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2004/11/30

(町触)路傍に死す

 わたしの祖父が亡くなったときのこと。当たり前のはなしですが、巨漢だった祖父も、火葬場で焼かれるとパン屑のようになります。亡くなったひとがこの世に存在した証に、遺族は骨を拾ってあげなければならないのですが、しかしこの祖父のためのつとめにわたしはたじろぎ、結局親戚に拾ってもらいました。どうも駄目です。

 考えてみれば、史料編さんという仕事も、骨を拾うに似た作業です。将軍・大名などは格別、名もなき庶民などは、何処に骨があるのやら、わからなくなってしまっています。そこで、古文書・古記録という古ぼけた紙の上に残った「骨」を、遺族にかわって拾ってさしあげる。「史料編さんだ」「歴史学の基礎作業だ」といって、何か難しいことのように聞こえますが、基本はそこにあります。
 江戸の町触をまとめた、近世史料研究会『江戸町触集成』の11巻(塙書房、1999)、文化4年(1807)4月27日触(番号11403)に、こんな記事があります。

卯四月二十七日触
一、北定御廻り方御掛ニて、年頃三十六・七位之男、町人体ニて左之腕ニ発句有之(これあり)、つくいきのひくまもしれぬ我身哉、下ニ蝶翁と有之、右人相之もの本所辺往還ニて変死いたし罷在(まかりあり)、心当り之有無取調之儀肝煎より達有之、

 「息をつく。息を吸う。その刹那の間も知れぬほど、はかない我が身であることよ……」。こんな彫り物を残すくらいの人だから、生死をかけた喧嘩に明け暮れた人生だったのでしょう。その彫り物のことばのとおり、ほんとうに路傍で死んで尋ね人になった、というわけです。このひとの覚悟のすさまじさはどうでしょう。山本周五郎・藤沢周平の小説よりも、真に迫っていると思いませんか? これは骨以上の「骨」です。『江戸町触集成』はいい骨を拾いました。

 ちなみに、三田村鳶魚『江戸っ子』(早稲田大学出版部、1933)「人嚇しの死次第組」によると、享保頃に「死次第権三郎」(しにしだい・ごんざぶろう)というのがいて、「死次第組」という徒党を組んでいたといいます。この権三郎は背中に大きく彫り物で「死次第」(「死んでやる、ほっといておくれ」)と書いていた、といいます。ほかにも、「命不入八幡大菩薩」(いのちいらず・はちまんだいぼさつ)などの彫り物があったようです。

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2004/11/27

(古文書入門③)とほうもない江戸時代の情報量

 江戸時代の研究をしていて、この時代の史料のとほうもない量を、いつも実感しています。「浜の真砂が尽きるとも、江戸時代研究のタネは尽きまじ」でしょう。したがって、このブログのネタも尽きることはありません。
 たとえば、わたしは武蔵国入間郡赤尾村名主林家文書という文書群を研究しています(「名主」というのは村長のことです)。だいたい、現在の大字(おおあざ)が、江戸時代には「××村」と呼ばれ、一個の行政区画をなしていたわけですが、それは全国で約63000ヶ村あります。埼玉県坂戸市大字赤尾、江戸時代の赤尾村もそのひとつです。
 この赤尾村の文書群、江戸時代の史料だけでなんと約10000点もあります。細かい字で書いてある分厚い名主の日記、これでも1点としかカウントされていませんから、たいへんな量です。大学生の頃からこの文書群を研究していますが、まだ見きっていません(アッタリマエダ!)。全史料を精読する頃には、わたしはおじいさんになってしまうかもしれませんね。

 江戸時代の史料の多さを実感しましょう。そのまえに、日本全国に残る古代・中世史料、つまり江戸時代以前の史料の総量は、どのくらいあるのでしょうか? そこで、このあいだお亡くなりになった大石慎三郎さんの著書、『大江戸史話』(中公文庫、1992)を繙いてみます。

文献史学の拠り処となる史料は、古いところからいえば古事記は一応除外されるので、六国史と呼ばれている日本書紀・続日本紀・日本後紀・続日本後紀・日本文徳天皇実録・日本三代天皇実録から始まる。(中略)これ以降の史料は東大史料編纂所の編集にかかる大日本史料に収められている。もちろん一点のがさずすべてというわけではないが、基礎史料はかなり尽くされているとしてよいであろう。中世と近世との区切をどこでつけるか、(中略)ここでは(中略)永禄十一年(一五六八)を目安にしておこう。さてこの目安で大日本史料を分けると、旧版本一二三冊、新版本八三冊の都合二〇六冊が中世以前の部分にあたる。(高尾注、これらを400字詰原稿用紙に直して換算すると)約二十万枚ということになる。(同書「大江戸の常識」より)

