光景です。

(高尾注、相模原市立博物館の展示に寄せて)……なお、相模原の展示は三回拝観する機会があったが、二回目だったか近世史(古文書)を専門とする学芸員が国民健康保険課移動になり、代わりに配属された者は学芸員でもなく門外漢の人が移動してきたとのことを職員の人たちが嘆いていたが、博物館の維持管理が経営上に厳しいという現況にあっても学芸員の資質が殺がれるような移動は地域博物館にとっては悲しい現実なのである。
(西海賢二 展示批評「『二つの石像物展示』によせて」『地方史研究』311、2004.10)

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2005/02/06

(お菓子)串団子はなぜ4玉か?

 串団子はなぜ4玉か?
 これはいろいろな本に紹介される話です。……『ふるくは一串5玉あって5文の価で売られていた。しかし明和期に四文銭が発行されて以来、一串4玉になって価も4文になった』……。わたしは長らくこの話の史料出典を知りませんでした。本当の話なのかどうか? と疑いの目をもって考えてきました。
 しかし、前回の「かっちん」さんのご教示によって、学術雑誌『日本歴史』572号(1996.1)に、鈴木晋一さん(日本風俗史学会会員)「団子の玉がなぜ4玉になったのか」というエッセイがあることを知りました。そこに史料出典が明らかにされています。勉強になりました。
 鈴木さんによると、庶民の生活にも精通していた平戸藩主松浦静山(1760―1841)の『甲子夜話』続編巻四十一の中に、その事情を記した箇所があるのだそうです。

世に串ざしの団子、一串に五団を貫くこと尋常にして、一団一銭に換ふ。然るに此頃は一串四団を貫くことに成りたりと。その故は、明和の頃四当銭行はれしより、群雑の間は四当銭を以て欺ひて一串に換ふ。售(う)る者知らず、後にこれを悔ゆ。因てこれが為に一串四団にして、邪沽の患を免る。是よりして世上一般に及ぶと。
『甲子夜話』続編巻四十一

(高尾補注)つまりこういうことです。『世の中の串刺しの団子は一串5玉がふつうで1玉1銭である。しかしこの頃は一串4玉になったという。その理由はというと、……明和の頃、四文銭が流通したことにより、ひとごみの中で、四文銭で騙して一串5文を支払ったようにみせかけた。売る者(団子屋)はこれに気がつかず、あとでこれに気がついて悔しがった。このため一串4玉にして(つまり一串4文にして)わるい客の作戦を防いだ。……これが世上一般に及んだということである。』

これに対して鈴木さんはこういいます。

 この四文銭が流通するようになっていくのだが、静山はそれを団子屋の自衛手段によるものだとしている。つまり客が混雑しているとき、一串五文の団子を客にこまかされて四文銭一枚で売ってしまって損をするからだというのだが、それはおかしい。……五文銭があれば団子屋はこまかされたかもしれないが、江戸時代を通じて五文銭があったためしはない。……一文銭を〝一(ひ)い、二(ふ)う、三(み)い〟と並べていけば落語の「時蕎麦」のように、一文ぐらいごまかせたかもしれない。しかし、一串買って四文銭ではごまかしようがなかったはずだ。下情にも明るかった静山としては、これは珍しいミスだった。

 しかしわたしは鈴木さんとは違った解釈をしました。静山の「ミス」ではないと考えます。
 素人考えをします。史料をみますと、文末が「と」で結ばれています(2箇所、「成りたりと」「及ぶと」)。この「と」が伝聞の意であるとすると、この箇所全体は、静山自身の考えではなく、静山が誰かから聞いた話になります。したがって、静山の「ミス」ではなく、静山が、実際に世上に流布していた話を、書き写したに過ぎない、ということになります。
 「群雑の間は四当銭を以て欺ひて一串に換ふ」といいますが、どうやって四文銭で5文支払ったように見せかけるのでしょう? そのトリックを想像してみます。
 四文銭流通以後の団子代5文の支払い方法は、①一文銭5枚で支払う方法(1+1+1+1+1=5)と、②四文銭1枚・一文銭1枚の都合2枚(4+1=5)で支払う方法とがあります。もちろん、後者②で支払う方が楽です。「群雑の間」、つまりひとごみの中なら、なおさら後者②で支払ったでしょう。
 次に、②の理解にたち、四文銭・一文銭2枚を重ねて支払う場合を想像してみましょう。四文銭は一文銭よりサイズが大きめですから、四文銭の方を上にした場合、一文銭はスッポリと四文銭の陰に隠れてしまう。だから、もし悪い客が「あいよ、五文だ!」と言いながら四文銭1枚を手渡したとすると、受け取った団子屋はてっきりその下に一文銭が隠れていると勘違いしてしまう(注1)。「群雑の間」ですから、銭を差し出した手が、熊さんの手なのか八っつあんの手なのか判然としない。団子屋が「くそっ、だましやがったナ」と悔しがってもあとの祭り。
 それで団子屋は「それならいっそのこと、玉をひとつ減らして四玉の串団子にして、それを四文の価で売ってしまえ」と考えたのではないでしょうか。どうでしょう?

