(発見)幕末巣鴨町の住宅地図 ~「先祖が巣鴨町に住んでいました」という方、ご連絡を~
わたしは、―勤めている職場(東京都公文書館)が職場ですので―、江戸関係の史料を渉猟することが多くなりました。そんななか、ちょっとした発見がありました。現・東京都豊島区巣鴨地域の町人地部分を示した幕末の住宅地図の発見です。時期は文久元年(1861)、「旧幕府引継書」という公文書群の中にありました。「旧幕府引継書」は国立国会図書館等でだれでも閲覧することのできる史料ですが、意外なところにあるため、いままでみつけることができなかったのでしょう。
江戸の住宅情報については、武家地なら、誰が何処に住んでいるかを江戸の切絵図等で容易に知ることができます。しかし、庶民の住んでいた町屋については情報量が極端に少なく、ほとんどわからないといっても過言ではありません。今回発見した巣鴨の住宅地図は、中山道沿いの町屋部分を中心に記しているため貴重だといえます。
絵図にみえる町屋軒数は、「京都方」(板橋宿側)に向かって左側180軒・右側58軒(途中武家地)、合計238軒(うち空家10軒)です。家ごとの居住者・所持関係(××店・××地借等)・職業が記してあります。これをはじめてみたとき「ウワー、すごいなー、こんな史料があるのか」と驚きでした。そのうえ、この巣鴨地域、発掘調査が盛んな地域なのです(優秀な報告書が多数で出ています)。だから早速、豊島区遺跡調査会に持ち込みました。近世考古学のひとが特に面白がってくれる筈だと思ったからです。
現在この史料の詳細は、調査会のみなさんの協力を得て調査中です(東京都公文書館の勤務がおわったあと、巣鴨の夜間の発掘現場にも見学に通っていました)。史料のほんの一部については、最近発刊された巣鴨商店街のタウン・ページ『巣鴨百選 2004年12月号』(巣鴨百選編集部、定価200円)、拙稿「新発見史料の巣鴨絵図、ちょっとだけご紹介」でご紹介しています。今後他にもご紹介する予定です。この史料を巣鴨の町おこし等に使って頂ければ幸いです。
なお、この絵図中238軒のうち、子孫の方を何軒か特定できております。このブログを閲覧されている方のなかで、「わたしの先祖、幕末に巣鴨町に住んでいました」という方、わたしに是非ご連絡ください! (くもをつかむような話ですが……、言わないよりはましでしょう)。
以下に、『巣鴨百選 2004年12月号』の拙稿、冒頭部分を引用しておきます。
ナゾの町人地
みなさんは、テレビやテーマパークなどで、よく江戸の町人地の様子をご覧になることと思います。米屋・呉服屋・料理屋・魚屋……、賑やかで活気あふれた江戸の町。タイム・マシンがあったら、ちょっとは覗いてみたいものです。
でも、意外に思われるかもしれませんが、江戸の町人地の景観というのは、ナゾが少なくありません。たとえば、江戸の切絵図をみますと、武家地の部分は、大名・旗本の名前が書き込まれ、相当細かく判明していますが、一方町人地の部分は、「××町」と町の名前が書かれているだけで、人の名前などは書いてありません。残念ながらわが巣鴨町も同様なのです。しかし、最近の考古学の発掘調査によって、江戸町人の生活ぶりが、だいぶわかってきました。
巣鴨町の町並みは、ほんとうに古文書の記録で、裏付けることができないのでしょうか? 豊島区遺跡調査会のような発掘チームばかりではなく、わたしたち古文書読みチームも、遅ればせながら頑張らねばならないところです。……(以下略)……
なお文章中に掲載した表で「空家」とある箇所は、実際の史料では「明屋」と記してあります。読者にわかりやすくするため、このような表記にしました。また「町人地」という言い方も厳密には正しくないようです。これらは後稿にて。
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コメント
はじめまして。
江戸初期から幕末・大正まで先祖が巣鴨・愛宕・琴平町・北青山・三光町にすんでおりました。ある屋敷門についての住所や特徴から、先祖のものではないかと、あらためて、明治生まれの祖母の謄本を見直すと、家督を継いだ祖母・その前の家督の祖母のお兄さんが巣鴨1丁目に住んでいたことがわかりました。色々と、父や親せきから、先祖について聞かされておりましたが、先祖の辿ってきた歴史も複雑であり、江戸の頃の身分も複雑のため、江戸の古地図は名前などで、先祖の居住地などがどれなのか全くわかりませんでした。
ぜひ、お伺いできればと、願っております。
投稿: よっしー | 2016/01/12 21:33