 これによると、江戸時代以前の史料の情報量は、400字詰原稿用紙にして20万枚あるということです。どうです? 多いような、少ないような。
 それでは、江戸時代の村方文書と、較べてみることにしましょう。大石さんは同書で信濃国北佐久郡五郎兵衛新田文書(現在、長野県北佐久郡浅科村上原・中原・下原)の文書を換算しています。同新田文書は4ヶ所にわかれていますが、そのうちの1ヶ所を計算すると、

それは(高尾注、マイクロフィルムで)二百リール、約十三万枚あり、全部で約三十万枚は越すと予想されている。これを仮に写真一枚を四百字詰原稿用紙一・三枚と計算すると三十九万枚ということになる。(同書「大江戸の常識」より)

 そうすると、なんと「日本全国における、江戸時代より前の時代の史料」(400字詰原稿用紙20万枚)<「江戸時代の村の、ある家における史料」(400字詰原稿用紙39万枚)、ということになるわけです。しかも、江戸時代の村は前述のように63000もあります。ちょっと気が遠くなりますね。
 ちなみに、村落史研究の権威明治大学木村礎さんによれば、村方文書は30億点にものぼるのだそうです。「人類が江戸時代の文書を全部見きることはほとんど不可能」といっても過言ではありません。
 ちょっと試しに、神田の古本屋にでも出てみて下さい。江戸時代の古文書が売りに出されています。また、あなたの家が旧家ならば、蔵の中にありませんか? 「文政××年」「天保××年」とか書かれたふるい紙切れが。こういうのも江戸時代の史料。立派な古文書、文化財といえるのです。大切に保存して下さい。

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2004/11/24

(雑感)高度な社会の、妙なあきらめ

 最近3歳のわたしの子どもが「なんで?」を連発します。「なんでパソコンは動くの?」「さあ、何でだろうねえ?」マルク・ブロック『歴史のための弁明』ではないですが、子どもの質問にはいつも考えされられます。
 わたしは歴史を研究しておりますから、こういうふうに考えます。……「ふだん日常で使っている道具のしくみがよくわからない」という社会が出現したのは、歴史的にみてつい最近のことではないか、と。
 出典は忘れましたが、たとえば、宣教師に西洋時計を献上された織田信長の話があります。そのとき信長は、「日本人にはこの時計のしくみがわからないから、壊れたとき修理ができない、だから返す」と答えたそうです。時計のしくみがわからなくとも、どうせ貰い物だから、壊れるまで使ってしまえ、という考え方もあるでしょうが、信長はそうは考えなかったらしい。道具のしくみが理解できないことへの抵抗感があったらしいのです。この逸話の真否は措くとして、こういう感覚は、この逸話の信長のみならず、人間が当然のように持ち続けてきた、普遍的感覚だったのではないでしょうか? 前近代では、―自分で作れるかどうかは別にして―、しくみが理解できない日常道具なぞ、あまり存在しなかったのではないか?
 その意味で、日本史の場合、人間と道具が乖離した最初の時代は、西洋文明がいきなり入ってきた明治時代だった、と思います。明治時代のひとは、必死に西洋文明の道具を理解しようと努め、電信柱の電線に手紙をくくりつけたり、蒸気機関のつもりか大八車の上に沸騰した湯を置いたり、そんな〝ささやかな実験〟を繰り返したのですが、それでも結局〝実験〟はことごとく失敗して、道具との距離は縮まりませんでした。
 それ以来、人間はすっかりあきらめてしまった。おかげでいまはどうですか。人間と道具との距離が離れっぱなしで、テレビ・パソコン・電子レンジ・掃除機・洗濯機など、日常生活品のほとんどが、さっぱりしくみ理解不能になり、「理系のはなしはちょっと……」で、逃げてばかりになりました。
 われわれの生活に、もはやテレビは欠かせないわけですが、理系国立大学教員の親戚によれば、工学部の専門家でも、テレビを組み立てるのは難解なのだそうです。明治時代のひとを笑うことはできないし、「なんでパソコンは動くの?」という子どもも、笑うことはできません。むしろ、道具のしくみを理解しようとする意欲に、敬意をはらうべきでしょう。

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2004/11/21

(反省)論文を書け!

