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2005/01/31

(文化財)巣鴨の町なみ、復元に向けて

 今月『巣鴨百選』2月号では14頁にわたり拙稿による特集記事を組んでいます。「よみがえる巣鴨の町なみ―新発見の史料は〝皇女和宮のおくりもの〟」です。『巣鴨百選』は巣鴨の商店街のタウン誌で、巣鴨の店先に置いてありますから興味のあるかたは是非手にとって御覧ください。
 わたしは最近、幕末の巣鴨町町屋240軒を記した史料、「巣鴨町軒別絵図」を発見しました。その紹介記事です。

 同じ『巣鴨百選』誌上で、以前にも同様なことを紹介したことがありますが((発見)幕末巣鴨町の住宅地図 ~「先祖が巣鴨町に住んでいました」という方、ご連絡を~)、今回は、前回よりもさらに詳細に紹介してみました。ただの史料紹介では面白くないので、「絵図中の人名のご子孫はいま」というコーナーも設けました。いまでも「絵図」と同じ位置に住んでいるお宅、あるいは「絵図」で創業年度が遡ってしまったお菓子さんなどを紹介しています。
 これは所謂「学問的業績」になるわけではありません。しかし、学問成果の社会還元という意味で、やりがいのある仕事だと思っています。地域にみなさんに地域振興の材料を提供させて頂くのも、われわれ歴史研究に携わる者の「道楽」のひとつと考えています(「使命」といわないところがワタシらしい表現だと思って下さい)。

 それに関して、拙稿の「おわりに」において以下のようなことを書いておきました。これはわたしのちょっとした問題提起です。

おわりに―絵図でどう「遊ぶ」か―
 以上、発見の絵図をご紹介させて頂きました。これで絵図の重要性・面白さの一端がご理解頂けたのではないでしょうか。更なる学問的で詳細な調査結果は、豊島区遺跡調査会『巣鴨町』にてお知らせする予定になっています。
 めんどうな調査はわれわれ歴史研究者にお任せください。しかし、これから先は、まさに地域のみなさんの手によって、この絵図を活かす番だと思います。歴史的文化財の存在意義は、―そんな難しい理屈で考える必要はありません―、大切に収蔵庫の中にしまっておくだけでは完結しません。ただ、それだけでは宝の持ち腐れで、社会に活かしてこそ、本当の価値が生まれるのではないでしょうか。だから、みなさんでこの絵図を使って、是非「遊んで」みて下さい。どんな「遊び方」があるのか、発想の乏しいわたしにはよくわかりません。逆に、地域のみなさんのお知恵を拝借したいと考えているところです。

 ただ「文化財を大切にしましょう!」を連呼するのでは、単なるお説教・教条の押しつけに聞こえてしまいます。「文化財は地域・ひとのためにどんなふうに使えるのだろうか」という議論から出発して、文化財の大切さを説いてもいいのではないか、と考えています。そのひとつの試みです。
 また、こういうふうな書き物をしておくと、今後の聞き取り調査に便利なんです。商店街を訪問するとよくある「怪しい訪問セールス」に間違われます。聞き取り調査ではこれがネックです。―巣鴨ではありませんが―、江戸時代の「え」の字を出していきなり「帰ってください」と門前払いをくうこともあります(世間的には、江戸時代のことを聞いてまわるわたしみたいな人間は、存在自体が迷惑なのです)。今後巣鴨を歩くときは「巣鴨百選」の記事がわたしの名刺代わりになるでしょう。それで相手への話の説明がはやくなります。
 さらに『巣鴨百選』の原稿の末尾にこのような一文を付しました。

(お願い)絵図中にある人名のご子孫を探しています。心当たりの方はご一報ください。現在は巣鴨以外にお住まいでも構いません。よろしくお願いします。

 どうですか? いいアイデアでしょう? まあうまいこといくか、わかりませんけども。でもいわないよりはましでしょう。
 発表の機会を与えて頂いた巣鴨百選編集部、調査にご協力頂いた豊島区教育委員会・豊島区遺跡調査会のみなさまにお礼を申し上げます。

(付記)下記のリンク先を御覧下さい。『巣鴨百選』ホームページ 拙稿記事の冒頭部分

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2005/01/28

(学位)博士のみちはコンセントから

 400字詰原稿用紙にして700枚にもおよぶ「博士(文学)学位請求論文」の執筆。「今までの苦労が走馬燈のように……」といいましたが、わたしのささいな苦労話をひとつ。みなさんにとって、どれほど意味があるかはわかりませんが。

