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2004/12/31

(行事)続・歴史の中の御用納

 前回のエントリーでは、江戸町奉行所与力佐久間長敬(おさひろ)の証言によって、町奉行所の御用納が12月25日であったことを確認しました。いまは12月28日ですが、3日違うわけですね。

 しかしそれにしても、町奉行所では何故12月25日を御用納としたのでしょうか? そのはっきりとした答えは出すことができませんが、民間にあった年忘れという慣習に着目していいかもしれません。それは12月25日を区切りとし、同日から親戚知音を集めて接待するというものでした。そのことは「風俗画報」12号の記事にあります。

二十八日は各官省一年の政務を畢へ官人は各所の料理店会席等に会して忘年会を開く、又民間にてもこれを行ふ(高尾注、明治6年<1873>以降御用納は12月28日、民間もそれに倣ったことがわかる)、昔は別歳(としわすれ)とて二十五日頃より以後親戚知音を会して饗応することありき、
「風俗画報」12号(明治23年<1890>1月10日、東陽堂発行)

 「昔」つまり江戸時代の話として、別歳(としわすれ)という慣例があったとし、「二十五日より以後…饗応する」とあるから、前述における町奉行所の役人たちによる「御用納の大祝」と、かたちがよく似ています(『江戸町奉行事蹟問答』)。したがって、この年忘れと御用納との関連性は見逃せません。

 さて、次に近代の御用納の事例を追ってみましょう。明治2年(1869)12月の東京府の文書を繙くと、古い御用納の記述をみつけることができます。

当暮御用納并来春御用始日限之儀、未御治定不相成旨御挨拶之趣も有之候処、当府丈(だけ)は御治定不相成候(虫喰「ては」)目安裏可差支可申候間、
一、十二月廿五日 御用納
(中略)
一、正月十二日 御用始
右之通御取決取置、(後略)
  巳(明治2年)十二月
(「御用留」605―B7―3、東京都公文書館所蔵)

 これをみると、①御用納・御用始の期日については、太政官から正式に「治定」(決定)していない旨の返答があった、しかし訴訟取り扱い事務(目安裏)(注1)に差し支えが出るため、とりあえず東京府だけの規定を決めたい、②御用納を12月25日、御用始を正月12日に決めた、としています。この文書のあと「旧幕之節 御用納 十二月廿五日」というメモがあることから、このときの御用納12月25日決定には、旧幕時代つまり江戸時代の慣例を踏襲するという意味があったことがうかがえます。これが近代で一番古い御用納の記述のひとつです。
 そのあと明治6年(1873)、太政官は12月28日を御用納とする規定をし、それ以降現在に至るまで、12月28日を御用納としています。

(注1)めやすうらがき(目安裏書)江戸時代、公事出入(くじでいり)につき、訴訟人(原告)の提出した目安(訴状)に、受訴奉行が加える裏書のこと。(『日本国語大辞典』)。明治時代の東京府が、この目安裏の処理のために、太政官に先駆けて御用納の期日を決めたという事実はたいへん興味深いものがある。

(付記)さて今年も暮れようとしています。当ブログははじめて約3ヶ月ですが、お陰様ではやアクセス数も3600を越しております。本年当ブログをご愛顧頂いたみなさま方に、この場にてあつくお礼を申し上げます。来る酉年はみなさまにとって幸多き年となりますように。

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2004/12/28

(行事)歴史の中の御用納

 きょう12月28日は御用納の日です。この日にすべての仕事が終わるとほっとしますね。そこでここでは、歴史の中の御用納について、わたしが調べたところを述べてみます。
 御用納を辞典でひくと以下のように出てきます。

○ごようおさめ[御用納]諸官庁で、十二月二十八日、その年の執務をやめること。『広辞苑』 
○ごようおさめ[御用納]諸官庁において、一二月二八日に、その年の年内の事務を終わりにすること。『日本国語大辞典』

 この御用納という言葉は江戸時代にもあります。というよりも江戸時代の言葉を引き継いで、現代も使われているのかもしれません。
 御用納の「御用」とは公用のことをさし、「納」とは物事に区切りをつけることをさすと思われます。公用に区切りをつけてその事務を一端終わりにする、の意でしょうか。前近代では一般的にどのように使われたのか、上記のように辞典にも用例がないため、よくわかりません。おそらく「御用」というのですから役所用語だったのでしょう。
 その証拠に、江戸の町奉行所の関係史料には御用納の語がみえます。江戸の町奉行所の与力を長くつとめた佐久間長敬(おさひろ)の回顧記録、佐久間長敬・南和男校注『江戸町奉行事蹟問答』(人物往来社、昭和42年)を繙くと、同じく町奉行所の役人であった、彼の祖父の時代のことが描かれています。そこに御用納の記述があります。

天保改革は老中水野越前守(忠邦)、町奉行北は鍋島内匠頭(直孝)、南は鳥居甲斐守(忠耀)の頃にて、其以前を流弊中と唱て、上ば将軍文恭院殿(家斉)存命中泰平の余徳にて、下々小役人に至るまで無事平安にて、余の祖父の如きも三十年間吟味方を勤め、毎日昼の十二時に役所に出て午後三時には掃宅せしと云。公用も少く気随気侭にて日を送りし由。昔語りの耳に残りしは、毎日酒宴と遊興のことのみなり。毎年十二月廿五日御用納めとなり、正月十七日公用まで昼夜の酒宴にて、十二月廿五日は御用納の大祝と唱、同役・下役交際の面々何人と云限りも来客にて、夫より引続き歳忘れと唱、大晦日まで飲み明し候由。(同書、111頁・112頁)

