(評論)当事者の目
ものごとを分析することを商売にするひとは、つねに多角的な思考をもつ癖をつけねばなりません。恥ずかしながら、凡百の情報に慣らされたわたしにとって、解剖学者養老孟司(東京大学名誉教授)さんによる(注1)、千葉大学医学部解剖学教室不祥事事件(千葉大医学部の学生が、解剖実験のときに、死体の耳を切り取り、それを壁に貼り付け、「壁に耳あり」といって退学処分になった事件)についてのコメントはいささか衝撃的で、「当事者の目線」の大切さを、痛感させられました。
「……(解剖実習について)ぼく(養老氏)がいつも出す例で、最後に耳を切って、壁に貼り付けて『壁に耳あり』とやって退学になった学生がいるんですが、それは可哀想なんです。だって耳は実習の最後の方にやるんだから。そこにいくまで随分かかっています。その学生はたまたま耳の時期に壊れただけであって、あれだけの緊張が続くと人によってはやはりどこか緩めないといけなくなる。実習生はそれを自分でやるんです。ぼくの同級生にも一人キレてしまった男がいて、すごくまじめなやつだったんですが、彼はペニスと睾丸のところをきれいに取り出して『風鈴だ、風鈴だ』って笑いながら解剖室の中を歩き回りました。時々こういう発作がおこります」(養老孟司・南伸坊『解剖学個人授業』新潮文庫、1998)。つまり、養老さんは、マスコミにさんざん叩かれた(「医学部にいる学生は偏差値人間でひとの感情を理解しようとしない」という論調が多かった、注2)この事件は、解剖学教室にみられる特有な精神発作の結果である、と推測しているのです。養老さんの予測が正しいかどうかはしりません。発作は一過性のものだから確かめる術もありません。しかし、可能性としてなくはない。解剖という場を経験した者のみがわかる「当事者の目線」、つまり、「当事者にとっての真実」がそこにはあります。
……考えてみれば、死んだ人間の体を、インテリの学生が血まみれになって切り刻むのです。たとえ、普段はまともな精神をもった人間といえども、この凄惨な経験のあとでは、まともな精神の侭といえる保障は何処にもない。この精神的プレッシャーは、我々の想像をはるかに超えたもので、養老さんのいう「まじめなやつ」ほど、危険なのかもしれません。つまり、「当事者の目線」で考えなければ、真実とずれた認識を抱いてしまう可能性は、いくらでもあるのです。
わたしたち歴史学をやる者も、同じような間違いをやらないとも限りません。いつもわかったように評論してはいけませんね、肝に銘じなければ。特に、網野善彦さん(この間お亡くなりになりました)は、この「当事者の目線」を大切にした歴史学者でした。
(注1)「バカの壁」(新潮新書)以前から、『唯脳論』(ちくま文庫)をはじめとする、養老さんの本はよく読んでいました。
(注2)「偏差値が高く勉強ばかりしている学生は心が貧しい」式の議論というのは、どこまで根拠があるのでしょう? そもそも人間の感情がわからないと、国語の問題なんて解けないと思うんだけども。勉強ができなかったわたしもそう思うのです。
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