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2004/10/30

(大学)「三くだり半」をテキストに

 あるとき女子大の講義で、「三くだり半」の原史料のコピーを、テキストとして使いました。それを示しながら、「これが『三くだり半』です。ほら、その言葉とおり、ちゃんと三行半で書かれているでしょ」と解説したのですが、女子大生の反応はイマイチ。そこで試しに、「『三くだり半』って言葉、知ってる?」と訊ねてみたところ、やはり、多くが「知りません」という返答でした。……これでは話がおもしろくないわけです。女子大生にはうけるのではないかと思ったのですが、判断が甘く残念でした。ふだん使っている言葉から、「三くだり半」は消えつつあるようです。
 それでもその後、「女性セブン」(女性誌)の広告に、「A子(某女優さん)がB男(某男優さん)に『三くだり半』!」という見出しをみつけました。「三くだり半」は、ふつう男性が女性に出すもの、とされていましたので、この見出しの場合、女性から男性に出したところが面白い、という含意があるのでしょう。だから、わたしは次の授業で得意満面に、女子大生たちに、「雑誌にだってこういう言葉は出ていますよ」と教えてあげたのです。
 しかし、あとからあるひとに、「いや、『女性セブン』はね、女子大生は読まないんですよ」と指摘されました。女子大生くらいの年齢層にはもっと違う雑誌があるらしく、「女性セブン」はちょっと年齢高めの女性が購読するらしいのです。知らなかったなあ。

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2004/10/28

(地震)続・尾張藩士の日記にみる地震予兆現象

 前回の続きです。新潟中越地震の被害が増えています。深くお見舞いを申し上げます。
 前回は、尾張藩士朝日文左衛門の日記、「鸚鵡籠中記」をご紹介しました。この日記には、元禄大地震の5日前・1日前に、そして宝永大地震の1日前にも、地震予兆現象らしい記述があることを述べました。わたしは最初これらの史料をみたとき、何のことやらさっぱりわからず、「ひゞきの音」「火之玉」「光物」「甚光る」とは、いったい何なのだろうかと、得体の知れぬ記述に、ただ戸惑っていたのです。
 そこで、最初に、天文の専門家におうかがいしました。すると「さあ、わかりませんねえ」というそっけないご返答です。おそらくわたしの説明がわるかったのでしょう、興味関心もない、といったそぶりでした。次に、気象の専門家におうかがいしたところ、開口一番、「それは地震予兆かもしれませんね」と意外なお答えでした。地震の予兆現象として、「ひゞきの音」つまり「地鳴りがする」ということは、何となく想像できるにしても、はたして空まで光るものだろうか? と半信半疑でした。それで、よく調べてみたところ、その仰るとおりで、3つの記事は大地震の直前だったのです(!)。これには吃驚りさせられました。空が光る原因は、地盤がきしむことによるプラズマ発光現象だということです。これにより、地球の大気圏より上か下かで、学問の専門領域がくっきりわかれていることを知りました。「江戸時代の記述だからきっとデタラメに相違ない」と早合点せず、ひとに質問して正解でした。
 尾張藩士朝日文左衛門。彼はたいへんな記録魔で著名ですが、彼の些細な事件の記述は、300年の時を越えて、貴重な情報を我々に示しているといえます。文左衛門の記述の信頼性も増しました。「鸚鵡籠中記」にはまだこの種のおもしろい記事が多いので、今後折りをみてご紹介してみたいと思います。
 それにしても、地震は予測できないものでしょうか。今回の大惨事に直面してつくづくそう思わざるを得ません。