 ここでは、天保改革以前の将軍家斉のころの話として、①「御用納」が12月25日であったこと、②その日は「御用納の大祝」と唱えたこと、③その日から大晦日まで、町奉行所の与力たちが同僚・下役たち交えて呑みあかしたこと、などがわかります。
 また、おなじく佐久間の回顧録が、東京都公文書館に所蔵されています(『佐久間氏雑稿』江戸市政録二[CH182]「奉行所年中行事」)。

十二月二十五日御用納、此日与力・同心の係、黜陟及賞与あり、同心は奉行の命により年番与力これを申渡す、この日より諸役之休ミ、当番は例の通、(※黜陟(ちゅっちょく) 功績のある者を昇格し、功績の無い者を降格すること。「黜」は、下げ退けること。「陟」は、上り進めること。書経・舜典)

 これにもやはり、先と同じように、12月25日が御用納であったことが記され、制度的には、人事の昇降・賞与を行う日であったとされています(注1)
 以上このふたつの記事によって、①江戸町奉行所内で現在と同じ御用納という語が使われていたこと、②江戸町奉行所の御用納は12月25日で、人事処理があったり、(天保改革以前には)「大祝」と称する役人たちの宴会があったことがわかります。宴会をおこなう風景は、いまと同じなのですね。
 この続きは大晦日にて。

(注1)実は町名主斎藤月岑のご褒美を頂く日も12月25日なのです(斎藤月岑日記による)。もしかしたら「賞与」は奉行所の役人だけではなかったのかもしれません。

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2004/12/25

(山の風景)富士山山頂のはなし

 年末年始の雲のすくないあかるい空に、富士山の姿はよく映えます。先日、富士山の山頂が国有地から浅間大社の所有地になったのだそうです。同地は、徳川家康の寄進以来、浅間大社の持ち物であるべきはずと、裁判で認められたからです。この時世、裁判・行政の世界で、大まじめに「徳川家康」が引っ張り出されるのは、あまりにも稀なことで、たいへんな驚きです。以下に「毎日新聞」の記事を引用しておきます。

富士山家康寄進の地、ようやく浅間大社へ-山頂部の土地、無償で- 富士山頂部の385万平方メートル-最高裁判決から30年経て- 徳川家康が富士山本宮浅間大社(渡辺新宮司、静岡県富士宮市)に寄進したとされる富士山8合目以上の国有地約385万平方メートルが、大社側に無償で譲り渡されることになり、財務省東海財務局と同大社が17日、譲与に関する文書を交わした。大社側が譲渡を求めた訴訟で30年前に勝訴していたが、静岡・山梨県境が画定していないためこれまで見送られていた。同財務局は「大社側からの要請もあり、いつまでも放置できないので手続きを取った」と話している(「毎日新聞」2004年12月18日東京朝刊)。

 ところで、江戸時代のひとが書く富士山頂は、見た目よりだいぶデフォルメして描いてあります。太宰治の小説『富嶽百景』の冒頭に、そのことの指摘があります。

富士の頂角、広重の富士は八十五度、文晁の富士も八十四度くらい、けれども、陸軍の実測図のよって東西及南北に断面図を作ってみると、東西縦断は、頂角、百二十四度になり、南北は百十七度である。(太宰治『富嶽百景』)

 頂角を鋭くするのは、塔のように高く描いてやろう、という意図なのでしょう。それでも、あまりに細長い富士というのは、途中からぽっきり折れてしまいそうで、どうも気持ちがわるい。ちなみに太宰のいう「広重の富士は八十五度」とは、例の「五十三次」に描かれた富士のことでしょう。それでも、いろいろ確かめてみると、広重は構図によって富士の頂角を使い分けているようです。
 そのてん、このあいだ江戸東京博物館で公開された、日本橋繁昌絵巻「熈代勝覧」(注1)に描かれた富士は、わたしが正確にはかってみたところ、120度程で、頂角はとても写実的であることがわかりました。ただしこの「熈代勝覧」の富士は、あきらかに富士を大きく描きすぎています。つまり、頂角は正しくとも大きさはデフォルメされている、というわけです。

(注1)「熈代勝覧」は、文化年間の江戸日本橋の様子を、今までになく詳細に描いた絵巻です。ご覧になったことのある方は多いでしょう。ご覧になっていない方は、浅野秀剛・吉田伸之編『大江戸日本橋絵巻「熈代勝覧」の世界』(講談社、2003)をご覧ください。

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2004/12/23

(書籍)竹内誠監修・大石学編『都市江戸への研究視座』(名著出版)