 学術雑誌「日本歴史」(676号)の彙報欄(「はがき通信」)で、義江彰夫さん(古代史)は、いまの就職難と論文の質との関係について、次のように言及されています。

自分を棚に上げて恐縮だが、最近これはすごい、という論文に出会うことが減って来た。不透明な時代・就職難・職務の多忙化等に規定され、じっくり論文を書くゆとりがなくなったことは、私にもよく分かる。しかし長い目で見ると、この現状の固定化は空恐ろしい事態を招くのではないか、という恐れが胸中を去らない。今こそ将来を展望する腰の座った学問が求められているのではないだろうか。
 たしかに、たとえ原稿枚数が少なくても、入魂の1本の論文を書こうとすれば、かなりの時間を費やすものです。それでも業績論文1本としかカウントされません(注1)。それでは業績本数がものをいう就職に不利です。また、悲しいかな、呻吟して時間をかけたからといって、必ずしもいいものが仕上がるとは限りません(しかし、その呻吟がなければ、学問の発展はないのも事実です。学問は効率性を追求するばかりでは駄目ですが、そこが世間様にはなかなか認知されないところです)。
 わたしはというと、恥ずかしながら馬鹿正直で、「どうしようか、こうしようか」で、結局8年を費やした論文があります(もっとも、仕上がったものは別にたいした内容ではありません)。口頭報告をしたまま、活字にしていないものも、幾つかあります。このまま成仏させるのも勿体ないと思うのですが、なかなか筆が進みません。こればかりは性格なのでどうしようもありません。だから、わたしの場合は「腰の座った学問」でなく、単なる不器用です。

(注1)寡作をもって知られた、ある有名な先生の業績目録をつくったことがあります。なるほどほんとうに寡作でした。しかし一本一本が〝重たい〟のです。論文を切り売りをせずまとめて一本にしてしまう。無欲と博学の先生です。

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2004/11/18

(言葉)「御江戸」用例再考~いつから「御江戸」か?~

 「御江戸」という言葉は、いつ頃から使われていたのでしょうか。少々私見を述べたいと思います。
 江戸研究者西山松之助さんは、「御江戸」の初見(史料上で確認される最も古い事例のこと)を、元和4年(1618)「竹斎」、「形は色々品川や、渡ればこゝぞ武蔵鐙、懸けて思ひし糸桜、花のお江戸に着にけり」であるとします(もうこの頃から「花のお江戸」という文句があるのです)。2例目は、その約60年後の延宝8年(1680)「元のもくあみ物語」、「お江戸は近しと悦びて」である、とします。
 西山さんはこの2例の60年の開きから「こういうかたちで、お江戸と呼ばれはしたが、それはごく一部の人たちのことであって、(17世紀には)一般には普及しなかった」といいます(西山『江戸ッ子』吉川弘文館、1980)。
 ところが、わたしがみたところ、 ふるい「御江戸」の例はたくさんあるのです(わたしの専攻が村落史ですので、村落史史料からも拾ってみると……)。

寛文2年(1662)8月 「返答書相認年寄百姓召連御江戸江罷出候処」―武蔵国埼玉郡平戸村文書
寛文2年(1662)11月 「御江戸ニ瓜といや二間名主九郎兵衛相定」―武蔵国多摩郡小川村文書(同史料には「御江戸」が何カ所も出てきます)
寛文8年(1668) 「見渡せば柳原やけ桜田やお江戸の春のこじきなりけり」―寛明日記
 などがあります(17世紀の事例はまだ他にもあります)。
 したがって先の西山さんのお仕事と合わせると、①元和4年(1618)、②寛文2年(1662)8月(上記A)、③寛文2年(1662)11月(上記B)、④寛文8年(1668)(上記C)、⑤延宝8年(1680)、という順番になるわけです。すなわち、「御江戸」は17世紀には普及しなかった、とする西山さんの意見は再検討の必要があります。随分ふるくから一般的に使われた言葉なのではないでしょうか。
 内容が寛永末年(17世紀中頃)まで下るという(注1)「慶長見聞集」は、江戸を「天下を守護し将軍国王ましますところ、などか都といはざらん」と評価します。この意識が「御江戸」ということばの使用に繋がると思われます。まだ古い用例がほかにあったらご教示ください(注2)

(注1)「慶長見聞集」成立時期は水江漣子さんの研究書『江戸市中形成史の研究』によります。
(注2)ここで紹介した諸事例は竹内誠監修『都市江戸への歴史視座』(名著出版、刊行準備中)所収の拙稿に紹介してあります。

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2004/11/15

(言葉)「御江戸」は「御」はオンリー・ワン?