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2004/10/24

(地震)尾張藩士の日記にみる地震予兆現象

 新潟県等に大きな地震がおきました。被害にあわれた方にはお見舞い申し上げます。わたしの住む東京もかなり揺れを感じました。
 みなさん、このような地震の大惨事に直面すると、「もしも地震が予測できたなら、どんなにいいだろうに」とお感じになることと思います。実際そのような研究はないこともないのです。……地震の前には、その予兆を示す現象が、確認されることがあります。これを「地震予兆現象」(seismic forerunners)と呼びます。何か“トンデモ説”のように思われるかもしれませんが、学術的研究がすすめられている現象です。発生原因等の科学的分析は、まだ完全には追求できていませんが、現象自体の報告事例は、山ほどあります(たとえば、先日お亡くなりになった、力武常次さんのご著書があります。力武常次『地震前兆現象―予知のためのデータベース』東京大学出版会、1986)。
 むかしから「地震の前にはナマズがあばれる」といいますが、それも地震予兆現象のひとつです。地形変化・地鳴り・空の発光現象・海や井戸の水位低下・地震雲・動物異常行動等があげられます。
 きょうは、尾張藩士朝日文左衛門の日記「鸚鵡籠中記」から、わたしがみつけた地震予兆現象と思われる記事を3つ、ご紹介することにしましょう(この部分は何故か東京大学地震研究所『新収日本地震史料』に抜け落ちているため、特に史料を引用して記しておきましょう)。

○元禄16年(1703)11月23日「元禄大地震」5日前・1日前の記述
元禄16年(1703)11月18日(新暦12月26日)「(江戸)昨日、四ツ谷辺火之玉空よりおち候よし。」元禄16年(1703)11月22日(新暦12月30日)「(名古屋)丑半刻、遠くひゞきの音聞ゆ。後に聞之ば、光物飛と。」
 18日条の江戸における「火之玉」、そして22日条の名古屋における「ひゞきの音」「光物」の記述は、23日の「元禄大地震」(関東南部、相模・房総で被害が大きかった。推定マグニチュード8の巨大地震)の地震前兆現象の可能性を指摘することができます。

○宝永4年(1707)10月4日「宝永大地震」1日前の記述
 宝永4年(1707)10月3日(新暦10月27日)「(名古屋)三日……夜。雲間甚光る。電の如にして勢弱し。」
 月が出ていないようなので月光ではありません。「電の如」とあるから雷でもないでしょう。これは1日後の宝永大地震(4日、中部・近畿・四国・中国・九州、推定マグニチュード8の巨大地震)の地震予兆現象の可能性を指摘することができます。

 空の発光現象は、地盤のきしみによる大気中のプラズマが原因、と予測されています。上記史料中の「火之玉」「光物」「甚光る」という記述はそれかと思われます。

自然災害クルマエニにくわしい情報リンクあり

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2004/10/22

(思い出)祖母と勉強机

 先日、三重県にいる母方の祖母が、83歳で亡くなりました。幼い頃からよく可愛がってもらいましたので、思い出も多くあります。
 なかでも、わたしが小学校1年生のころ、祖母から勉強机を買ってもらった思い出があります。わたしの世代のイメージする勉強机といえば、大きくて、流行のアニメ・キャラクターの絵があって、成長にあわせて机や椅子が上下し、ひきだしが幾つも付いている、デラックスな机でしょう。おそらく、いまの子どもたちも、そんな勉強机を思い浮かべるにちがいありません。高度経済成長後の豊かさが詰まった、過保護な机といえます。
 ……ところが、祖母が買ってきた勉強机は、驚くほど小さな木製の机でした。機能といえば、短い4つの足が折り畳めるだけです。すっかりデラックスな勉強机を買ってもらえると期待していた当時のわたしは、その机をみてガッカリ、大泣きしました。もっとも、両親にあとで、ちゃんとデラックスな机を買ってもらったのですが。