 またもやわたし・身内の宣伝になってしまい、申し訳ございません。きょう、竹内誠監修・大石学編『都市江戸への研究視座―大江戸八百八町展・武家拝領地・江戸首都論―』(名著出版、定価3200円+税)が自宅に届きました。拙稿も所収されており「江戸東京博物館企画展示『大江戸八百八町展』をめぐって」です(53~68頁)。その内容の一部を、このブログ内でご紹介したことがあります。
 この本は、2003年2月7日江戸東京博物館で開催された東京学芸大学・立正大学合同研究会での成果を中心にして、両大学関係者によって1冊にまとめられました。諸般の事情により、その研究会からずいぶん日が経っての刊行とはなりましたが、江戸研究のそして竹内・大石門下の記念碑として、意義深い一冊になったのではないか、と思います。監修者の竹内誠先生・編者の大石学さん・事務局担当の細野健太郎さん・名著出版平裕治さんに、あつくお礼を申し上げます。
 コンテンツは以下の通り。どれも力作ばかりです。

監修のことば(竹内誠) はじめに(大石学) 第1章「大江戸八百八町展」をめぐって (1)巨大都市江戸における交換と消費―『大江戸八百八町』展と都市史研究の接点―(市川寛明) (2)コメント江戸東京博物館企画展示「大江戸八百八町展」―江戸観へのまなざし―(高尾善希) 第2章「武家拝領地」をめぐって (1)幕臣所持屋敷の画期と諸相(渡辺絵里子) (2)江戸幕府の拝領武家屋敷下賜の実態(山端穂) 第3章「江戸首都論」をめぐって (1)「江戸首都論」と「江戸時代論」(大石学) (2)方法論としての「江戸首都論」をめぐって―大石学著『首都江戸の誕生』に寄せて―(細野健太郎) (3)討論 第4章 都市江戸をめぐる考察 (1)徳川政権の「首都」と天皇(野村玄) (2)加賀藩牛米邸上地一件―明暦期における江戸の屋敷地再編― (3)東京における首都官僚組織の再生過程―官員録・官員全書の分析から―(三野行徳) 第5章 講演 江戸開府四〇〇年を迎えて―江戸東京博物館の理念―(竹内誠) あとがき(細野健太郎)

 市川寛明さんの経済道徳論は刺激的でした。これについてはいつかわたしも言及してみたいと思っています。
 拙稿は、題名通り、大入りだった江戸東京博物館企画展示「大江戸八百八町展」のコメントです。実はわたし、アルバイトで、ちょこっとだけお手伝いをしています(図録にも後ろに名前が載っています)。その縁でなのか大石学さんにコメントを頼まれ、3ヶ月位の急ぎ仕事で完成させました。以下は拙稿の書き出し部分。

東京学芸大学の大石学さんから、「大江戸八百八町展」の展示評を喋って欲しい、という突然のお申し付けを頂いたのは、たしか去年の一一月頃であったかと思う。わたしは、短期間の博物館調査員等の仕事以外に博物館勤務の経験がなく、そのうえ―江戸に関心がないわけではないが―「江戸研究者」でもない。確かに少しだけ近世史の端っこ(村落史)を囓っているし、展示担当学芸員の市川寛明さんの下働きをさせて頂いたが、それ以外には批評する資格に乏しく、少し戸惑いを感じた。しかし、せっかくお話を頂いたことでもあるし、また乏しいながら自分の考えをまとめるいい機会になるかもしれないと考えたため、ありがたくお引き受けすることにした。もし、博物館に疎いわたしに、このシンポジウムで果たせることがあるとすれば、展示評というよりも、展示内容に関するコメントを披瀝しながら、江戸に関する展示・研究の展望等を示すということだろうと思う。まことに勝手ながら、この場はそのような内容にさせて頂き、わたしなりに重たい責を塞ぎたいと考える。何卒ご海容頂きたい。
「はじめに」より

(付記)同書「討論」においてわたしは「関西出身」ということになっていますが、正しくは千葉県、関東出身なのです。ちなみにわたしの両親が三重県四日市市の出身です。

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2004/12/22

(記念)8年前の卒業論文、やっと出る

 先日『立正史学』96号(立正大学史学会)が自宅に届きました。拙稿が掲載されているのですが(高尾善希「村役人の選出と村の自治―武蔵国入間郡赤尾村名主林信海日記から―」)、これはなんと、わたしが8年前大学を卒業するときに書いた論文なのです。8年ものあいだ久しく机に眠らせておいたままでした。
 この論文は大学の代表として第38回日本史関係卒業論文発表会(地方史研究協議会)で口頭発表しています。ちなみに、この「日本史関係卒業論文発表会」なるものは、学部卒業論文を提出したひとたちが、大学毎に発表しあう、卒業論文コンテストのようなものです(もちろん「コンテスト」といっても、学会ですから、順位がつくわけではありません)。東日本の大学が参加しています。歴史学系の卒業論文を書こうという方は、いちど見学してみるといい刺激になると思います(毎年春になると『地方史研究』誌上に案内の文章が載ります、大学等でもポスターの掲示があると思います)。
 論文の副題にもあるように、武蔵国入間郡赤尾村名主林家の史料で執筆したのですが(注1)、発表当日には、その林家の御当主の方にも見学に来て頂きました。御当主にはたいへん喜んで頂き、発表のあと、お食事までご馳走になってしまいました。研究冥利に尽きるというものです。こんなときは、あらためて、歴史学をやっている意義を発見する思いです。
 『立正史学』96号掲載論文は、その当時の原稿ほとんどそのままにしてあります。大学出たての気負いが丸出しになっており、自分にとっては気恥ずかしい感じもありますが、記念の意味をこめて、あえて特に大きな加筆・修正は加えずに掲載しました。以下は書き出しの部分。

