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2004/12/19

(忠臣蔵)浅野内匠頭刃傷事件―内匠頭、その胸中には?―

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城の松之大廊下にて、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に突然刃傷に及ぶ。これが赤穂事件の発端で忠臣蔵で最初の名場面です。
 今年は忠臣蔵のテレビドラマが流行りでしたが、一体今までに幾つの忠臣蔵のテレビドラマがつくられたのでしょう。概ねどれも講談本が下敷きにされていますから、ドラマ同士で台詞が一致してしまうことさえ珍しくありません。

 テレビドラマの松之大廊下の場面では、内匠頭は大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照に羽交い締めにされ、「家族も捨て領地も捨てての刃傷で御座る、武士の情け、せめてもう一太刀を」と必死に梶川に懇願するというのが普通です。ところが意外なことに史料上の内匠頭はそのようなことは発言していません。史料上の内匠頭の発言は以下の通り。

拙者儀も五万石之城主にて御座候。乍去御場所柄不憚之段は、重々恐入奉存候得共、官服を着候もの、無体之御組留にては官服を乱し(候)。(「多門伝八郎覚書」石井紫郎校注『日本思想大系27 近世武家思想』岩波書店、1974)
 ここでは「わたしも五万石の城主である、官服を乱すから離してほしい」と懇願していることがわかります。家族も捨て領地も捨てたこの期に及び、なんと彼は服の乱れに気をとられています。刃傷の原因として乱心説がありますが、この奇妙な発言は彼の乱心の証左なのでしょうか?

 この奇妙な発言は、―現代人からみてどんなに奇妙であったとしても―、当時の武家社会における常識の範囲内で理解できます。内匠頭の発言内容を説明すると、……内匠頭は「五万石の城主」の資格をもって「五位の諸大夫」の官職が与えられ、それゆえに殿中で「大紋」の官服を着る資格をもつ、したがって「大紋」の官服は彼の格式を表す大切な衣服であって、ここで「大紋」の官服を乱されることは、彼本人のみならず、播州浅野家そのものを乱されることにも等しい、だから彼は「大紋」の乱れを恥辱に感じる、ということでしょう。
 ここから内匠頭の格式意識への執着を看取することができるのではないでしょうか。たかが衣服ではなかったのでしょう。命より名誉を重んじる意識は当時の武家社会に珍しくありませんでした。
 ちなみに、梶川に離してもらった内匠頭、「大紋」の乱れを直すと、やっとほっとしたのか、

殊之外内匠頭歓被申「多門伝八郎覚書」(同上文献)
 たいへん喜んだといいます。やはり彼にとって「大紋」の乱れは大問題だったようです。

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コメント

お久しぶりです、弓木です。
梶川与惚兵衛といえば、なんと講談では、四十七士のひとり大石瀬左衛門に斬り殺されちゃっていますよね。「よくもウチの殿様を邪魔しおって」という、どう見ても逆恨み。『忠臣蔵』派生伝説は驚くほどたくさんあるけど、僕は子供の頃それらを読んで、『忠臣蔵』が大嫌いになりました。
早くも太宰春台は、「浅野殿を殺したのは将軍である。将軍に文句があるなら赤穂城に立て籠もって切腹でもすべきものを、事件犠牲者の吉良侯を襲うとは、筋違い甚だしい」と怒ってました。
将軍綱吉は強烈な独裁者で、世の怨嗟を集めていたが、そのストレスが「弱者」の吉良侯殺しで晴らされたというのは、いかにもイジメ社会の日本的で、すっきりしないと感じます。

投稿: 弓木 | 2004/12/19 20:28

 浅野と吉良の間に何があったのか、史料は沈黙しています。いろいろ説はありますが、決め手はありません。
 ただ、当時の武家社会というのは、ちょっとのことでも恥辱に感じる難しい社会なんだと思います。ここで述べた「大紋」の話もその一例です。武士道というとロマンチックに語られがちですが、堅苦しくて息苦しい世界だったのではないでしょうか。
 大河ドラマで取り上げられた新選組にしても、考えてみれば、あんな恐ろしいところはありません。現代人の観念との距離感があります。

投稿: 高尾 | 2004/12/19 21:34

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