 700枚の文章を書くといっても、ぶつ切れの日記やエッセイの寄せ集めとはわけが違います。博士論文とて論文の寄せ集めであるにしても、一方で、論旨の一貫性を保たねばなりませんからたいへんです。トランプ・タワーの積み上げのように、精密に書いていかないと、途中で崩れてしまうかもしれない。そのため、その執筆はかなり骨の折れる作業で、かなり時間も費やします。
 まず、執筆するには、仕事のおわる6時以降、深夜まで執筆できる環境がなければなりません。必須の執筆道具はノート・パソコンです。これが深夜まで使えるスペースを確保する必要があります。パソコンのバッテリーはすぐに電気が切れてしまう。そのためコンセントが繋げる場所が何としても欲しい。
 職場はすぐ閉まってしまうので居残りはできません。家に帰っても子どもがいます。また、都内にある出身大学の図書館が便利そうですが、コンセントを使っていいスペースが少なく(現在は新しい図書館が建設され、コンセントも多くて便利になりました)、書籍はあるけれども不便。しかも、夏休み等の長期休みは開館日が限られているし、おまけに夜になると早く閉まってしまうのです。大学の研究室などの設備をもたないわたしにとって、まずコンセントが悩みの種だったのです。
 そこで、わたしは喫茶店が好きなので、喫茶店で執筆することにしました。好きな場所でやるのが精神衛生的によいと考えました。勤務のおわった6時以降、東京の新宿を徘徊し、コンセント使用可の喫茶店(例えば「ルノアール」)を複数店探すことから始めました。……なぜ複数店かというと、①1店だけに長居するのも店員に迷惑、こっちも気がひけてしまう、②店のコンセントの数は限られていて先客がいたら使えない、③時には店を違えて気分転換をするため(知的労働にはこれが意外と重要)、という理由です。
 それで、コンセント使用可の店を3・4店以上、みつけました。最近の喫茶店は、客の長居を嫌うためか、コンセントを貸さないところが多く、ずいぶんウロウロしました。途中大学の先輩にばったり出会って、ずいぶん不審な顔をされました。
 それで喫茶店にて夜10時くらいまで執筆しました。毎日そんなことをやっていると鬱屈します。ほかの客がうるさかったり、いやな煙草のケムリが流れてくると、何が何だかわからなくなってしまう。独り言も多くなります。「うーん、違うなあ」とか、「おれ、馬鹿だなあ」とか。ヘンな客だったのではないかと思います。
 看護婦をやっていた女房から「あなた、そんなことやってたら死ぬよ」といわれましたが、おかげさまで、何とか生きながらえております。

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2005/01/25

(学位)博士号あれこれ

 旧年3月には博士(文学)の学位を母校から頂きました(注1)。壇上に上がって学位記を頂いたときは、今までの苦労が走馬燈のように思い出され、感慨ひとしおでした。小学校以来、格別学校から褒められたり何かを頂いたりした経験のないわたしにとって、とりわけ衝撃的なできごとでした。

 ところで、博士号には2つの種類があります。それが所謂「課程博士」(課程博、カテイハク)と「論文博士」(論博、ロンパク)です。何処かで聞いたことがあるという方もいらっしゃるのではないでしょうか。ちなみにわたしは「課程博」の方です。
 この2つに軽重はなく、単に、学位のとりかたが違うだけです。「課程博」は、大学院博士後期課程の課程期間内に、ある一定の業績があれば、大学院に認められて授与されます。一方、「論文博士」は、「課程博」のような期間の拘束は一切なく、業績をあげるのにどれだけ時間をかけてもよく、長年積み重ねた業績を大学院に認められれば授与されます。陸上競技に例えるならば、「課程博」は短距離競走で、「論博」はマラソン、といったところでしょうか。
 どちらにしても、「博士学位請求論文」という学位論文の提出が必須で、わたしの所属する文系では、概ねですが、「課程博」は400字詰原稿用紙換算で500枚以上、「論文博士」は同じく1000枚以上が相場だといいます(これはあくまで「概ね」であって、各大学によっても様々です。また、枚数の多寡が価値の全てでない、ということもいうまでもありません、枚数よりも「審査論文」<審査制度のある雑誌に掲載された論文>何本、という内部規定のある場合も少なくありません)。わたしはだいたい700枚ほど書いたと思います。
 さきに「2つに軽重はな」いといいましたが、本当はいろんな意見があります。……たとえば、「課程博」の方が期間内に業績を挙げなければならないから難しいんだ、「論博」なんて書くのに何年費やしたっていいんだからずるい、という意見があります。一方、いやいや「論博」の方が本数も枚数も多く書かなければいけないんだから、こっちの方がホンモノだ、「課程博」なんて枚数が少ないうえに、大学院博士課程を出たばかりの若造じゃないか、という意見もあります(わたしもその若造のひとりですが)。……わたしにはどちらが正しいのかわかりませんが、まあ、2つにはたいした違いはないと思って頂いて間違いありません。