近世村落の自治・自律性に関する研究は、主に一九八〇年代以降、村方騒動・村法・村入用等の研究を通じて成果が積まれてきた。それらの中で、特に村役人の位置付けに関しては、「領主支配システムの末端」「橋頭堡」「槓杆(こうかん)」としての性格を前提としながらも、村に責任を負う者として、村の代表者的な性格へと次第に変容してゆく過程を重視する傾向がある。本稿ではそれらの成果を踏まえ、武蔵国入間郡赤尾村(現、埼玉県坂戸市)の村役人の選出に関する事例を材料に、近世後期の村の自治のあり方を、領主川越藩との関係で明らかにしてみたい。ここでは単なる些末な一村落の制度論を語るつもりはない。村落秩序が動揺し、惣百姓の合意を得ることが難しくなった近世後期的状況の中で、百姓たちが―従来の自治の伝統を引き継ぎつつ―蹉跌し悩みながら、新たな自治を発見・開拓してゆく姿に着目したいと考える。(「はじめに」より)

 なお、『立正史学』96号の「日本近世史特集」、拙稿を含めた5本の論文は、指導教授竹内誠先生の退職に寄せられたものです(「編集後記」参照)。どれも力作ばかりです。コンテンツは以下の通り。

『立正史学』96号(立正大学史学会)
<論考>
黒田日出男「肖像としての源頼朝」
<日本近世史特集>
石山秀和「江戸近郊農村にみる豪農の文化活動―安川家三代の事例―
高尾善希「村役人の選出と村の自治―武蔵国入間郡赤尾村名主林信海日記から―」
西光三「近世大名家における葵御紋使用統制令の受容と展開―「御威光」の統制から藩主権威の形成へ―」
滝口正哉「幕末維新期の納札活動―江戸趣味の系譜―」
渡辺絵里子「江戸拝領町屋の拝領者規定―元禄中期を中心に―」

(注1)ちなみに、この林家の史料は、今年、NHK歴史教養番組『その時歴史は動いた』に紹介されました。おもしろい文書群なので、いろいろな方に知って頂ければと思っています。

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2004/12/19

(忠臣蔵)浅野内匠頭刃傷事件―内匠頭、その胸中には?―

 元禄14年(1701)3月14日、江戸城の松之大廊下にて、播州赤穂藩主浅野内匠頭長矩が、高家筆頭吉良上野介義央に突然刃傷に及ぶ。これが赤穂事件の発端で忠臣蔵で最初の名場面です。
 今年は忠臣蔵のテレビドラマが流行りでしたが、一体今までに幾つの忠臣蔵のテレビドラマがつくられたのでしょう。概ねどれも講談本が下敷きにされていますから、ドラマ同士で台詞が一致してしまうことさえ珍しくありません。

 テレビドラマの松之大廊下の場面では、内匠頭は大奥留守居番の梶川与惣兵衛頼照に羽交い締めにされ、「家族も捨て領地も捨てての刃傷で御座る、武士の情け、せめてもう一太刀を」と必死に梶川に懇願するというのが普通です。ところが意外なことに史料上の内匠頭はそのようなことは発言していません。史料上の内匠頭の発言は以下の通り。

拙者儀も五万石之城主にて御座候。乍去御場所柄不憚之段は、重々恐入奉存候得共、官服を着候もの、無体之御組留にては官服を乱し(候)。(「多門伝八郎覚書」石井紫郎校注『日本思想大系27 近世武家思想』岩波書店、1974)
 ここでは「わたしも五万石の城主である、官服を乱すから離してほしい」と懇願していることがわかります。家族も捨て領地も捨てたこの期に及び、なんと彼は服の乱れに気をとられています。刃傷の原因として乱心説がありますが、この奇妙な発言は彼の乱心の証左なのでしょうか?

 この奇妙な発言は、―現代人からみてどんなに奇妙であったとしても―、当時の武家社会における常識の範囲内で理解できます。内匠頭の発言内容を説明すると、……内匠頭は「五万石の城主」の資格をもって「五位の諸大夫」の官職が与えられ、それゆえに殿中で「大紋」の官服を着る資格をもつ、したがって「大紋」の官服は彼の格式を表す大切な衣服であって、ここで「大紋」の官服を乱されることは、彼本人のみならず、播州浅野家そのものを乱されることにも等しい、だから彼は「大紋」の乱れを恥辱に感じる、ということでしょう。
 ここから内匠頭の格式意識への執着を看取することができるのではないでしょうか。たかが衣服ではなかったのでしょう。命より名誉を重んじる意識は当時の武家社会に珍しくありませんでした。
 ちなみに、梶川に離してもらった内匠頭、「大紋」の乱れを直すと、やっとほっとしたのか、

殊之外内匠頭歓被申「多門伝八郎覚書」(同上文献)
 たいへん喜んだといいます。やはり彼にとって「大紋」の乱れは大問題だったようです。

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2004/12/16

(言葉)「株式」

 当ブログ記念すべき初トラックバックは、なんと木村剛さん(KFi株式会社代表取締役社長)からでした(このあいだ木村さんの本を拝読したばかりです)。おかげさまで急にアクセス数が伸びました。それで今回、経済に疎いながらも、歴史からみた経済用語のはなしを用意しました。この場にて木村さんに謝意を表したいと思います。