 「大江戸」とともに「御江戸」という言葉があります。江戸研究者西山松之助さんによれば、地名に「御」をつけるのは江戸だけなのだそうです。しかも、敬称付きで呼ばれる地名は世界で唯一である、と指摘します。これは西山さんがいろいろなところ言及していることです。碩学にはっきりと世界に「ない」といわれると、「そういわれれば、そうかもなあ」という気持ちがあります。しかし、その一方、「本当だろうか」と疑いたくなる気持ちも、すこしあります。

……世界中の都市のなかで、その町名に敬語の『お』をつけて呼ぶのは、江戸のほかにはなかろう。このことは、江戸町人研究会だけでなく、私はいろいろな方に尋ねてみたが、今のところ類例はない。江戸だけがお江戸と呼ばれた。……(西山『江戸ッ子』吉川弘文館、1980)
 続けて、①「御用」「御林」「御普請」等の場合と同じように、御江戸の「御」は将軍への敬意を表している、②「み吉野」「み熊野」という言葉もあるが、それは文学的美称であろう、ともいいます。
 では「御伊勢参り」の「御伊勢」はどうでしょう。これは伊勢神宮を指しているのであって、地名に「御」を冠しているわけではない、と解釈しましょう。「大日本帝国」「大韓民国」等の「大」もありますが、これは国号ですから、御江戸とは同列にできません。すると、西山さんのいうとおり、敬称付きの地名は江戸だけなのでしょうか? ……これについて何かご見解をお持ちの方はご教示ください。
 ちなみにわたしの調べでは、川柳に「江戸 御の字の付た所は江戸計り」(三田村鳶魚『未刊随筆百種』第10巻<中央公論社、1977>「京江戸自慢くらべ」)というのがあります。江戸時代人も「『御』の字の付いた所は江戸だけ」という意識をもっていたようです。

(注1)話はだいぶ違いますが、北朝鮮の国営放送のアナウンサーは、平壌(ピョンヤン)という地名をよむとき、語尾を消さず、尊敬をこめてはっきり読むことが義務付けられています。国家のあるじのいる場所は神聖だとされているからです。地名に敬意をこめるという発想はここにもあります。

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2004/11/12

(言葉)「大江戸」

 「大江戸」という言葉は、「大江戸線」などたくさんの用例があり、みなさんもよく耳にすることと思います。この「大江戸」、実は江戸時代からある言葉なのです。
 竹内誠先生によると、「大江戸」という言葉の初見は、寛政元年(1789)の山東京伝『通気粋語伝』である、ということです。また、概ね18世紀後半には定着するのではないか、とも仰ります。江戸東京博物館「大江戸八百八町展」でも、この竹内説にしたがって、『通気粋語伝』が展示されていたわけです。
 ところが最近(去年12月)、とうとう、竹内説の初見よりも古いものがある、という発言が出ました。

……竹内誠さんは、早い時期の用例として寛政元年(一七八九)刊の山東京伝の洒落本の『通気粋語伝』を挙げているんですね。しかし、これはもうすこし遡れるようで、私の知っている限りでは、明和八年(一七七一)には成稿していたといわれる建部綾足の『本朝水滸伝』第十九条に「大江戸」という言葉が出てきます。……「座談会江戸を語る」楫斐高さん発言 『国文学 解釈と鑑賞』(至文堂、2003.12)。
 これに従えば、今度展示するときは、『本朝水滸伝』を出さねばなりません。もっとも、これよりも古い事例が発見されなければ、ですが。研究というのは、こうやってみんなで意見を出しあって、常に説を更新してゆくものなのです。
 しかし、初見はどうあれ、18世紀後半に定着するという見解は揺るぎません。「大江戸」のイメージは、18世紀後半以降における、江戸の町範囲のひろがりと、江戸文化の成熟からきています。この町範囲は、東京都公文書館蔵の文政元年(1818)「江戸朱引図」にみることができます(注1)
 この「大江戸」と、概ね朱引範囲を示す「四里四方」(ひとによると「しりしほう」よりも「よりよほう」という訓みが多いらしい)とは、セットで出てくることが少なくありません。たとえば「四里と四方の大江戸ハ、ものごとばんたんふそくがない」(かわら版「当時流行ないものつくし」)。