(注1)博士(文学)と文学博士とは同じものです。ある時期に制度改変があり、それ以後「××博士」を「博士(××)」と称するようになりました。

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2005/01/22

(雑感)落とすひとあれば、拾うひとあり

 去年のある日の夕方、わたしは東京区内の某駅をぶらぶら歩いていました。すると一見品のいい中年のご婦人が「あのう、すみませんが」と声をかけてきました。
 それで「はい、なんでしょう」と答えると、そのご婦人、「まことにお恥ずかしい話なのですが」とモジモジしている。よく事情を聞いてみると「父が急病という知らせをうけ、本千葉まで行かねばならない、それで慌てて家を出たものの、途中で財布の中身が乏しいことに気がついた、キャッシュ・カードももっていないのでどうしようもない、だから少々お金を拝借願えないか」ということでした。それで、わたしの連絡先と少々ばかりのお金を、彼女に手渡しました。彼女は「ありがとうございます、すぐにお返しにあがりますから」と、丁重に何度もお辞儀をしていました。
 そのあとすぐ「しまった、馬鹿なことをした」と思い返しました。これは詐欺じゃないか、だいたい交番に行って事情を話せば少々は借用してくれる筈ではないか、そして何故彼女の名前と住所を控えておかなかったのか……。
 ひとから「お人好しすぎる」といわれましたがあとの祭り。やはりそのお金は返ってきませんでした。あれが演技だとしたら名演技で、たぶんそんなことを職業(?)にしているかたなのでしょう。お金が返ってこない悔しさよりも、裏切られた悔しさのほうが大きい。そもそもわたしが馬鹿なのですが、それにしてもイヤな世の中になったなあ、と感じました。

 以上とは別のはなしです。先週、急ぎの原稿を書く用事で、東京区内某所の風景写真を撮ろうと、一眼レフ・カメラをもって家を出ました。
 その電車の中、ほかの原稿のことなどもいろいろ考えて、あたまがゴチャゴチャになっていました。そんなときには油断があって何か事件をおこすものです。……何と電車の中に一眼レフ・カメラを置き忘れてしまったのです。
 下車して暫く歩き、駅を出たところでそれに気がつき、慌てて駅に戻って遺失物係に連絡しました。しかしいつまでたっても「みつからない」という返事。なんという馬鹿なことをしたんだ! ああ万事休す。悔やんでも悔やみきれない。高価な品を落としてしまったというショックよりも、思い出の品を失ったショックの方が大きかった。史料調査で長く使っていた一眼レフ・カメラだったからです。いろいろな史料を撮影してもらった一眼レフ・カメラに申し訳なくってしょうがない。
 それで「もうなくしてしまっただろう」と諦めていたころ、駅の遺失物係でなく、警察署から「あなたの一眼レフ・カメラがあるよ」という連絡が入りました。ある方がみつけてくれて警察署まで届けてくれたのです。
 幸運なことに、一眼レフ・カメラの入ったケースに、偶然わたしの名前・住所を書いた紙切れが入っていたのです。電車の中でみつかったのではないのが不思議でしたが、とにかく無事に返ってきたので、ほんとうによかった。
 拾って頂いたYさんにお礼を申し上げます。さきの詐欺のイヤな経験も何処へやら、やっぱり世の中捨てたもんじゃありません。ひとのあたたかさが身に沁みた経験でした。

 落としては拾う。そうやって禍福は縄のように繰り返すのでしょうか。いや、そんな馬鹿なことをいっていてはいけません。すべてはわたしのドジに始まったのですから!

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2005/01/19

(作家)司馬遼太郎さんの文章の謎

 歴史学の専門家にも評価される歴史小説家は、あまり多くはありませんが、司馬遼太郎さん・吉村昭さん等は別格でしょうか(それでも批判はあるようですが)。わたしは好んで読んでいます(注1)。というより歴史小説から歴史好きになったくちです。
 もちろん、学術論文と小説とでは、分野が違うから、優劣の議論は成立しません。ただ、特に司馬さんには、史実とフィクションとを交ぜてお書きになる傾向があるため、読者に両者がわかりずらく、戸惑わせる面はあります。そこは批判点としてありうる議論かもしれない。
 しかし、そうではあっても、基本的には「小説から先は各自で勉強してください」ということではないでしょうか? 「小説は嘘ばかりだ」と目くじらをおたてになる方がいらっしゃいますが、それはどうでしょう。講釈師の〝嘘〟に腹を立てるようなものだと思います。小説の内容に興味をもって、それがきっかけで、もとの史料にあたるようになるというのであれば、それはそれで結構なことではないか、と思います。そうでなければ、物語として楽しめばよろしい。時代劇の時代考証にしてもしかり。

 ところで(以下別の話題になります)、司馬遼太郎さんの文章中、わたしにはわからぬ言葉があります。
 以下は司馬遼太郎さん『歴史と視点―私の雑記帖―』(新潮文庫)「見廻組のこと」という一編から。幕末、幕府が京都に設置した〝警察組織〟見廻組についての説明部分。

見廻組というのは新選組が浪士結社であるのに対し、直参の子弟から志望者を募って組織されていた。そういう建前だが、直参の子弟でそれを望むのがすくないため、末期にはだいぶ浪人を召募したりしている。新選組なら近藤勇にあたる職の組頭というのが、大名であった。蒔田相模守広孝という者で、蒔田家はわずか一万石とはいえ、代々備中に所領をもっている。が、蒔田相模守の組頭というのはごく形式的なことで、直接指揮はしていない。じかに官営テロリズムの指揮をとっていたのは、よく知られているように直参の佐々木唯(只)三郎であった。佐々木は末期には千石の旗本だったから組頭として通用していたが、実際の職名は与頭(よがしら)といったらしい。(119頁)