 さて、佐藤雅彦・竹中平蔵『経済ってそういうことだったのか会議』(日本経済新聞社、2000.4)は、おもしろい本でした(両方とも慶応義塾大学教授<当時>)。
 先生役の竹中さんが、経済学の根本を、わかりやすい例え話を出しながら、平易に教えてくれます。生徒役の佐藤さんも、長年のサラリーマンの経験から、的を射た質問を出し、説明に対する反応もよく好感がもてます。ただし「株の話」という章の中で、「株式」という言葉の内容に触れた箇所についてはちょっとした問題があるようです。そのくだりを以下に引用しましょう。 

竹中 だから株式のことを「シェア」と言うんです。みんなが出し合って好きなときに売れるからシェアするっていう。そういうふうにみんなで出し合って、あるときは会社に出資したり、あるときは逃げることがもできる。そして、これが肝心なことなんですが、出資者はお金を出しているだけだから、会社がもし倒産しても責任が有限なんですね。単純に株を損するだけなんです。
(高尾注、略)
佐藤 そうか、株式って「株」式なんですね(笑)。ヘボン式とか、竹中式とか、そういうナントカ式の「式」なんですね。今まで「株式」っていう言葉はいっしょくたの言葉として僕の耳に入ってたから特に意味を感じなかったんですけど……。
竹中 「株」式……。なるほどそうかも知れませんね。株のようなやり方っていうね……。
 「株式」という言葉は意外に古く、前近代にも多く出てくる言葉です。「株」は、もともと「権利」という意味があります(たとえば「御家人株」「株仲間」)。「式」もそれと同じで、中世でよく使われる「職」(しき)の語に通じ「権利」を意味している、という意見があります(網野善彦)。わたしはこちらが本当かもしれないと思っています。たとえば、江戸時代のむらの史料にも、「百姓跡式」「株式」という用例がよくあって、この場合、百姓の家を相続する権利のことをさしているからです(「近例にはかけおちのかぶ式取上る儀相止」大石久敬『地方凡例録』)。だから傍線部の佐藤さんの解釈は疑問です。「株式」「為替」(かわせ)「書き入れどき」「黒字」「赤字」等々……、経済分野にはふるい言葉が多いようです。
 しかし、そういったうるさい言葉の詮索はさておき、佐藤さんのあたまの回転の速さには脱帽です。この佐藤説の当否は別として、彼の堅苦しくない解釈が読者の理解の助けとなっているからです。それがかえって本の価値を高めていると思っています。

(付記)今日病を得ました。風邪かもしれません(子どもの風邪がうつった?)。仕事を休んでいます。わたしにとって皮肉なくらい、きょうはいい天気です。

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2004/12/13

(古文書入門④)くずし字字典、どれがいい?

 「何か勉強をはじめたい」というとき、一念発起のエネルギーから、特に〝気合い〟が入りがちです。それで、「ヨシ、勉強するぞ」と、とりわけ分厚い難しい本等を買い込むわけですが、ところがどうしたことか、「さあ、はじめよう」と思った途端、眠たくなってもう勉強する気が起こらない……、そんな経験はありませんか?(少なくともわたしは幾度となくあります)。それはたぶん、いきなり分厚い難しい本なんか買うからいけないのでしょう。強い信念があればあるほど、最初は気楽に、だらだらと始めたほうがよいようです。それに、初心者には初心者の勉強方法がある、と考えた方がいいのではないでしょうか。

 「古文書勉強したいんですけど、くずし字字典は何がいいでしょうか?」というご質問が多いので、ここではそれについて、わたしの意見を述べてみたいと思います。実は、「字典は何がよいか?」という疑問について、答えてくれる情報はあまりありません。だから、―私見ではありますが―、ここで話しておく価値はあると思います。
 おそらく、初心者には、林英夫編『増訂 近世古文書解読字典』(柏書房、1972~)が一番よいと思います。1972年に第1刷が出され、わたしの手持ちの本は「1997年第32刷」です。だからもう30年以上にわたって刷を重ねる、大ロング・セラーであるわけです(どうでもいい話ですが、わたし1974年生まれなので、この字典の方がわたしより年上ですね)。わたしは柏書房のまわしものではありませんが(柏書房の本をちょっと執筆したことはありますが)、これは本当にいい字典だと思います。
 この字典の何処がよいかというと、①ひとつめに、とても薄くてハンディなことです。全体で387頁しかありません。「Ⅰ 史料編」が5頁~68頁まで、「Ⅱ 用例編」が71頁~126頁まで、「Ⅲ 文字・熟語編」が131頁~312頁まで、「Ⅳ 参考資料編」が314頁~349頁まで、「索引」が350頁~387頁まで、という内訳です。この中の「Ⅲ 文字・熟語編」が字典の機能をもっている部分です。薄い! これは心理的圧迫を受けずにすみます。②ふたつめに、とても廉価だということ。わたしの手持ちのものでは「2524円+税」という直段表示です。大学でこの本をテキストにしたことがあるのですが、学生たちの反応は「えー、高い!」でした。そんなことはありません、一生ものですから。③みっつめに、字の解説ばかりではなく、熟語の用例まで載せてあり、親切なことです。これは便利です(実は、くずし字というのは、一文字だけでは判定できないことが多いのです、これについてはいつか述べてみたいと思います)。
 もちろん分厚い字典でもいい字典はたくさんあります。たとえば、その筆頭格が児玉幸多編『くずし字用例辞典』(東京堂出版、1981~)でしょう。これは字の用例も熟語の用例もマンモス級で、約1300頁にも及ぶすごい字典です(近藤出版社に版権があったとき、同社の社長さんが、表題と索引以外はすべて手書きで書いた、という信じられない本。手にとってご覧下さい)。しかし「普及版」でないと持ち運びできません。優秀な字典ですが、浩瀚すぎて初心者には使いこなすことは難しいでしょう(したがって「優秀な字典=初心者に優しい字典」とは限りません)。くずし字にある程度慣れたら買うべき本です。そのときには、とても頼りになるでしょう。

