(町触)路傍に死す
わたしの祖父が亡くなったときのこと。当たり前のはなしですが、巨漢だった祖父も、火葬場で焼かれるとパン屑のようになります。亡くなったひとがこの世に存在した証に、遺族は骨を拾ってあげなければならないのですが、しかしこの祖父のためのつとめにわたしはたじろぎ、結局親戚に拾ってもらいました。どうも駄目です。
考えてみれば、史料編さんという仕事も、骨を拾うに似た作業です。将軍・大名などは格別、名もなき庶民などは、何処に骨があるのやら、わからなくなってしまっています。そこで、古文書・古記録という古ぼけた紙の上に残った「骨」を、遺族にかわって拾ってさしあげる。「史料編さんだ」「歴史学の基礎作業だ」といって、何か難しいことのように聞こえますが、基本はそこにあります。
江戸の町触をまとめた、近世史料研究会『江戸町触集成』の11巻(塙書房、1999)、文化4年(1807)4月27日触(番号11403)に、こんな記事があります。
卯四月二十七日触
一、北定御廻り方御掛ニて、年頃三十六・七位之男、町人体ニて左之腕ニ発句有之(これあり)、つくいきのひくまもしれぬ我身哉、下ニ蝶翁と有之、右人相之もの本所辺往還ニて変死いたし罷在(まかりあり)、心当り之有無取調之儀肝煎より達有之、
「息をつく。息を吸う。その刹那の間も知れぬほど、はかない我が身であることよ……」。こんな彫り物を残すくらいの人だから、生死をかけた喧嘩に明け暮れた人生だったのでしょう。その彫り物のことばのとおり、ほんとうに路傍で死んで尋ね人になった、というわけです。このひとの覚悟のすさまじさはどうでしょう。山本周五郎・藤沢周平の小説よりも、真に迫っていると思いませんか? これは骨以上の「骨」です。『江戸町触集成』はいい骨を拾いました。
ちなみに、三田村鳶魚『江戸っ子』(早稲田大学出版部、1933)「人嚇しの死次第組」によると、享保頃に「死次第権三郎」(しにしだい・ごんざぶろう)というのがいて、「死次第組」という徒党を組んでいたといいます。この権三郎は背中に大きく彫り物で「死次第」(「死んでやる、ほっといておくれ」)と書いていた、といいます。ほかにも、「命不入八幡大菩薩」(いのちいらず・はちまんだいぼさつ)などの彫り物があったようです。
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