 さて、祖母の葬式の当日。博物館の講演の仕事が入っていたため、残念ながら途中で式を抜け出して、新幹線で東京に帰らねばなりませんでした。その講演の演題は「庶民の識字」でした。そこで用意したテキストには、寺子屋の絵を載せてあります。その絵の子どもたちがむかう勉強机は、わたしがむかし祖母に買ってもらった、小さな勉強机にそっくりなのです。なるほど、祖母の世代からしてみれば、勉強机といえば、寺子屋でつかうような、素朴で小さな机にきまっているのでしょう。
 これは、新幹線の中でテキストを眺めながら、思い出した出来事です。なにやら、祖母の思い出と因縁めいているようにも思えました。それにしても、あの祖母に買ってもらった勉強机は、どこへいってしまったのやら。もう捨ててしまったのか、それとも何処かにしまってあるのか、よく思い出せません。

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2004/10/19

(身分)武士と百姓

 江戸時代の概説では、「江戸時代は身分制社会で……」という説明が決まり文句です。制度の歴史、つまり「制度史」としてはそれで充分ですが、社会的実態の歴史、つまり「社会史」としては、それに補足説明が必要です。神奈川県鎌倉郡村岡村の民俗誌、山川菊栄「わが住む村」では、このようなことが書いてあります。

「……東海道に沿うている部落の人は、街道を通る旅の侍ぐらいは見ていますが、そこから遠い部落では狩の時でもなければ村などをのぞくこともなかったらしい。侍という者の姿は、ほとんど見たことがなかった様子です。維新のころ十二、三になっていたそういう部落のあるお婆さんはいいました。「この村で侍なんて見ることもなかった。たった一度、黒い着物に大きな紋をつけて二本さした人が、うちの旦那の門サへえって行ったうしろ姿を夢のように覚えてるが、まあその時ぐれえのもんでしょう。」このおばあさんは同じ部落の中で嫁入りし、その近処の雑木林と田畑を相手に一生暮して、九十近い今まで、ほとんど部落よりほかに一歩も出ずに暮らしてきたような人ですが、も一人、同じ年頃で、同じような一生を送ってきた他の部落のおばあさんに聞いても、やはり「刀なんかさした人は見たことがなかったね」と笑いました。」
 山川菊栄『わが住む村』(岩波文庫、青162-2、1983、55~56頁)。

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2004/10/16

(俳句)一茶の虚構

 文章に小さくつける(1)(2)……という注は、数が多くなると煩わしくなるものです。注の文章の方は、本文や章の後尾にまとめられていますから、いちいち確認しながら読むと、頻繁にページをめくらなければならず、読むのにたいへん骨が折れます。だから、そのうち注の文章を読むことを諦めてしまう。
 ちなみに、わたしの書く文章は、ちいさな史料番号などは、地の文章に括弧付きで載せ(たとえば「この史料(A家文書1234)は……」というふうに)、やむを得ない場合のみ(たとえば説明文や論旨から脱線する文章を付したいときなど)注で処理します。史料番号まで注に書くひとは多いのですが、わたしはちょっと抵抗を感じてしまいます(ひとの好みの問題ですが)。
 そこでよい注の例をひとつ。
 『一茶俳句集』(岩波文庫黄223―1、1990)文政4年(1821)辛巳1713番の俳句。
 「蝶見よや 親子三人 寝てくらす」。
 この俳句の注に、こうあります。「親子三人…次男石太郎を失い実はこの時子は無かった」。この的確な注のおかげで句の深みが増しました。これでわたしの一番好きな一茶の句になりました。

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2004/10/13

(小咄)頼朝のアタマって……

 開帳とはお寺さんが秘仏や自慢のお宝を公開するイベントのことです。江戸時代、この開帳には胡散臭いものが多かったそうです。それを風刺した小咄を次にご紹介します。安永2年(1773)出版、江戸小咄本『再成餅』(ふたたびもち)から引用。