 だから、勉強のはじめは、やはり林英夫編『増訂 近世古文書解読字典』(柏書房)だと思います。ただし、柏書房はこの手の字典をシリーズで出していますから、似通った表題の本が多いのです。買い間違えにご注意ください(この字典、わたしの所属していた大学の古文書研究会でも使用しているのですが、毎年買い間違える新入学生がいるのです……、ご注意!)。

(付記) ここでいう「古文書」とは近世文書のことをさしています。それ以前、古代・中世文書の勉強法等に関してはここでは触れていません。ちなみに、わたしが持っている字典は、先にご紹介した『増訂 近世古文書解読字典』『くずし字用例辞典』に加え、『新編古文書解読字典』(柏書房。載っている字数も程よく多く、用例も厳選されている、なかなかのスグレモノです。知る人ぞ知る、使ってみればよさがわかる字典です)の3冊です。これ以外の字典を買ったことがありません。またこれ以外の字典をあまり使うことはありません。
 以上はあくまで私見です。使いやすい字典はひとによって様々だと思います。ほかのご意見をお持ちの方はコメントをお寄せください。

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2004/12/10

(ブログことはじめ)習慣を少し変える利点~余暇時間考~

 今回は、わたしの「ブログことはじめ」と余暇時間について、述べたいと思います。随分前からホームページ開設に興味はありましたが、なにぶん勉強不足で、何からはじめたらよいのか全く見当がつきませんでした。はじめたきっかけは、余暇時間のちょっとした変化からでした。

 わたしの主な毎日の日課は、―やはり本業の歴史研究をしなければならないため―、歴史関係本の読書です。自分にノルマをかすことが好きで「一日最低100頁読む」と自分で決まりをつくっています。ながい通勤時間という〝余暇〟を利用し、出勤する電車で50頁、帰宅する電車で50頁、計100頁を読む計算です。毎日少しずつ積み重ねてゆく営為が好きな性分なので、毎日の研鑽であると同時に、毎日のたのしみでもあります。
 そんなある日、妻から「読書ばかりの人生なんてつまらない」と指摘され、「なるほどそれもそうか」と、一度は読書の習慣をやめて、ある期間に限って、電車の風景をじっと眺めることにしました。なるほど、車窓からみえる木の葉の舞い落ちる様子や、小学生同士のおもしろいはなし、電車でよく会う老人の髭の伸び具合まで、ふだんは気にもとめなかった様々な事どもがみえてきて、それはそれで興味深い日々でした。
 しかし、それでも長くすると退屈なので、再び読書の習慣を始めたのですが、次は趣向を変えて、同じくある期間に限って、一般週刊誌を読んでゆくことにしました。世の中ではどのようなことが問題になっているのかを、新聞以外の場で少しでも知りたかったからです。これでも本業の歴史とは遠ざかっています。要は、ひとつのことに執着し過ぎず、視野の狭さを取り払えばよかったのです。
 そんなある日、週刊誌にインターネット特集があって、ビジネスマンの間に流行るブログという記事を読みました。わたしはビジネスマンではありませんから、そのときはあまり気にもとめませんでした。しかしそのあと、偶然ある場でひとがブログについての世間話をしていたのを聞き、いちおう入門書でも買ってみるかと、近所の本屋で鈴木芳樹・ブログ研究会編『BLOG完全マニュアル』(千舷社)を購入して勉強してみました。早くもその1週間後niftyのココログにすることを決め(有料ですが「タダより高いものはない」と思ったので……)30分ほどで開設しました。

 いまでは、最初の歴史関係本の読書習慣を復活させておりますが、もし単にこの習慣をずっと続けておれば、そのままパソコンの勉強もせずに過ぎていたかもしれません。「継続はちからなり」とはいいますが、しかし、ただ同じ事をずっと続けるのは、単なる馬鹿なのかもしれません。
 本を読むこと=<知識を仕入れること>から、文章を書くこと=<知識を公表すること>へと習慣を変化させ、見知らぬ方からご教示に預かる機会を得たのは、見聞の狭いわたしにとって大きな収穫でした。