(注1)ただし、厳密にいうと、東京都公文書館蔵の朱引図は、明治以後になって作られたものではないか、という意見があります。

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2004/11/09

(展示)都市をつくる~江戸のすがた・東京のかたち~

 今回はわたしの職場の宣伝をさせて頂きます。東京都立中央図書館・江戸東京博物館・東京都公文書館の3館合同で、所蔵資料展を開催しております。題して「都市をつくる~江戸のすがた・東京のかたち~」。場所は東京都立中央図書館4階多目的ホールです。会期は平成16年10月31日(日)~11月14日(日)、10時~17時、観覧料は無料です。

 東京都公文書館提供史料の目玉は、数々の有名な江戸の古地図です(「江戸を勉強するなら、一度は現物を見ておけ」というものばかりだと思います)。なかでも、伊能忠敬の御府内実測図を、とほうもなく大きなパネルにしました。特に見学人が群がるコーナーで、なかには虫眼鏡で御覧になるかたもいらっしゃいました。ほかにも、錦絵や明治時代の貴重な公文書など、盛り沢山です。江戸マニアもそうでないひとも必見です。是非御覧下さい。

「昨年度、都立中央図書館・江戸東京博物館・東京都公文書館では3館合同講演会を開催し、竹内誠江戸東京博物館長の講演と、各館の利用ガイダンスを行いました。今年度は新たな試みとして、3館所蔵資料展を開催します。各館所蔵資料の中から、絵図・地図・錦絵・版本・刷物・公文書・図書・生活道具等を展示して、江戸・東京の都市の変貌を、江戸時代から昭和初期まで通観します。」(東京都公文書館HPより)
 くわしくはこちら。
都市をつくる~江戸のすがた・東京のかたち~

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2004/11/08

(研究人生)本は買うべきか、買わざるべきか

 結婚して妻の母の家に移り住んでから、独身時代から買い集めてきた本を、思い切って500冊ほど売り払いました。何故かといえば、―わたしはとんでもないムコ殿です―、なんと、本の重さで床を歪めてしまい、何十万もかけて工事をしたからです。そのようなわけで、とにかく本を処分。実家も預かってくれないようなので仕方ありません。「島流しにあって本1冊しかもってゆけないとしたら、どの本をもってゆくか?」という問いかけがありますが、そんな気持ちで、自分の研究に関わりのある僅かな本だけを、わたしの部屋に残しました。それでもう本はあらかたなくなりました。なんだか体が空っぽになってしまったような気がしました。
 研究仲間からはよく「本がなくて大丈夫?」と訊かれます。不自由はありますが、いまのところ何とかなっています。本は図書館に行けばあるし職場にもあります。当面の研究ということであれば本棚2~3くらいの量で充分です。ただ、これからのわたしの研究的視野は、どんどん狭くなってゆくかもしれませんが。
 大学院生が面白がっていろんな本を買う光景をよくみかけます。わたしも過去にはそんな学生のひとりでした。しかし最近わたしはそういうことができなくなりました。結婚し、子どもができ、非常勤暮らし……このような制約の多い環境のなか、「如何に研究を継続するか」ということに意識を傾注させるため、発想をシフトさせました。
 つまり「研究者的にはお金も時間も〝研究コスト〟なのだから、なるべく大切に合理的に使った方がよく、極力図書館の本で済ませる方がよい。研究費は本代だけではない。調査にかかる直接的な費用(移動費・コピー代など)や、パソコンを用意する等、研究環境の設備投資もばかにはならない。だから極力本は買わない!」と。
 これは追いつめられたわたしの考えです。妻子がなくてお金があり、本を置く場所もあるという方はどんどん本を買って読んでください。わたしはもうだめですが。
 本は買うべきか、買わざるべきか。それは個々人の問題であって、ひとつの解答は存在しえないということでしょうか。