回向院に開帳あり。「霊宝は左へ左へ。これは頼朝公のかうべ(頭)でござい。近う寄つて拝あられませう」参詣の人聞いて、「頼朝のかうべ(頭)なら、もつと大きさうなものだが、これは小さなものぢや」といへば、言立(案内人)の出家、「これは頼朝公、三歳のかうべ(頭)」。
 これは回向院(現、東京都墨田区両国)の開帳での風景です。内容は簡単です。①案内人のお坊さんが「霊宝はこれですよ、頼朝公の髑髏だよ、もっと近くによってみてくだされ」と呼びかける。②すると見物人が「頼朝の頭だったら、もっと大きいんじゃない? ずいぶん小さいんだねェ」と意地悪な指摘をする。③それでお坊さんは「そう、これは頼朝公、三歳の髑髏ですから」と返答してしまう、……という咄。
 諸書の解説はこれだけです。しかし「頼朝のかうべ(頭)なら、もつと大きさうなものだ」と見物人が発言した理由は何でしょうか? これをもっと踏み込んで解説しないと、この咄の面白さは完全にはわからないのです。
 実は文献には、頼朝の頭は大きかった、と書いてある。それを実際に読んだかどうかは別にして、江戸の人たちはみんなそれを知っていたのでしょう。だから髑髏をみて「もつと大きさうなものだ」という発言が、必然的に出てきてしまったわけです。ちなみに、頼朝は落馬してその傷がもとで死去しますが、巷間では、落馬したのは頭が大きかったから、といわれています(出典は失念)。
 ところで、みなさんがよくご存じの、あの高貴そうな白い顔をした「源頼朝」像(神護寺蔵)。あれは昔から教科書によく載っています。しかし、実はあの絵は頼朝ではなく、別の人物を描いたもの、という説が有力です。やがて教科書から消えるかもしれません。

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2004/10/09

(学者)大学者、もうひとつの「何となく…」

 先に、古代史家井上光貞さんが、実証史家らしからぬ「なんとなく」発言をしている、という話をご紹介しました。実は彼はもう一箇所、興味深い「何となく」発言をしています。それは、先の本とは別の概説書、『日本の歴史1 神話から歴史へ』(中央公論社)における、「謎の世紀」という章です。いよいよ神武天皇以降の天皇家の系譜を腑分けしよう、というくだりです。

「……皇室の系譜を研究することは、皇室が今日なお日本の象徴として君臨していられる以上、何となくはばかられる気持ちもするが、「王名表」たる帝紀の分析は、大和朝廷の歴史を知るうえには、ひじょうに重要なことなのである。……」
 彼は前述のとおり、明治の元勲井上馨の孫(曾孫。桂太郎の外孫)で、天皇家の藩屏たる華族の家柄でした。その意味で「何となくはばかられる」気分は仕方がないのでしょう。
 しかし、井上さんはこの本では問題意識先鋭で、皇国史観を批判し記紀を科学的に語ろうと、まず―戦後の通史としては異例なことに―、あえて記紀の内容から起筆しています。皇国史観も通史は記紀から書き始めますが、それを裏返す意味でそのようにしたのだ、と思います。
 曾祖父馨が近代的天皇制国家の樹立に荷担し、曾孫光貞さんが「何となくはばかられる」お気持ちでその国家の〝葬式〟をする。……そう思えば、この「何となく」発言も、何となくおもしろい話ではありませんか。

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2004/10/07

(学者)大学者、意外な発言「なんとなく…」

 以下は、ある古代史の大学者が、概説書で、推古朝になったとされる一七条憲法について発言している箇所です。推古朝より下るものとする説もありますが、この方は推古朝説に賛成しています。