(付記)ラン2さんのご指摘により(コメント欄参照)、人気BLOGランキングのリンク方法が間違っていたことが判明しました。それで、左リンク欄および本文欄のリンクを訂正いたしました。いままでクリックして頂いていた方々には、この場でお詫び申し上げたい、と思います。また、コメント欄もメールアドレスを入れなくても書き込みができるようにしました(最初からそうしようとは思っていたのですが、やり方がわからなかったのです……)。何事も不勉強、お恥ずかしい限りです。今後ともご愛顧のほど、よろしくお願い申し上げます。

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2004/12/06

(発見)幕末巣鴨町の住宅地図 ~「先祖が巣鴨町に住んでいました」という方、ご連絡を~

 わたしは、―勤めている職場(東京都公文書館)が職場ですので―、江戸関係の史料を渉猟することが多くなりました。そんななか、ちょっとした発見がありました。現・東京都豊島区巣鴨地域の町人地部分を示した幕末の住宅地図の発見です。時期は文久元年(1861)、「旧幕府引継書」という公文書群の中にありました。「旧幕府引継書」は国立国会図書館等でだれでも閲覧することのできる史料ですが、意外なところにあるため、いままでみつけることができなかったのでしょう。
 江戸の住宅情報については、武家地なら、誰が何処に住んでいるかを江戸の切絵図等で容易に知ることができます。しかし、庶民の住んでいた町屋については情報量が極端に少なく、ほとんどわからないといっても過言ではありません。今回発見した巣鴨の住宅地図は、中山道沿いの町屋部分を中心に記しているため貴重だといえます。
 絵図にみえる町屋軒数は、「京都方」(板橋宿側)に向かって左側180軒・右側58軒(途中武家地)、合計238軒(うち空家10軒)です。家ごとの居住者・所持関係(××店・××地借等)・職業が記してあります。これをはじめてみたとき「ウワー、すごいなー、こんな史料があるのか」と驚きでした。そのうえ、この巣鴨地域、発掘調査が盛んな地域なのです(優秀な報告書が多数で出ています)。だから早速、豊島区遺跡調査会に持ち込みました。近世考古学のひとが特に面白がってくれる筈だと思ったからです。

 現在この史料の詳細は、調査会のみなさんの協力を得て調査中です(東京都公文書館の勤務がおわったあと、巣鴨の夜間の発掘現場にも見学に通っていました)。史料のほんの一部については、最近発刊された巣鴨商店街のタウン・ページ『巣鴨百選 2004年12月号』(巣鴨百選編集部、定価200円)、拙稿「新発見史料の巣鴨絵図、ちょっとだけご紹介」でご紹介しています。今後他にもご紹介する予定です。この史料を巣鴨の町おこし等に使って頂ければ幸いです。
 なお、この絵図中238軒のうち、子孫の方を何軒か特定できております。このブログを閲覧されている方のなかで、「わたしの先祖、幕末に巣鴨町に住んでいました」という方、わたしに是非ご連絡ください! (くもをつかむような話ですが……、言わないよりはましでしょう)。
 以下に、『巣鴨百選 2004年12月号』の拙稿、冒頭部分を引用しておきます。 

ナゾの町人地
 みなさんは、テレビやテーマパークなどで、よく江戸の町人地の様子をご覧になることと思います。米屋・呉服屋・料理屋・魚屋……、賑やかで活気あふれた江戸の町。タイム・マシンがあったら、ちょっとは覗いてみたいものです。
 でも、意外に思われるかもしれませんが、江戸の町人地の景観というのは、ナゾが少なくありません。たとえば、江戸の切絵図をみますと、武家地の部分は、大名・旗本の名前が書き込まれ、相当細かく判明していますが、一方町人地の部分は、「××町」と町の名前が書かれているだけで、人の名前などは書いてありません。残念ながらわが巣鴨町も同様なのです。しかし、最近の考古学の発掘調査によって、江戸町人の生活ぶりが、だいぶわかってきました。
 巣鴨町の町並みは、ほんとうに古文書の記録で、裏付けることができないのでしょうか? 豊島区遺跡調査会のような発掘チームばかりではなく、わたしたち古文書読みチームも、遅ればせながら頑張らねばならないところです。……(以下略)……

 なお文章中に掲載した表で「空家」とある箇所は、実際の史料では「明屋」と記してあります。読者にわかりやすくするため、このような表記にしました。また「町人地」という言い方も厳密には正しくないようです。これらは後稿にて。

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2004/12/03

(書籍)大学図書館

 大学の図書館に本があるかないかは、マジメな学生にとって重大な問題です。「ウチの大学、本がなくってさ……」という愚痴がよく聞かれます。
 わたしは、古文書をいろんなところで読みまわっていて、先行研究の把握は最低限にとどめ、論文を掻き集める趣味がうすく、専ら大学の図書館を昼寝場所に使っていました(難しい本を読むとむしょうに眠たくなります、何故なのでしょう)。そうでなければ、別分野の書籍の背表紙を眺めてまわる(美術館の絵みたいに鑑賞する)。だから「きみ、いつもウロウロしているけど、何やってるの?」と言われたことがあるくらいです。