 ここで司馬さんは、わざわざ「与頭」に「よがしら」とルビをふり、「組頭」と違う職名として説明なさっています。これは本当のことなのでしょうか?
 というのは、ふつう「与頭」は「くみがしら」と発音し、「組頭」と同じ言葉として使われるからです。そもそも「与する」は「クミする」と読みますから、「組」=「与」で、両者の間でよく文字の置き換えが行われます。たとえば、村方文書でもよく「組頭」が「与頭」になっていますが、これは同じものをさしています。この種のことは日常茶飯です。さらに、上記の引用文中にも、「佐々木唯(只)三郎」とありますが、「唯三郎」でも「只三郎」でも、江戸時代の人間はどっちでも書いてしまうわけです。
 佐々木の「与頭」の場合は本当に「よがしら」でしょうか。ちなみに幕府職制での「小性組与頭」の場合「ともがしら」と発音するらしい。
 司馬さんはお亡くなりになったので、いまとなってはお訊ねすることもできません。うーむ。

(注1)司馬遼太郎さんの著作本はほとんど読みました。とりわけ紀行文『街道をゆく』シリーズが一番長かったのですが読破。『街道をゆく』読破のコツは、日本全国地図を買ってきて、登場した地名に印を付けながら読むことです。

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2005/01/16

(専門書拾い読み①)「たまんないんだよ」(『専修史学』37号)

 学術論文・雑誌には意外とおもしろいことが書いてあるものです。その幾つかをこれからご紹介しましょう。シリーズものにしたいと考えています。

 今回は『専修史学』37号「編集後記」から。執筆者「M・Aさん」は、雑誌をみればすぐわかることですが、同誌の「編集兼発行人」の任にある専修大学教授青木美智男さんでしょう。青木さんといえば、ずいぶん前にわたしの大会報告批判の労をとって頂いたり、本の執筆にお誘い頂いたりと、たいへんお世話になっている方です。
 この文章には青木さんらしさが文章に滲みでています。読んでみて下さい。

……大学院生からも論文の投稿があったが、内容が残念ながらもう一歩というところだった。次号に期待したい。そんな雰囲気が生まれつつある。歴史学専攻と言いながら、院生たちが、時代や地域を越えて研究しあうことがほとんどなかった。みんな一ゼミ内に閉じこもって小さな世界にうごめいている。そんな院生ばかりなのにうんざりしてきた。そしてこれじゃ看板倒れではないか、といつも怒鳴り散らしてきた。それが変わりつつある。何人かの博士後期課程の院生たちが中心になって、時代や地域を越えた研究会を組織し毎月月例会を開くようになった。フランス革命あり、近世村落史あり、ファシズムあり、……もっともこんな研究会の案内にそっぽを向き、我が道を行く院生もいる。いていいよ、本当に努力しているなら。しかし大半はそれほど大きく深く自分のテーマを探究しているわけでもない。何を考えているのかと思いたくなる。これからどう生きていくのか、なんて問うと、まあまあとか、えへらえへら笑って言葉を濁す。たまんないんだよ、そんな院生が多くて。これじゃ博論なんて、とてもとても。後発の大学院なんだよ。それでなくとも院生の就職はきびしい。二重の重荷を取り払わなければ展望がない。そんなとき、時代や地域を越えた歴史学専攻のメリットを生かし、グローバルな知識や歴史観をお互いに培いあい、他大学院の院生との違いを際立たせるのも、展望を開く一つの方法だ。文部科学省は今年度、大学院教育COEを募集するという。独自性ある豊かな大学院教育を育成するのに力を貸そうというわけだ。しっかりやろうよ。

 青木さんは「日本近世史の大家」といってもよい方ですが、いい意味で「大家」らしくなく、『専修史学』のバック・ナンバーを拝見するに、自ら率先して大学の陣頭指揮にたっているようです。
 ここで言及されているオーバー・ドクター問題は、いまに始まったはなしではありません。しかしこのごろは特にきびしくなりました。わたしもこのきびしく冷たい風にさらされているひとりです。わたしも何年か前は引用文にある「まあまあ」「えへらえへら」でした。しかし結婚して子どもができて、何かがかわったように思います。なんとかしようと必死にもがいているところです。博士の学位をとりましたし就職試験も幾つもうけています。それでも菲才、何ともなりません。ただ精進の毎日です。
 それにしても、この青木さんの文章の迫力はどうでしょう。学生にたいするむきだしの愛情が伝わってくるようです。専修大学の学生さんも、この幸せを噛みしめなくてはいけない。
 最近、『専修史学』の論文には、活気が漲っているような気がします。今後の専修大学の動向に注目したいと思います。

(付記)『専修史学』のエントリーを書いた矢先、専修大学文学部人文学科歴史学専攻教授新井勝紘さんのゼミのブログをみつけました。歴史系ブログリンクに入れておきました。
新井ゼミ活動ブログ
(2005.1.28 加筆す)

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2005/01/13

(史料)江戸時代の流行病―文久2年(1862)はしか大流行―

 最近「ノロウイルス」というウイルスが問題になっています。随分のんびりした名前ですが、恐ろしいウイルスなのだそうですね。犠牲者が出ているようで心配です。わたしの1歳になる息子も、先日それとよく似た名前のウイルスを何処からかもらってきたようですが、ご心配には及びません、すぐになおってしまいました。名前は似ていても症状の軽重があるようです。息子はまだ1歳ですから、何もわからず手当たり次第にくちに入れます。
 ともあれみなさんご注意を。