「……憲法は、この種の詔書(高尾注、中国の詔書)を下書きにして書いたのではあろうが、中央集権の未熟な時代にふさわしく、また、なんとなく古拙のおもむきがある。
 これを読んで目をまるくしてしまいました。「なんとなく古拙の……」といわれても、こちらは到底納得できません。この方は手堅い実証で知られたひとだから、余計に、この「なんとなくクリスタル」風の言葉使いは、なんとなく不思議な感じがしたからです。いままであらゆる史料を引いて、糸が張りつめたような考証を行いながら、ここへきて突然緩み、何で「なんとなく」なのか?
 思うにこの部分は、「なんとなく」というしかなかったのではないかと思います。史料をさんざん博捜した方がいうのだから、もう信じるしかない(?)。「なんとなく」を具体的に説明しろと問われ、説明すれば、本1冊くらいにはなるのかもしれません。それで、概説書という場でもあって、つい「なんとなく」と書いてしまったのではないでしょうか。もうお亡くなりになった方ですので、確かめる術はありません。
 もちろん、もし大学のゼミ発表で、「ワタシ、なんとなく…思うんです」なんて学生が発言したら、先生は怒るかもしれないし、わたしなんかが論文で書いたら、嗤われるかもしれません。しかし、この「なんとなく」という部分は、大学者の発言だけに、なんとなく深い井戸を見下ろすような気持ちがします。
 井上光貞。井上馨・桂太郎の孫。東京大学文学部教授、国立歴史民俗博物館館長。引用文は『日本の歴史 飛鳥の朝廷』(小学館、1974)より。

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2004/10/06

(学問)言葉をつくる

 学術論文の中では、その分野に特有な言葉が羅列されています。当然もとはといえば、すべて誰かがつくった言葉です。わたしは指導教授から「論文の中であまり言葉をつくらないように」と指導をうけました。だから言葉をなるべくつくらないよう心がけています。「入り口は易しく、出口は難しく」と。そんなわたしでもお恥ずかしい言葉つくりをすることがあります。
 一概に言葉をつくる行為が悪いというわけではなく、むしろ言葉をつくった方がわかりやすいこともあるでしょうが、やむを得ない場合に限るべきで、やりすぎはよくないと思います。「××構造」「○○論」「□□社会」などと、些細なことに言葉をつくり、専門用語を大量生産してゆくことには閉口気味です。あなたの「××」とわたしの「○○」は何処が同じで何処が違って……という議論に時間を費やさねば議論が始まらなかったり、ある言葉が独り歩きをしてしまい、各自思い思いの意味で使ったりする。あるとき、わたしの日常的にふつうに使っていたある言葉が、誰それという学者の学術用語だと主張されて、吃驚りしたこともあります。
 そういえば、むかしの華族に何故博物学者が多いのか、という文章を読んだことがあります(何処で読んだか一向に思い出せません)。論者によると、博物学者が新種に名前を付ける行為は、家臣に扶持を与える行為に等しいというのです。そういえば、複数の生物を分類するのも、大名を封ずる行為を連想させます。
 言葉をつくって、それを他人が使えば、つくった本人は誇らしく、気持ちがいいのかもしれません。しかしそれでは、電気コードのように議論が絡まってしまうのではないか、と思います。

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2004/10/05

(江戸のくらし)長屋が杖をつく

 随分前、地方史研究協議会という学会で、寺島孝一さんが「江戸“庶民”のくらしと発掘史料」という講演をなさっていました。拝聴させて頂きましたが、とても面白い内容でした。寺島さんによると「博物館にある復元の長屋はかなり立派すぎる」のだそうです(講演の内容は『地方史研究』298、2002.8)。
 実際、江戸時代の長屋というのは、「キリギリスの籠」のようなもので、貧相限りないものもあったのだそうです。その講演によって知ったのですが、『徘風柳多留』に「年寄た長屋四五本杖をつき」というのがある。古くなった家がつっかえ棒を、4~5本施している、という状況です。こういう風景は、川柳に詠まれる位ですから、よくみられたのだと思われます。また、古長屋のみが「杖をつ」いていたわけではなく、例えば、安政大地震のときも、倒れそうな家が、突っかえ棒をしています(東京大学史料編纂所蔵「安政大地震絵巻」)。何れにせよ、健康ではない家が杖をつくわけです。しかし、博物館の模型などで、このような風景に出会うことは、まずないでしょう。
 この間、ぼんやり『海舟座談』(岩波文庫青100-1、2001)を読んでいたら、若き日の勝海舟の住居の様子を知る、杉亨二(日本統計学の祖)の証言にあたりました。当時の勝家はたいへん貧乏だったそうで、「家の内にも、表にも突っかえ棒をして見るから、容易ならぬ暮しでした」としています。海舟の住居の場合も、家が「年寄」だったこともあるかもしれません。また、どこで読んだか忘れましたが、彼は貧乏のあまり、薪の用に柱や天井を抜いてしまった、という話もあったように記憶しています。若き日の海舟のような暮らしのひとは、少なくなかったと思われます。