 「大学図書館は本がなくて当然」がわたしの持論です。潤沢な資金とひろい建物がある大学なら格別、多くの大学にとって、いろんな学生のニーズのために、あらゆる本を揃えよというのは無理な注文です。本がなければ、ちょっと大きめな図書館に足をのばせばよい。都会に通えるなら、2つか3つは大きめな図書館があるはずです(ただし、そのてん、田舎にある大学だとかなり不便かもしれません)。
 でも、そうやっていろんな図書館で書籍を渉猟していると、いいこともあります。その図書館にしかない書籍・資料などを発見することができるからです。自分の大学に閉じこもらず、なるべく外を歩いた方がよいかもしれません。それに、苦労して入手した論文のコピーは、宝石のように思われ、よく読み込むものです。逆に、簡単にコピーした論文は、いつまでも押入の中に入ったままで、愛着も薄いことが多いのではないでしょうか。

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2004/12/01

(研究会)例会報告についてお知らせ

 アジア民衆史研究会という研究会で、幕末期における博徒についての研究報告をします。
 最近、村落史の一環として、博徒の研究をしています。「博徒を調べている」というと、たいていの人から笑われるのですが、最近、文献調査・現地の聞き取り調査を通じて、博徒の問題が、民衆史にとってかなり重要なポイントであったことがわかってきて〝驚愕〟しています。これについては徹底的に調べようと思っています。当日ぶあついプリントを用意します。
 以下はアジア民衆史研究会のホームページからの引用です。

アジア民衆史研究会「東アジアにおける民衆の世界観(4):移動・接触からみる空間認識」第5回研究会
報告 :高尾善希「幕末期における博徒・博徒集団の実証的研究」
日時 :2005年2月5日(土)午後2時半から
会場 :早稲田大学文学部(戸山キャンパス)39号館(第二研究棟)第5会議室
資料代として200円をいただきます。
事前のお申込みは必要ありません。みなさまのご参加をお待ちしています。
PDFファイルの[ビラをダウンロード]できます(1.4MB)。ご自由に掲示・配布してください。
午後1時から同会場にて幹事を行う予定です。
連絡先:事務局 中嶋久人 電話:090-3062-1319 Email: MAF01405@nifty.ne.jp

アジア民衆史研究会2004年度テーマ
移動・接触からみる空間認識:東アジアにおける民衆の世界観(4) 2004.05.11更新

 アジア民衆史研究会では2001年度以来、中長期的なテーマとして「東アジアにおける民衆の世界観」を掲げている。空間・時間・人間に関わる意識総体を<世界観>として把握し、そこからアジア地域における民衆の主体形成の問題を検討することを課題としている。
 このテーマのもと、2001年度は民衆の<世界観>の一側面として「君主観」の問題を取り上げ、続いて2002年度・2003年度は、「他者をめぐる空間認識」の問題を取り上げた。民衆は自らの所属している空間をどのように認識しているのか、という問題意識のもと、2002年度は大きく視野を広げ自己と他者との関係の中における空間認識を検討した。さらに2003年度には特に権力関係の中での空間認識の問題を検討し、支配層と民衆との認識のズレの問題について検討することが出来た。また、「境界」というものがアプリオリに存在するのではなく、「他者」との出会いを通じて形成されていくものであること等についても、幅広い議論をすることが出来た。
 しかし、一昨年度及び昨年度における空間認識というテーマは、アイデンティティの問題に回収される可能性があるという問題点が浮き彫りとなった。また、「空間」というものを、日常的な空間から、宇宙や世界といった意識的にしか理解出来ない空間、さらには「国民的共同体」といった仮想的空間にまで幅広く設定したために、議論の焦点が絞り切れないという問題が生じた。
 そこで本年度は、昨年度までのテーマである空間認識の問題を継承しつつも、より焦点を絞り、さらに具体的なものとして「移動」の問題に着目したい。移動の結果として起こる接触の場面は、空間認識という視点から見れば「対面空間」と言うことも可能である。移動によって生じる接触は、それまで保持していた<世界観>の変容を迫りうる。あるいは接触により、それまでの<世界観>をさらに強固なものに再編していくことも考えられる。「対面空間」すなわち出会いの場面でどのような認識が形成され、あるいは変容を遂げるのか。移動・越境・接触の場面での<世界観>の形成と変容に着目することで、こうした問題に迫ることが可能であると考える。
 またここでは、「国家を背負った人間同士の接触」という認識を前提とせずにひととひととの接触による<世界観>の形成過程と変容を検討し、その経験がさらに意識・移動(実践)を規定してゆく過程を検討していくことにしたい。ここでは、時代設定を「近代移行期」のみに限定せずに、その前後の時期を含めて幅広く見ることで、「前近代」と「近代」との差を浮き彫りにしていきたい。特に、植民地等の「近代」特有の問題を考えるためにも、時代設定を小さく限定せずに長期的視野で検討することが有効であると考える。地域設定においても、欧米との接触によって「近代」への対応を迫られた地域としての「アジア」を対象としながら、その「アジア」という空間認識自体がこの時期に作られていくという過程をも視野に入れて議論を深めていきたい。
 具体的には、漂流・移民・交通・観光などの事例をもとに、民衆の<世界観>を知るための方法を模索しながら、移動の結果として起こる接触の場面で、民衆の<世界観>がどのように構築されていくのかという問題に取り組んでいきたい。
アジア民衆史研究会2004年度趣旨文より

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