 それに因んで以下は江戸時代の流行病の話です。むかしは現在のように衛生環境もよくありませんから、流行病は瞬く間に蔓延したのです。
 国文学研究資料館史料館(高木俊輔担当)『史料叢書5 農民の日記』(名著出版)は、武蔵国多摩郡連光寺村(現、東京都多摩市連光寺)名主富沢家日記の翻刻本(くずし字を活字に直した本、活字史料)です。新選組の近藤勇等が出てきて、読んでいてたいへん面白いのですが、それはさておき。
 同書解説には言及されていませんが、文久2年(1862)6月から7月にかけての日記を読むと、はしかの病人がとりわけ多いことがわかります。これは文久2年「はしか大流行」の影響でしょう。以下に史料を引用します。

文久2年(1862)6月20日「今日さとはしかにて宿え引取」
文久2年(1862)6月25日「下女はしかニて下り同人母人代相勤」
文久2年(1862)6月晦日「亀女はしかにて休」
文久2年(1862)7月2日「慶蔵はしかニて昼後より休」
文久2年(1862)7月5日「昨日馬曳沢文太郎娘麻疹ニて江戸奉公先より死去致し」
文久2年(1862)7月20日「とな麻疹全快」

 その他、この連光寺村以外のある多摩郡のむらでも、7月上旬に死人の記事が続く日記が残っています。くわしくは史料に書いてありませんが、如何にも不自然なので、これも「はしか大流行」の影響だと思います。

文久2年(1862)7月3日「南組頭定右衛門病死」
文久2年(1862)7月4日「忠左衛門病死仕候」
文久2年(1862)7月4日「市郎右衛門定右衛門方御斎之酒酔死去」(先の定右衛門の病が感染したのではないか?)
文久2年(1862)7月6日「南庄右衛門娘江戸ニて死ス」

 ほかにも事例はありますが、とりあえず2事例のみとしておきます。このような史料は枚挙に暇がありません。また、引用した史料の2村とも、村で病除けの祈祷を行っています。むかしのひとの病気に対する観念も、重要な研究テーマなのです。このような、流行病の実態や人びとの対応を示す史料を、悉皆的に拾う仕事、どなたかおやりになりませんか? たぶん卒論等には面白いテーマだと思います。いま翻刻史料が多くなってきましたから、幾つかは簡単に拾えるでしょう。

 参考に、この時のはしか流行の様子を、「武江年表」(武蔵国江戸の年表)という史料、文久2年の項にみてみましょう(斎藤月岑著『増訂武江年表2』平凡社、1968)。江戸でも大流行して死人が多く出たようです。これにも7月と出ています。

夏の半ばより麻疹世に行はれ、七月の半ばに到りては弥(いよいよ)蔓延し、良賤男女この宿痾に罹らざる家なし。此の病、夙齢(としわか)の輩に多く、―天保七年の麻疹にかゝらざる輩なり―、強年の人には稀なり。凡そ男は軽く女は重し。それが中に、妊娠して命を全ふせるもの甚だ少し。産後もこれに亜(つ)ぐ。後に聞けば、二月の頃西洋の舶、崎陽(ながさき)に泊して此の病を伝へ、次第に京大坂に弘まり、三、四月の頃より行はれける由、江戸に肇まりしは小石川某寺の所化何がし二人、中国より江戸に来りし旅中に煩ひて、四月の頃病中寺内に入り、闔山の所化に伝染しけるが、夫より五月の末に至り少しく行はれ、六月の末よりは次第に熾にして、衆庶枕を並べて臥したり。

 江戸でいえば、江戸東京博物館にも文久2年当時の四谷塩町の人別帳が残っていて、それにもやはり、病人が急増している様子をみることができます。わたしはこの史料を実見したことがありますが、病人の記述の数の多さに驚き、その迫力にゾッとしたことがあります。

 一見無味乾燥な史料でも、意識しながら読みさえすれば、いろいろなことがみえてきます。時代小説よりも強い臨場感を味わうことができるのです。

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2005/01/10

(雑感)「学問サイト」はどうあるべきか

 このブログ名は「江戸時代研究の休み時間」ですが、書いている本人に「休み」感覚はありません。わざとやっていることとはいえ、題材や語り口も固く、駄文ながらも1エントリーを書きあげるたびに、やれやれといった感じです。もっとも充実感はあります。そして面白いからやっているのです。

 これを書くためにネットで勉強もしています。たとえば、当ブログ作成の参考として、普段から様々な研究者の方のサイトを拝見しています。どれも研究者離れした力作揃いで、そういった所謂「学問サイト」はいろいろなところで紹介され推奨されもし、数は少なくありません。
 しかし、わたしのみた限り、その「学問サイト」のほとんどは、その学問分野にある程度知識がないと、理解できないものです。初心者にもとっつきやすいものが少ないと感じました。もちろん、それがわるいというわけではなく、おそらく研究者仲間・学生では重宝されるだろうし、「門外漢にはムツカシイということがわかる」ということ自体、門外漢にとって、ひとつの知的収穫かもしれない。しかし、さらに欲をかくならば、初心者をもっと意識したサイトづくりを心掛ければ、世間的認知もより広まるし、つくった意義も深まるし、ひととの交流も活発になって、新しい発見もあるのではないか、と感じます。それは当ブログにおいても心しなければならないことです。