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2004/11/06

(学生生活)田舎に出る学生、都会に出る学生

 「なつかしい学生時代」といっても、ほんの数年前に過ぎないのですが、いろいろな思い出があります。わたしが古文書解読を身につけた場は、「古文書研究会」という大学の研究会でした。
 活動の中心は合宿です。田舎のむらの名主宅から、古文書をお借りして合宿所へ運び、4泊5日、古文書解読ばかりです。その4泊5日の合宿は年に6回もありました(わたしはそれを4年間、無遅刻・無欠勤でした。合宿だけではありません、合宿の準備・勉強会・合宿での調査成果の執筆と、一年中大忙しです)。
 合宿所は古くなった学校をお借りしていました。米や野菜などを、みんなで合宿所へ持ち込み自炊し、掃除等も、もちろん自分たちでします。貧乏学生の寄合いですから、合宿費を切り詰めるため、食事は貧しく、ごはん・沢庵・塩っ気のうすいみそ汁くらいしかないことも多かった、と思います。冷暖房はきかないから、酷暑の中・寒波が襲った中の合宿はとりわけ厳しい。古文書を読むというよりも、古文書を読む環境とのたたかいで、からだをわるくして寝込む学生も珍しくありませんでした(特に女子学生)。もちろん、合宿所から外出することは固く禁止、合宿所ではお酒も御法度です。
 「ひとのいやがる古文書(研究会)に 入っていくよな馬鹿もいる」といわれました。「大学時代を楽しもうぜ」というこの時代、すすんで苦労しようというのだから、けったいな学生たちがいたものです。……そういえば、合宿所へ向かう途中の田舎町、リックサックを背負うわたしたちに、あるひとが不思議そうに、「学生さんたち、どこへゆくんだね?」と声をかけてきました。わたしは説明が難しいので、咄嗟に「いや、山登りみたいなもんです」と答えましたが、考えてみれば、その周辺に山など何処にもないのです。だからそのひとに「うっそォ」といわれ、ふたりで大笑いをしました。

 こんなことを書くのは、先日、早稲田大学の「スーパー・フリー事件」を扱ったノンフィクションを読んだからです(小野登志郎著『ドリーム・キャンパス スーパーフリーの「帝国」』太田出版、2004)。この本で、主犯の和田容疑者が、1993年の入学であることを知りました(注1)。所属大学は違うものの、わたしと同期なのです。そこで、わたしたちが「遊び系サークル」とは全く正反対の学生生活をおくったことを、改めて実感したわけです。田舎に出る学生、都会に出る学生、両極端でした。
 ちなみに、現在の研究会は、わたしたちの時のような過酷な合宿はしていませんが、合宿による研究活動は続けています。

(注1)わたしたち1993年頃の受験生たちは所謂「団塊の世代」ジュニアです。どの大学も入学することが難しかったことを覚えています。和田容疑者はその頃に早稲田大学政経学部に入学していますから、成績はたいへん優秀だったと思います。

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2004/11/03

(雑感)歳月

 江戸時代の古文書を読んできたといっても、たかだか10年ほどでしかありません。まだ修行中の身で、自分のことを「研究者と名乗れない」といっているのは、事実なのです。それでも、もう30歳になってしまいました。もちろん、歳をとることに有利な点はいろいろあるでしょうが、いまだ浮き草稼業であるわたしにとって、そんなことを考える暇はありません。「ああ、もうすぐ31歳か…」などと、重大な落とし物でもしてしまったかのように、嘆くのです。
 そんななかでも、うれしいことがなくはありません。子どもが大きくなってゆくことです。1歳・2歳・3歳……と成長ぶりをみることはわるくない。そして「はやくおおきくなりたい」と思っていた自分を、なつかしく思い重ねます。
 ところで、この間、「歴史学研究」という学術雑誌に(792号)、岸本美緒さんという東洋史学者の方が、「編集後記」に次のようなことを書かれていました。

……小さいころの夏休みのある午後、こういう毎日の小さなできごとやそれにともなうさまざまな感じは大人になったらみんな忘れてしまうんだろうなあと思ってふいに悲しくなり、今台所にたたずんでいる、この何気ない一瞬があったことを、あばあさんになっても覚えていられるかどうか試してみようと心に決めた。その結果、おばあさんになりかけた今でも、そのときの窓の外の明るさと台所の暗さのコントラストや、裸足に感じる板敷きの固い感覚をよく覚えている。全く何の変哲もないあの夏の日の一瞬。そういう一瞬のリアリティの復元は小説家の仕事かもしれないが、……もし老後に時間があったら、そのような一瞬を丁寧に復元する試みにも挑戦してみたいものである。
 これをみて驚きました。実はわたしも同じような記憶があるのです。世の中には多くのひとがいますが、考えることはそうは違わないのかもしれません。「一瞬を丁寧に復元する試みにも挑戦してみたい」、学問の動機はロマン。

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