 以上の話とは違いますが、そういえば、現代の消費税導入のとき、ジュースを110円とするか100円とするか、問題となりましたね。結局客の便利のため、ワン・コイン100円で支払うことが決められました。しかしいまは110円・120円・150円が多くなりました。

(注1)四文銭に較べて一文銭はとても薄くて小さいのです。

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2005/02/03

(金銭)小銭を数える―落語「時そば」から―

 みなさんはどうかは知りませんが、わたしは小銭があまり好きではありません。たとえば、コンビニエンス・ストアで100円のガムを買う場合にしても、後ろにほかのお客さんがいなければ、10円を10枚用意して支払うようにしています。小銭をジャラジャラ持ち歩くと財布が重たくなり、煩わしさを感じるからです。また、小銭で支払ってくれた方が、ストアの方でも都合がいいのではないでしょうか。

 小銭といえば、みなさんは「時そば」という落語をご存じでしょうか。あまりにも有名な落語なので(おそらく落語の中で一番有名な落語です)、聞いたことがあるという方も多いのではないかと思います。
 そば屋である客が支払いをだますという落語です。そば屋は「二八そば」(にはち・そば)で、「にはち・じゅうろく」(2×8=16)で、一杯16文という直段です。ご存じない方のために、「時そば」におけるそば屋と客の問答を、以下に引用しましょう。

「いくらだい?」
「十六いただきます」
「小銭だから、まちげえるといけねえや。手をだしてくんねえ。勘定してわたすから……」
「では、これへいただきます」
「いいかい、それ……ひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ、むっつ、ななつ、やっつ、何どきだい?」
「へえ、九刻(ここのつ)で」
「とお、十一、十二、十三、十四、十五、十六だ。あばよ」
「時そば」興津要編『古典落語』(講談社文庫)

 客は16文を支払うのに1文銭16枚で支払います。その途中で客が「何どきだい?」と時刻を聞き「九刻(ここのつ)」とそば屋が答えたところで、「とお、十一、十二……」と数えているので、9文めを支払っておらず、1文ごまかしているのです。

 そば一杯16文、ふつうはどうやって支払うのでしょう。そばに限らず、銭の直段には4文・8文・12文・16文・32文等と、一見半端な数が多いのです。
 江戸時代の銭は、一文銭だけでなく、明和年間から四文銭という銭貨があり、たいへんに流通しました。裏に波模様がついているため「波銭」とも呼ばれています。串団子の玉が4つなのは四文銭の影響といわれています(注1)。4文・8文・12文・16文・32文と4の倍数のものは四文銭で支払えばよい。
 さきの落語「時そば」のそば16文の支払いも四文銭4枚で支払えばよいのです(4×4=16)。なのに何故わざわざ客は一文銭で支払うのか。
 もちろん一文銭で支払っても全く問題ありません。わたしのように小銭の嫌いな人間が、江戸時代にもいなかったとも限りません。しかし多少は奇妙です。「奇妙だなあ、何故一文銭で支払ってんだろう?」と思っていたら、何と支払いをごまかすためにしていた、というのが笑いのつぼです。ここを理解して落語「時そば」をまた聞き直せば、ちょっと違ったおかしみが出てくるかもしれません。

(注1)よくいわれている話なのですが史料出典を知りません。ご存じの方はご教示ください。ところで串団子が4玉だとすると「団子3兄弟」というのは何なのでしょう。3玉の串団子もなくはありませんが……。しかし今のご時世、4人兄弟の家族はあまりいませんから、4玉では唄にはなりませんね。

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