 この問題は学問のありかた自体の問題でもあるかもしれません。
 わたし自身いままでは(いまでも)学会人間です。学会に出て興味深い発表を聞いて、自分でも発表をしますし、学会の運営にまで深く関わってきました。その仲間うちでは「これは重要な問題だぞ」と興奮をし議論を深めたものでした。もちろん、学会に出なくとも学問はできますが、学会は自分にとって重要な契機付けを与えてくれる場で、いまの自分をかたちづくった重要な要素だといえます。
 一方、この学会というのがある意味「くせ者」で、心の何処かに「これではいけない」と思っている自分もいました。……学会はたしかに重要なんだけど、何か大切なことを見落としてはいないだろうか? 学会の仲間はほんの少数の研究者で、研究会のお客さんも研究者で、発行する雑誌の読者も研究者。この学会活動とともに、もっとひろい世間をも相手にしていかないと、「井戸の中の蛙」になってしまうのではないか? と。ずいぶん前から、その「ひろい世間をも相手にする」試みとして、ネットはとても重要な手段だと考えていました。それでこのブログを立ち上げてみたわけです。だからこの場では、自分の研究等について、わかりやすく明快に語ろうと心がけています。
 しかし、当ブログがその試みに耐えうる資格があるかというと、なかなか心細い感があります。作成者であるわたしも、ちょっとのことしか知らない未熟者で、とても専門家面して歴史研究者を代表して発言することなどできません。もうちょっと仲間を増やさないいけない、と考える今日この頃です。ただ、学会での飲み会では、世の中と学問との関係について、熱く勇ましい発言をなさる方が多いので、さほど悲観はしていません。

 それで最近、小林信也(こばやし・しんや)さんに、ブログの作成をおすすめしました。そして実際開設なさっています(歴史系ブログ一覧参照)。「思い立ったらすぐ実行」という態度は快いばかりです。
 小林さんはわたしにとって職場の同僚で、研究の大先輩でもあります。東京大学で博士(文学)号をとり、最近その博士論文を『江戸の民衆世界と近代化』(山川出版社)にまとめられました。有名学術雑誌にも投稿してきた、ある意味〝アカデミックな世界の王道〟を歩いてきたひとです(ご本人はこれに対してどういうかはわかりませんが)。こういうひとがブログをやると、どういうことを発言するのか、個人的には非常に興味のあるところです。そして、小林さんのブログの題名「江戸をよむ東京をあるく」は、フィールド・ワークや現在おこっている問題を重視しながら歴史を考えるという、ご自身の学問スタイルを表現した言葉でもあります。こういう方だからこそ語ることのできることがある筈です。
 すこし拝見したところ、題材の選び方や語り口も(わたしよりも)くだけていておもしろいし、趣味の話もお入れになっているところがよい。歴史に関係のない方にとっても、とっつきやすいブログになると期待しています。

(付記)当ブログ「江戸時代研究の休み時間」が、「ココログ 木村剛モノログ横町 トラックバック井戸端会議 まとめ、殿堂入りモノ」に殿堂入りしました。木村剛さんありがとうございました。

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2005/01/07

(雑感)研究人がネットで実名を名乗るとき

 わたしは、このブログ「江戸時代の休み時間」を、実名「高尾善希」として書いています。実名ばかりでなく、写真も履歴も職歴も論文名も、全て公開しています。公開していないのは、家族の氏名や年齢、あるいは住所・電話番号くらいでしょう。ネットでは「実名を晒す」という表現があるくらいで(この場合は「自分の意図によらず他人から実名を暴露されること」をさします)、あまりいいイメージはありません。だから「(実名で書くなんて)勇気がありますね」といわれます。たしかに、文系の研究人としてはかなり変則的・大胆な行為で、道の真ん中で裸で寝ころんでいるようにみえます。
 しかし、実際のところは、実名にしろ匿名にしろ、どちらにしても得失はありましょう。ネットの玄人のかたにいわせると、「実名か匿名かというよりも、書く内容による」のだそうで、たとえ匿名でも、ひとから恨まれるような過激な書き方であれば、トラブルに巻き込まれやすくなるのだそうです。たしかに、総務省によるネット・トラブルの調査によれば、実名よりも匿名のほうがトラブルが多いのだそうです。これは意味深な結果です。ちなみにアメリカでは、ネットでも新聞でも実名で書くことは珍しくないようです。それに従ったわけではありませんが、あえてここでは実名で書くことを選択しました(注1)