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2004/10/04

(評論)当事者の目

 ものごとを分析することを商売にするひとは、つねに多角的な思考をもつ癖をつけねばなりません。恥ずかしながら、凡百の情報に慣らされたわたしにとって、解剖学者養老孟司(東京大学名誉教授)さんによる(注1)、千葉大学医学部解剖学教室不祥事事件(千葉大医学部の学生が、解剖実験のときに、死体の耳を切り取り、それを壁に貼り付け、「壁に耳あり」といって退学処分になった事件)についてのコメントはいささか衝撃的で、「当事者の目線」の大切さを、痛感させられました。

「……(解剖実習について)ぼく(養老氏)がいつも出す例で、最後に耳を切って、壁に貼り付けて『壁に耳あり』とやって退学になった学生がいるんですが、それは可哀想なんです。だって耳は実習の最後の方にやるんだから。そこにいくまで随分かかっています。その学生はたまたま耳の時期に壊れただけであって、あれだけの緊張が続くと人によってはやはりどこか緩めないといけなくなる。実習生はそれを自分でやるんです。ぼくの同級生にも一人キレてしまった男がいて、すごくまじめなやつだったんですが、彼はペニスと睾丸のところをきれいに取り出して『風鈴だ、風鈴だ』って笑いながら解剖室の中を歩き回りました。時々こういう発作がおこります」(養老孟司・南伸坊『解剖学個人授業』新潮文庫、1998)。
 つまり、養老さんは、マスコミにさんざん叩かれた(「医学部にいる学生は偏差値人間でひとの感情を理解しようとしない」という論調が多かった、注2)この事件は、解剖学教室にみられる特有な精神発作の結果である、と推測しているのです。養老さんの予測が正しいかどうかはしりません。発作は一過性のものだから確かめる術もありません。しかし、可能性としてなくはない。解剖という場を経験した者のみがわかる「当事者の目線」、つまり、「当事者にとっての真実」がそこにはあります。
 ……考えてみれば、死んだ人間の体を、インテリの学生が血まみれになって切り刻むのです。たとえ、普段はまともな精神をもった人間といえども、この凄惨な経験のあとでは、まともな精神の侭といえる保障は何処にもない。この精神的プレッシャーは、我々の想像をはるかに超えたもので、養老さんのいう「まじめなやつ」ほど、危険なのかもしれません。つまり、「当事者の目線」で考えなければ、真実とずれた認識を抱いてしまう可能性は、いくらでもあるのです。
 わたしたち歴史学をやる者も、同じような間違いをやらないとも限りません。いつもわかったように評論してはいけませんね、肝に銘じなければ。特に、網野善彦さん(この間お亡くなりになりました)は、この「当事者の目線」を大切にした歴史学者でした。

(注1)「バカの壁」(新潮新書)以前から、『唯脳論』(ちくま文庫)をはじめとする、養老さんの本はよく読んでいました。
(注2)「偏差値が高く勉強ばかりしている学生は心が貧しい」式の議論というのは、どこまで根拠があるのでしょう? そもそも人間の感情がわからないと、国語の問題なんて解けないと思うんだけども。勉強ができなかったわたしもそう思うのです。