 わたしがこう思うのは「ネット初心者」だからなのもしれませんが、……いまここでわたしがやっていることは、雑誌に気軽なエッセイを書くことと何ら変わりはなく、単に、使われる媒体が紙かデジタルデータかの違いがあるだけです。たしかに、ひとの目に触れる機会は、デジタルデータの方があるかもしれませんが、不特定多数のひとに文章を公開するという基本的な要素は雑誌と同じです(ただ、雑誌に文章を載せるには、入稿してゲラにし、ゲラ稿にあかを加え、何稿かをくりかえします。しかしネットならばその面倒はない。自分がみつけた史料や突然に思いついたこと等を、すぐに書いてゆくことができます。書いたあとでも、間違いに気がつけば、簡単に訂正することができる。雑誌ならそうはいきません、ゲラ稿であかを入れそこなったらおしまいです)。
 雑誌に投稿するのだって、実名なんだから、ネットで文章を公開するのも、やはり実名です。

 実名で書いていますから、全責任は自分にあり、その緊張のうえで記述します。だから、流行の匿名掲示板のような記述形式・内容にはなりえません。わたしの場合ちょっとオーバーで、―お気づきになったかたもあるかもしれませんが―、わたしの文章は、一貫して「です・ます」調、ネット特有の「顔文字」さえ、一切使用していません。もっとも、ここまでやる必要はないかもしれませんが。
 その一方で匿名には匿名の価値があります。わたしも匿名掲示板に大きな価値を認めています。しかし、匿名掲示板には幾つかの難点がある、と思います。それは、誹謗中傷が多くなることや、情報の信用性の有無が閲覧者に判定できない等です。後者、信頼性の判定の問題は重大です。厖大な匿名の書き込みの中にも、―匿名であるがゆえの―、重大な情報が書かれているかもしれないのに(たとえばタレコミ情報等)、―匿名であるがゆえに―、ニュース・ソースをちゃんと把握できない。隔靴掻痒の感がなくはありません。
 有効な人的交流を目的とし、かつ、「まじめな文章を書く」という、このブログの使用目的から鑑みれば、そのニュース・ソースを明示したほうがよい、つまり、わたしの実名・履歴等を明らかにした方がよいのではないか、と考えました。理系の研究者にとって実名公開は珍しくもないけど、特に文系のひとにとっては、コロンブスの卵で、意外とおもしろいんじゃないないか、と思ったのです。

 さきに、実名でも匿名でも危険な場合は危険だといいましたが、それでも、実名であるが故の危険性は常にあって、危険がゼロにはなりえないことは充分認識しています。例えば、家にいるよりも外で歩いている方が危険であるのと同じように、実名でぶらぶらしているわけですから、何らかのトラブルに巻き込まれる危険をなしとはしません。家に籠もってなにもしていないのが一番安全です。また、文系の方々が、ネット実名公開について、どのようなイメージをもっているのかも、気になります。「はしたない行為だ」等と思われていないかどうか。それに対しては、まあ、読んで下さい、というしかありません。
 しかし、この危険性・危惧をのりこえて、ここでは何か大きなものを得ることができると考えています。それが何なのかわたしにもよくわかりません。ただ現時点では、―詳しくは書けませんが―、このブログのお陰で、驚くほど人脈が広がりましたし、自分の研究意欲向上にも益があります。

(注1)人文研究者でも実名でブログを運営していらっしゃる方もいます(たとえば欄外「歴史系ブログ一覧」参照)。なおネットにおける実名・匿名問題については下記ブログが参考になります。津村ゆかりさん「技術系サラリーマンの交差点」カテゴリー「匿名・実名」 木村剛さん「週刊!木村剛」「匿名の人はコミュニティを壊す権利を持っているのか?」。トラックバック先もあわせて参照して下さい。

※このエントリーの転載、どうぞご自由に。

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2005/01/04

(酉年)闘鶏と博徒―よみがえる幕末博徒の生活―

 今年は酉年だから鳥に因んだ話題をひとつ。正月早々物騒ですが、幕末の博徒のはなしです。

 幕末の頃、武蔵国多摩郡小川村(現・東京都小平市小川)という土地に、近隣に名の轟く博徒がいました。本名を小山幸蔵といい渡世名(博徒としての名前)を「小川の幸蔵」といいます。手前味噌で恐縮ですが、彼の伝記は拙稿「博徒『小川の幸蔵』とその時代―史実の『小川の幸蔵』からみる幕末博徒―」(北原進編『近世における地域支配と文化』大河書房)に纏まっています。
 子分50人を擁する親分で、何百人という武州一揆の攻撃をくいとめた豪傑でした。ほかにも強請り・喧嘩等々、ずいぶんと大暴れした形跡があり、いまでも彼に関する口碑が土地に残っています。小川の小川寺には、明治時代に建てられた彼の顕彰碑が建っています。わたしは、前述の論文を書くため、彼に関する史料を随分追っかけました。

 その幸蔵を調べていて、おもしろい史料に出会いました。紙幅の関係で前述の論文には漏れてしまった史料です。勿体ないのでここに記します。
 それは伊藤小作『郷土夜話』その一(私家版、1961)「竹松おこうさんの想い出話」です。この冊子は小平市中央図書館で見出したものですが、私家版であまり知られていないものですから、ここで紹介する価値はあるでしょう。「竹松おこう」とは幸蔵の養子秀吉の嫁のことです。おこうに関しては、わたしのフィールド調査で、彼女の名前の刻まれた墓を見出すことができましたから、その実在を確かめることができます。彼女による幸蔵についての証言をみてみましょう。以下に引用します。

(竹松おこうの証言)「……私の主人の父からきいた話ですが、そうですネ、幸蔵は未年ですから生きていれば百才以上でしよう。名主の弥市郎さんに使われて草刈り等をしたりしました。草刈りをしても自分はろくに刈らないで、人にやらせる。当時こんな謎がありましたよ、幸蔵はそれでも蔵持ちだつたが『幸蔵親分の蔵とかけて何と解く』『さむらいの腰のものと解く』『心は』『心はさわればきれる』というわけで、幸蔵の蔵の壁土は落ち竹の骨があらわになつて縄がでている。それにさわると縄がきれる………というのだそうです。幸蔵の家は小川四番の通りにあつた。遊び人というか、侠客というか、ばくちが好きで、闘鶏、闘犬までさかんにやつたらしい。」「すい瓜畑にむしろを十何枚もしいて、そこでばくちをやるのです。着物をきていたので胸元のふところからシヤモが首を出している。そんな男が方々から集つて、夢中になつて鶏にけんかをさせるのです。夜つゆにぬれてからだがひえるから、ばくち打は長生きしないといつたものです」「ばくちが大流行で困つたものでしたが、別に何もたのしみのない時代のことで、仕方がなかつたのでしよう」(中略)竹松おこうさんの義父秀吉さんが幸蔵に所望されてその娘さん(もらい子らしい)にめあわされ養子となつて聟入りした。此の人は謹厳でばくちは一切やらなかつたが、身を粉にして働いた。雪の中を使い走りをしたため膝おうにかかり、着物のすそがあたつても痛んだ、とうとうびつこになつてしまつて、実家に帰つて来た。」

 何と生々しい内容であることか! 短文ではありますが、他史料にみられない幸蔵の日常生活がいきいきと描かれています。特に「幸蔵の蔵とかけて」という謎掛けはおもしろい。わたしも読んでいて思わずドキドキ……。幕末博徒の生活とはこんなふうだったのですね。地方(ぢかた)史料のくずし字ばかり睨んでるだけじゃダメなのです。

 なお、幸蔵が好きだった闘鶏については、他史料でも確認できます。たとえば、小川村近隣の多摩郡蔵敷村の史料「御取締向留」(神奈川県立公文書館CH本)慶応2年(1866)2月25日関東取締出役廻状に、

近頃鶏為蹴合候会日を相定、所々より寄集勝負ニ寄、多分之金銭取引いたし候儀を能事ニ相心得、是迄度々触達置候儀を相背、横行ニ賭事いたし候由相聞以之外、

 とあります。したがって、幕末の関東村落において、闘鶏はかなり流行していたのではないか、と推測できます。先日、埼玉県所沢市の林という在所における聞き取りで、「むかしは闘鶏博奕をよくやっていて、闘鶏を飼ってる家も何軒かあったよ」という古老の証言を得ました。

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2005/01/01

(雑感)雪つもる元旦に思うこと―戦後60年を経て―

 みなさま、あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願い申し上げます。珍しく雪つもる年明けとなりました。きのう大晦日は子どもと雪で遊びました。

 さて、2005年になる今年は、アジア・太平洋戦争(以下「戦争」)戦後60年にあたります。ちなみに、わたしの父が昭和20年(1945)の生まれだから、彼の歳を数えれば、戦後何年かがわかるようになっています。父は今年で暦が還りました。わたしも歳を喰う筈です。
 古文書を探しに現地調査をすると、ご老人方のいろいろな貴重なお話に接することができます。調査する当方の目的は、もちろん主に江戸時代の話や史料なのですが、昔の話題といえば、どうしても戦争の話が出てきます。今まで江戸時代の話をしていたとしても、すぐに話が脱線して戦争の話になってしまう。「いやあ、あのときは大変な時代だったんだよ」。お聞きする当方も、―主目的の江戸時代の話は措いて―、その戦争の話にしばし耳を傾ける。自分のおじいさん・おばあさんから聞いた、おとぎ話のような遠い昔の江戸時代の話よりも、自分が経験した戦争の話を聞いて貰いたい、そんな心持ちが伝わってくるような気がします。
 わたしの大叔父は陸軍士官学校の学生として終戦を迎えました。まだまだお元気なので、去年、戦前・戦中・戦後の体験をお聞きし、それを録音テープにとらせて頂きました。「主観的な感想も交えてください、むしろそれが聞きたいのです」という不躾な注文に快諾して頂きました。とても興味深いお話で、後世に残す価値があると感じました。よいことをしました。
 終戦の年に20歳だった方ももう80歳です。そろそろ戦争中の貴重な記憶も消え失せようとしています。そこで、日本全国規模で各都道府県毎に、「戦争の記憶」録音調査のようなことを行ってはどうでしょう(思い切って途方もない予算を使って!)。神社仏閣・古文書だけが文化財でなく、ご老人たちの戦争の記憶も大切な生きた文化財です。国家的プロジェクトで、何億使っても勿体なくない事業だと思うのです。役に立たない道路よりも、ずっと役に立って長持ちする〝道路〟になる筈です。

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