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2004/10/02

(雑感)古文書を少々……

 8月は悪性の夏風邪を患い、一週間ほど寝込んでしまいました。38度の熱が続き、おかげで職場の夏休を使い果たしてしまいました。近所の開業医さんにかかったのですが、こちらに引っ越して間もない方です。そのお医者さんは、わたしの差し出したアンケート書類を見ながら、「ご職業の欄に『非常勤公務員』とありますが、失礼ですが、お仕事の内容は?」とお尋ねになった。そこで仕方なく「古文書を少々……」と言いにくそうにこたえると、お医者さんは書類から目を離して、「えっ? それっていうのは?」と興味津々な表情です。そんなとき、なぜか無性に恥ずかしくなるもので、余計に熱があがってしまった(これは冗談ですが)。
 世間様からみれば、古文書読みはよほどかわった〝人種〟らしく、こちらの身の上を説明するのはひと苦労です。そのうえ熱で頭がやられて意識は朦朧としています。お医者さんは妙に感心して、唸りながら「かわったご職業ですねえ」と仰る。やりとりの結果、わたしの風邪の原因は古文書ではない(古文書についた菌にやられた、ということではない)という結論になりました。しかし患者の話をよく聞く親切なお医者さんです。町医者の鑑です。

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2004/10/01

(古文書入門②)古文書講座、人気のひみつ―思ったほど難しくない古文書―

 唐突ですが、英語と江戸時代の古文書、どっちがマスターしやすいと思われますか? わたしは、断然古文書の方がマスターしやすいんじゃないか、と思います(ひとによって感じ方の違いはあるかもしれませんが)。
 古文書といえども日本語です。もちろん、江戸時代特有の言葉遣いはありますが、そんなに数はありません。また、「可被成候」を「なさるべくそうろう」と読むような、漢文の返り読みもありますが、ある程度パターンが限られているため、これもあまり難しくない(もっとも、江戸時代以前の文書には、難読語や返り読みの頻度の高い傾向があります)。
 すると、残る問題はくずし字解読のみです。このくずし字こそが、古文書解読へのハードルといっても過言ではありません。ですが、むかしは子どもも寺子屋で覚えて書いていたわけで、現代の大人が読めない筈はありません。また、江戸時代のくずし字は、多様な流儀を使っているのではないか、と思っている方がほとんどだと思いますが、原則的には、日本全国、上は将軍・諸侯から下は百姓まで、「御家流」(おいえりゅう)という流儀のくずし字を使って書きます。したがって、この「御家流」を覚えてしまえば、江戸時代のくずし字、つまり古文書解読が可能です(注1)。だから、「ワタシ、ちゃんと江戸時代の原史料を読めますよ」とアピールする意味で、「ワタシ、御家流を読んでいます」と表現することもあるくらいです。だいたい2~3年で基本的な読み方をマスターできます(これ、本当)。もちろん、難読なものを読もうとすれば、さらなる研鑽が必要ですが。
 古文書講座は、高年齢層を中心に人気ですが、この高くもなく低くもないちょうどよいハードルが、心地よく感じられるのかもしれません。年金暮らし、子どもが大きくなって、比較的時間の余裕ができ、もっと生き甲斐がほしいおとうさん・おかあさんが、比較的多いようにみえます。わたしが講師の市民自主グループでは、わたし(現在30歳)が圧倒的に若いです(もっとも最近は大学生の女の子がひとり出席してくれています)。年齢的には受講生の方が江戸時代に〝近い〟ことが多く、特に、関東大震災をご記憶の方もいらっしゃって、この年齢層の方のおっしゃることは、むしろこっちが勉強になっています。いわゆる「昔話」が重宝される場って、古文書講座くらいじゃないでしょうか。これも高年齢層に人気の要因かもしれません。

(注1)よく掛け軸にあるようなニョロニョロとした〝芸術的〟な字。あれは古文書の専門家でもすらすら読めないことがあります。「御家流」でないことが多いからです。川柳「売家と唐様で書く三代目」。「御家流」以外のくずし字が書ける、教養のつんだ金持の家のどら息子が、自分の家を売るため、「唐様」のくずし字で「売家」と紙に書く、という意味。何のために教養を積んだのやら。

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